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重厚な扉が閉められ、店員二人が去ったであろう時間を計ってから、二人はゆっくりと大きく息を吐いた。
「なんか良くわからないけど、疲れたわ…」
「そうだな…なんでこうなったんだろう…」
もともと金欠だった裕貴は、昼は気軽に、それこそファミレスよりのイタリアンあたりで軽く、と思っていたのだ。
こんな見た目からしてお高そうな店でやりたかったわけではない。シェフはサービスしますよなんて言ってくれてはいるけれど、それをすべて鵜呑みにするほど馬鹿ではないつもりだった。本当に、いろいろ心配だった。…半分くらいは、お財布事情的な意味で。
加奈子は別の方面でびっくりしていた。控えめな老婦人である友人の、顔の広さを目の当たりにしたからだ。
かの女性は、この界隈では実は有名人だった。
戦後、高度成長期。女性も社会に出て働くようになってきた時代、まだまだ託児施設も整わなかった頃。
小さな文具店の一角で、店主の奥さんが近所の共働きの子供たちを、預かるようになった。
『子無し』の奥さんの寂しさからだろう、などとはじめのうちはさげすまれたりしたようだったが、彼女は常に誠実であったし、子供たちも彼女になついた。何より、子供たちの母親が、千代の人柄にほれ込んだのだ。
常に微笑を浮かべ、穏やか。最初彼女に出会った人はそう評する。しかし、千代はただ微笑むだけの女性ではなかった。千代の生きた時代、彼女の生まれ育った地域は、とても男尊女卑の思想の根強い地域だった。その中で彼女は、強く強く生き抜いた。
口汚く罵るものには裏で制裁を与えた。力でねじ伏せようというものには力で返した。
「力には力を、知恵には知恵を。同じ力で、圧倒的にねじ伏せれば、人の矜持などあっという間に折れるものです」
友人としてお茶会を愉しむ際、昔を懐かしみながら、にっこりと微笑みつつ緑茶を飲む友人を見て、加奈子は『絶対的強者』という言葉の意味を深く理解したという。
そんな彼女は、商店街でも圧倒的人気者であった。
「『商店街のおっかさん』なんて。まぁ、子無しの私にはおこがましいわ…」
ねぇ?と隣で微笑む店主に笑いかけつつ、千代は笑う。彼女は、仕事で忙しい商店街の子供たちに、勉強を教えたり、一緒に遊んだり、時には夕飯の世話をしたり、親が戻れないときには自宅で寝かしつけたりもした。親たちとの連絡もきちんと取り、親の領分に出過ぎないよう配慮もしながら。
そうやって育って巣立っていった子供たちの一人が、時折商店街に戻ってくる。そんな一人が、この店の店主だったりするわけなのだが、加奈子たちは当時そこまで知らされていなかった。
「とにかく、『千代ちゃんスゲー』」
「…お前、まさかそのとおりに伝えたりしていないだろうな?」
裕貴は目を瞠る。ほわほわして、優しそうな老婦人が、まさかそんなネットスラングを理解するとは思えなかったからだったが、加奈子の間延びした返事で脱力した。
「だって、『冥土の土産に教えて頂戴?』なんて高度な老人ギャグかまされて、断れます?」
「…無理だな…」
「千代ちゃん意外とメールだと絵文字満載だし、人格ちょっと変わってるのよ…この間ホモォ…って絵文字来たわ」
「ガチじゃねーか!!」
彼女あたまいいからねー、と加奈子は笑う。
「しっかし、この煮込みおいしい。家庭で真似できませんかね?」
雑談しながら、加奈子はきっちりとランチプレートを制覇して行っている。トマトの甘酸っぱい風味に、ほろほろに煮とけた牛肉の旨み、一緒に煮込まれた野菜の甘みが加わりなんとも絶妙だ。残すのもったいないね、と加奈子はバゲットで器のそこをさらっている。
「俺はパスタにこの緑のソースつけたら良いと思うけど」
裕貴はアンチョビソースに目がないようだ。
「おしゃれ素材だよねアンチョビって~」
加奈子は笑う。
「アンタは、得意料理が肉じゃがの子と、パスタの子ならどっちがいい?」
「んあ?」
「よくある話じゃん!家庭料理とおしゃれ料理のたとえじゃないの」
フォークを上に立てて加奈子は意地悪く笑っている。サラダにのっていたアーモンドダイスが突き刺さった状態だったので、無作法を裕貴がとがめると、加奈子は苦笑いしながらアーモンドを口に入れた。
「そりゃあなぁ、何でも良いよ」
「ほうほう?」
パスタを平らげ、なんとも心残りなようでアンチョビソースをスプーンでこそぎ落としながら、裕貴は加奈子の目を正面から見る。
「作れるなら。俺も作るし、いまどき相手が選び放題なんてわけじゃないだろうに」
「わりとそういうところは醒めてんのね…」
「いまどき料理できない男は男じゃないって、兄貴が言うんだよなあ」
「確かに、できないと困るだろうねえ…」
ま、こんな店レベルでできなくてもいいけど、と加奈子はパスタをくるくるとフォークに巻きつける。
「アンタ、女性の好みだけ、変なのよねぇ…」
「しみじみ言うな!いいだろ、夢みたいなもんなんだからさ」
おまえは小姑かよ、と裕貴は最初から出されていた紅茶を一口飲んで、いすに深く腰掛けた。
「自分でも、馬鹿だとは思っている」
「ふーん」
加奈子はパスタのベーコンをフォークで拾いつつ、相槌を打つ。
「幻影を追いかけているみたいだとは…」
「別に良いんじゃないの」
虚空を眺めていた裕貴は、平坦な加奈子の口調に気づいて、正面の加奈子に向き直った。
加奈子は、フォークにパスタをくるくるとまきつけている。
「夢を見るのも、夢から醒めるのも、その本人が決めるもの。あんたがそれでいいなら、それでいいんじゃないの」
巻きつけていたパスタを一口で平らげて、加奈子は正面の裕貴を見つめて、口の端を上げた。
「前にも言ったけど、あんたの手伝いはちゃんとやる。だから、あんたも私を手伝ってね」
裕貴はその視線の強さに言葉を失っていた。
「なんか良くわからないけど、疲れたわ…」
「そうだな…なんでこうなったんだろう…」
もともと金欠だった裕貴は、昼は気軽に、それこそファミレスよりのイタリアンあたりで軽く、と思っていたのだ。
こんな見た目からしてお高そうな店でやりたかったわけではない。シェフはサービスしますよなんて言ってくれてはいるけれど、それをすべて鵜呑みにするほど馬鹿ではないつもりだった。本当に、いろいろ心配だった。…半分くらいは、お財布事情的な意味で。
加奈子は別の方面でびっくりしていた。控えめな老婦人である友人の、顔の広さを目の当たりにしたからだ。
かの女性は、この界隈では実は有名人だった。
戦後、高度成長期。女性も社会に出て働くようになってきた時代、まだまだ託児施設も整わなかった頃。
小さな文具店の一角で、店主の奥さんが近所の共働きの子供たちを、預かるようになった。
『子無し』の奥さんの寂しさからだろう、などとはじめのうちはさげすまれたりしたようだったが、彼女は常に誠実であったし、子供たちも彼女になついた。何より、子供たちの母親が、千代の人柄にほれ込んだのだ。
常に微笑を浮かべ、穏やか。最初彼女に出会った人はそう評する。しかし、千代はただ微笑むだけの女性ではなかった。千代の生きた時代、彼女の生まれ育った地域は、とても男尊女卑の思想の根強い地域だった。その中で彼女は、強く強く生き抜いた。
口汚く罵るものには裏で制裁を与えた。力でねじ伏せようというものには力で返した。
「力には力を、知恵には知恵を。同じ力で、圧倒的にねじ伏せれば、人の矜持などあっという間に折れるものです」
友人としてお茶会を愉しむ際、昔を懐かしみながら、にっこりと微笑みつつ緑茶を飲む友人を見て、加奈子は『絶対的強者』という言葉の意味を深く理解したという。
そんな彼女は、商店街でも圧倒的人気者であった。
「『商店街のおっかさん』なんて。まぁ、子無しの私にはおこがましいわ…」
ねぇ?と隣で微笑む店主に笑いかけつつ、千代は笑う。彼女は、仕事で忙しい商店街の子供たちに、勉強を教えたり、一緒に遊んだり、時には夕飯の世話をしたり、親が戻れないときには自宅で寝かしつけたりもした。親たちとの連絡もきちんと取り、親の領分に出過ぎないよう配慮もしながら。
そうやって育って巣立っていった子供たちの一人が、時折商店街に戻ってくる。そんな一人が、この店の店主だったりするわけなのだが、加奈子たちは当時そこまで知らされていなかった。
「とにかく、『千代ちゃんスゲー』」
「…お前、まさかそのとおりに伝えたりしていないだろうな?」
裕貴は目を瞠る。ほわほわして、優しそうな老婦人が、まさかそんなネットスラングを理解するとは思えなかったからだったが、加奈子の間延びした返事で脱力した。
「だって、『冥土の土産に教えて頂戴?』なんて高度な老人ギャグかまされて、断れます?」
「…無理だな…」
「千代ちゃん意外とメールだと絵文字満載だし、人格ちょっと変わってるのよ…この間ホモォ…って絵文字来たわ」
「ガチじゃねーか!!」
彼女あたまいいからねー、と加奈子は笑う。
「しっかし、この煮込みおいしい。家庭で真似できませんかね?」
雑談しながら、加奈子はきっちりとランチプレートを制覇して行っている。トマトの甘酸っぱい風味に、ほろほろに煮とけた牛肉の旨み、一緒に煮込まれた野菜の甘みが加わりなんとも絶妙だ。残すのもったいないね、と加奈子はバゲットで器のそこをさらっている。
「俺はパスタにこの緑のソースつけたら良いと思うけど」
裕貴はアンチョビソースに目がないようだ。
「おしゃれ素材だよねアンチョビって~」
加奈子は笑う。
「アンタは、得意料理が肉じゃがの子と、パスタの子ならどっちがいい?」
「んあ?」
「よくある話じゃん!家庭料理とおしゃれ料理のたとえじゃないの」
フォークを上に立てて加奈子は意地悪く笑っている。サラダにのっていたアーモンドダイスが突き刺さった状態だったので、無作法を裕貴がとがめると、加奈子は苦笑いしながらアーモンドを口に入れた。
「そりゃあなぁ、何でも良いよ」
「ほうほう?」
パスタを平らげ、なんとも心残りなようでアンチョビソースをスプーンでこそぎ落としながら、裕貴は加奈子の目を正面から見る。
「作れるなら。俺も作るし、いまどき相手が選び放題なんてわけじゃないだろうに」
「わりとそういうところは醒めてんのね…」
「いまどき料理できない男は男じゃないって、兄貴が言うんだよなあ」
「確かに、できないと困るだろうねえ…」
ま、こんな店レベルでできなくてもいいけど、と加奈子はパスタをくるくるとフォークに巻きつける。
「アンタ、女性の好みだけ、変なのよねぇ…」
「しみじみ言うな!いいだろ、夢みたいなもんなんだからさ」
おまえは小姑かよ、と裕貴は最初から出されていた紅茶を一口飲んで、いすに深く腰掛けた。
「自分でも、馬鹿だとは思っている」
「ふーん」
加奈子はパスタのベーコンをフォークで拾いつつ、相槌を打つ。
「幻影を追いかけているみたいだとは…」
「別に良いんじゃないの」
虚空を眺めていた裕貴は、平坦な加奈子の口調に気づいて、正面の加奈子に向き直った。
加奈子は、フォークにパスタをくるくるとまきつけている。
「夢を見るのも、夢から醒めるのも、その本人が決めるもの。あんたがそれでいいなら、それでいいんじゃないの」
巻きつけていたパスタを一口で平らげて、加奈子は正面の裕貴を見つめて、口の端を上げた。
「前にも言ったけど、あんたの手伝いはちゃんとやる。だから、あんたも私を手伝ってね」
裕貴はその視線の強さに言葉を失っていた。
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