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伊織の不機嫌

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 伊織は夜中の街を、巨大なゴリラの人形コングを連れて、手には少女人形の花雪をしっかり抱いて歩いていた。先ほどから周りの人たちの視線が痛い。

 伊織の上司である天賀勝司は、なんと伊織たちを置いて逃げてしまったのだ。伊織がレンタルした軽トラックで。コングがいたのでは公共の交通手段も使えない。伊織たちは徒歩で、寝ぐらにしている哲太の作業場まで帰らなければいけないのだ。

 伊織は何度目かになるスマートホンを操作した。何度コールしても人形師の哲太は電話に出ない。伊織が舌打ちしながら待っていると、ろれつの回らない声が聞こえた。哲太がやっと電話に出たのだ。

「おい、哲太!今から言う場所に車で迎えに来い!」
「無理ぃ。飲んじゃった」

 伊織は相手に聞こえるように大きく舌打ちした。一体この男はいつしらふの時があるのだろうか。哲太はヘラヘラしながら言葉を続けた。

「何だ軽トラックに乗って行ったのに、どうしたんだ?事故ったか?」
「ちげぇよ!勝司のクソ野郎が俺たちを置いて乗って行っちまったんだよ」
「あぁ、いけないんだ。当主さまをクソ野郎だなんて」

 哲太はゲラゲラ笑った。哲太も天賀家の現当主をこころよく思ってはいない。伊織は低い声で言った。

「いいから迎えに来い。さもないとクマとコングの戦いの動画を消すぞ」
「何!クマとコングは戦ったのか?!勝負はどっちだ?!もちろんコングだよなぁ!」
「さぁな、どっちだろうな。早くしないと永遠にわからないぜ?」

 伊織のおどしが効いて、折衷案で作業場がある山の下までワゴン車をまわしてもらえるようになった。伊織はスーツを着ていたので、くつは革ぐつだった。革ぐつでアスファルトを長時間歩き続けるのは辛かった。

 コングが伊織を抱っこして運んでくれると申し出てくれた。だが伊織はそれを断った。女子高生の加奈子をコングが抱っこするのはまだいい。だが、おじさんの伊織をコングが抱っこして歩くのは色々キツイ。

 伊織たちが哲太と待ち合わせている道路までやって来た時には、夜が白々と明けていた。哲太はだいぶ酒が抜けたようで、伊織たちに気づくと手を振っていた。

 伊織が哲太に近づくと、伊織の腕の中にいた花雪が哲太に飛びついた。哲太は驚いて花雪を抱き上げた。

「花雪!無事だったのか?!お前、その手どうした?!両手が刃物でクールだったのに」
「クールなもんか。危なかっしくてしょうがなかったわ」

 哲太の反応に伊織が毒つくが、哲太は伊織の話しを聞いていなかった。しきりに花雪の手の刃物を出し入れするのを見ている。

「こいつはすげぇギミックだ。一体どの人形師が手がけたんだ」

 伊織が松永結の父親が作ったと説明すると、しきりに感心していた。哲太はあろう事か、ワゴンの中で花雪の手をばらしてみたいと言い出す始末だ。疲労困憊で、もう一歩も歩けない伊織は、絞り出すような声で言った。

「とりあえず後にしてくれ」
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