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三章 恋の始まり

32話 束の間の夢

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「市居さん逃げるよ」

「えっ? あれ何?」

 混乱する市居さんの手を握り別荘に向かって走る。

「伏せて!」

 ピリッとした感覚を頼りに屈むと、犬の首が頭上を通過した。

 こいつも当然体のどっかは伸びるよな。

 伸びきったその首は僕の方を見て今度は何もない所に牙を伸ばす。

 こいつ何をして――、違う牙は固定しただけだ。
 それなら次の攻撃は後ろだ!

 市居さんを引っ張りながら転がると、今まで居た場所が犬のコベットに引き裂かれる。

「痛い……」
 引くのが遅かったせいで、市居さんの足はひっかき傷で血が滲んでいた。
 僕が囮になる? いや、別荘に方に来ちゃったから、市居さんじゃ場所がわからない。
 このまま逃げ切るしかないか。

「市居さんごめんね」

「えっ? うわっ!? 神流くん?」

「少し口閉じてて、舌噛むから」

 市居さんを抱え、感覚だけを頼りに攻撃を避けながら別荘を目指す。

 このまま走って行けばやられる前に別荘の近くに着くはず。
 近くに行けば誰かがいるはず!

 助かる希望だけを考え全力で走る。

「神流くん!」

 声には反応できたけど、体を動かした時にはあいつの爪が背中を撫で熱い痛みが響く。
 やっぱり、全部を見切れる程じゃないか。

「市居さん相手が動いたら教えて、それともっと僕に掴まって。その方が走りやすい」

「でも、あの、その……」

「二人で生き残るためだから」

「はい。失礼します」

 グッと市居さんの体重が僕にかかるけど、重心が安定している分こっちの方がまだ走りやすい。

「右から来ます。次は左から」

 初動から教えてもらえれば少し余裕が生まれるな。
 これなら逃げ切れるけど、あいつの動きが単調すぎる。
 さっきの体を戻す攻撃ができるなら、もっと激しいはずだ。
 もしかしてこれって僕達を追い込んでる?

「次も右!」

 その可能性があるのに、誘導されるままに逃げるしかないのか?
 予想通り前から四足の何かが猛スピードで近づいて来た。

 やっぱり仲間がいたのか……。

 方向を無理にでも変えようとした瞬間、前から現れた四足の何かが二つに割れた。

「悪い、気づくのが遅れた」

「焔さん!」

 颯爽と駆けつけてくれた焔さんは、一体倒した勢いのまま僕達を襲って来たコベットもすぐに倒してくれた。

「市居さん、安心していいよ。もう大丈夫だから」

「はい。ありがとうございます」

 散歩のつもりだったのにこんなことになるとは思ってなかった。
 焔さん達と合流できたことに安心してようやく腰を下ろせた。

「秋良、それはどういう状況だ?」

「状況ってコベットに襲われたんですよ。それで命からがら逃げてきたんです」

「いや、あたしが聞きたいのはだな。なんで女子と抱き合っているのかを聞いているんだ」

 そんな馬鹿なと思ったけど、今の僕の状況は言葉のままだった。
 市居さんをお姫様抱っこして、市居さんは頬を赤らめながら僕の首に抱き付いている。
 誰がどう見ても男女で抱き合っている状態だった。

「まさか、あたし達から離れたのもその女子に会うためか?」

「違います。さっき偶然会って、それであいつに襲われたんですよ。ね、市居さん」

「はい。神流くんが優しくしてくれました」

 市居さんは見事に火に油を注いでくれました。
 きっとキャンプで習ったんだと思います。

「早速浮気をしたわけか?」

「お姉ちゃん、大変なんだけど……って、雅なんでこんなところに?」

「えっとそこで変なのに襲われたの」

「ごめんやっぱり後にしよう、今立て込んでるから。あんたは雅を連れて戻って、おじいちゃんが待機してるから」

「あたしの話がまだ終わってないぞ」

「急いで、この林の中にコベットが大量にいる」

「……わかった。先にそっちの解決からだな」



 ひとまず別荘にたどり着き、記憶を操作させてもらうため、市居さんに事の経緯を説明した。

「そっか、そんな状況なら神流くんが急にカッコよくなった理由もわかるかな。それと、鬼石さんを好きになる理由も……」

「それで、あんまり言いたくはないんだけど、さっきの記憶を消させてほしい。もちろん市居さんを信用してないんじゃなくて、記憶があると危険だから」

 知らないふりをしていても、何気ない行動で知っているのがバレる危険もある。
 僕が御嶽天馬にバレたみたいに。

「折角いい思い出になると思ったんだけどな。あの鬼石さん、今日の記憶だけですか? 今までの記憶が消されたりとかはしないですよね?」

「ああ、今日の出来事だけだ。君は今日キャンプに来て、少し森を散歩した。そういう記憶になるだけだ」

「わかりました。それまで休ませてもらってもいいですか?」

「構わないよ。疲れたまま記憶の操作は危険だからね。秋良くん、二階の空き部屋に案内してあげて」

 空き部屋に案内しベッドに座らせ、下に戻ろうとしたが、市居さんに裾を掴まれる。

「どうして、神流くんは鬼石さんを好きになったの? 鬼石さんが助けてくれたから? それとも美人だから?」

「実はよくわかってないんだよね。どのタイミングだったかわかんない。だから一目惚れだったんだよ、きっと」

「もし、神流くんが鬼石さんと出会う前に告白してたらチャンスはあった?」

「それはないかな。焔さんがいなかったら今の僕は無いし、今の僕じゃなかったら誰かと付き合うなんて考えもしてない。だからそのもしもはありえないよ」

「なんだ、最初から私が入る隙なんてどこにもなかったんだ……」

 ぐっと体を引き寄せられ、背中が押さえつけられる。
 彼女の嗚咽を聞き、僕はそこを離れることができなかった。
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