クリスマスに咲くバラ

篠原怜

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 翌朝目覚めた時、隣に貴大の姿は無かった。ベッドを飛び出した亜美が見つけたのは、ダイニングテーブルに置かれた手書きのメモ。そこには彼の字で朝食の用意ができていることと、あとで迎えに来ることが書かれていた。

 亜美に気を使って、起こさないで帰ったらしい。今日は土曜日で貴大の仕事は休みだが、パーティーの準備があるから朝早く帰ると、昨夜言っていたのを覚えている。

――自分だって疲れているのに。

 いつだって彼はこんなふうだ。自分の弱みは見せないで、他人を励ますほうが好き。それに本当の彼は自分勝手でも、独占欲が強すぎることもない。昨夜はあんな言い方をしたが、最後まできちんと避妊をしてくれた。

――わかってるんだけどな。

 亜美はローブをはおってキッチンに向かい、冷蔵庫から貴大が用意しておいてくれたグレープフルーツジュースを取り出した。美肌効果があるぞといって、特製ジュースやら特製サラダをよく作ってくれる。

 これを飲んでしゃきっとしたら彼に電話しよう。彼の婚約者として恥ずかしくないよう、今夜はうんとドレスアップしよう――。
 そう思った時、プライベート用の携帯が鳴った。

「メリクリ、亜美。無職になった感想は?」

 今は結婚して岐阜に住む、弟の彬だ。一時はもう会えないかと思った彬だが、貴大と出会った年の暮れに再会した。以来、連絡を取り合っている。

「今まで、お疲れさん。亜美は俺の自慢のねえちゃんだったよ。いや、これからもそうだけどさ」
「なに言ってんのよ」

 久しぶりの弟の声は、亜美の気分を浮上させてくれた。父は再婚した四年後に再び離婚すると、彬を連れて岐阜に移り、おととし病気で亡くなった。彬は去年結婚し、来年の春には父親になる。

「いよいよ亜美も結婚か。貴大の奴、舞い上がってんじゃないの?」
「あのねえ……彬」
「しょぼい声出すなよ。まさか引退と結婚は関係ないとか?」
「……大人の事情にクビを突っ込まないの」
「え、マジで? マジでそうなのか?」

 リアリティが出ないように気を付けたつもりだが、彬はひどくがっかりした声になる。

「貴大は亜美にめちゃめちゃ惚れてんのにさ。まだ報われないのか?」
 
 それはないだろう……と、責めるような弟の声が耳に届いた。亜美は慌てて言葉を補足する。

「なにも彼と別れるわけじゃないから。ただ……。結婚には憧れないだけ」

 言ってしまってから貴大の顔が浮かんだ。亜美を抱きながら、愛してるよと何度も言ってくれた。目を閉じると彼の息づかいと、亜美の体のすみずみまで愛撫した彼の指と唇の感触が蘇る。
 顔がほてり、同時にちくりと胸が痛んだ。

「何度も言うけどさ。男がみんな、俺たちの親父みたいなやつとは限らないんだぜ?」
「それは、わかってる」
「じゃあ、なんで」
「別にいいじゃない。あたしのことなんだから」
「よくねえよ。よくねえんだよ……」

 電話越しに大げさなため息が聞こえた。それから彬は気を取り直したかのように亜美……と、呼びかけてきた。もう、責めるような口ぶりではなかった。

「高校の時、どうして俺が亜美に会いに行けたかわかるか?」
「ファンの子に聞いて、スタジオの外で出待ちしたって言わなかったっけ?」
「あれはウソ。本当は貴大が教えてくれたんだ。高三の十二月に入ってすぐだったかな。あいつ、俺に会いに岐阜まで来たんだ」
「えっ……?」

 もう十年以上も前の、クリスマスシーズン。撮影を終えてスタジオを出た亜美を、彬は待ち伏せていた。背が伸びて男っぽくなっていたけど、目が合ったとたん、すぐに弟だとわかった。

「初めて会う奴に“あんたのねえちゃんの彼氏だ”とか言われてびっくりしたけどさ。貴大は俺に亜美の連絡先とスケジュールを教えてくれて、新幹線のチケットまでくれたんだよ」
「ほんと? ほんとなの?」
「ほんとだよ。黙ってるって約束したけど、もういいよな。あいつ俺に、亜美が寂しがってる。自分には弟の代わりはできないから、どうしても会いに行ってやってほしい……。そんなふうに言って頭を下げたんだぞ」

 その場面を想像して、胸がぎゅうっとしめつけられた。
 あの頃の亜美は、貴大に弟の面影を重ねていた。それを彼は気づいていた。その上で自分のために、弟を探してくれたのだろうか――。

「ぜーんぶ亜美のためだ。聞いてるか? 亜美」
「……うん。……聞こえてる」

 携帯をぐっと握りしめる。テーブルに飾った昨夜のバラが、目にとまる。昨日より少し花びらが開いた状態で、相変わらず甘い香りを放ちながら、亜美を見守るかのように艶やかに咲いている。

「あれから十年以上だぞ。こんだけ想われてんだから、本気で応えてやれよ。貴大に」
「そんな言い方しないで。あたしだって、少しは変わったんだから」
「わかるよ。でも亜美と貴大が一緒に生きていくことが、二人にとっての一番だと俺は思う。俺は亜美と同じくらい、あいつにも幸せになってもらいたいから」

「あきら……」
「俺、クリスマスなんか大っきらいだった。でも貴大のおかげで、そういうのから解放された。亜美とおふくろに会えたし」

 両親が離婚する前の、あの光景が思い出される。小学生だった彬が、どれほど傷ついたか亜美は知っている。
 その苦い思い出から彬は解放されたといった。きっかけを作ってくれたのが、まさか貴大だったとは。

 電話を切ってから、亜美は貴大が用意してくれた朝食を残さずたべた。

 苦い思い出から解放されたのは、彬だけじゃない。自分だってそうだと亜美は思う。大切な人。なくてはならない存在。わかってはいるが、両親のいさかいを目の当たりにしたせいで心に住みついたこだわりは、そう簡単に捨てきれそうにない。

 食べ終わらないうちに電話が鳴った。貴大だ。
 五時までには迎えに行くといつもの調子で言われる。

「貴大」
「なんだ?」
「ええと……、昨日はありがとう。それと、朝ごはん、美味しかった。残さず食べたから」
「俺の奥さんになったら、毎朝食べられるのに」

 冗談めいた言い草だが、そんなふうに言われて嬉しくないわけがない。頭ではわかっていても、意地が邪魔して素直になれない自分がここにいる。

「まあ、考えておけって。じゃ、あとでな」
 とりたてて気落ちした声ではない。
 ほっとすると、そこで彼からの電話は切れた。





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