君想う、故に我あり

篠原怜

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1章-蓮

蓮ー2

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1987年 8月 葉浦市 

----蓮はお兄ちゃんだから、真由の面倒を見てあげてね……。

 その言葉を残して母が出て行ってから、すでに二日が過ぎていた。
 八月のある日、電気を止められてしまったアパートの一室は、扇風機さえ回すことができず、蒸し風呂のように暑かった。
 
 ガスもだいぶ前に止められていて、風呂も煮炊きも出来ない日々が続いていた。といって家にはもう、満足な食べ物などなかったのだが。
 唯一残された水道のお陰で、兄と妹はかろうじて脱水症状を免れていた。だがこれが止められるのも時間の問題かもしれない。

 年が明けた頃から母が体調を崩したせいで、仕事を休みがちになった。そのせいで元々困窮していた一家の収入が激減し、家賃と光熱費を支払えなくなった。蓮が新聞配達のアルバイトをしてわずかに稼いだお金では、母子三人が暮らすにはあまりにも少なすぎた。

 やがて夏休みに入ると電気やガスが止められて、アパートの管理人からも家賃の催促を受けるようになる。
 家賃にあてる金など無いことを蓮は知っていた。知っていながら彼にはどうすることもできなかった。

 坂本蓮(さかもと れん)は中学三年生。四つ下の妹の真由は小学校の五年生になっていた。聞き分けの良い妹だったが、栄養状態が悪いせいか、もっと幼く見られることが多かった。

「なんか食いもの買ってくる。お前はここで待ってろ」

 そう言い放ち蓮は部屋を出ようとした。本当は金など持っていない。だが丸二日も帰ってこない母が心配なのと、何日も食事をとっていないせいでぐったりとし始めた真由が心配で、じっとなどしていられなかった。だが真由は、のろのろと立ち上がると兄の後を追ってきた。

「お兄ちゃんと一緒に行く」

 微熱のせいで目は潤み、酷く顔色が悪い。こんな暑い日に外へ連れ出していいはずがない。分かってはいたが真由は言うことを聞かなかった。まるで今兄と別れたら、二度と会えなくなるとでも思っているかのように。

 仕方なく蓮は真由の手を握り締め、一緒に葉浦の街へとくり出した。

 今日が花火大会の日だからか、日没まではまだ時間があるのに、海へ続く道路には人と車が溢れかえっていた。花火を見るための場所取りをしようというのだろう。

 その混雑を避け、蓮は住宅街の中へと真由を誘った。緑の草が生い茂る空き地の中に、ポツリポツリと家が建っている。新興住宅地ではあるが、まだ開発が進んでいないのか、空き地のほうが多かった。ただどの家も大きくて真新しく、門の前にはピカピカの車が二台か三台停まっていた。

 夏の陽がゆっくりと西に傾き始めた夕暮れの街を、兄と妹はあても無くさまよい歩いた。ポケットの中には百円にも満たない小銭だけ。一向に帰ってこない母。具合の悪い妹を抱え、蓮は途方に暮れそうになった。

----生活保護とかを受けられないのか?

 中学の担任がそんな言葉を蓮に告げたのは、三年に進級してすぐの頃だった。給食費の滞納が続いていたせいで、蓮の家は貧困家庭と思われていたようだ。

----大丈夫です。何とかするって母が言ってましたから……。
 
 歯切れの悪い返事に担任は頷くだけで、それ以上の追求はしなかった。

 過去にも何度か民生委員が家に来たし、児童相談所の職員が来たこともあった。公的な援助を受けろと母を説得していたようだが、いつも母は断っていた。何故断るのか、蓮がその理由を知ったのは中学二年の秋。高校への進学について担任と面談を行った日のことだった。

「誰にも頼らずに、母さん一人であんたたち二人を育てるって約束したの。だから……」

----貧乏だけど我慢してね。お母さん頑張るから。

 中学からの帰り道、母は笑ってそう言った。言ってから母の目から涙がこぼれ、蓮の胸を絞めつけた。

----俺は平気だよ。高校は定時制にするから。昼間働けば、もっと楽になるよ。

 誰とどんな約束をしたのかわからない。でも、母が誰の援助を受けたくないのなら、そうするしかない。自分達兄妹のために体を壊すほど働いている母を思えば、蓮は何もいうことはできなかった。贅沢さえしなければ、真由と三人で生きていくくらい何とかなる……。
 そう思ったから。

 そして自分達の父がどこの誰かという疑問も、胸の奥に閉じ込めた。

 真由が生まれた頃までは、父と思しき人物が時々家に来ていた。顔はほとんど覚えていないのだが、幼い蓮の他愛の無いお喋りによく耳を傾けてくれる人だった。だが、真由が生まれてしばらくすると、母は自分達兄妹を連れてこの葉浦に引っ越した。それ以来、父には会っていない。

----あんたたちのお父さんは他の女の人と結婚してるの。だから蓮のお父さんにはなってもらえないのよ。

 夕焼けが母の横顔を赤く染めていた。蓮は答えなかった。中学生にもなれば、母の言葉の意味することぐらい容易に理解できる。母は不倫をして、自分達兄妹を生んだのだ。

 やり切れなさがこみ上げてきた。母はふしだらな女で、自分と真由はその存在すら許されない子供だというのか?違う、そんなこと信じたくない……!

「いらねえよ、親父なんか」
「蓮……」
「いいよもう……、親父なんか関係ねえよ!」
「悪いのは母さんなのよ、蓮。好きになっちゃいけない人だったのよ。あんたのお父さんは……」
「聞きたくねえよ!」

 蓮は大声で言い放つと、足を速めた。人の助けは要らない。俺は俺の力だけで生きていく。もっともっと勉強して、大人になったらたくさん稼いで金持ちになってやる!

「蓮。ごめんね……」

 後ろから母の声がした。ほんの一瞬、足が止まりそうになる。
 こみ上げて来る涙を母に見られまいと、蓮は振り返らずに帰り路を急いだ。





*葉浦市(はうらし) アグレッサーの舞台となる架空の街。千葉県の湾岸エリアという設定。
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