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第19話 安寧
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朝陽に照らされるキッチン中に、音程の外れた鼻歌が機嫌良く響く。
ウサギのワンポイントが入ったエプロンを纏い、まな板の前に立つのは家主より先に起床した哀華。 彼女がリズム良く野菜を刻む都度に、腰まで届く漆黒の髪が揺れる。
「野菜、卵、ベーコンにチーズ。 味噌は切らしてるみたいだけどコンソメがあれば~っと」
火にかけられたベーコンから溢れた油が卵を焼き、香ばしい匂いが窓から入り込んだそよ風に乗ってリビングまで流れていく。 すると、その匂いに釣られたかのようにゆっくりとリビングのドアが開き、寝ぼけまなこの家主がぼんやりと顔を出した。
「おはよう雪兎、身支度出来て偉いじゃない。 お姉さんとっても嬉しいわよ」
「不潔だからシャワーを浴びるまで近寄るな。 なんてキツイ書き置きされてたら誰だって素直にそうしますって……」
昨日までの深刻な態度はどこへやら。
何度も欠伸を繰り返しながら雪兎はのろのろとイスに座ると、配膳途中の机にそのままつっぷす。 まともな睡眠を暫くの間行っていなかった故か、雪兎の表情は眠気の余りにふやけきっている。
「んもうっ、休みだからってそんなにだらけないの。
ほら、スープはもう出来てるから冷めないうちに飲んじゃいなさい」
「んー……」
一通り調理を終え、テキパキと片付けを済ませていく哀華に言われるがまま、雪兎は目の前に配膳された食器を手に取り、口を付ける。
だがその瞬間、銜えたお椀の縁が景気良く爆発し、雪兎の上唇と額と前髪がものの見事に焦げた。
「んがあああああ!?」
間抜けな悲鳴を上げながら椅子から転がり落ち、強かに頭を床に打ち付ける雪兎。
無論そのまま無様を晒し続ける訳も無く、アクロバットな動作で素早く起き上がると、未だ煙が吹きあがるお椀を机に叩き付け怒鳴り散らす。
「カルマァ! 僕の言いたいことは分かっているだろう! さっさと出てこい!」
こんな馬鹿げた事を嬉々としてやる奴は一人しかいないと、雪兎は箪笥やら冷蔵庫の中やらカルマが化けて潜んでそうな場所を大人げなく徹底して捜索する。
本気でかくれんぼをやって、雪兎がカルマに勝てる見込みなどあるはずないのだが。
それをよく知っている哀華は呆れたように小さく息を吐くと、洗い物をしていた手を一時止め、雪兎に向かって手招きをする。
「まったく、そんな所探して居る訳ないじゃない。 それにカルマちゃんならさっきからここに……」
「居るんですか? 居るんですね? よおし覚悟しろよこのポンコツ!」
生意気なお転婆を捕獲すべく、雪兎は静かに且つ素早く大胆にリビングを縦断し、キッチンに飛び込んだ。 お転婆娘の尻をいざ引っ叩かんと、姿勢を低く構えながら哀華が示した所の付近に降り立つ雪兎。
だが、そこにいたカルマの姿を見た瞬間、雪兎は抱いた怒りを思わず霧散させ立ち尽くす。
そこに居たのはカルマでは無く、カルマ“達”
コックのコスプレをし、手のひらサイズにまで小型化した挙げ句、両手で数えられない数にまで増殖したカルマの大群だった。
「何じゃこりゃ……」
『何って見れば分かるでしょう? 私はカルマです』
『いいえ私がカルマです』
『私もカルマです』
『私だってカルマです』
『たぶん私もカルマです』
「いやいやいや、そういう事を聞きたいんじゃないんだよ僕は」
こんな変な機能が付いてたなんて初耳だと雪兎が訝しげな目つきでカルマ達を眺める中、当のチビ達は一切気にせず適当に返事をすると、家事の手伝いを続行した。哀華から渡された食器を各々おぼつかない足取りで乾燥台の上へと持っていく。
「貴女達、無理しなくても気持ちだけで十分なのよ?」
陶器のお椀を担いでいた最後列のチビカルマの足元に手を添え、その道程をさりげなくアシストしながら哀華は微笑む。
すると仕事を終えて手持ち無沙汰になったチビ達はだっこや撫で撫でをねだり、世話しなく飛び跳ねながら哀華の周囲を回り始めた。
「こらお前等、甘えるのは構わんがあまり哀華さんを困らせるんじゃない」
あらあらと対応に困っていた哀華からチビカルマ達を何とか引き剥がし、雪兎は間に割って入ると、行儀良く横一列に並んだチビAからZまでを端から端まで睨みながら低いトーンで問う。
「質問を変えよう。 今この場で一番強い権限を持ってるお転婆はどいつだ?」
正直に答えれば他の連中のお仕置きは勘弁してやろうと、雪兎が寛大さをアピールしつつチビッ子達の裏切りを誘うと、チビカルマ達は示し合わせたかのようにある一点を一斉に指し示す。
その瞬間、雪兎は先ほど爆発したお椀を掴み、フローリングに向かって思い切り叩き付けた。
普通なら木っ端微塵になっても不思議ではない勢いで叩き付けられた食器は、多大な衝撃を受けても割れることなく高くバウンドすると、天井付近で浮いたまま制止する。
最早小賢しく立ち回る必要は無くなったと言わんばかりに。
「ふざけんな馬鹿野郎この野郎! やっぱりお前の仕業じゃないか!」
『ふーんだ、貴方が無駄に鈍いのが悪いんですよ』
「何だとテメェ!」
自分の過失を棚に上げて生意気に嘯くカルマの態度に業を煮やしたのか、雪兎はレーザーポインターの軌跡を追う猫の如くリビング中を跳ね回る。
食器相手に執拗にプロレスを挑む様はこの上無く滑稽であるも、普段から二人のやり取りを目にしている哀華に取ってこの程度慣れたことで、彼女は席に座ると静かに手を合わせた。
「貴方達、遊ぶのは後にしなさいな。 今はご飯の時間でしょ?」
しとやかにフレンチトーストを齧り、優雅に紅茶を啜る哀華に軽く窘められると、雪兎はカルマの追跡を渋々中断し、おとなしく席に着く。
「うん、それで良いのよ。 貴方はあの子と違って大人なんだから我慢しなきゃ」
「その言い分にはまったく釈然としませんがね!」
いい具合に焼けた半熟のベーコンエッグ、肉だんごとたっぷりの野菜が入ったコンソメスープ、そしてどんぶり一杯の麦飯と結構な量のある朝食を雪兎は難なく瞬く間に平らげると、砂糖がたっぷり入った食後のコーヒーを呑みつつ遺憾の念を示す。
先に喧嘩をふっかけたのはあっちだというのに全く不公平だと愚痴を零すも、子供のように拗ねる雪兎を見る事が楽しくて仕方が無いのか哀華はただ微笑むばかり。一欠の悪意も宿さない瑠璃色の瞳の中に、仏頂面をした雪兎の姿が映る。
「それでね雪兎、今回の休暇だけど何か予定はある?」
「予定も何も、旨いもの食べて運動して風呂入っていい気分で寝るだけですが」
「だったら一つお願いがあるの。 旧都での支援事業を手伝ってくれないかしら」
「それは別に構わないですけど何故です? 子供達の相手なら僕よりもずっと慣れてる方がいるはずでしょう?」
確かにそれ関連の単位は取得しているものの、自分が執る教鞭など本職に比べればあまりに稚拙だと、雪兎は疑問を呈する。
すると哀華は少しばかり俯き、今まで朗らかだった表情を少しばかり曇らせた。
「悲しいけど、世の中には子供に賢くなって貰うと困る大人が大勢いる。
だから、子供達の未来を守るために貴方の力を借りたいの。
最近疲れているなかで申し訳ないけど、お願い」
駄目かしらと、哀華は固く両手を合わせて頼み込む。
まるで名ばかりで役立たずの神にでも縋るかのように。
『うわっ卑し……』
「任せて下さい!必ずや期待に応えて見せます!見せますとも!」
余計なことを言いつつ不用意に接近してきた食器形態のカルマを、雪兎は一仕事終えて憩うチビカルマ達が集うソファの上に目掛けてはたき飛ばし黙らせる。
そうして再び哀華と向き合うと、固く握られた両手を解きほぐしながら頷いた。
「誰も犠牲になんかさせやしません。 たとえ僕の命を賭してでも」
その為に僕は生きているのだと、力強く哀華の両手を包むように握りながら雪兎は言い切る。今度こそは誰も死なせはしないと誓うように。
だが哀華はその手を静かに払うと、雪兎の顔に手を添えながら言い聞かせた。
「ありがとう雪兎。でもお願いだからそんなことは二度と言わないで。
貴方が死んでも困ったり悲しんだりする人だっているんだから」
「哀華さん……」
彼女の優しい言葉に思わず感じ入り、無言になって愛しい人を見つめる雪兎。
それに対して哀華も何も言えなくなってしまったのか、僅かに頬を染めながら黙って雪兎の燃えるような赤い瞳をまじまじと見つめ返す。
このまま放っておけばそれだけで一日潰れると言っても過言ではない、二人の熱い眼差しの交差。
しかしそれは白け切った咳払いが響くと共に途切れる。
ほぼ同じタイミングで視線を逸らした二人が見たのは、ソファの上で腰に両手を当てて、ムスッとした表情で仁王立ちしていたカルマの姿。
先ほどまで周囲にいたチビ達を格納し終え、元のサイズに戻っていたチビッ子は終わりの無いのろけを見せつけられていい加減辟易してきたのか、退屈気に口を開くと共に全身から端子を射出する。
『もういいですか?だったらさっさと行きますよ。時間は待ってくれないんです』
「は? おい馬鹿ちょっと待てお前まさか……」
カルマが何をしようとしているのか察した雪兎は咄嗟に止めようとするも、カルマは一切無視してそのままドラグリヲの生成を強行し、コックピット内へ雪兎と哀華を引き込んだ。
勿論、家屋の中でそんなことをしようものならどうなるかなど知れたことで、ドラグリヲが姿を現すと共に家を構成していた木材が飛び散り、屋根が景気良く吹き飛ぶ。
そして上空高く飛び上がった屋根はドラグリヲが空を仰ぎつつ解き放った咆哮の余波を受けて木端微塵に消し飛んだ。
『どうです?これなら交通費もかからず安上がりに済みますよ』
「馬ッ鹿野郎! また考え無しに家をぶっ壊しやがって!
おまけに緊急時でもないのに街中でドラグリヲを引っ張り出すんじゃない!」
「どうしてですか?これなら往復に留まらず列島縦断だって軽く出来ますよ?」
「出来る出来ないとかそういう話じゃないんだよ」
ご丁寧にコックピット内に新たに生成されていたゲスト用シートに哀華が座ったことを確認し、雪兎は機体と己の神経を同調させ始めるが、そうしているうちにも普段目にすることもない機動兵器を生で見物しようと、騒ぎを聞きつけた野次馬達が続々と集まってくる。
「ほら見ろ、こうやって足元まで近づいて来る命知らずがいるからイヤなんだ」
カメラを片手に騒ぐギャラリーを適当にあしらいつつ、苦み走った表情を浮かべて溜め息を吐く雪兎。 その感情に呼応してかドラグリヲは勝手に大欠伸をすると、犬猫の類のように後ろ足で身体を掻いて見せた。
『いつの世だって馬鹿はいるんです、諦めて下さいな。
そんなことよりお二方準備は宜しいですか? こちらはいつでも発進出来ますよ』
ホログラム化したカルマが雪兎の背後を覗き込みつつ問うと、雪兎は己の身体が異常に強靭になっていることを思い出し、いつもの感覚での乱暴な離陸を中断する。
「あぁっと悪いなカルマ、面倒をかける」
『お気遣いなく。ファーストクラスよりも快適な空の旅を約束しますとも』
苦笑いしながら頬を掻く雪兎に笑顔で答えつつ、カルマはモニターの中に消えると、初めてドラグリヲに乗り、強張った表情をした哀華を励ますよう、すぐ脇のサブモニターに顔を出して彼女の笑顔を誘う。
そして哀華の緊張が少し解れた所で、カルマは出力を一段階落としつつドラグリヲを離陸させた。
発着台から切り離された飛行船の如く、ゆったりと上昇していくドラグリヲ。
無骨な鋼の翼を大きく展開し、フォース・メンブレンで形成された翼膜をはためかせる暴力の化身は、ギャラリーを一瞥した後、隔壁の向こう側へと消えた。
滅多に見られないものを拝み、大袈裟でけたたましい歓声を上げる人々。
運が良かったと、何だかよく分からないけど凄かったと彼らは口々に囃したてる。
しかしその中に二つだけ、場違いな雰囲気を醸し出す影があった。
片や憎しみに身を焦がし、拳を奮わせる切れ長の目をした女。
片や絶えず不気味な笑みを浮かべた、小汚い乞食染みた男。
殺意と嘲り。 方向性こそ違えど雪兎に対する明確なる敵意を宿す影法師。
それらは空に残った焔の軌跡を暫しの間見つめると、確かな足取りで共に人ごみの中へと消えていく。
泥濘の如く執拗に絡み付き、拭い去られることの無い悪意。
それは、標的の知らぬ間にゆっくりと胎動を始めていた。
ウサギのワンポイントが入ったエプロンを纏い、まな板の前に立つのは家主より先に起床した哀華。 彼女がリズム良く野菜を刻む都度に、腰まで届く漆黒の髪が揺れる。
「野菜、卵、ベーコンにチーズ。 味噌は切らしてるみたいだけどコンソメがあれば~っと」
火にかけられたベーコンから溢れた油が卵を焼き、香ばしい匂いが窓から入り込んだそよ風に乗ってリビングまで流れていく。 すると、その匂いに釣られたかのようにゆっくりとリビングのドアが開き、寝ぼけまなこの家主がぼんやりと顔を出した。
「おはよう雪兎、身支度出来て偉いじゃない。 お姉さんとっても嬉しいわよ」
「不潔だからシャワーを浴びるまで近寄るな。 なんてキツイ書き置きされてたら誰だって素直にそうしますって……」
昨日までの深刻な態度はどこへやら。
何度も欠伸を繰り返しながら雪兎はのろのろとイスに座ると、配膳途中の机にそのままつっぷす。 まともな睡眠を暫くの間行っていなかった故か、雪兎の表情は眠気の余りにふやけきっている。
「んもうっ、休みだからってそんなにだらけないの。
ほら、スープはもう出来てるから冷めないうちに飲んじゃいなさい」
「んー……」
一通り調理を終え、テキパキと片付けを済ませていく哀華に言われるがまま、雪兎は目の前に配膳された食器を手に取り、口を付ける。
だがその瞬間、銜えたお椀の縁が景気良く爆発し、雪兎の上唇と額と前髪がものの見事に焦げた。
「んがあああああ!?」
間抜けな悲鳴を上げながら椅子から転がり落ち、強かに頭を床に打ち付ける雪兎。
無論そのまま無様を晒し続ける訳も無く、アクロバットな動作で素早く起き上がると、未だ煙が吹きあがるお椀を机に叩き付け怒鳴り散らす。
「カルマァ! 僕の言いたいことは分かっているだろう! さっさと出てこい!」
こんな馬鹿げた事を嬉々としてやる奴は一人しかいないと、雪兎は箪笥やら冷蔵庫の中やらカルマが化けて潜んでそうな場所を大人げなく徹底して捜索する。
本気でかくれんぼをやって、雪兎がカルマに勝てる見込みなどあるはずないのだが。
それをよく知っている哀華は呆れたように小さく息を吐くと、洗い物をしていた手を一時止め、雪兎に向かって手招きをする。
「まったく、そんな所探して居る訳ないじゃない。 それにカルマちゃんならさっきからここに……」
「居るんですか? 居るんですね? よおし覚悟しろよこのポンコツ!」
生意気なお転婆を捕獲すべく、雪兎は静かに且つ素早く大胆にリビングを縦断し、キッチンに飛び込んだ。 お転婆娘の尻をいざ引っ叩かんと、姿勢を低く構えながら哀華が示した所の付近に降り立つ雪兎。
だが、そこにいたカルマの姿を見た瞬間、雪兎は抱いた怒りを思わず霧散させ立ち尽くす。
そこに居たのはカルマでは無く、カルマ“達”
コックのコスプレをし、手のひらサイズにまで小型化した挙げ句、両手で数えられない数にまで増殖したカルマの大群だった。
「何じゃこりゃ……」
『何って見れば分かるでしょう? 私はカルマです』
『いいえ私がカルマです』
『私もカルマです』
『私だってカルマです』
『たぶん私もカルマです』
「いやいやいや、そういう事を聞きたいんじゃないんだよ僕は」
こんな変な機能が付いてたなんて初耳だと雪兎が訝しげな目つきでカルマ達を眺める中、当のチビ達は一切気にせず適当に返事をすると、家事の手伝いを続行した。哀華から渡された食器を各々おぼつかない足取りで乾燥台の上へと持っていく。
「貴女達、無理しなくても気持ちだけで十分なのよ?」
陶器のお椀を担いでいた最後列のチビカルマの足元に手を添え、その道程をさりげなくアシストしながら哀華は微笑む。
すると仕事を終えて手持ち無沙汰になったチビ達はだっこや撫で撫でをねだり、世話しなく飛び跳ねながら哀華の周囲を回り始めた。
「こらお前等、甘えるのは構わんがあまり哀華さんを困らせるんじゃない」
あらあらと対応に困っていた哀華からチビカルマ達を何とか引き剥がし、雪兎は間に割って入ると、行儀良く横一列に並んだチビAからZまでを端から端まで睨みながら低いトーンで問う。
「質問を変えよう。 今この場で一番強い権限を持ってるお転婆はどいつだ?」
正直に答えれば他の連中のお仕置きは勘弁してやろうと、雪兎が寛大さをアピールしつつチビッ子達の裏切りを誘うと、チビカルマ達は示し合わせたかのようにある一点を一斉に指し示す。
その瞬間、雪兎は先ほど爆発したお椀を掴み、フローリングに向かって思い切り叩き付けた。
普通なら木っ端微塵になっても不思議ではない勢いで叩き付けられた食器は、多大な衝撃を受けても割れることなく高くバウンドすると、天井付近で浮いたまま制止する。
最早小賢しく立ち回る必要は無くなったと言わんばかりに。
「ふざけんな馬鹿野郎この野郎! やっぱりお前の仕業じゃないか!」
『ふーんだ、貴方が無駄に鈍いのが悪いんですよ』
「何だとテメェ!」
自分の過失を棚に上げて生意気に嘯くカルマの態度に業を煮やしたのか、雪兎はレーザーポインターの軌跡を追う猫の如くリビング中を跳ね回る。
食器相手に執拗にプロレスを挑む様はこの上無く滑稽であるも、普段から二人のやり取りを目にしている哀華に取ってこの程度慣れたことで、彼女は席に座ると静かに手を合わせた。
「貴方達、遊ぶのは後にしなさいな。 今はご飯の時間でしょ?」
しとやかにフレンチトーストを齧り、優雅に紅茶を啜る哀華に軽く窘められると、雪兎はカルマの追跡を渋々中断し、おとなしく席に着く。
「うん、それで良いのよ。 貴方はあの子と違って大人なんだから我慢しなきゃ」
「その言い分にはまったく釈然としませんがね!」
いい具合に焼けた半熟のベーコンエッグ、肉だんごとたっぷりの野菜が入ったコンソメスープ、そしてどんぶり一杯の麦飯と結構な量のある朝食を雪兎は難なく瞬く間に平らげると、砂糖がたっぷり入った食後のコーヒーを呑みつつ遺憾の念を示す。
先に喧嘩をふっかけたのはあっちだというのに全く不公平だと愚痴を零すも、子供のように拗ねる雪兎を見る事が楽しくて仕方が無いのか哀華はただ微笑むばかり。一欠の悪意も宿さない瑠璃色の瞳の中に、仏頂面をした雪兎の姿が映る。
「それでね雪兎、今回の休暇だけど何か予定はある?」
「予定も何も、旨いもの食べて運動して風呂入っていい気分で寝るだけですが」
「だったら一つお願いがあるの。 旧都での支援事業を手伝ってくれないかしら」
「それは別に構わないですけど何故です? 子供達の相手なら僕よりもずっと慣れてる方がいるはずでしょう?」
確かにそれ関連の単位は取得しているものの、自分が執る教鞭など本職に比べればあまりに稚拙だと、雪兎は疑問を呈する。
すると哀華は少しばかり俯き、今まで朗らかだった表情を少しばかり曇らせた。
「悲しいけど、世の中には子供に賢くなって貰うと困る大人が大勢いる。
だから、子供達の未来を守るために貴方の力を借りたいの。
最近疲れているなかで申し訳ないけど、お願い」
駄目かしらと、哀華は固く両手を合わせて頼み込む。
まるで名ばかりで役立たずの神にでも縋るかのように。
『うわっ卑し……』
「任せて下さい!必ずや期待に応えて見せます!見せますとも!」
余計なことを言いつつ不用意に接近してきた食器形態のカルマを、雪兎は一仕事終えて憩うチビカルマ達が集うソファの上に目掛けてはたき飛ばし黙らせる。
そうして再び哀華と向き合うと、固く握られた両手を解きほぐしながら頷いた。
「誰も犠牲になんかさせやしません。 たとえ僕の命を賭してでも」
その為に僕は生きているのだと、力強く哀華の両手を包むように握りながら雪兎は言い切る。今度こそは誰も死なせはしないと誓うように。
だが哀華はその手を静かに払うと、雪兎の顔に手を添えながら言い聞かせた。
「ありがとう雪兎。でもお願いだからそんなことは二度と言わないで。
貴方が死んでも困ったり悲しんだりする人だっているんだから」
「哀華さん……」
彼女の優しい言葉に思わず感じ入り、無言になって愛しい人を見つめる雪兎。
それに対して哀華も何も言えなくなってしまったのか、僅かに頬を染めながら黙って雪兎の燃えるような赤い瞳をまじまじと見つめ返す。
このまま放っておけばそれだけで一日潰れると言っても過言ではない、二人の熱い眼差しの交差。
しかしそれは白け切った咳払いが響くと共に途切れる。
ほぼ同じタイミングで視線を逸らした二人が見たのは、ソファの上で腰に両手を当てて、ムスッとした表情で仁王立ちしていたカルマの姿。
先ほどまで周囲にいたチビ達を格納し終え、元のサイズに戻っていたチビッ子は終わりの無いのろけを見せつけられていい加減辟易してきたのか、退屈気に口を開くと共に全身から端子を射出する。
『もういいですか?だったらさっさと行きますよ。時間は待ってくれないんです』
「は? おい馬鹿ちょっと待てお前まさか……」
カルマが何をしようとしているのか察した雪兎は咄嗟に止めようとするも、カルマは一切無視してそのままドラグリヲの生成を強行し、コックピット内へ雪兎と哀華を引き込んだ。
勿論、家屋の中でそんなことをしようものならどうなるかなど知れたことで、ドラグリヲが姿を現すと共に家を構成していた木材が飛び散り、屋根が景気良く吹き飛ぶ。
そして上空高く飛び上がった屋根はドラグリヲが空を仰ぎつつ解き放った咆哮の余波を受けて木端微塵に消し飛んだ。
『どうです?これなら交通費もかからず安上がりに済みますよ』
「馬ッ鹿野郎! また考え無しに家をぶっ壊しやがって!
おまけに緊急時でもないのに街中でドラグリヲを引っ張り出すんじゃない!」
「どうしてですか?これなら往復に留まらず列島縦断だって軽く出来ますよ?」
「出来る出来ないとかそういう話じゃないんだよ」
ご丁寧にコックピット内に新たに生成されていたゲスト用シートに哀華が座ったことを確認し、雪兎は機体と己の神経を同調させ始めるが、そうしているうちにも普段目にすることもない機動兵器を生で見物しようと、騒ぎを聞きつけた野次馬達が続々と集まってくる。
「ほら見ろ、こうやって足元まで近づいて来る命知らずがいるからイヤなんだ」
カメラを片手に騒ぐギャラリーを適当にあしらいつつ、苦み走った表情を浮かべて溜め息を吐く雪兎。 その感情に呼応してかドラグリヲは勝手に大欠伸をすると、犬猫の類のように後ろ足で身体を掻いて見せた。
『いつの世だって馬鹿はいるんです、諦めて下さいな。
そんなことよりお二方準備は宜しいですか? こちらはいつでも発進出来ますよ』
ホログラム化したカルマが雪兎の背後を覗き込みつつ問うと、雪兎は己の身体が異常に強靭になっていることを思い出し、いつもの感覚での乱暴な離陸を中断する。
「あぁっと悪いなカルマ、面倒をかける」
『お気遣いなく。ファーストクラスよりも快適な空の旅を約束しますとも』
苦笑いしながら頬を掻く雪兎に笑顔で答えつつ、カルマはモニターの中に消えると、初めてドラグリヲに乗り、強張った表情をした哀華を励ますよう、すぐ脇のサブモニターに顔を出して彼女の笑顔を誘う。
そして哀華の緊張が少し解れた所で、カルマは出力を一段階落としつつドラグリヲを離陸させた。
発着台から切り離された飛行船の如く、ゆったりと上昇していくドラグリヲ。
無骨な鋼の翼を大きく展開し、フォース・メンブレンで形成された翼膜をはためかせる暴力の化身は、ギャラリーを一瞥した後、隔壁の向こう側へと消えた。
滅多に見られないものを拝み、大袈裟でけたたましい歓声を上げる人々。
運が良かったと、何だかよく分からないけど凄かったと彼らは口々に囃したてる。
しかしその中に二つだけ、場違いな雰囲気を醸し出す影があった。
片や憎しみに身を焦がし、拳を奮わせる切れ長の目をした女。
片や絶えず不気味な笑みを浮かべた、小汚い乞食染みた男。
殺意と嘲り。 方向性こそ違えど雪兎に対する明確なる敵意を宿す影法師。
それらは空に残った焔の軌跡を暫しの間見つめると、確かな足取りで共に人ごみの中へと消えていく。
泥濘の如く執拗に絡み付き、拭い去られることの無い悪意。
それは、標的の知らぬ間にゆっくりと胎動を始めていた。
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柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日――
東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。
中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。
彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。
無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。
政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。
「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」
ただ、一人を除いて――
これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、
たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。
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