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ゆうべには白骨となる

【七】開かずの間

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【ご注意】
このエピソードには、若干ではありますがグロテスクな表現が含まれております。
苦手な方は気分を害する可能性がございますので、該当の記述部分の冒頭と末尾に「※」印で線を引かせて頂きました。
エピソードの最後には該当箇所の「あらすじ」を記載させて頂きます。
読み飛ばして頂いても話の筋が追えるようになっておりますので、ご安心下さい。
それでは引き続き、物語をお楽しみ下さいませ。

―――――――


「ちょっと、ちょっと――」

 先を行く誠人の背中に声がかかる。佐和子の訝し気な呼びかけが地下の通路に反響した。

「どこに連れていかれるかと思えば、なんでまた霊安室に向かってるのよ」

 後ろを振り返ると、カーディガンの襟元を両手で寄せ合わせながら佐和子がゆらゆらと後をついてくるのが見えた。

 誠人が歩みをとめて言う。

「音喜多さん、さっき言ってましたよね。『開かずの間』のような隠し部屋でもない限り、ご遺体を隠しておくことなんて到底無理だって」

「言ったけど……だからって、なんでまた地下なんかに……」

「あの発言で、ピンときたんです。あるんですよ。その――『開かずの間』というやつが」

 あの霊安室にね――と、まったくピンときていない様子の佐和子をよそに迷いのない足取りで奥へ奥へと進んでいく。突き当りの扉を開け、誠人は霊安室へと足を踏み入れた。

 見慣れた光景が目に飛び込んでくる。

 中央に横たわった純白の棺――
 カーテンの奥で低く唸る霊安庫――

 無我夢中で飛び出したときと、なんら変わらない状態だ。
 しかし中央の棺が目に入った瞬間、どくん――と心臓がひとつ跳ねた。
 あのときに感じた焦燥感といやな汗が、いまにもぶり返してきそうだ。

 佐和子の遅れを待つあいだ、怖いもの見たさで棺の中へ視線を落とす。
 なにかの間違いで遺体が元通りになっていたりしないかな――などという、あまりにも儚い望みを胸に。すると――

 ――あれ? そういえば、この人……

 熊男と再会した瞬間、誠人の視線はどういうわけか魅入られたように釘付けとなってしまった。
 それから少しの間をあけて、佐和子もぬらりと部屋に入ってくる。
 彼女は扉から顔を覗き入れるや、棺の傍らで棒立ちになっている誠人に声をかけた。

「田中さん、見つかった?」

 はっとして顔を上げる。

「あ、いえ。これはべつに……」

 当然のことながら、棺の中に変化はない。
 坊主頭の厳つい大男が、依然として安息の眠りについているだけだ。

「……なんとなく、気になっちゃって」

 誠人は決まりが悪そうにぽりぽりと頬をかいた。

「気になるって、なにが?」

「なんというか……言葉にするのが難しいんですけど、熊男の顔をじっと見ていたら何となく妙な感じがしたんです。それで、つい……」

「妙な感じ? ……違和感とか、そういうやつ?」

 違和感――というと、ちょっとニュアンスが異なる気がした。
 この感覚は、強いて言うならば――

「――既視感きしかん……みたいな感じ、ですかね?」

 なに、それ。と佐和子が横に立ち、誠人と同様に視線を落とす。

「知り合いってこと? この人と、どこかで会ったことがあるの?」

「いえ、そんなはずは……。でも、言われてみれば、つい最近どこかで見覚えがあったような気も――――いえ、すみません。たぶん、ぼくの勘違いだと思います。本題から逸れちゃいましたね」

 忘れてください――と卑屈な笑みを浮かべた。
 佐和子は「ふーん」と鼻から息を抜く。 

 しまった――誠人の笑みが引き攣る。
 またしても、考えなしに彼女の前で思ったことをそのまま口走ってしまった。
 彼女のあの顔……どうせ、いつもの調子で小馬鹿にする気だろう。『あんた……また、わけのわからないことを――』などと鼻で笑われるに違いない。
 まったく自分はどうしてこうも彼女に対しては脇が甘くなってしまうのか――

 しかし、予想に反して佐和子の口から出た言葉は次のとおりだった。

「……あんたもたまには、まともなこと言うのね」

 どういう意味だろう、と眉をひそめる。
 珍しくお褒めの言葉を頂戴したようだが、はたして額面通り受け取って良いものか。多分に皮肉も込められているようにも聞こえたが、やっぱり馬鹿にされているのだろうか。

 不審がる誠人をよそに、きょろきょろと佐和子が辺りを見回す。

「――――で?」

 隣り合わせで二人の目が合う。

「あんたの言う『開かずの間』ってのはどこよ? 見たところ、今朝と変わった様子は見られないけど?」

 言って、おおげさに腕をさすりはじめる。
 寒いんだからさっさとしろ。そう急かされているようだ。

 お望みどおりに、と気を取り直して誠人が口を切った。

「――ですよ。そこに遺体の隠し場所があります」

 れいあんこぉ?――佐和子の口が歪んだ。

「あんたねぇ……話を聞いてなかったの? さっき散々説明したでしょ」

「わかってますよ。今朝、霊安庫内は音喜多さんが隈なくチェックしたんですよね? ――でも、ぼくの推理が正しければ、田中さんのご遺体はここにあるはずなんです。いや、あってもらわなければ、もう後がありません!」

「何度も言うけど……未使用の霊安庫がカラだってことは、すでにもう確認済みなのよ? いま預かっているご遺体にも異常なんて無かった。この目で見たんだからぜったい間違いない。――まさか、あたしが嘘ついてたっていうの?」

 いえ――と、かぶりを振って言う。

「あの説明が嘘だったとは言いません。――しかし、ではありました」

「……どういう意味?」

「音喜多さんはさっき、こう仰ったんです。『今朝、ドライアイスの交換で、すべての棺をチェックした』――と」

「だから、その言葉のとおりだって……」

「でも、その説明では不十分でした。実際には、この会館にある『すべての棺』は見ていないはずなんです」

「……すべての……あっ……!」

 何かを閃いたような表情が瞬時に陰りをみせる。

「音喜多さんの今朝の行動を正確に言い直すと、このようになるはずです。――『今朝、すべてチェックした』と」

 そうですよね――その問いかけに対し、佐和子は伏し目がちに腕を抱える。

「それがいったい何を意味するのか……音喜多さんは、もうお分かりのはずです。ぼくたちは一カ所だけ見落としていた場所があったんですよ。この館内で誰の目にも触れていない場所の存在を……。それが遺体の隠し場所です。『開かずの間』というのは――」


 ――あれのことです。

 指し示す先を、佐和子の視線が追う。

「……本気で言ってるの?」

 その途端、彼女はぎょっとして後ずさった。

 誠人の指先は八つある霊安庫の内のひとつ、下段の左端に向いていた。
 そこにはこう書かれている――


 ――『不詳ふしょう


「――冗談でしょ? あそこのご遺体がどんな人か、あんたも知らないわけじゃないわよね?」

 「不詳」とは――いわゆる「身元不明」のご遺体のことだ。検案の結果、身元の特定に繋がる痕跡を検出できなかったために、行政の指示があるまでは火葬を見送られている。

 もちろん、知ってます――誠人が小さく頷く。

「――だからこそ、この結論に行き着いたんです。音喜多さんは今朝、ドライ交換で『すべての棺を開けて見た』と仰ってましたが、厳密にははずです。あの不詳の棺だけは、まだ中を見ていませんよね?」

「あ、当たり前でしょ!」

 彼女は語気を荒げつつも声を潜めて言った。

「あのご遺体は、はっきり言って『』じゃないの! がっちり目張りがされていて、そもそもフタを開けることができないのよ?」

「――そう。ドライアイスは本来、ご遺体の腐敗を防止するためのものです。うちで葬儀をあげるご遺体は、式の当日まで御体を保全するため、毎日ドライアイスを新品のものに交換する必要があります。――しかし、あの『不詳』のような……には、その処置を行うことはありません」

 何を言い出すかと思えば――と、顔をしかめる佐和子。

「つまり、あんたはこう言いたいのね? あの不詳の棺の中に、『田中さんと腐乱死体――』、と」

 意を決したように唾を呑むと、誠人はここではじめて自身の考えを佐和子に打ち明けた。

 田中さんのご遺体が、もし第三者の手によってこの館内に隠されたというのであれば、その隠し場所は二つの条件に当てはまる場所に違いないということを。
 ひとつは『昨夜からいままで、誰の目にも触れていない場所』――
 そして、もうひとつは『熊男では入れないような狭い場所』――

「あの不詳のご遺体は、警察署で納棺されたものをウチで引き取った際に、すぐに棺とフタとのあいだをテープで隙間なく塞がれています。そして以降、スタッフの手でフタが開けられることは決してありません。条件の一つ目に当てはまります――」

 淀みなく説明がつづいていく。そして――

「――さらに熊男の体格では、他のご遺体と一緒にして棺に納めることは不可能です。小柄な田中さんでなければ、できないんですよ。これで二つ目の条件にも当てはまります。つまり――あの『不詳の棺』こそが、ここに搬送されてから今に至るまで、一度も封印を解かれていない『』ということです」

 そして、推理の締めくくりをこのようにまとめた。

 ぼくの見立てはこうです――昨夜、この霊安室へ熊男を持ち込んだ犯人は、死体を冷やしておくために彼を霊安庫に遺棄することを絶対の条件としていた。それゆえ、田中さんは彼と入れ替わる形で自分の棺から出されてしまったんです。その結果、田中さんのご遺体は『開かずの間』と化した不詳の棺に腐乱死体とともに隠された。それによって犯人は、死体の遺棄と隠蔽工作を、霊安室から一歩も出ることなく行うことができたというわけです。誰にも中を見られる危険性がない不詳の棺は、犯人にとっては絶好の隠し場所だったに違いありません――

 言い終わるや、佐和子の肩がぷるぷると震えだす。

 そして彼女は、堪えていたものを吐き出すように
 あっはっは――と声を上げて笑った。

「なによその、どっかで聞いたような話は。『棺を開けたら腐乱死体といっしょに、もうひとつのご遺体が』――ってやつ? 呆れたものね。あんたの読書傾向がうかがい知れるのは結構なことだけど、そういうのは小説の中だけにしておいてちょうだい」

 言いながら、人差し指の背で目じりを拭う。

「そんなに笑うことはないでしょう? そりゃあ突飛な発想だということは自分でも重々わかっていますよ。……でも、館内でチェックしてないのは、もう『不詳の棺 ここ 』だけなんですよ? 万に一つの可能性ってこともあるじゃないですか! ……正直な話、状況的にかなり追い詰められているんです。これが最後の希望なんですよ。ぼくはもう……これ以外に尤もらしい結論は出せそうにありません」

 お願いします――誠人は何度も頭を下げて協力を頼んだ。
 不詳の棺を開けて中をあらためさせてほしい、と。

 彼の推理を聞いて、はじめは心底呆れた様子の佐和子であったが、悲壮感も露わに必死になって懇願する姿勢を見ているうち――やがて

 逡巡を重ねた彼女は深々とため息をついて、

「――まあ、それであんたが納得するなら」

 と、痛みを抑えるように指先をにぐりぐりと圧しあてた。

「それじゃあ……良いん、ですか? 棺を、開けても……」

「だめ。――って言っても、聞かないんでしょう? どうせ」

 いそいそと、肩で羽織ったカーディガンに袖を通しはじめる。
 そして、地に足がつかない様子の誠人に釘を刺すように彼女は

「言っておくけど、みだりに棺を開けるのは故人に対して大変に失礼な行為だということだけは、くれぐれも肝に銘じておいてよね。すべてを承知の上で、それでも開けろと言うからには、言いだしっぺのあんたにもってやつを払ってもらうわよ。――それでも、いいのね?」

 と厳重に警告を重ねた。それを受け、誠人は口元を引き締め直すと、また何度も頭を下げた。

「そういえば――」

 通した袖を肘の上まで捲りあげ、雪のような白い細腕が露わになる。

「――マコは腐乱死体、見たことあったっけ?」

「いえ……病院からの搬送ばかりで、腐乱死体は、まだ一度も……」

 そう――と、佐和子が妖しく微笑む。

「だったら、覚悟しておくことね」


 ごろごろと台車を転がして、熊男の棺が霊安室の外へと押しやられる。

「これで、よし――と」

 ばたん、と後ろ手に扉が閉められた。

「どうして、わざわざ棺を移動させたんですか?」

「移動じゃないわ。させたのよ」

 意味がわからない――棒立ちになる誠人を尻目に、佐和子は迷いなく「不詳」と記された霊安庫の扉を開けた。

「ほら、ボサッと突っ立ってないで手伝いなさい。台車持ってきて」

「あ、は、はい!」

 誠人は言われるがままに「不詳」の扉口に台車を運ぶ。
 開け放たれた霊安庫の中からは、すでに強烈な臭いが漏れ出ていた。

 ――うっ。

 思わず手で鼻を覆う。

 ――嘘だろ。こんなに臭うものなのか。

 顔に思わず苦悶の色が浮かぶ。隙間なく密閉されてこの臭さだ。フタなんて開けてしまったら、どうなってしまうのか想像もつかない。

「ほらほら。さっさと出しなさい。冷気が逃げちゃうでしょ」

 呼吸をするたびに吐き気を催した。

 これはやばい。やめたい。限界だ。「やっぱり勘違いでした」ですべて無かったことにしたい。

 ――などと、とめどなく溢れる後悔の念。

「ほら、早くはやく」しかし、後ろでは佐和子が容赦なく急き立てている。

 退路はすでに失われたらしい。誠人は腹を括って深海まで潜行するように息を止めると、霊安庫の中へと両手をのばした。
 そして不詳の棺を持ち上げたその瞬間、彼は驚愕した。


 ――


 信じ難いことに、さして力を込めずとも棺がふわりと持ち上がったのだ。
 これで本当に遺体が入っているのか――そう疑問に思うほどに、を、まったくその手応えに感じられなかった。

 からからと音を立てて、棺が引き出されていく。

 木目調で簡素な造りの棺だ。本体とフタの隙間は、周囲をぐるりと一周するようにテープで完全に密封されている。


「それじゃあ。開けるわね」

 一瞬の躊躇もなく、佐和子がべりべりとテープを剥がしはじめた。

「ちょ、ちょ! 本当に開けるんですか!」

「あんたがやれって言ったんじゃないの。ここまで付き合ってあげてるんだから、自分の発言には責任を持ちなさいよ」

「いや、まあ……そうなんですけど」尻すぼみに声が細くなる「でも、持ち上げた感じだと、やっぱりヒトが二人も中にいるようには――」

 ――とても思えませんでした。は、ほとんど聞き取れないほど小声だった。

 フタを開けるまでもなく、結果は目に見えているように思える。
 しかし、ここで諦めたらもう他に打つ手は無い。
 どうする。

 どうする――

「ごちゃごちゃうるさいわね。ほら、開けるわよ」

 そうこうするうち、佐和子がテープを一息に巻き取り終えた。
 どうやら覚悟を決めるほかないらしい。
 誠人は歯を食いしばり「――南無三!」と心で唱えた。

 棺のフタが、佐和子の手で開けられていく。


 ※ ※ ※ ※ ※




 ――――視界が歪んだ。

 途端に、潰れたカエルのような嘔吐えずきが胃の奥底から漏れる。

 ――そのようにしか表現できない。

 濃縮された悪臭が、一瞬にして部屋の空気をどす黒く塗り替えてしまった。
 この世のものとは思えない強烈な臭いだ。毒々しいまでの甘ったるさ。それに加えて焦げて腐り落ちた肉のような。チーズのような。生ゴミのような――いや、どれだけ言葉を尽くしても、この臭いを適格に言い表すことはできないだろう。

 ――こ、これがヒトの腐敗臭……。

 よろよろと壁に手をついてもたれかかる。
 口内で吹き出る唾は早くも酸味を帯びはじめていた。

 やばい。呼吸ができない――鼻で吸うのはもってのほか。口で息をするだけでも、喉奥まで腐臭が容赦なく絡みついてくる。


「それでは、失礼致しますね――」

 見ると、佐和子は涼しい顔で遺体を包んでいるシーツを開いていた。

 遺体はまゆのように二重のシートで包まれている。
 全身を覆う白い布の隙間から、灰色のビニールシートが微かに見えた。
 灰色のものは警察が遺体を包む際に使われる「納体シート」というやつだ。
 あの中に腐乱死体が――

「――だめ……やっぱり、いらっしゃらないわね」

 開いたビニールシートの中に視線を落とし、佐和子がぼそっと独りちる。言うや否やその顔が、ぱっとこちらに向けられた。

「ほら、マコ。見える?」

 ――見れない。だめだ。こわい。

 声で意思を示そうとすれば、途端に嘔吐きが込み上げる。

「ちょっと……あんた。げーげー言い過ぎ。ご遺体に相対するときくらいはとしなさいよ」

 そんなこと言われても――と、目で訴えかけた。
 佐和子の輪郭が霞んで滲む。ついさっき、お釈迦様のように後光が差してみえた背中に、いまは不動明王の如く炎を背負っているように見えた。

「だらしないわね――ほら、しっかりして。葬儀屋やってたら腐乱死体は避けて通れないわよ。あんたの家族が亡くなったときに、周りの人間が『うげぇ』とか『気持ち悪りぃ』とか嘔吐えずいてたらイヤでしょ? この人だって何処の誰かは身元も分からないけどね。だったことは確実だし、もしかしたらだったかもしれないのよ? ほかのご遺体と同じように、一人の人間としてちゃんと向き合いなさい」

 なんということだ――この地獄絵図みたいな状況で職業倫理を説かれる羽目になるとは露ほども思わなかった。
 普段は物臭な一面が目立つ佐和子が、ここぞとばかりに葬儀屋としての矜持を持ち出してきたのも意外だった。

 いや……感心している場合ではない。そんなことより、いまは一刻も早くフタを閉めてほしい。目当ての遺体が存在しないことはわかった。もういいだろう。勘弁してくれ。この悪臭にこれ以上は耐えられそうもない――誠人は嵐が過ぎるのを待つように目を固く閉じた。

 しかし――

 佐和子はどういうわけか、それに素直に応じることなく「ご遺体にきちんと向き合え」と、ただ一心に呼びかけつづける。

 面白がって意地悪く弄んでいるのか、と最初は思った。
 だが、まっすぐこちらを見るその眼差しには、そういった嗜虐心の類は見受けられない。むしろ、彼女は葬儀屋として経験も覚悟もまるで足りていない誠人に対し、荒行を課しているかのような気迫すら放っている。

 その意図するところは誠人もわからいでもなかった。なにしろ葬儀屋は新人の離職率がすこぶる高い。ご遺体をまともに扱えない人間は、そのほとんどが三年以内に業界を去っていく。
 ひょっとしたら、これは彼女なりの洗礼のつもりなのか。自分はいま、ある種のふるいにかけられているのかもしれない――そう思うと、誠人は食らいつくように顔をあげた。

 彼女はさっき、こう言った。棺を開けるからには、相応の責任と敬意を払ってもらう――と。
 敬意を払うというのは、ご遺体をすべからく丁重に扱うということだ。それはつまり「どんなに凄惨なご遺体であっても目を背けることなかれ」と、そういうことに他ならない。無茶苦茶なやり方だが、佐和子はこの状況に乗じて彼女なりに新米社員に発破をかけているのだ。そして、軽はずみに「棺の中を見たい」などと言った自分は、その責任を取る必要がある。
 ここを乗り越えなければ、葬儀屋として失格だ――

 かっ、と目を見開き、吐き気を堪えながら、一歩、また一歩と、棺のそばに歩み寄る。
 好き勝手に推論を並べ立てて、その尻ぬぐいを彼女だけにさせるわけにはいかない。最低限の義務は果たさなければ。その捨て身の激励にも、なんとか応えたいという気持ちもある。

 かろうじて佐和子の横に並び立った誠人は、それから、恐る恐る視線を手元のほうへと下げていく。

 棺の中――灰色のシートの隙間から、黒く変色した「何か」が目に入った。

 ――これが、不詳のご遺体か。

「み……みまし、た。……たな、かさんは、いませ……ぅっ」

 我慢が効いたのは、ものの数秒だった。
 棺の中身は何とか視認できたものの、やがて限界がきて、ついにはその場に崩れ落ちてしまった。

「あらら。もう無理って感じ?」誠人の背中を摩りながら言う。
「まぁ、最初はこんなもんか。吐かなかっただけマシってところね。――もう閉めてもいい?」

 こくこく、と必死の思いで首肯を繰り返した。
 無理に声を発すれば、違うものが出てきてしまいそうだ。

 佐和子はそれを合図とばかりに、手際良くシーツを元通りに包みなおす。
 そして手にしたフタを、影を落とすようにゆっくりと棺の足元から閉めた。
 完全に閉じきる間際に、棺とフタとのわずかな隙間に佐和子が顔を寄せる。

 遺体の耳元で、かすかに、何かを囁いているのがわかった。
 普通なら近寄ることすら躊躇われるほどの悪臭を放つ遺体に顔を寄せ、彼女はこう言ったのだ。

「お騒がせして、申し訳ありませんでした。どうかお許しください」――

 それは枕元で我が子に読み聞かせをしているかのような、優しく、穏やかな声だった。



   ※ ※ ※ ※ ※  


 チーン――――

 と、音がして、エレベーターの扉が開いた。
 薄暗い地下の一角に光が差し込む。

 佐和子につづいて誠人が中へと一歩踏み出した矢先のこと。
 彼女はこちらに向き直るや否や、鼻をよせて、ひくひくと動かした。

「まだ、ちょっと臭うね」

 言って、通路を霊安室へと後戻りしていく。
 自動で閉まりかけた扉を、慌てて誠人が「延長」ボタンで押し留めた。

 誠人は、すっかり気落ちして、憔悴していた。

 それもそのはず。大見得をきって披露した渾身の推理が、たったいま、とんだ的外れだったのだと思い知らされたばかりだ。
 尤もらしい理屈を並べ立てたはいいものの、現場を徒に引っ掻き回した挙句、結果的には霊安室に悪臭を放っただけで何一つ得られるものがなかった。
 そのショックは大きい。
 佐和子にも散々、迷惑をかけてしまった。腐乱死体を前に醜態を晒したことも相俟って、恥ずかしいやら申し訳ないやらで立つ瀬がない思いだった。

 しばらくして、佐和子がスプレー缶を片手に戻ってきた。
 霊安室に常備されている「消臭スプレー」だ。

 あのあと――不詳の棺を閉めてから――佐和子は目張りのテープを棺に巻き直し、元通りの状態で霊安庫に納めると、あれと同じスプレーを一缶まるまる使い切る勢いで部屋中にぶちまけていた。そうでもしないと、あの強烈な臭いは取れそうにない。

 走り寄ってきた佐和子が、こちらの目の前に噴射口を向ける。

「はい、目ぇ――」

 ――つむって、と、言い終わらないうちに引き金が引かれた。

 ぎゃあ。思わず声が上がる。
 頭のてっぺんからつま先まで、芳香剤のシャワーをたっぷりと浴びた。

「――――。うん。これでおっけー」

 咳き込む誠人に対し、まったく悪びれる様子もなく彼女が横に乗り合わせた。

「――顔色。ちょっと良くなったんじゃない?」

 佐和子が目線を下げて覗きこむ。

「ええ。おかげさまで……」

 誠人は暗い目を伏せたまま、力なく謝りつづけた。

「どうしたの。辛気臭い顔しちゃって。――落ち込んでるの?」

 落ち込むどころの話ではない。これは絶望だ。なにせ、ろくに手がかりも掴めないまま推理が完全に行き詰ってしまったのだから。
 誠人はため息とともに肩をがっくりと落とした。

「だから言ったでしょう? 小説みたいに素人が都合よく推理で解決なんて、できるわけないじゃないの」

「おっしゃる通りです……。すみませんでした。先走った素人考えで、音喜多さんにもご迷惑をおかけしました」

「あたしはべつに。気にしなくていいけど」

 言って、丸まった背中に手が添えられる。

「でも、あんたのぶっ飛んだ発想の数々には驚かされたわ。正直、呆れを通り越して感心しちゃった。これもある意味、いい経験にはなったんじゃないの」

 ぶっきらぼうな口ぶりだったが、その言葉の端々からは誠人を気遣うような思いやりも滲み出ていた。

 「3」ボタンが押され、扉がゆっくりと閉まっていく。
 やがて足先から全身へと浮遊感に包まれた。

「これから……どうしましょうか。館内にご遺体が残されていないのなら、もはや何者かが外に持ち去ってしまった可能性すらありますよね……。そうなると、ぼくたちにはもう打つ手がありません」

「もしそうだったとしても、あんたがそこまで気負う必要なんてないじゃないの。あたしも乗りかかった船だから、まだ推理をつづけるんなら協力は惜しまないつもりだけど……諦めるって言うなら、それでもいいんじゃない? 上の人に丸投げするのも、ひとつの選択じゃないかな」

 ――階数表示の「1」が光る。

「丸投げ……。それでいいんでしょうか。本当に」

「いいのよ、それで。会社の不祥事は、上が責任を取る。そういうもんよ。日頃から楽して椅子にふんぞり返っている連中は、有事の際に責任を取るためにそれが許されてるんだから」

 日頃から楽して椅子にふんぞり返っているのは、なにも上の人間だけに限らないけど――と、目の前の女性を見つめた。が、この場では口に出さなかった。
 遺体の捜索は束の間の出来事であったが、誠人は久しぶりに佐和子の顔をまともに見れたような気がした。


 ――「2」


「しっかし遅いわね」

 視線を斜めに上げて佐和子が毒づく。

「このエレベーター、三階まで上がるのにどんだけ時間かかるのよ」

「元々そういう設計なんですから、いまさら文句言っても仕方ないでしょう。だから階段で行こうって言ったじゃないですか――」

 言って、誠人は無意識に胸ポケットをまさぐった。
 佐和子の「遅い」という言葉を受けて、なんとなく時間が気になったからだ。

 携帯を取り出すと、待ち受け画面に「14:40」と表示される。

 ――もう二時半過ぎか。音喜多さんが本社に連絡して、かれこれ一時間は経つな。到着はいつになるのだろう。とっくに着いててもおかしくない時間だけど、やけに「遅い」ような気がする。

「どうしたの?」

「いえ……本社の人、まだかなーって……」

「ああ、そのことね。あっちも取り込み中ですぐに出られなかったんじゃないの? 心配しなくても大丈夫よ。きっと、もうすぐ着くわ」

「でも……本社から会館までは三十分で来れる距離ですよ? いくらなんでも時間がかかりすぎじゃないですか? 音喜多さん――」


 その瞬間を、誠人は見逃さなかった。


「――本当に、本社の人に連絡したんですか?」

 軽い冗談のつもりだった。
 彼女を責めるような他意はなかった。しかし――

 その一言を放った瞬間。
 お線香の煙のように、佐和子の横顔から表情が、ふっ――と消えた。


「人聞きの悪いようなこと言わないでよ。ちゃんと連絡したってば」

 そして次の瞬間には、彼女はいつもの奔放な調子に戻っていた。


 ――いま、彼女に垣間見えた一瞬の変化はなんだ。

 脳内に、ふたたび起こる騒めき。人知れず動悸が激しくなる。
 この感覚は、あのとき感じたものと似ている。
 事務所で彼女とやり取りしていたときに覚えた、あの違和感と――

 脳内に垂らしていた釣り糸に何かが掛かったような手応え。
 慎重に手繰り寄せれば、その先はあの違和感の正体に繋がっている気がした。
 いまなら、それがわかるかもしれない――


 ――「3」


 身体を包む浮遊感が解けていく。
 少しの間が空いて、「チーン」と音が鳴り自動扉が開く。

 やっと着いたかと、首を鳴らしながら佐和子がつかつか歩き出した。

「――はー。疲れた疲れた。あたしのど渇いちゃった。……マコ、事務所に戻ったらお茶のおかわり注いでくれない? お寺様用に買ったお菓子があるから、いっしょに食べ――」

 言って、後ろを半身で振り返る佐和子が、ぴたりと動きを止める。
 その視線の先には、エレベーターの中で黙して佇む誠人の姿があった。

「なに? 地下に忘れ物でもした?」

 そう呼びかけても、誠人は答えなかった。彼はまっすぐに佐和子を見据えたまま、飼われた鳥のようにその場を頑なに動こうとしない。

「ちょっと、聞いてるの?」

 自動扉の手前まで佐和子が歩み寄る。

「ねぇ。早く事務所に戻ろうよ。映画も終わっちゃうでしょ。あたし、ビショップが真っ二つになる場面だけは見逃したくないの」

「――音喜多さん」

 遮るように突然、誠人が声をあげた。

「なに。どうしたの。あらたまっちゃって……」

 そのただならぬ剣幕に、佐和子が思わずたじろぐ。

「……ひとつ、わかったんです」

「わかったって、なにが?」

「……今回の事件のことで、ちょっと」

 佐和子は「まーた、はじまったよ」と言いたげに、うんざりした顔をしてみせた。

「だから……その『なにが』わかったって? 新しい隠し部屋でも発見した?」

「いえ、残念ながら……ご遺体の在り処も、事件の真相も、そのへんはもう皆目見当もつきません。はっきり言って、お手上げです」

 ただ――と、言葉に重石をかけるように誠人はつづけた。

「じつは葬儀の関係者の中で、ひとりだけ……。不審な動きをしている人物に思い当たったんです」

「不審人物ぅ?――」佐和子が腕組みをする。
「――それって、つまり……、ってこと?」

「犯人かどうかまでは、まだ……。でも、その人から話を聞くことができれば、もしかしたら真相に辿り着くことができるかもしれません」

 佐和子は視線をわずかに上げて、何人かの顔を思い描いているようだった。
 しかし、目ぼしい人物が浮かばなかったのか、手をあげて降参の意思を示す。

「あたしにはわかんないわ。勿体ぶらずに教えてちょうだい。その不審者っていうのは、どこのどいつよ」
 
 この一言を口に出せば、もう後にはひけないだろう。いわば正念場というやつだ。
 誠人は、すぅーっと、深く息を吸った。

「不審な人物というのは――」

 そして覚悟の決まった顔つきで、前を見据えて言い放った。


「――音喜多さん。


(つづく)



【※印の部分のあらすじ】
佐和子の手によって棺のフタが開けられるも、田中薫氏のご遺体は結局、見つかりませんでした。自身の目で棺の中を改めることに強い抵抗を示した誠人でしたが、ある意味で献身的とも言える佐和子の激励により、葬儀社に勤める人間として超えなくてはならない大きなハードルをひとつ、乗り越えることとなります。
不格好ながらも彼の努力する姿勢を認めた佐和子は、誠人を気遣いつつ不詳の棺を元通りに閉じます。その際、彼女はご遺体の耳元で「お騒がせして申し訳ございませんでした」とせめてもの謝辞を囁いたのでした――
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今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

××男と異常女共

シイタ
キャラ文芸
男の周りには知らない人が見れば普通の日常が広がってると思うだろう。 なんの不思議も面白味もないつまらない平凡な風景。 男の周りには知る人が見れば異常な日常が広がっていると思うだろう。 不思議で不可思議で奇々怪界な異様な風景。 男の周りにはいつも異常が付き纏う。 そんな男の特徴を彼女らに聞いてみよう。 [ 男の特徴を述べて下さい ] あの人の髪は金色です。 あの人の身長は決して高くありません。 あの人の目は鋭いです。 あの人の瞳は感情を映しません。 あの人は遠慮がありません。 あの人は何を考えているのか分かりません。 あの人は他の人と違います。 あの人に変わる人はいません。 [ あなたたちにとって男は何ですか?] 私にとってあの人は―― 異常に付き纏われる男と異常を纏う女達。 そんな彼らの異常で異様で異界な日常がこちらになります。 *** 1話目である「××男の一日」は主な登場人物の紹介のような話です。本番は2話目から! 現在、【幽霊女と駄菓子屋ばあちゃん】まで改稿・編集完了しました。まだ見落としはあるかもです。 よければ是非ご覧ください。 誤字・脱字のご報告、ご感想いただけたら嬉しいです!

快気夕町の廃墟ガール

四季の二乗
キャラ文芸
 名を快気夕町  古めかしい町並みと、雑多に紛れ其処はある。  猫の様に気まぐれな探偵と、几帳面な少女。その他諸々、世間一般で言う”排他的な者共”。表の顔とは程遠い。異質な集団が根を下ろしていた  紛い物、異品、淀んだ品。  彼女らが関わる事件に、異質は常に付きまとう。  彼らを纏める探偵こそ、かの著名(品質に難あり)な名探偵。  これは、そんな助手の話。 

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

魔法執政官エイブラム・ウィルズの尋常ならざる日常

石田空
ファンタジー
後の世に悪法として名高く残る法案、『黒魔法に関連する研究使用の禁止法案』……通称:禁術法が制定してから、世の中はなにかにつけて大変だ。 魔法執政官として、禁術法案件の調査依頼が飛んできて、休み暇もない。 「俺に紅茶を飲む時間くらいくれよ……」 「なにをおっしゃってるんですか、これくらい頑張ってこなしてくださいよ」 助手のレイラにどやされ、エイブラムは今日も調査に乗り込んでいく。 禁書が原因で人が死んだ場合、それは禁術法に引っかかるのか? 人が殺されたが、それは呪術が原因だと訴える犯人は有罪か無罪か? 惚れ薬が原因で婚約が破談になった場合、慰謝料はどこに請求すべきか? 今日もエイブラムのがなり声が響いている。

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