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ゆうべには白骨となる
【四】田中さんはね……
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音喜多さん――
信じられないかもしれませんが、聞いてください――――
実は、田中さんが……――――――
――――――別人のご遺体と入れ替わってます!
*****
誠人の口から飛び出た告白は、事務所の空気を一瞬で凍り付かせるのに充分過ぎるほど衝撃的だった。
あれから言葉を失った二人は時間にして数十秒か、あるいは数分間は見つめ合っていただろうか。しかし、このまま永遠に日常が戻らないのではと錯覚しかけた時に、助け舟は思わぬところからやってきた。事務所の一角にある流し台のコンロで、やかんがシューッとけたたましく声を上げたのだ。
そして、立ち昇る蒸気が雪解けを誘うようにして、凍りついた二人を我に返した。
*****
「わかった……」
誠人の報告に黙って耳を傾けていた佐和子は、事の詳細を聞き取るや否や、両手をついてゆらりと立ち上がった。
「……ちょっと外すわ。あんたはここで待ってて」
少しばかり険のある口調だった。後追いで腰を浮かせた誠人に対し、これ以上の口を挟ませまいとする意思を感じる。
彼女は二つ折りの携帯電話を片手に、そそくさと事務所をあとにした。
ぱたぱたと足音が遠ざかる。だれかに指示を仰ぎにいったのかと、誠人は不安な面持ちで監視カメラを見つめていた。ロビー、式場、お清め場……静止画のように変わり映えのしない映像が過ぎ去っていく。佐和子の動向は伺い知れない。
やがて視線を外すと目を何度かしばたかせた。
だめだ。頭を冷やそう――誠人はおもむろに席を立つ。極度の緊張状態がつづいたせいで喉もカラカラだった。せっかく沸いたお湯を無駄にするわけにもいかないので、お茶でも淹れようかと流し台に向かった。
二人分の湯呑をシンクで軽く濯いでから戸棚に手を伸ばし、急須や茶漉しをてきぱきと手慣れた様子で準備する。入社してはや一ヶ月、葬儀スタッフとしてはまだ一人前にほど遠い誠人も、お茶の淹れ方だけは唯一胸を張って人に誇れるほどに達者になった。来客対応の際、先輩社員の横に付かせてもらう身分としてはお茶汲みといえども重要な技能のひとつだ。
やたらと味にうるさい当会館の主が、痛烈なダメ出し付きでテレビ映画のお供を再三に渡って要求してくることも上達の大きな要因となった。
やかんから湯呑へと白湯が注がれ、白い湯気が立ち上った。
沸騰したお湯でいきなりお茶を入れるのはよろしくない。適切な温度まで、いったん冷ますのが重要だ。
きゅぽん、と音がしてお茶缶のフタが外される。目分量で茶葉を移して急須の中へ。それから、湯呑を包み込むように両手を添えて温度を採る。
まだちょっと熱いかな――緊張で冷えた指先がじんわりと暖められ、温もりが血の巡りとともに全身に広がっていく感覚に心なしか安らぎを覚えた。
気を持ち直すためにお茶を淹れたのは正解だったかもしれない。日常的な作業を段取り良く進めることで、それに伴って視界が開けてきたように感じられる。霊安室で熊男と対面したときの衝撃でそぞろに散っていた記憶の断片が、お茶の支度を整えるにつれて誠人の脳内で整然と組みあがっていった。
まずは状況を改めて整理してみよう――誠人は目を閉じて、地下で起きた出来事を振り返ることからはじめた。
地下の霊安室。八つある霊安庫のうち、使用中は四か所。田中さんは下段の右端で保管されていたはずだった。霊安庫の扉には「田中 薫」の名前があり、その中で安置されていた棺にも同様に故柩紙が貼られていた。
ここまではいい。無関係な棺を、うっかり間違えて出してしまったということは、ない。
そして――
棺の中を覗き込むと、そこで眠るご遺体は、田中薫氏その人であるとは到底思えないような人物だった。容れ物は合っているが中身が違うという状況に見受けられたわけだ。
そのうえで、遺影写真の人物とは似ても似つかないそのご遺体を、はなはだ勝手ながら「熊男」と名付けた。
故人と生前に面識があったわけではないが、それでも一目見ただけでそれが別人だということがわかったのだ。それはなぜか?
誠人はゆっくりと目を開け、首をまわして事務所の一角に視線を置いた。
壁沿いに並ぶ背の低い書類棚。その上に、見覚えのある白い箱がぽつんと置かれている。――遺影写真を入れた箱だ。写真屋から受け取ってロビーに置いてきたはずのものが、いつの間にか事務所で保管されていた。
おそらく、地下での作業中に帰社した佐和子が拾い上げていたのだろう。
熊男の遺体が田中薫氏のものではないと判断できるのは、あの遺影写真を直前に目にしていたからだ。熊男は坊主頭で髭を豪快に蓄えた大柄な人物だが、対する写真の男性は細面の痩せぎすで、白髪頭を品良く整えた小柄な紳士といった印象を受けた。この二者は誰の目にも別人であるといえる。
しかし、だ――
「写真と違うから遺体はニセモノ」と考えられるなら、その逆もまた成り立つことになる。すなわち「遺体と違うから写真はニセモノ」であるという考えだ。
取り違えがおきたのは、遺体ではなく写真のほうである――そのような可能性がありえるだろうか?
(いや――ない)
誠人の中では、すでにそのセンは消されている。彼にはそう判断できるだけの明確な根拠があった。遺影写真を受け取ったとき、彼はこう言っていたはずだ。
<いやぁ、今かかえてる仕事はこれ一枚だけなんだけどね。これから回収でいくつか回らなきゃいけなくて、ちょっと立て込んでるんだ>
そう。今日の時点で、松影さんは田中家の他に預かっている写真は「無い」と発言していた。先々に抱えている他の仕事についても「今日これから回収しに行くから写真はまだ手元にない」という。
では、今日以前のものについてはどうだろうか? もし仮に、田中家より前に預かっていた写真があったとして、それが間違えて届けられてしまった可能性は?
いや、それもない。昨日までのものは、すでに配達が終わっているはずだ。
万が一、写真が別の葬家のものと取り違えられていたとしたなら、いまごろ他所でとっくに騒ぎになっているだろう。
つまり、写真が他の葬家のものと取り違えられたという可能性は限りなくゼロに近いと思っていい。
遺影を作る際の元となった写真には「田中薫」と書かれた付箋紙も貼られていた。あれは正真正銘、田中家のご遺族からお預かりしたもの。そう考えて間違いないはずだ。
写真の真偽が定かである以上、「遺影写真」か「ご遺体」、そのどちらかがニセモノであるというのならば答えは明白である。
よって――
「熊男は、田中薫ではない」――そのように、誠人は結論付けた。
そして、大きな疑問が二つ残った。
――熊男は何者か?
――本物の田中薫は、どこへ消えてしまったのか?
死亡診断書によると、田中薫氏が亡くなったのは一昨日の四月五日。午前十時とのことだ。ご遺体は亡くなったその日に、看取った家族を連れてこの会館へと搬送されてきた。地下に安置したのち、そのままの流れで行われた打ち合わせには、喪主である浩美夫人とその息子夫婦、そして喪主のご兄弟も同席されている。
彼は、五日の時点では間違いなく霊安庫に安置されていたのだ。
しかし――
今日に至るまでの二日間、そのあいだに、この葬儀会館でなにかが起きた。遺体の入れ替わりなどという、常軌を逸する異常事態を引き起こした「なにか」が――
誠人は、両手の中に視線を落とした。
沸騰してすぐに注がれた白湯の粗熱がとれて、頃合いとなったことを手の感覚で確かめる。それから二人分の白湯を、湯呑から急須の中へと移し、フタをして蒸らしに入った。
しばらくして、とぽぽぽぽ――と、白い湯気とともに急須からふたたび湯呑へと色づいた液体が注がれていく。
無色透明の白湯が、湯吞から急須、そしてふたたび湯吞へと戻され、いまは茶葉に染められた豊かな緑が広がっている。
誠人は苦々しく眉根を寄せた――……四月五日から六日の終わりまで、自分は別の現場に立ち会っていて、この会館には一度も足を運んでいない。音喜多さんも今日が連休明けで、昨日までは他の社員にここの留守を任せていた。ご遺体と対面したのは二人揃って今日が初めてだ。田中さんが搬送されてからの二日間、何があったのか知る人間はここにはいない……。
二人分の湯呑をお盆に乗せ、デスクへと戻る。
おそらく佐和子は、いまごろ打ち合わせを担当した人間をはじめ、方々に確認の連絡を取っていることだろう。連絡がつくかどうかまではわからないが。
ふと視線を上げると、監視カメラの映像がちょうど地下の様子を映し出していた。それは霊安室を俯瞰で斜めに見下ろしたもので、部屋の中央には白い棺、開け放たれたカーテンと、その奥には霊安庫が覗いて見える。
霊安室は、誠人が無我夢中で飛び出した状態のままだった。
あのカメラに録画機能さえついていたら――そう思うと、歯がゆさで自然と手に力が入った。中途半端に設備投資をケチらなければ、この二日間の出来事を、録画した映像で確認できたはずだ。それで万事解決とまではいかなくとも、事態の把握や原因の特定くらいは可能だったかもしれないのに――と、奥歯を噛みしめ苦渋の表情でモニターを睨みつける。
このとき誠人には、ひとつ思い描いている仮説があった。それは想像するだに忌まわしく最悪を極めるものではあったが、好むと好まざるとに関わらず、録画さえ確認できたならば、その仮説を容易に証明することができたはずなのだ。
すなわち――田中薫氏のご遺体が、取り違えにより誤って火葬されてしまったのではないかという仮説を。
数年前――誠人がまだ学生だったころ――にメディアを騒がせた、葬儀業界の一大醜聞が脳裏に呼び起こされる。
地方のとある大手葬儀社が、翌日に通夜を控えたご遺体を無縁仏と間違えて先に火葬してしまったという「遺体の取り違え事件」だ。
それは――名前が似ているご遺体を複数体、同時に預かっていたのが原因で起こった人災だった。
故人である当該人物のひとりには身寄りとなる親族がいなかったそうだ。その場合、火葬に立ち会う人間は斎場の職員を除いて葬儀社のスタッフ以外には存在しない。当日の担当スタッフは故人と面識が無いために、名前を確認する以外の方法でその身元を識別することは難しいわけだが、その肝心の名前を見間違えたが最後、それが別人のご遺体だと気付かぬまま、うっかり荼毘に伏してしまった――それが、過去実際に起きた「取り違え事件」のあらましだ。
遺体を扱ううえでの杜撰な管理体制が明るみに出て、発覚後は遺族ならびにあらゆるメディアから袋叩きにあっていたことも記憶に新しい。
その事件の記憶を頼りに、誠人は自身の考えを補強していく――そうだ。そうに違いない。田中さんも同様に、別のご遺体と取り違えられたとしか考えられない。
しかし、もし本当にそうだったとしたら、ご遺体はとっくに火葬されてお骨になってしまっているわけで。それはつまり、事態がすでに取返しのつかない状況であることを意味するのだが――
誠人は下ろしかけた腰を持ち上げ、居てもたってもいられないといった様子で書類棚からファイルを何冊か抜き出してきた。過去に執り行われた葬儀の受注書などが納められたファイルだ。どさっと雑にデスクへ広げるや否や、その資料を片っ端から捲っていった。
もし、すでに火葬が済んでしまったのだとしたら、その取り違えが起こり得るような別のご遺体の存在が必ずここに記録されているはずだ。件の葬儀社が起こした事件のように、名前のよく似たご遺体の存在が――
どこだ。どこにある?――視線を乗せた指先が次々に捲られる頁の上をジグザグに走る。走る。
いや、なくていい。できれば何も見つからないほうがいい。取り違えなんて起こっていないのだと、自分の浅はかな妄想だったと、どうか否定してほしい。杞憂だったと思わせてくれ――幾重にも折り重なる複雑な思いに圧し潰されそうになりながら、祈るように頁を捲っていく。
やがてその指が、ある一点を指し示して、とまった。
「……あった」
それは、四月六日の頁にあった。
受注書と日報の申し送りに、はっきりとこう記録されていたのだ。
この日、朝十時に「田中 敦」という男性の遺体が火葬された、と。
嫌な予感が的中した。足先から悪寒がぞくりと這い上がる。
昨日の十時に火葬されたご遺体。同じ田中姓。下の名前はどちらも一文字。
「田中 敦」と「田中 薫」――見間違えたとしてもおかしくは、ない。
さらに悪いことに、六日の火葬について申し送りが綴られる中で、誠人は思わず目を背けたくなるような記述を目にした。
『六日:九時三十分 寝台車にて会館を出発。
十時○○分 三ツ戸斎場に着棺。
直葬にて滞りなく火葬終了。
遺族の立ち合いは無し』
その一文で、全身が総毛立った。
「田中 敦」の火葬に立ち会ったのは当社のスタッフのみ。身寄りの親族はいないから遺影写真も作られない。名前を見間違えたが最後、火葬炉に納められるまで本人であることを確認する手段は他に、ない。
やっぱりそうだ――誠人は確信を深めた。熊男の正体は六日に火葬されているはずの「田中 敦」だったのだ――と。遺影写真でほほ笑んでいたあの優しそうな老紳士は、この男の代わりにすでに火葬されお骨になってしまったのだと。なんということだ。これではまるで過去の事件の再現だ。他所の葬儀社の不祥事が、自分の勤め先で同じように起こってしまったのだ。
しかし、である。
仮にそうだとしたら、いま霊安室にある熊男の棺には、なぜ「田中 薫」という別人の故柩紙が貼られているのか――という点にはおおいに疑問が残る。
単純に名前の見間違えで事故が起きてしまったのだとしたら、いまもなお、熊男の故柩紙は正しく本来の「田中 敦」の名前でなくては理屈が通らない。
これでは二人の名前があべこべに棺に貼られていることになってしまう。
いや、まてよ――と、すぐさま誠人は思い直した。
そもそも、この事件の発端が「故柩紙の貼り間違い」によるものだったとしたらどうだろうか。それならば、ひとまずの筋は通る。
つまり、二人のご遺体が納棺される際に「田中敦の故柩紙」が誤って「田中薫の棺」に貼られてしまい、それによって、もう一方もあべこべに名前が貼られてしまったのだとしたら?
――ありえる話だ。いや、むしろそうとしか考えられない。「見間違えた」から取り違えられたのではなく、「貼り間違えた」から取り違えられたと考えるほうが、人の手によるミスとして自然に起こりうるもののように思える。
ふらふらと力なく、その場に崩れた。
――もうだめだ。おしまいだ。
葬儀に予期せぬトラブルはつきもの、とは散々聞かされてはいた。長く勤めていれば頭を抱えたくなるような困難にも多々見舞われることもあるだろう、と。
――でも、それがなぜ今日なんだ。入社してまだ、たったの一か月だぞ?
よりによって、まさか自分がここまでの大参事に巻き込まれるとは、今朝の時点では夢にも思わなかった。
この一件は、あくまでも感知できないところで知らぬ間に起きていた人災だ。これを一個人の犯した粗相とするならば誠人には本来、落ち度というものは無いはずである。しかし、それでも、葬儀当日の担当補佐という役目を仰せつかった時点で、おそらく事態の矢面に立たされることは避けられないのだろう。貧乏くじもいいところである。――そんなの、あんまりだ。
胸中でひとしきり恨み言を吐いた。しかし他人の不始末に当たり散らすのも長くはつづかず、その思いは次第に移ろいでゆく。
いや――この際、自分のことはいい。たとえこれで進退をかけることになったとしても、そこから立ち直れるかどうかは自分で選べる問題だ。
そんなことよりもぼくは、田中家の皆様にどうやっても申し訳が立たないのが、ただただ苦しくて堪らない。ご遺族には、選択の余地もなく最悪の形での別れを強いてしまったのだ。死者に対してこれ以上の冒涜があるだろうか。もう、どのように顔向けして良いかもわからない。本当に、かわいそうなことをしてしまった。一生、立ち直れないほどの傷を残してしまうことになるかもしれない。それを思うと胸が張り裂けそうなほどに痛む。償いきれるだろうか。ぼくなんかに。
ごめんなさい。ごめんなさい――気付くと誠人は、いつからか両腕で頭を抱えて、ひたすらに謝っていた――愛する人たちとの最後の別れを、こんな形で奪ってしまって本当にごめんなさい。
そのとき――
がちゃり、と音がしてドアがゆっくりと開いた。
抱えた腕の隙間から弱々しく視線を向けると、ドアの陰からゆらりと現れる佐和子の姿が目に入った。
彼女は随分と長いこと席を外していたように思えたが、時計を見たところ、事務所を出てからまだ十分も経っていないようだった。
彼女はいったい、どこで何をしていたのだろうか。
「あんたなにしてんの?」
デスクに突っ伏している誠人を見るなり、佐和子が声を上げる。
「居眠りとはいい度胸じゃない」
誠人はデスクから引き剥がすように上体を起こすと、掠れた声を絞り出して「これが寝ているように見えますか」と、赤く腫れた目をこれ見よがしに指してみせた。
――こいつ、まさか一人でメソメソ泣いてた?
――この人は、ふらふらと今まで何処をほっつき歩いてたんだか。
お互いをねめつけるように視線が交錯する。
やがて、佐和子がその手に握りしめている携帯電話に、誠人の目がとまった。
「……その電話、本社の人ですか?」
「どうなりましたか」という問いかけに、佐和子は「――ああ、これ?」と目線の高さにそれを掲げてみせる。誠人は固唾を飲んで返答を待った。
佐和子は深いため息のあとに「どうもこうも……――あら、ありがと」と、湯気の薄くなった湯吞を手に取った。そして
あち。あち。と少しだけ口を湿らせてから話をつづける。彼女の口から語られる言葉は、残念ながら誠人の期待に添うものではなかった。
「……というわけで、いまから上の人がこっちに来るってさ。それまで待機ね」
「そうですか……」誠人が肩をがっくりと落とす。
「じゃあ、ぼくたちはその到着を、ただ待つしかないんですね」
予想の範疇ではあったが、彼女がなんらかの打開策を手土産に戻ってくるのをまったく期待していなかったわけでもないので、落胆の色は隠せない。
誠人の心は、ふたたび不安で荒れる暗い海へと漕ぎ出しはじめていた。
「まぁ、電話口でどうこうできる問題じゃないから仕方ないわね。あんたも今のうちに気を整えておきなさい」
そう言われて平静を保てるほどの胆力は無い。
彼女の言葉も、誠人の耳には「腹を括っておきなさい」としか聞こえない。
消沈する一方で佐和子はというと、「ひと仕事終えた」とばかりに椅子に落ち着き、お茶を啜りながら定位置でふたたび映画に興じている。この状況下でたいした余裕だが、それは彼女が特別に肝が据わっているからなのか、はたまた単にネジが数本飛んでいるだけなのかは定かでない。
「あの……音喜多さん」おそるおそる背中に呼びかけてみる。
言葉で応じるかわりに、彼女の後ろ髪がはらりと揺れた。
「もしも、ですけど……このまま田中さんのご遺体が見つからなかったら、ぼくたちはどうなるんでしょうか……」
正直、答えは聞きたくない。が、しかし。不安でいっぱいに満たされた心にひとたび波風が吹けば、それが要らぬ言葉となってつい溢れ出てしまう。
佐和子はたっぷりと間をあけたのちに「そうねぇ……」と片手を広げてみせ、指折り数えながら言う。
「……当然、今日の葬儀は『中止』でしょ。それから『クレーム対応』、『返金』、『謝罪』、『裁判』ときて、あとは――」
五本の指が折れた。今度はその指を一本ずつ立てながら
「――多額の『賠償』、遺族からの『恨み』が残って『悪評』が出回り、メディアで『炎上』して最終的には『廃業』……って感じ?」と、ひらいた五本の指をこちらに見せつけ、言葉の終わりに
「ざんねん。倍満どまりね」と付け加えた。
やっぱり、聞くんじゃなかった――後悔の念がとめどなく押し寄せる。
佐和子が淡々と列挙した言葉は、どれも耳を塞ぎたくなるようなものばかりだったが、中でも「遺族からの『恨み』」というのが、とりわけ胸に突き刺さった。
事実をありのままに知らされたご家族は、お骨と対面させられて何を思うのだろう。呆然と悲しみに暮れるか。あるいは慟哭とともに罵声の言葉をこちらに浴びせてくるか。もしくは、その両方かも。
いずれにせよ、この後の葬儀は阿鼻叫喚の修羅場となるだろう。
考えれば考えるほどに悲惨な想像が頭をめぐる。やがて心のざわめきは震えとなって手や足にあらわれはじめていた。
「 マコ、うるさい。貧乏ゆすりやめて」
ぴしゃりと佐和子に窘められた。サイドの長い黒髪から彼女が憮然とした横顔を覗かせる。
「あ……す、すみません」足の震えを手で押さえつけるように圧し留めて言う「色々と考えだしたら止まらなくなっちゃって。で、でも――」
音喜多さんは、どうしてそう平気でいられるんですか――と、そう言いかけて誠人は嚥下した。
平気なわけがない。なにせ「遺体の取り違え」だ。商品の発注ミスや接客態度へのクレームなんかとはわけがちがう。館長である彼女も当然、自分以上の責任を負うことになるだろう。平気でいられるわけがないじゃないか。
それに、よくよく彼女を観察してみると、さっきからテレビの合間に、ちらちらとこちらの様子をせわしなく伺うような素振りも見せはじめているのがわかる。
――不安、なんだろう。
ああやって飄々としてるように見せかけて、その実は虚勢を張ってみせているだけに違いない。きっと内心、彼女も必死に気を紛らわせているのかもしれないな――
そのように思い直し、誠人は黙って佐和子の視線の先を追った。
テレビの画面の向こうでは、下降するエレベーターの中で女戦士が粛々と決戦の準備を整えていた。
「――ひとつ、言っておくけど」
やがて佐和子が、ぽつりと一言。あまりに自然に零れ出た言葉に、最初はそれが自分に向けられているものとは気付かなかった。
少しの間が空いたのち、反応を疎かにされたことを咎めるように、彼女の椅子が軋みを立ててくるりと回る。
不意をつかれる形で目が合った。
「田中さんはね……」
彼女は心の内を無邪気に覗き見るような、あるいはこちらの真価を問うているかのような、そんな不敵な笑みを浮かべていた。
可憐というよりは、ぞっとするような不吉なまでの美しさを湛えている。
「な、なんですか……急に」
なにごとかと身構えていると、彼女がぐっと身を乗り出して距離をつめてくる。
つづいてその口から出た言葉に、誠人は大きく意表をつかれた。
――ひとつ言っておくけど、田中さんはね……
「……まだ火葬なんかされてないわよ」
事も無げに言い放たれた言葉の意味を、誠人はすぐには理解できなかった。
(つづく)
信じられないかもしれませんが、聞いてください――――
実は、田中さんが……――――――
――――――別人のご遺体と入れ替わってます!
*****
誠人の口から飛び出た告白は、事務所の空気を一瞬で凍り付かせるのに充分過ぎるほど衝撃的だった。
あれから言葉を失った二人は時間にして数十秒か、あるいは数分間は見つめ合っていただろうか。しかし、このまま永遠に日常が戻らないのではと錯覚しかけた時に、助け舟は思わぬところからやってきた。事務所の一角にある流し台のコンロで、やかんがシューッとけたたましく声を上げたのだ。
そして、立ち昇る蒸気が雪解けを誘うようにして、凍りついた二人を我に返した。
*****
「わかった……」
誠人の報告に黙って耳を傾けていた佐和子は、事の詳細を聞き取るや否や、両手をついてゆらりと立ち上がった。
「……ちょっと外すわ。あんたはここで待ってて」
少しばかり険のある口調だった。後追いで腰を浮かせた誠人に対し、これ以上の口を挟ませまいとする意思を感じる。
彼女は二つ折りの携帯電話を片手に、そそくさと事務所をあとにした。
ぱたぱたと足音が遠ざかる。だれかに指示を仰ぎにいったのかと、誠人は不安な面持ちで監視カメラを見つめていた。ロビー、式場、お清め場……静止画のように変わり映えのしない映像が過ぎ去っていく。佐和子の動向は伺い知れない。
やがて視線を外すと目を何度かしばたかせた。
だめだ。頭を冷やそう――誠人はおもむろに席を立つ。極度の緊張状態がつづいたせいで喉もカラカラだった。せっかく沸いたお湯を無駄にするわけにもいかないので、お茶でも淹れようかと流し台に向かった。
二人分の湯呑をシンクで軽く濯いでから戸棚に手を伸ばし、急須や茶漉しをてきぱきと手慣れた様子で準備する。入社してはや一ヶ月、葬儀スタッフとしてはまだ一人前にほど遠い誠人も、お茶の淹れ方だけは唯一胸を張って人に誇れるほどに達者になった。来客対応の際、先輩社員の横に付かせてもらう身分としてはお茶汲みといえども重要な技能のひとつだ。
やたらと味にうるさい当会館の主が、痛烈なダメ出し付きでテレビ映画のお供を再三に渡って要求してくることも上達の大きな要因となった。
やかんから湯呑へと白湯が注がれ、白い湯気が立ち上った。
沸騰したお湯でいきなりお茶を入れるのはよろしくない。適切な温度まで、いったん冷ますのが重要だ。
きゅぽん、と音がしてお茶缶のフタが外される。目分量で茶葉を移して急須の中へ。それから、湯呑を包み込むように両手を添えて温度を採る。
まだちょっと熱いかな――緊張で冷えた指先がじんわりと暖められ、温もりが血の巡りとともに全身に広がっていく感覚に心なしか安らぎを覚えた。
気を持ち直すためにお茶を淹れたのは正解だったかもしれない。日常的な作業を段取り良く進めることで、それに伴って視界が開けてきたように感じられる。霊安室で熊男と対面したときの衝撃でそぞろに散っていた記憶の断片が、お茶の支度を整えるにつれて誠人の脳内で整然と組みあがっていった。
まずは状況を改めて整理してみよう――誠人は目を閉じて、地下で起きた出来事を振り返ることからはじめた。
地下の霊安室。八つある霊安庫のうち、使用中は四か所。田中さんは下段の右端で保管されていたはずだった。霊安庫の扉には「田中 薫」の名前があり、その中で安置されていた棺にも同様に故柩紙が貼られていた。
ここまではいい。無関係な棺を、うっかり間違えて出してしまったということは、ない。
そして――
棺の中を覗き込むと、そこで眠るご遺体は、田中薫氏その人であるとは到底思えないような人物だった。容れ物は合っているが中身が違うという状況に見受けられたわけだ。
そのうえで、遺影写真の人物とは似ても似つかないそのご遺体を、はなはだ勝手ながら「熊男」と名付けた。
故人と生前に面識があったわけではないが、それでも一目見ただけでそれが別人だということがわかったのだ。それはなぜか?
誠人はゆっくりと目を開け、首をまわして事務所の一角に視線を置いた。
壁沿いに並ぶ背の低い書類棚。その上に、見覚えのある白い箱がぽつんと置かれている。――遺影写真を入れた箱だ。写真屋から受け取ってロビーに置いてきたはずのものが、いつの間にか事務所で保管されていた。
おそらく、地下での作業中に帰社した佐和子が拾い上げていたのだろう。
熊男の遺体が田中薫氏のものではないと判断できるのは、あの遺影写真を直前に目にしていたからだ。熊男は坊主頭で髭を豪快に蓄えた大柄な人物だが、対する写真の男性は細面の痩せぎすで、白髪頭を品良く整えた小柄な紳士といった印象を受けた。この二者は誰の目にも別人であるといえる。
しかし、だ――
「写真と違うから遺体はニセモノ」と考えられるなら、その逆もまた成り立つことになる。すなわち「遺体と違うから写真はニセモノ」であるという考えだ。
取り違えがおきたのは、遺体ではなく写真のほうである――そのような可能性がありえるだろうか?
(いや――ない)
誠人の中では、すでにそのセンは消されている。彼にはそう判断できるだけの明確な根拠があった。遺影写真を受け取ったとき、彼はこう言っていたはずだ。
<いやぁ、今かかえてる仕事はこれ一枚だけなんだけどね。これから回収でいくつか回らなきゃいけなくて、ちょっと立て込んでるんだ>
そう。今日の時点で、松影さんは田中家の他に預かっている写真は「無い」と発言していた。先々に抱えている他の仕事についても「今日これから回収しに行くから写真はまだ手元にない」という。
では、今日以前のものについてはどうだろうか? もし仮に、田中家より前に預かっていた写真があったとして、それが間違えて届けられてしまった可能性は?
いや、それもない。昨日までのものは、すでに配達が終わっているはずだ。
万が一、写真が別の葬家のものと取り違えられていたとしたなら、いまごろ他所でとっくに騒ぎになっているだろう。
つまり、写真が他の葬家のものと取り違えられたという可能性は限りなくゼロに近いと思っていい。
遺影を作る際の元となった写真には「田中薫」と書かれた付箋紙も貼られていた。あれは正真正銘、田中家のご遺族からお預かりしたもの。そう考えて間違いないはずだ。
写真の真偽が定かである以上、「遺影写真」か「ご遺体」、そのどちらかがニセモノであるというのならば答えは明白である。
よって――
「熊男は、田中薫ではない」――そのように、誠人は結論付けた。
そして、大きな疑問が二つ残った。
――熊男は何者か?
――本物の田中薫は、どこへ消えてしまったのか?
死亡診断書によると、田中薫氏が亡くなったのは一昨日の四月五日。午前十時とのことだ。ご遺体は亡くなったその日に、看取った家族を連れてこの会館へと搬送されてきた。地下に安置したのち、そのままの流れで行われた打ち合わせには、喪主である浩美夫人とその息子夫婦、そして喪主のご兄弟も同席されている。
彼は、五日の時点では間違いなく霊安庫に安置されていたのだ。
しかし――
今日に至るまでの二日間、そのあいだに、この葬儀会館でなにかが起きた。遺体の入れ替わりなどという、常軌を逸する異常事態を引き起こした「なにか」が――
誠人は、両手の中に視線を落とした。
沸騰してすぐに注がれた白湯の粗熱がとれて、頃合いとなったことを手の感覚で確かめる。それから二人分の白湯を、湯呑から急須の中へと移し、フタをして蒸らしに入った。
しばらくして、とぽぽぽぽ――と、白い湯気とともに急須からふたたび湯呑へと色づいた液体が注がれていく。
無色透明の白湯が、湯吞から急須、そしてふたたび湯吞へと戻され、いまは茶葉に染められた豊かな緑が広がっている。
誠人は苦々しく眉根を寄せた――……四月五日から六日の終わりまで、自分は別の現場に立ち会っていて、この会館には一度も足を運んでいない。音喜多さんも今日が連休明けで、昨日までは他の社員にここの留守を任せていた。ご遺体と対面したのは二人揃って今日が初めてだ。田中さんが搬送されてからの二日間、何があったのか知る人間はここにはいない……。
二人分の湯呑をお盆に乗せ、デスクへと戻る。
おそらく佐和子は、いまごろ打ち合わせを担当した人間をはじめ、方々に確認の連絡を取っていることだろう。連絡がつくかどうかまではわからないが。
ふと視線を上げると、監視カメラの映像がちょうど地下の様子を映し出していた。それは霊安室を俯瞰で斜めに見下ろしたもので、部屋の中央には白い棺、開け放たれたカーテンと、その奥には霊安庫が覗いて見える。
霊安室は、誠人が無我夢中で飛び出した状態のままだった。
あのカメラに録画機能さえついていたら――そう思うと、歯がゆさで自然と手に力が入った。中途半端に設備投資をケチらなければ、この二日間の出来事を、録画した映像で確認できたはずだ。それで万事解決とまではいかなくとも、事態の把握や原因の特定くらいは可能だったかもしれないのに――と、奥歯を噛みしめ苦渋の表情でモニターを睨みつける。
このとき誠人には、ひとつ思い描いている仮説があった。それは想像するだに忌まわしく最悪を極めるものではあったが、好むと好まざるとに関わらず、録画さえ確認できたならば、その仮説を容易に証明することができたはずなのだ。
すなわち――田中薫氏のご遺体が、取り違えにより誤って火葬されてしまったのではないかという仮説を。
数年前――誠人がまだ学生だったころ――にメディアを騒がせた、葬儀業界の一大醜聞が脳裏に呼び起こされる。
地方のとある大手葬儀社が、翌日に通夜を控えたご遺体を無縁仏と間違えて先に火葬してしまったという「遺体の取り違え事件」だ。
それは――名前が似ているご遺体を複数体、同時に預かっていたのが原因で起こった人災だった。
故人である当該人物のひとりには身寄りとなる親族がいなかったそうだ。その場合、火葬に立ち会う人間は斎場の職員を除いて葬儀社のスタッフ以外には存在しない。当日の担当スタッフは故人と面識が無いために、名前を確認する以外の方法でその身元を識別することは難しいわけだが、その肝心の名前を見間違えたが最後、それが別人のご遺体だと気付かぬまま、うっかり荼毘に伏してしまった――それが、過去実際に起きた「取り違え事件」のあらましだ。
遺体を扱ううえでの杜撰な管理体制が明るみに出て、発覚後は遺族ならびにあらゆるメディアから袋叩きにあっていたことも記憶に新しい。
その事件の記憶を頼りに、誠人は自身の考えを補強していく――そうだ。そうに違いない。田中さんも同様に、別のご遺体と取り違えられたとしか考えられない。
しかし、もし本当にそうだったとしたら、ご遺体はとっくに火葬されてお骨になってしまっているわけで。それはつまり、事態がすでに取返しのつかない状況であることを意味するのだが――
誠人は下ろしかけた腰を持ち上げ、居てもたってもいられないといった様子で書類棚からファイルを何冊か抜き出してきた。過去に執り行われた葬儀の受注書などが納められたファイルだ。どさっと雑にデスクへ広げるや否や、その資料を片っ端から捲っていった。
もし、すでに火葬が済んでしまったのだとしたら、その取り違えが起こり得るような別のご遺体の存在が必ずここに記録されているはずだ。件の葬儀社が起こした事件のように、名前のよく似たご遺体の存在が――
どこだ。どこにある?――視線を乗せた指先が次々に捲られる頁の上をジグザグに走る。走る。
いや、なくていい。できれば何も見つからないほうがいい。取り違えなんて起こっていないのだと、自分の浅はかな妄想だったと、どうか否定してほしい。杞憂だったと思わせてくれ――幾重にも折り重なる複雑な思いに圧し潰されそうになりながら、祈るように頁を捲っていく。
やがてその指が、ある一点を指し示して、とまった。
「……あった」
それは、四月六日の頁にあった。
受注書と日報の申し送りに、はっきりとこう記録されていたのだ。
この日、朝十時に「田中 敦」という男性の遺体が火葬された、と。
嫌な予感が的中した。足先から悪寒がぞくりと這い上がる。
昨日の十時に火葬されたご遺体。同じ田中姓。下の名前はどちらも一文字。
「田中 敦」と「田中 薫」――見間違えたとしてもおかしくは、ない。
さらに悪いことに、六日の火葬について申し送りが綴られる中で、誠人は思わず目を背けたくなるような記述を目にした。
『六日:九時三十分 寝台車にて会館を出発。
十時○○分 三ツ戸斎場に着棺。
直葬にて滞りなく火葬終了。
遺族の立ち合いは無し』
その一文で、全身が総毛立った。
「田中 敦」の火葬に立ち会ったのは当社のスタッフのみ。身寄りの親族はいないから遺影写真も作られない。名前を見間違えたが最後、火葬炉に納められるまで本人であることを確認する手段は他に、ない。
やっぱりそうだ――誠人は確信を深めた。熊男の正体は六日に火葬されているはずの「田中 敦」だったのだ――と。遺影写真でほほ笑んでいたあの優しそうな老紳士は、この男の代わりにすでに火葬されお骨になってしまったのだと。なんということだ。これではまるで過去の事件の再現だ。他所の葬儀社の不祥事が、自分の勤め先で同じように起こってしまったのだ。
しかし、である。
仮にそうだとしたら、いま霊安室にある熊男の棺には、なぜ「田中 薫」という別人の故柩紙が貼られているのか――という点にはおおいに疑問が残る。
単純に名前の見間違えで事故が起きてしまったのだとしたら、いまもなお、熊男の故柩紙は正しく本来の「田中 敦」の名前でなくては理屈が通らない。
これでは二人の名前があべこべに棺に貼られていることになってしまう。
いや、まてよ――と、すぐさま誠人は思い直した。
そもそも、この事件の発端が「故柩紙の貼り間違い」によるものだったとしたらどうだろうか。それならば、ひとまずの筋は通る。
つまり、二人のご遺体が納棺される際に「田中敦の故柩紙」が誤って「田中薫の棺」に貼られてしまい、それによって、もう一方もあべこべに名前が貼られてしまったのだとしたら?
――ありえる話だ。いや、むしろそうとしか考えられない。「見間違えた」から取り違えられたのではなく、「貼り間違えた」から取り違えられたと考えるほうが、人の手によるミスとして自然に起こりうるもののように思える。
ふらふらと力なく、その場に崩れた。
――もうだめだ。おしまいだ。
葬儀に予期せぬトラブルはつきもの、とは散々聞かされてはいた。長く勤めていれば頭を抱えたくなるような困難にも多々見舞われることもあるだろう、と。
――でも、それがなぜ今日なんだ。入社してまだ、たったの一か月だぞ?
よりによって、まさか自分がここまでの大参事に巻き込まれるとは、今朝の時点では夢にも思わなかった。
この一件は、あくまでも感知できないところで知らぬ間に起きていた人災だ。これを一個人の犯した粗相とするならば誠人には本来、落ち度というものは無いはずである。しかし、それでも、葬儀当日の担当補佐という役目を仰せつかった時点で、おそらく事態の矢面に立たされることは避けられないのだろう。貧乏くじもいいところである。――そんなの、あんまりだ。
胸中でひとしきり恨み言を吐いた。しかし他人の不始末に当たり散らすのも長くはつづかず、その思いは次第に移ろいでゆく。
いや――この際、自分のことはいい。たとえこれで進退をかけることになったとしても、そこから立ち直れるかどうかは自分で選べる問題だ。
そんなことよりもぼくは、田中家の皆様にどうやっても申し訳が立たないのが、ただただ苦しくて堪らない。ご遺族には、選択の余地もなく最悪の形での別れを強いてしまったのだ。死者に対してこれ以上の冒涜があるだろうか。もう、どのように顔向けして良いかもわからない。本当に、かわいそうなことをしてしまった。一生、立ち直れないほどの傷を残してしまうことになるかもしれない。それを思うと胸が張り裂けそうなほどに痛む。償いきれるだろうか。ぼくなんかに。
ごめんなさい。ごめんなさい――気付くと誠人は、いつからか両腕で頭を抱えて、ひたすらに謝っていた――愛する人たちとの最後の別れを、こんな形で奪ってしまって本当にごめんなさい。
そのとき――
がちゃり、と音がしてドアがゆっくりと開いた。
抱えた腕の隙間から弱々しく視線を向けると、ドアの陰からゆらりと現れる佐和子の姿が目に入った。
彼女は随分と長いこと席を外していたように思えたが、時計を見たところ、事務所を出てからまだ十分も経っていないようだった。
彼女はいったい、どこで何をしていたのだろうか。
「あんたなにしてんの?」
デスクに突っ伏している誠人を見るなり、佐和子が声を上げる。
「居眠りとはいい度胸じゃない」
誠人はデスクから引き剥がすように上体を起こすと、掠れた声を絞り出して「これが寝ているように見えますか」と、赤く腫れた目をこれ見よがしに指してみせた。
――こいつ、まさか一人でメソメソ泣いてた?
――この人は、ふらふらと今まで何処をほっつき歩いてたんだか。
お互いをねめつけるように視線が交錯する。
やがて、佐和子がその手に握りしめている携帯電話に、誠人の目がとまった。
「……その電話、本社の人ですか?」
「どうなりましたか」という問いかけに、佐和子は「――ああ、これ?」と目線の高さにそれを掲げてみせる。誠人は固唾を飲んで返答を待った。
佐和子は深いため息のあとに「どうもこうも……――あら、ありがと」と、湯気の薄くなった湯吞を手に取った。そして
あち。あち。と少しだけ口を湿らせてから話をつづける。彼女の口から語られる言葉は、残念ながら誠人の期待に添うものではなかった。
「……というわけで、いまから上の人がこっちに来るってさ。それまで待機ね」
「そうですか……」誠人が肩をがっくりと落とす。
「じゃあ、ぼくたちはその到着を、ただ待つしかないんですね」
予想の範疇ではあったが、彼女がなんらかの打開策を手土産に戻ってくるのをまったく期待していなかったわけでもないので、落胆の色は隠せない。
誠人の心は、ふたたび不安で荒れる暗い海へと漕ぎ出しはじめていた。
「まぁ、電話口でどうこうできる問題じゃないから仕方ないわね。あんたも今のうちに気を整えておきなさい」
そう言われて平静を保てるほどの胆力は無い。
彼女の言葉も、誠人の耳には「腹を括っておきなさい」としか聞こえない。
消沈する一方で佐和子はというと、「ひと仕事終えた」とばかりに椅子に落ち着き、お茶を啜りながら定位置でふたたび映画に興じている。この状況下でたいした余裕だが、それは彼女が特別に肝が据わっているからなのか、はたまた単にネジが数本飛んでいるだけなのかは定かでない。
「あの……音喜多さん」おそるおそる背中に呼びかけてみる。
言葉で応じるかわりに、彼女の後ろ髪がはらりと揺れた。
「もしも、ですけど……このまま田中さんのご遺体が見つからなかったら、ぼくたちはどうなるんでしょうか……」
正直、答えは聞きたくない。が、しかし。不安でいっぱいに満たされた心にひとたび波風が吹けば、それが要らぬ言葉となってつい溢れ出てしまう。
佐和子はたっぷりと間をあけたのちに「そうねぇ……」と片手を広げてみせ、指折り数えながら言う。
「……当然、今日の葬儀は『中止』でしょ。それから『クレーム対応』、『返金』、『謝罪』、『裁判』ときて、あとは――」
五本の指が折れた。今度はその指を一本ずつ立てながら
「――多額の『賠償』、遺族からの『恨み』が残って『悪評』が出回り、メディアで『炎上』して最終的には『廃業』……って感じ?」と、ひらいた五本の指をこちらに見せつけ、言葉の終わりに
「ざんねん。倍満どまりね」と付け加えた。
やっぱり、聞くんじゃなかった――後悔の念がとめどなく押し寄せる。
佐和子が淡々と列挙した言葉は、どれも耳を塞ぎたくなるようなものばかりだったが、中でも「遺族からの『恨み』」というのが、とりわけ胸に突き刺さった。
事実をありのままに知らされたご家族は、お骨と対面させられて何を思うのだろう。呆然と悲しみに暮れるか。あるいは慟哭とともに罵声の言葉をこちらに浴びせてくるか。もしくは、その両方かも。
いずれにせよ、この後の葬儀は阿鼻叫喚の修羅場となるだろう。
考えれば考えるほどに悲惨な想像が頭をめぐる。やがて心のざわめきは震えとなって手や足にあらわれはじめていた。
「 マコ、うるさい。貧乏ゆすりやめて」
ぴしゃりと佐和子に窘められた。サイドの長い黒髪から彼女が憮然とした横顔を覗かせる。
「あ……す、すみません」足の震えを手で押さえつけるように圧し留めて言う「色々と考えだしたら止まらなくなっちゃって。で、でも――」
音喜多さんは、どうしてそう平気でいられるんですか――と、そう言いかけて誠人は嚥下した。
平気なわけがない。なにせ「遺体の取り違え」だ。商品の発注ミスや接客態度へのクレームなんかとはわけがちがう。館長である彼女も当然、自分以上の責任を負うことになるだろう。平気でいられるわけがないじゃないか。
それに、よくよく彼女を観察してみると、さっきからテレビの合間に、ちらちらとこちらの様子をせわしなく伺うような素振りも見せはじめているのがわかる。
――不安、なんだろう。
ああやって飄々としてるように見せかけて、その実は虚勢を張ってみせているだけに違いない。きっと内心、彼女も必死に気を紛らわせているのかもしれないな――
そのように思い直し、誠人は黙って佐和子の視線の先を追った。
テレビの画面の向こうでは、下降するエレベーターの中で女戦士が粛々と決戦の準備を整えていた。
「――ひとつ、言っておくけど」
やがて佐和子が、ぽつりと一言。あまりに自然に零れ出た言葉に、最初はそれが自分に向けられているものとは気付かなかった。
少しの間が空いたのち、反応を疎かにされたことを咎めるように、彼女の椅子が軋みを立ててくるりと回る。
不意をつかれる形で目が合った。
「田中さんはね……」
彼女は心の内を無邪気に覗き見るような、あるいはこちらの真価を問うているかのような、そんな不敵な笑みを浮かべていた。
可憐というよりは、ぞっとするような不吉なまでの美しさを湛えている。
「な、なんですか……急に」
なにごとかと身構えていると、彼女がぐっと身を乗り出して距離をつめてくる。
つづいてその口から出た言葉に、誠人は大きく意表をつかれた。
――ひとつ言っておくけど、田中さんはね……
「……まだ火葬なんかされてないわよ」
事も無げに言い放たれた言葉の意味を、誠人はすぐには理解できなかった。
(つづく)
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