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 夕飯を食べてちょっとくらいは事情を聞こうと思ったのに、と加奈子は傍らで眠る裕貴を見つめて苦笑した。
 
 「…そうはいっても、おそらくここまでつれて来てくれたのは、コイツだろうしなあ」
 
 人の家だというのに、先程哀れに思って渡した枕を素早く分捕られ、我が家のように大の字になって眠る幼馴染には苦笑しか出ない。よほど疲れていたのだということはそういうことから嫌というほど伝わるが…気絶するように眠ったし、その前に発狂するようにまくし立てていたときは、恐ろしいほどの気迫だった。
 
 それにしても、下着をみただとか襲わなかったからほめろだとか、そういう不穏な話はしっかり説明してほしかった。
 
 じっくり話を聞こうとせっかくコーヒー二人分用意したのに…
 
 せっかくだからと、加奈子は裕貴の寝顔をつまみにゆっくりとコーヒーの香りを愉しんだ。
 
 高級ブランドを愛好するわけではない。安物にはやすものなりのよさがあり、愉しみ方があるのだというのが彼女の持論だ。
 
 「限りある人生だから、ね…」
 
 そして、そんな独りの夜は、彼女の癖が出てくる。
 
 「…つっ…」
 
 加奈子はふと訪れたこめかみの痛みに、眉をひそめた。独りでいることを好むのだと周りにはよく誤解されるのだが、加奈子は本来、一人を嫌う人間だった。
 
 「あ~…こんな日は、良くないね…」
 
 机に肩肘をつき、頭を抱え込む。昔から、長い間、共存して来た。いきなり、何も知らない空間に放り込まれ、知らない人間に家族だと言われ。沢山の人間に囲まれて、混乱したまま、何とか外側を整えて生きてきた。頼るものはなく、誰を信じてよいかわからないまま。自分は誰なのか、説明の不十分なまま。この自分でよいのか自問自答し続け、最終的に人との接触を避けるためにと人を寄せ付けない無愛想な人間でいることを選んだ。
 
 自分は誰なんだ。何のために生まれたのか。それに答えるものは、おそらく自分の身の内に在るものの、常に嘆き悲しむその存在にそれを問うことはためらわれた。誰かに習うでもなく、彼女は自分で知る方法を遠まわしに会得していった。沢山の知識を身につけ、周りの発言からその真意を汲み取り。自分を取り巻く状況を推察し、それに応じて対応を変え、検証した。
 
 その結果、どうやら自分は特定の人間には大事に思われているものの、多少範囲を広げると疎ましく思われている人間のほうが多いという結論に至る。そんな人間に自分の弱みを握られて居たくはないので、厳重に注意して渡り歩くすべを身につけた。
 
 必死だった。そんな努力を続けていくにつれ、時々体の不調が出るようになった。頭痛や胃痛、時には耳鳴り、動悸。食欲不振も時折訪れたが、様々な理由をつけて体を休めて、不審に思われないようにやり過ごした。自分の家族には、どうも知られているような気もしたが、自分の意思を尊重してもらえているようだった。
 
 長年『そうであると楽な自分』を演じ続けているけれど。
 
 本当は、『   』なんだ。
 
 本当は、もう、疲れているんだ。だから、交代、してほしい。
 
 ねぇ、本当の『佐々木 加奈子』さん。  私は、ただの、『    』だから。
 
 あなたのふりは、そろそろ、げんかい、よ…
 
 夜のたびに行う呼びかけ。それは彼女にとって苦痛。今でも、自分は正統な『加奈子』ではないと思うから。
 
 そうではあるけれど、今まで必死に生きてきた『加奈子』を否定することは、身を切り裂くような悲痛を伴うもので。
 
 『加奈子』の精神は疲弊していた。
 
 だれか、だれか。
 
 わたしを、みとめて。わたしは、『みがわり』じゃない。
 
 加奈子の心は自分自身をかきむしる。流れるはずのない血液が、加奈子の心の中ではいつでも流れ続けていた。
 
 ああ。助けて。誰か。加奈子の精神の中で加奈子自身が自らを追い込んで蹲ったとき、ふと懐かしい声が彼女の中で響き渡った。
 
 『お前はお前の好きにすればいいんだよ』
 
 それは決して大きな声ではなかったけれど、彼女の心にしっかりと届いていた。
 
 『俺は、お前に振り回されるのは嫌いじゃないぞ』
 
 …ああ、ああ。
 
 ふらふらと彼女は立ち上がる。真っ暗だった周りの暗闇が、少しずつ差し込む光で薄くなっていく。
 
 「…わたしは、わたしでいても、きらわれないの…?」
 
 どうか、きらわないで。そのさきを、教えて。
 
 彼女は目を閉じ、差し込む光を体全体で浴びる。
 
 心地良い。この人のそばは、――ほっとする。
 
 願わくは、どうか――ただの私を、受け入れて。
 
 そう願った加奈子の意識は、そのまま白く塗りつぶされた。
 
 
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