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1章-蓮
蓮ー7
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その日を境に蓮は葉浦の街を離れた。都内に住まいを用意され、真由と二人、そこで暮らすことになる。
あのあと真由はすぐに病院に運ばれて、軽い栄養障害と熱中症と診断された。数日経過してから東京の病院に移されたが、親子ほど歳の違う二人の兄に怯え、急に無口になった。
蓮は母の死を悲しむ余裕がなかった。自分の置かれた状況に戸惑い、心細さを隠せないでいる真由が心配で、彼女に母の死を伝えることができなかった。
結局真由が母の死を知らされたのは、夏休みが終わり、新学期になってからだった。
律が語ったところによれば、蓮の母は元々都内の高級料亭で雇われ女将をやっていて、平八郎と出会ったそうだ。平八郎は真由が生まれたのを機に、婚姻外で出来た二人の子供を認知しようとしたのだが、律と戎の母のかたくなな反対に合い断念した。
折りしも新内閣が発足し、平八郎の初入閣が囁かれた頃だった。政治家のスキャンダルは、本人ばかりか党にも大きなイメージダウンをもたらす。赤の他人であっても反対しただろう。
「親としての責任もまっとうできない最低の男だったと……、親父は自分のことを言っていたよ」
こんな会話を律としたのは、母の葬式が済んで数日してからだった。母・志乃は脇田家の菩提寺とつながりのある都内の小さな寺に埋葬され、蓮と律と風戸だけでひっそりと弔った。風戸には大学を卒業して間もない娘がいたので、その女性が蓮たちの世話をしてくれた。
律には鎌倉に家があったのだが、二歳年上の妻が腹違いの兄妹の存在を疎んじ、同居を拒んだ。それは戎夫婦も同じで、表向きは兄に従う素振りを見せるが、本心ではとんだ厄介者を抱え込んだと思っているようだった。
蓮にとってはどうでもいいことだった。
誰に嫌われようと、どう思われようと構わない。思いがけない展開で身内が増えてしまったが、自分の肉親は真由一人だと思っている。
鎌倉に住むという実父、平八郎に会ったのは、母・志乃の四十九日が過ぎてからだった。その年、平八郎は五十六歳。髪はだいぶ白くなっていたが、姿勢の正しい、清々しさを漂わせる人物だった。ただ前年に心臓の大手術をしたせいでやや顔色が悪く、それが六十歳を待たずして政界を引退した理由だった。
本妻が三年前に癌で他界していたのと、自分自身の病のせいで弱気になったことが重なったせいか、再び平八郎は蓮と真由の認知をする気になっていた。
律の妻と戎夫婦は反対したが、数ヶ月間考えあぐねていた律が父を支持したことでついには折れた。こうして蓮と真由は脇田の籍に入り、新しい名字で学校に通い始めることになる。それでもことあるごとに自分の両親はすでに他界していると、蓮は周囲に言い続けた。
蓮にとって脇田の姓を名乗るのは生きるための手段であり、父を許したからではなかったからだ。そして自立に向けてひたすら勉強に励んだ。
律は黙って見守ってくれた。頑なに父を拒み、滅多に鎌倉の家に寄り付くことをしない弟だったが、時が解決するのを待つかのように、何かを無理強いすることはしなかった。
幾たびか夏が過ぎ、葉浦にはあれ以来一度も帰っていない。あの花火大会の日に出会い、真由のことを心配してくれた少女のことも記憶の片隅に追いやってしまった。
蓮は大学に入ったものの、相変わらず孤独の世界に住み続けていた。そんなある年の十二月――。
律に連れられて真由を伴い、母の月命日の墓参りに訪れた時のこと。納骨に来たと思われる、喪服姿の集団と出くわした。すれ違いさま、その集団の中から思いがけない名前が耳に届く。
「千秋さん、早くいらっしゃい……」
はじかれたように真由が振り返る。その時真由は高校に入ったばかり。相変わらずやせっぽちで、頼りなげな面立ちの少女になっていた。
「お兄ちゃん!」
袖をつかまれた蓮は、妹の指差すほうを振り向いた。喪服の大人たちの最後部には、背の高い高校生くらいの男の子と、同じ年頃に見えるすらりとした美少女、そしてその少女に寄り添って立つ、大きな瞳の女の子がいた。
「最後のお別れだよ、美緒(みお)。しっかりしなきゃ」
「うん……。ちーちゃん、ありがと……」
美緒と呼ばれた少女は黒いリボンのかかった遺影を抱いて、涙で両頬を濡らしていた。その両脇に千秋と彼女の兄が立ち、くず折れそうな美緒の背に手を回して支えていた。まるで千秋がいなかったら、今にも美緒は倒れてしまいそうに見える。
「あの子だよ、お兄ちゃん。ちーちゃんだよ!」
今では千秋より背が高くなった真由が、声を抑えて囁く。一同を眺めていた律がおもむろに呟いた。
「そうだな。前にいるのは陰山ホテルグループの社長だ。ホテル・シンフォニア。新宿と日比谷にある高級ホテルだ。名前くらいは知っているだろう」
「そんな有名なホテルグループの社長令嬢だったんですか?あの子が?」
「ああ」
兄の返事を聞きながら、蓮の胸に小さな疼きが起こったのはその時だった。
陰山千秋。少し大人びたが、愛らしい笑顔はあの頃のままだ。あの時自分たち兄妹に手を差し伸べてくれたのと同じように、今また悲しみにくれる友人を励まし、支えている。自分の言葉がどれほど他人を癒し勇気付けているか、彼女は知っているのだろうか。
いつか彼女が大人になった時に、あの笑顔を自分ひとりのものにしたい。彼女と釣り合う男になって、彼女の両親に認められる男になりたい。父や兄の名を借りずに、葉浦に住んでいた坂本蓮として、認めてもらいたい――。
いつしか疼きは野望へと変わり、蓮は仕事に打ち込みながら、時節が来るのを待った。そして去年、思いがけず陰山グループのホテル事業再編計画に携わることになる。
長い過去の回想から現実に立ち返った蓮は、最後にもう一度だけ母の墓前に手を合わせ、立ち上がった。来た道を戻り、墓所のはずれのとある墓石の前で立ち止まる。そこは中島美緒の父の墓。あの日、自分がここで一部始終を見ていたことを、美緒も千秋も知らない。
父の遺影を抱いて泣いていた女の子は、強く生きることを選び、自立した立派な女性になった。どこか自分に似ていると蓮は思いながら、墓石に向かい合掌し、北風の吹く境内を後にした。
*中島美緒(なかじま みお) 「アグレッサー」のヒロイン
(ー千秋編へと続く)
あのあと真由はすぐに病院に運ばれて、軽い栄養障害と熱中症と診断された。数日経過してから東京の病院に移されたが、親子ほど歳の違う二人の兄に怯え、急に無口になった。
蓮は母の死を悲しむ余裕がなかった。自分の置かれた状況に戸惑い、心細さを隠せないでいる真由が心配で、彼女に母の死を伝えることができなかった。
結局真由が母の死を知らされたのは、夏休みが終わり、新学期になってからだった。
律が語ったところによれば、蓮の母は元々都内の高級料亭で雇われ女将をやっていて、平八郎と出会ったそうだ。平八郎は真由が生まれたのを機に、婚姻外で出来た二人の子供を認知しようとしたのだが、律と戎の母のかたくなな反対に合い断念した。
折りしも新内閣が発足し、平八郎の初入閣が囁かれた頃だった。政治家のスキャンダルは、本人ばかりか党にも大きなイメージダウンをもたらす。赤の他人であっても反対しただろう。
「親としての責任もまっとうできない最低の男だったと……、親父は自分のことを言っていたよ」
こんな会話を律としたのは、母の葬式が済んで数日してからだった。母・志乃は脇田家の菩提寺とつながりのある都内の小さな寺に埋葬され、蓮と律と風戸だけでひっそりと弔った。風戸には大学を卒業して間もない娘がいたので、その女性が蓮たちの世話をしてくれた。
律には鎌倉に家があったのだが、二歳年上の妻が腹違いの兄妹の存在を疎んじ、同居を拒んだ。それは戎夫婦も同じで、表向きは兄に従う素振りを見せるが、本心ではとんだ厄介者を抱え込んだと思っているようだった。
蓮にとってはどうでもいいことだった。
誰に嫌われようと、どう思われようと構わない。思いがけない展開で身内が増えてしまったが、自分の肉親は真由一人だと思っている。
鎌倉に住むという実父、平八郎に会ったのは、母・志乃の四十九日が過ぎてからだった。その年、平八郎は五十六歳。髪はだいぶ白くなっていたが、姿勢の正しい、清々しさを漂わせる人物だった。ただ前年に心臓の大手術をしたせいでやや顔色が悪く、それが六十歳を待たずして政界を引退した理由だった。
本妻が三年前に癌で他界していたのと、自分自身の病のせいで弱気になったことが重なったせいか、再び平八郎は蓮と真由の認知をする気になっていた。
律の妻と戎夫婦は反対したが、数ヶ月間考えあぐねていた律が父を支持したことでついには折れた。こうして蓮と真由は脇田の籍に入り、新しい名字で学校に通い始めることになる。それでもことあるごとに自分の両親はすでに他界していると、蓮は周囲に言い続けた。
蓮にとって脇田の姓を名乗るのは生きるための手段であり、父を許したからではなかったからだ。そして自立に向けてひたすら勉強に励んだ。
律は黙って見守ってくれた。頑なに父を拒み、滅多に鎌倉の家に寄り付くことをしない弟だったが、時が解決するのを待つかのように、何かを無理強いすることはしなかった。
幾たびか夏が過ぎ、葉浦にはあれ以来一度も帰っていない。あの花火大会の日に出会い、真由のことを心配してくれた少女のことも記憶の片隅に追いやってしまった。
蓮は大学に入ったものの、相変わらず孤独の世界に住み続けていた。そんなある年の十二月――。
律に連れられて真由を伴い、母の月命日の墓参りに訪れた時のこと。納骨に来たと思われる、喪服姿の集団と出くわした。すれ違いさま、その集団の中から思いがけない名前が耳に届く。
「千秋さん、早くいらっしゃい……」
はじかれたように真由が振り返る。その時真由は高校に入ったばかり。相変わらずやせっぽちで、頼りなげな面立ちの少女になっていた。
「お兄ちゃん!」
袖をつかまれた蓮は、妹の指差すほうを振り向いた。喪服の大人たちの最後部には、背の高い高校生くらいの男の子と、同じ年頃に見えるすらりとした美少女、そしてその少女に寄り添って立つ、大きな瞳の女の子がいた。
「最後のお別れだよ、美緒(みお)。しっかりしなきゃ」
「うん……。ちーちゃん、ありがと……」
美緒と呼ばれた少女は黒いリボンのかかった遺影を抱いて、涙で両頬を濡らしていた。その両脇に千秋と彼女の兄が立ち、くず折れそうな美緒の背に手を回して支えていた。まるで千秋がいなかったら、今にも美緒は倒れてしまいそうに見える。
「あの子だよ、お兄ちゃん。ちーちゃんだよ!」
今では千秋より背が高くなった真由が、声を抑えて囁く。一同を眺めていた律がおもむろに呟いた。
「そうだな。前にいるのは陰山ホテルグループの社長だ。ホテル・シンフォニア。新宿と日比谷にある高級ホテルだ。名前くらいは知っているだろう」
「そんな有名なホテルグループの社長令嬢だったんですか?あの子が?」
「ああ」
兄の返事を聞きながら、蓮の胸に小さな疼きが起こったのはその時だった。
陰山千秋。少し大人びたが、愛らしい笑顔はあの頃のままだ。あの時自分たち兄妹に手を差し伸べてくれたのと同じように、今また悲しみにくれる友人を励まし、支えている。自分の言葉がどれほど他人を癒し勇気付けているか、彼女は知っているのだろうか。
いつか彼女が大人になった時に、あの笑顔を自分ひとりのものにしたい。彼女と釣り合う男になって、彼女の両親に認められる男になりたい。父や兄の名を借りずに、葉浦に住んでいた坂本蓮として、認めてもらいたい――。
いつしか疼きは野望へと変わり、蓮は仕事に打ち込みながら、時節が来るのを待った。そして去年、思いがけず陰山グループのホテル事業再編計画に携わることになる。
長い過去の回想から現実に立ち返った蓮は、最後にもう一度だけ母の墓前に手を合わせ、立ち上がった。来た道を戻り、墓所のはずれのとある墓石の前で立ち止まる。そこは中島美緒の父の墓。あの日、自分がここで一部始終を見ていたことを、美緒も千秋も知らない。
父の遺影を抱いて泣いていた女の子は、強く生きることを選び、自立した立派な女性になった。どこか自分に似ていると蓮は思いながら、墓石に向かい合掌し、北風の吹く境内を後にした。
*中島美緒(なかじま みお) 「アグレッサー」のヒロイン
(ー千秋編へと続く)
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