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「マリちゃん、なんでだよ……」
 都内にある行き付けのバー、月兎の片隅で嘆くのは、すらりと細身の躯にスーツが似合う千晶。
「ちーくん、そんなに泣かないで。目ぇ腫れちゃうよ」
 そう言って、優しくおしぼりを渡してくれるのは、月兎でバーテンダーをしているマリ。スモーキーブルーで彩られた綺麗な形の爪に、美しく塗られたルージュ。長い髪からは凄くいい匂いがする完璧な女の子。 
 黙っていれば、美しいアルファの女性モデルにも見える美貌の持ち主だが、言葉を発すると低めのその声は男性のものだ。
 だが、その声と容姿のアンバランスに見えがちなコントラストもマリにはぴたりと似合っていた。 
「そんなに泣かないでって……俺のことフッたのマリちゃんじゃん」
「フッたわけじゃないわよ」
 マリは苦笑して答える。
「付き合えないっていうことは、フラれたってことじゃん」
 幼子のように頬を膨らます千晶にマリは妖艶にクスクス笑う。
「ちーくんのこと好きよ。大好き。でも付き合えないってだけよ」
「好きなのに付き合えないって変だよ」
 千晶がくちびるを尖らせる。この遣り取りも、もう何回目だろう。
「変じゃないわよ。ちーくん、なんで付き合えないってアタシが言うのか何度も言ったでしょう。アタシはちーくんが思ってくれてるような女の子じゃないのよ。体はオトコだし」
「そんなのわかってるよ」
「わかってないわよ」
 マリが言うと千晶はお酒の混じったため息を吐いて
「俺がオメガだから」
と続けた。
「ちーくんがオメガでもベータでもアルファでもアタシは好きよ。バースに拘ってるのはちーくんだけ」
 マリは優しく言ったが、痛いほどに正論を突いている。
 そう、千晶はバースに拘ってる。自分がオメガなのが嫌なのだ。
 番を失って壊れたように他のアルファを求めて身を崩し続けた母親が誰の子だがわからない子を孕んだ。それが千晶だという。
『あの子もオメガでさえなければねぇ。とても頭がよくて、気立てもいい子だったのよ』
 千晶を育ててくれた祖母がよくそう溢していた。千晶も自分がオメガでなければ、とどれほど思ったことだろうか。でもオメガとして産まれてしまったものは変えられない。
 オメガは番を得て幸せになればいいと皆言うけれど、アルファに狂って理性や思考が侵されるのがどうしようもなく怖い。一人でまっすぐ立てなくなるのは恐ろしい。
 オメガとして生きることを中々受け入れられない千晶の気持ちをマリは誰より理解してくれてもいる。
「じゃあマリちゃんより背が低いから?」
「ちーくん、充分背高いじゃない。素敵よ」
 千晶はオメガの割には背は高く、男らしい方であった。可憐なオメガとは言えない自分がアルファに抱かれる姿は想像するだけで千晶はげんなりする。かと言ってアルファであるマリほどは背が高くない。何だか本当に千晶は中途半端なのだ。
 色んな気持ちがない交ぜになって溢れてきた涙を乱暴に手の甲で拭いて、マリが作ってくれた甘いオレンジ色のカクテルを千晶は一気に飲み干す。
「あ。こら。それ、意外と強いお酒だからそんな飲み方しちゃダメって言ったでしょ」
 ライトをぐっ絞ったバーの中の、仄かな灯りの下。
 艶々とした唇を尖らせてマリは千晶を叱る。
「マリちゃん、俺の奥さんみたい。奥さんになって欲しい……」
 酔いが回った千晶はくすくすと笑ってしどけなくカウンターに身を預けた。
 無邪気な千晶の様子にマリの唇も思わず綻んだ。
「もう酔っちゃったのね。ちーくん、ホントかぁわいい」
 そう言ってマリが千晶の顔を覗き込むと
「マリちゃんの髪きれぇ」
 マリの髪にゆったりと、指を掛けてとろん、とした瞳。
 それからマリの髪をゆっくり千晶の方に引き寄せた。やわらかなフローラルの香水の奥に意志が強そうなウッディ系の香りが僅かに交じる。
「いい匂い……マリちゃんの匂い、好き……」
「……こうやっていつも女の子口説いてんの?ちーくん」
 くすくす笑うマリの鮮やかなリップの色が間近に見える。
「 マリちゃんだけだよ」
「上手じゃない。合格ね。その気になっちゃう。でもちーくん」
 綺麗な唇から甘い甘い吐息がかかるくらいの距離で密やかに言う。
「まだ、だめよ」
 髪に合わせた淡い彩の瞳がじぃっと真剣に千晶を見つめた。
「……あの人とは付き合ったりしないし況してや番になんて絶対ならない。だからマリちゃんだけだよ。それでもダメ……?」
 ほんの一瞬だけ、わずかにマリの瞳が揺れたが、千晶は気付けなかった。
「もーバカね、ちーくんは。そんなこと正直に言ってオンナ口説くオトコがドコの世界にいるのよ。もう一人の好きな人の存在なんて隠して口説きなさいよ」
「マリちゃんは特別だもん。俺マリちゃんに隠し事したくない」
 マリはカウンターでうとうとし始めた千晶の柔らかい髪をそっと撫でた。
 家庭に恵まれなかったせいか、人一倍温かい家庭には憧れがあった。
 同じ気持ちを共有できるマリとならきっと温かい安心できる穏やかな家庭を作れる気がする。

 男性なのに、誰よりも女らしいせいだろうか。それともアルファなのにちっともそれを感じさせない雰囲気のせいだろうか。
 全ての性別の境目がひどく曖昧なマリは千晶にとって心安らげる相手であった。
 男でも女でも、アルファでもベータでもオメガでもないように見えるマリはひどく安心できた。
 マリは底無しに優しくて、全てを打ち明けたくなってしまう、そんな不思議な気持ちになってしまう。
 母親の話なんて死んでも口にしたくなかったのに、優しいマリに自分のトラウマを聞いてもらったとき、それだけで心の疵が癒されるようだった。
「んん……」
 マリの優しい声を聞いているうちに、千晶はカウンターに伏せてちいさな寝息を立て始めた。

「まったく、アタシがどれだけ我慢してあげてるかも知らないで。危なっかしくてホント目が離せないわよ」
 マリは綺麗に彩られた唇から漏れた密やかな言葉は千晶の耳に届いてはいたが意味を解せないうちに泡のように弾けた。マリがタクシーを1台呼ぶべく店の電話を手にしたのが視界の隅に映った。

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