君想う、故に我あり

篠原怜

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終章

終章-1

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 秀人に連れられた美緒が千秋のもとを訪れたのは、金曜日の夜だった。その頃には俊文(としふみ)も律子(りつこ)も、マスコミの騒ぎを嫌って自宅を離れていた。陰山邸はもぬけの空となり、自宅前から中継するテレビ局の数も減った。

「しばらくこっちから通うから。仕事が終わったら遊びに来るわ」

 美緒は明るく言って、沈みがちな自分を励まそうとしてくれた。秀人との結婚を決めた彼女は休暇を取って、久しぶりに母のいる実家に戻っていたのだ。

「ありがとう。でもそれじゃあ美緒が大変よ。気持ちは嬉しいけど、わたしなら……」
 声を細くした千秋に、美緒はあっけらかんと笑った。

「わたしがそうしたいの。それにたまにはお母さん孝行したいしね。だから千秋は気にしなくていいのよ。少しの辛抱だし……」

 少しの間辛抱すれば、騒ぎは収まるだろう。美緒はそう考えているようだった。本当にそうなってくれたらどんなにいいか。
 千秋は不安を拭いきれないまま、顔には出さずに美緒にお礼を言った。
 
 家を出た俊文は極秘でシンフォニア新宿に身を潜め、律子は多香子(たかこ)の好意で、彼女と彰文(あきふみ)のマンションに転がり込んでいた。

 多香子は昼間は彰文の世話をするために病院を訪れていて、そこでマスコミの質問に答えていた。お陰で自宅マンションを訪れる人は無く、律子はつかの間の静けさを取り戻していた。夫婦は完全にマスコミをシャットアウトし、代わりに多香子がすべての矢面に立つ形となったのだ。彼女は落ち着いて警察やマスコミに対応し、健気で気丈な妻を演じた。

 だが美緒の予想ははずれ、事件から三日もすると、彰文の過去を暴露した週刊誌が相次いで発売され、週末には陰山夫妻の不仲を伝える記事が紙面を飾ることになる。


◇◇◇


「どうしてこんなこと書かれなきゃいけないの?」

 買ってきたパンの横に週刊誌を開いて置いて、千秋は唇を噛んだ。日曜日の早朝だった。シャワーを済ませた蓮が、濡れた髪のまま、ダイニングテーブルに置かれた週刊誌に手を伸ばした。

「仮面夫婦」

 そう書かれた見出しの下には、千秋の両親である陰山夫妻のことを綴った記事があった。夫妻に近い人物の証言として、ホテル王夫妻の仲は冷え切っており、家庭内別居に近い状態であること。世間体を気にして離婚はしないつもりのようだが、そんな両親を見て育った息子が、家庭を顧みずに女遊びに走るのは、ある意味当然のことかもしれない、……そんな内容が綴られている。

 他にも、陰山家の元家政婦だとか、シンフォニアの元従業員だとかを名乗る人物が、陰山家の内情をスキャンダラスに語っていた。

「こんなもの……、気にしちゃいけない」
 蓮は週刊誌を閉じると、両手で捻りつぶした。

「確かに兄は、言い訳の出来ないようなことをしてたわ。こんな事件が起きたのも自業自得かもしれない。でもうちの両親まで巻き込む必要があるの? マスコミなら何を書いてもいいの? あたしたち家族にはプライバシーって物は無いの?」

 千秋はヒステリックに叫んだ。パニックになりそうだった。

「落ち着くんだ。弁護士を通して出版社に抗議しよう。心配しなくていい。俺にだってそれくらいの人脈はある」

 だが千秋は手で口を押さえるようにして、首を振る。この週刊誌は氷山の一角だ。たまたまパン屋の横の書店で目に付いただけ。兄を中傷する記事はすでにいくつか書かれている。一つの記事に抗議したくらいでは、何の解決にもならないだろう。

「次はわたしのことが記事になるかもしれない。今頃しのぶ先生やピアノ教室の仲間達は、マスコミの質問攻めに合ってるわ。そうしたらあなたにだって迷惑がかかる。あなただけじゃない、あなたのお兄様やお父様にだって……。そんなことになったら、わたしどうお詫びしたらいいか」

 頭の中は怒りで一杯のはずなのに、涙が溢れてくる。
 悔しい。こんな理不尽な仕打ちに、今はただ耐えるしかできないなんて。

「それなら、最後の手を使うしかないのかもしれないな」

 突然蓮が呟いた。はっとなった千秋が顔を上げると、思いつめたような蓮の視線とぶつかる。蓮は椅子に座る千秋の前に跪くと、指で涙を拭ってくれた。

「鎌倉に行って、父に会って来る。とっくに政界を引退したとはいえ、いまだに各界の実力者とは太い繋がりを持っている。あの人ならマスコミに圧力をかけることなど、造作もないだろう」
「そんなことしちゃいけないわ。それに、あなたはお父様を……」

 憎んでいるのではないか? そう口にしてしまいそうになるのを辛うじてこらえた。

「君が想像してる通りだ。俺は父を許していない。俺が許してしまったら、誰にも気づかれずに死んでしまった母があまりにも哀れだ」
「お母様……?」

 蓮は無言のままだった。やがて意を決したようにきっぱりと言い放った。

「でも俺は君と君の家族を守りたい。妹と二人で、ずっと憧れていたんだ。夏になるとやって来る、陰山家の家族に……。だからこんなふうに君が泣くのを見たくない。彰文君や君のご両親が苦しむのも同じだ。そのためには手段を選ばない。俺のつまらぬ意地などどうでもいい」

「待って、待って……。わたし、もしかしたらあなたと真由さんに、どこかで……」

 ずっと思い出せずにいた何かが、夏の日の記憶と一緒に千秋の脳裏によみがえった。
 少女の頃、夏休みの数日を過ごした海沿いの街。ある時、垣根の向こうに立つ麦藁帽子の少女に気づいた。少女のそばには大抵、兄らしき少年が一緒にいた。声をかけて来るでもなく二人は、夏の日差しの中に立ったまま、黙って別荘の庭を覗き込んでいたのだ。

「パピーを可愛いって言ってくれたわ……。一緒にフリスビーを投げたの。いつ頃からか覚えてないけど、うちの庭を覗いてる子がいて……。葉浦には友達がいなかったから、今度会ったら一緒に遊ぼうって声をかけようと思ってたの」

 声が震える。あれは花火大会の日。少女は突然倒れて、家政婦が警察を呼ばなくてはと騒ぎ出したはずだ。少女の兄は困り果て、そのまま表に飛び出していった。

「あなただったの?あの時の、真由ちゃんのお兄さん……」

 蓮がゆっくりと頷いた。その顔には、すべての迷いを断ち切ったような安らいだ笑みが浮かんでいた。

「どうして教えてくれなかったの? あなたはわたしを覚えていたんでしょ?」
 こみ上げてくる懐かしさに胸が熱くなるようだった。

「葉浦にいた坂本蓮は、貧乏で何の力も持たない少年だった。そんな過去を君には知られたくなかったのかもしれないな」

 さらりと答えてから、蓮の瞳から光りが消える。

「あの前日、母は繁華街で行き倒れて亡くなったんだ。そんなことも知らず、俺達は母を捜して街を歩いてた。早く大人になって母の支えになろうと思っていたのに、間に合わなかった。たった一人の母を、一人ぼっちで死なせてしまった」
「蓮さん……!」

 千秋は蓮の頭を抱き寄せた。髪が濡れていようが構わない。そうしなければ蓮が消えてしまいそうなほど、その表情は寂しげで、呟く声は力ない。

「同情されるのは嫌だったんだ。君の前では頼りになる脇田蓮でいたかった」
 自分の腕の中で蓮が囁いた。千秋の胸に愛おしさがこみ上げてくる。

「わたしがあなたを思いやることは、決して悪いことじゃないわ。だってわたし達結婚するのよ? 強いあなたも、そうでないあなたも、すべて知っていたいの。もっとあなたに近づきたいの」

「力が欲しかった。どんな運命でも切り開いていけるような。でも俺はあの時と少しも変わってない。母を救えなかったのと同じように、今も君を救う力が無い。滑稽だよ。あんなに疎んじていたのに、今はその父を頼るしか手立てがないんだから」

 ふいに蓮の手が背に回る。千秋の胸に頬を寄せたまま、その存在を確かめるかのように力強く抱きしめた。

「そんな俺でも、君は愛してくれるんだろうか」
「愛してるわ。わたしは権力なんか欲しくないし、憧れてもいないわ」

 千秋は蓮の前髪をかき分けて、愛しい人の顔を覗きこむ。ようやく蓮の心に手が届いたのを感じた。

「あなたは責任感が強くて、人の心の痛みがわかる人よ。わたしはそんな人が好きなの」
「俺は君に何も与えてやれないかもしれない。むしろ君から、勇気をもらってばかりだ」
「そんなことないわ。わたしはあなたといると安心できるもの」
「本当に?」

「本当よ。初めて会った日から、たぶんずっと。あなたのそばにいることが、心地良くなっていたの」
「仕事で親しくなってから、自分で陰山社長にお願いしたんだ。君とお付き合いさせて欲しいと。俺は黙っていたんだが、君のご両親は父や兄のことを知っていた。それまで律兄さんが、いろいろと仕事のことで口添えしてくれていた。そのせいだと思う」

「優しいお兄様だと思うわ。年は離れてるけど、あなたと律さんは顔も性格もよく似てると思うの」
「そうかもな。戎兄さんにはよくそんなことを言われた」
「わたしにはあなたが、とても素敵な大人の男性に見えたの。だからあの時の男の子だとは思いもよらなかった。これも本当よ」

 言ってしまってから、千秋は頬を赤らめた。すぐに蓮が唇を重ねて来る。触れあうだけの口づけは、やがて互いを深く求め合うものへと変わって行った。再び出会い、愛し合う運命にあったことを、天に感謝したい気分だった。

 口づけのあと千秋は、大きく深呼吸してから、祈るように胸の前で両手を組んだ。

「わたしも鎌倉に連れて行って。あなたのお父様にお会いしたいの。もし良かったらその途中でお母様のことを詳しく教えて」




*俊文、律子 千秋の両親。
*多香子  千秋の兄・彰文の妻


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