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第1話
しおりを挟む「ストップ、ストップ! はい、ストップー!」
演技指導を担当する唐沢の声が、教室内に響いた。
ヒロインに扮していた三原奈央は、声に気づいて演技を中断した。目の前に、奈央の相手役である長峰佑樹(ながみね ゆうき)の顔が迫っている。
1週間後に迫った文化祭に、クラスで現代劇を上演することになった。その立ち稽古(たちげいこ)の最中であるのだが、役に入りきっているのか、佑樹は演技を止めようとしなかった。
――いやだ、ほんとにキスされる。
慌てて奈央は、佑樹の胸を両手で押し返した。佑樹は驚いて顔を上げると、奈央の肩に手を置いたまま言った。
「どうして?」
「聞こえなかった? ストップがかかったじゃない」
「あれ、そうだった?」
遠巻きに稽古を見守っていたクラスメートの間から、笑いがもれた。こらこらと唐沢がたしなめて、佑樹はようやく奈央の肩から手を放した。
まつ毛が長くて、お肌がすべすべ。男のくせに長峰佑樹は、うっとりするほどきれいな顔立ちをしている。
その佑樹を相手に、奈央はキスシーンの練習をさせられていた。しかし何度やってもうまくできず、そのたびに唐沢からダメ出しをされるのだ。
奈央にしてみれば、人前でキスシーンを演じること自体、不可能に近かった。それも相手が、この長峰佑樹だ。目が合っただけで緊張し、からだが強張ってしまうのだ。
はあ……と、思わずため息が漏れる。
もともとは奈央も佑樹も、クラスの数人で構成された文化祭実行委員にすぎなかった。高校生活最後の文化祭を成功させるため、縁の下の力持ちとして、クラスに貢献するつもりでいた。
それが5日前に主役のふたりが降板したため、急きょ佑樹と共に、代役に任命されてしまった。
「悪いねー、おふたりさん」
台本を見ながら頭をひねっていた唐沢が、のそっと椅子から立ちあがった。
主役が降板したとき、
『もう時間がない、お前たちふたりならセリフも頭に入ってるはずだ。クラスのためだと思って主役をやれ!』
と、強引に代役を押し付けてきたのは、この男だ。
将来の夢は映画監督なのだという彼が自ら台本を書き、演技指導やら演出やらも引き受けた。しかしどんな大物監督に傾倒しているのか知らないが、妙に俗っぽいシナリオだと奈央は思う。
最初の主役たちが降板した理由も、受験に向けて放課後の予備校通いが忙しいことと、こんな意味不明の台本で芝居なんかできない……、とのことだった。
奈央は歩み寄ってきた唐沢に、恨みがましい視線を向ける。
佑樹とは対象的に唐沢は小柄で、顔は丸く、あごの下に無精ひげを生やしていた。
「長峰はいいんだけどさ、三原はぜんっぜんだめ。何度も言うけど、自然体でやってよ」
ばしばしと台本を手の平に叩きつける唐沢に、佑樹がくすくすと笑いだす。奈央は歯ぎしりしそうになるのをこらえて、反論した。
「仕方ないじゃない。あたしは演劇部じゃないし、セリフを覚えるので精一杯だったんだから。そもそも、このシナリオにキスシーンが必要なの?」
初めはキスシーンはなかった。それが奈央と佑樹が代役になった途端、唐沢が台本に追加したのだ。
「だって、いまいち盛り上がりに欠けるんだもん。いいじゃん、キスシーンくらい」
面倒くさそうに唐沢は言う。奈央はカチンときた。
「キスシーンで盛り上げようっての?」
「長峰がヒーロー役なら、女子の観客が増えるだろ? だったら色っぽいシーンがあれば、いっそう盛り上がるよ。それに、ほんとにキスしろとは言ってないさ。ちょっと顔を近づけるだけ。それなのにお前って、がっちがちに固いんだもん」
どんだけ不器用なんだよと、唐沢は佑樹に同意を求める。
――だってだって、キスなんか。キスなんか。
――したことないんだからー!
……と叫びそうになったところで、佑樹と目が合った。手で口元を隠しながら、奈央を見てまだ笑っている。
甘さと凛々しさが、半々に同居するような顔立ち。背が高くて大人びて見えるからか、ホストクラブにスカウトされたことがあると、生徒の間で噂になったこともある。
いや、佑樹にまつわる噂はほかにもあった。あまりお近づきになりたいとは、思えないような内容のものまで。きれいな顔立ちとは裏腹に、どうやら中身はワルらしい。
だから奈央は、突然彼と芝居をやれと言われても、いまいち彼に近づけないでいた。
「わかった。今日はここでおしまいにする。その代わり、ふたりで練習して」
唐沢はいきなり言うと、ほかのクラスメートたちに撤収するよう、合図した。
「え? ふたりで?」
「そう。俺たちがいると、気が散るでしょ? 今日はふたりだけで、とことんキスの練習をして。明日の通し稽古までに完璧にしといてよ」
「ちょっと、唐沢!」
慌てる奈央をよそに、佑樹以外のクラスメートたちは、荷物をまとめるとさっさと教室を出て行った。
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