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 並ぶ参考書を手に取るも、いまいちな内容に買えず悩む俺は、待ち人は早く来ないかと、息を吐く。昨日の夜、雅から交流試合を前日に控え、バァの家で練習をする前に会えないかと、光臣の携帯から俺宛に電話がかかってきた。保護者の送迎があるから平気だろう、と、了承して、当日泣き喚く檜山を残し、待ち合わせ場所に来たは良いが、やはり車と人の足ではかなりの差がある為、待ち時間を持て余している状態だ。平から譲り受けた参考書と、雅に勧められた参考書は凄く良い内容だった。あの後に自分でも買ってはみたが、どうもやりごたえがない。学校で使う問題集も飽きたし。同じ出版社から出していても、ピンからキリまで有りすぎて選別が難しい。出来れば光臣に合う参考書もと思ったが、難しいかもな。
「これお勧め」
 後ろから伸びてきた手が一冊の本を触る。その手を辿るように振り返ると、意外な人物が後ろに立っていた。
「光臣にはこの辺とか良いと思うけど」
 平は俺の視線を無視して、棚に並ぶ本を手にとって差し出してくる。勧められた本を手に取って内容へ目を通す。確かにこれなら光臣のレベルにあってる。薄い本だから目に入らなかったが、確かに分厚いものよりも、薄い方が気軽にやれるかもな。最初に勧めてもらった本の内容もなかなかに良い。
「こういう本の見つけ方って、何かコツがあるのか?」
「勘」
 平の言葉に項垂れる。俺には絶対に備わってないものだ。
「多木崎はこういう時の判断は早いよね」
 平の言葉を、眉をしかめて考えていると、手に持っていた本を一冊取られ、背表紙を数ページ捲って見せてくる。
「出版社から探す方法もあるけど、後ろのページに関係者が印刷されてるから、それで探す方が早く見つかる。ネットでも関連書籍は出てくると思うよ」
「そうか。そんな探し方考えもしなかった」
 ネットで探すのは苦手だから、必要な時は未来に頼んでみるか。今回は光臣用の参考書として買いはするが、未来も共有で使えるかもな。
「面白い組み合わせだな」
 待ち人の第一声に、そうだろうか、と少し考える。まぁ、薫が居ない環境で会うというのは珍しいかもしれない。
「薫がバイトだから暇潰し。そっちは待ち合わせしてた?」
「まぁな。つーか、この際千秋も顔貸せ」
「何で?薫の居ない環境で二人と関わる事に、全く意味を感じないんだけど」
 本当に薫中心の世界で生きてるんだな。
「千秋は俺達を、きちんと自分の友達として認識しろ」
 雅の言葉に、千秋は不意打ちをくらったような顔をした。
「友達ゼロ人だと思ってたら大間違いだからな。関わり方とか、距離感とか、今からでも間に合うから色々考えろ。行くぞ」
 平の右腕を掴んで店の外へ行こうとする雅を呼び止め、持っている本を見せる。
「買ってくるから、外で待っててくれ」
「解った」
「承諾してないんだけど」
「うるせえ」
 有無を言わさず店の外へ平を連れていく姿に肩をすくめ、レジへ向かう。自分の友達、か。雅の言うことも解るような気がする。学校での平を知らないから、クラスの人とどう過ごしているのかは解らないが、雅があそこまで言う位に無関心だと言うことは想像できた。未来以外の友人を必要としていなかった時の俺みたいだ。まぁ、二人の間で何かがあったのは事実として、俺は何の為に呼ばれたんだろうか。疑問を抱えたまま会計を終え、外で待つ雅と平の所へ足を動かす。
「悪い、待たせた」
「全然平気。さて、カラオケ会議といくか。千秋の分は俺が出すから文句言わずに付いてこい」
 千秋の左腕を引いて歩き出す雅の背中を見ながら足を動かす。今日の雅はいつも以上に行動的だな。
「今日の雅、俺に対する当たり強すぎない?」
 平からの質問に頷く事で答える。
「遠慮してたら友達認定されないからな」
 俺よりも先に知り合っている雅が、友達と思われていないというのは不思議だ。交流試合前に、少しでも問題は解決しておきたいってところか。前回行ったカラオケとは違う方へ歩く雅の背中に、首を傾げそうになったが、エレベーターに乗った時、建物の案内図にカラオケを見つけて納得する。カラオケって、どこにでもあるんだな。エレベーターが止まって開いたドアの先に、カラオケの入り口が正面に見えて息を吐く。カラオケの空間って好きになれないな。レジカウンターに行くと、学生証の提示を求められた。制服着てるのに提示が必要なのか。思い出せば、前回も制服着てたっけ。とにかく面倒だ。鞄の中から生徒手帳を探すのに二分近く掛かった。
「何で前回と違うところにしまってんだよ」
「教科書とかのかさばり具合でよく変えるんだ」
「あるよね。そういうの。把握はするべきと思うけど」
 平のもっともな言葉に返す気力もない。
「善処してみる」
「絶対改善しない方に一票」
「俺も」
 千秋の言葉に雅も賛同する。俺も一票を投じたい。
「ドリンクどうすんだ?」
 ここもドリンクは飲み放題らしい。フードは最初から有料か。
「コーヒー」
「俺も」
「全員コーヒーで」
 店員が説明をしてる間、平は携帯を操作していた。薫に連絡でもしてるんだろう。何でそんなに逐一ちくいち報告しあう必要があるのか、俺には理解出来ない。部屋を伝えられて、三人分のコップが乗ったトレーを受け取り、慣れた足取りで前を歩く雅に黙って付いていく。部屋に入ると電気はすでに点いていて明るかった。
「帰って良い?」
「駄目に決まってんだろ!大人しくお縄につけ!」
「何時代の人?」
 二人のやり取りが面白くて少し笑う。丸椅子に雅が座った為、俺と平はソファーに座る。左側に座った平は、退屈そうに息を吐き出して携帯を見る。その携帯を雅が奪う。
「今日の雅、どうしたの?」
 平の質問に、解らないと首を左右に振る。雅は少し視線を泳がせて、言葉を探しているようだったが、諦めたように息を吐いた。
「友達何人?」
「オブラートに包んで言いなよ」
「悪かったな!出来なかったんだよ!」
 オブラートに……駄目だ、俺も直球しか出てこない。そもそも、何で雅はそんなことを聞くんだ?
「千秋にとって、友達ってのは借り物みたいなもんだろ?」
 雅の言葉に平は目を細めて微かに笑う。
「以外と的確な所をついてくるね」
 借り物。なるほど。檜山達との関係は親戚である鹿沼を通して知り合い、雅達とは薫を通して知り合った。けれど、望んだ訳ではない。望んだのは薫ただ一人。薫は違う。平を望んでいるのは確かだ。違うのは、他に大切な人達がいる事。薫には雅達という友達がいる。薫に友達との事を聞かれた時、何も答えられない自分では居たくなかった。だから、檜山達と行動を共にして、薫へ提供する話題を確保したんだろう。そして、薫の友達として紹介された雅と光臣を、快く受け入れた振りをする事で、借り物の関係が出来あがった。
「だから何?正式な友達になりたいとか言うの?」
「そこなんだよ」
 雅は腕を組んで宙を睨んだ後、ゆっくりと平へ視線を戻す。
「何で薫の気持ち無視すんの?」
 グラスに伸びていた平の右手が止まる。
「薫が俺達と千秋を会わせた理由が、光臣の為だけだと本当に思ってるのか?薫はもっと、千秋にとっての……」
「黙れ」
 雅の言葉を遮る声は、冷たく凍てつくようだった。それでも、雅は平に恐怖を感じるわけではなく、真っ直ぐに向き合っている。平はそんな態度を鼻で笑う。
「本当に面倒なヤツ。自分の問題そっちのけで人の心配するとか。どんだけ良い子で居たいの?薫が俺の交遊関係を心配してるのは知ってる。でも、それが何?最後は二人だけになるのに、他って必要?」
 平の言葉に、以前の自分を思い出す。俺もそうだった。そう決めつけて生きて、死ぬんだと。それを疑いもしなかった。
「必要だから、知ってほしかったんじゃないのか?」
 目の前のコーヒーに視線を落として、そこに映る自分を見ながら、言葉を続ける。
「僕も、未来以外は要らないと決めつけてた。でも、皆に出会って、見限ったものの中にも、意味があったんだなって気付かされたのも事実だ。モノクロならモノクロで良い。でも、前よりも星が綺麗に見えたら、それは良いことなんだと思えるようにはなった」
 ゆっくりと瞬きをして、平へと視線を動かす。
「もっと沢山の世界を、平と見たいんだと思う」
 平の瞳が、戸惑うように揺れる。同じものを見て綺麗と言葉を紡いで終わるのではなく、あの色が好きとか、たくさんある星のどれかを指で辿ったりして、綺麗を伝え合いたい。そんな細やかな幸せを、薫は見つめていたいのかもな。
「演技だらけの仮初めの世界じゃなくて、本当の世界を見たいんだと、思うんだ」
 少し考え込んだ平は、長く息を吐き出す。
「だからって、今更友達になってとか、気色悪いし」
「口に出す必要ないじゃん。俺等皆、千秋とは友達だと思ってるし」
 雅の言葉に、平は呆れた様に息を吐く。
「おめでたい頭だね」
「褒められとく」
「それはどうだろう」
「ははっ。平の方は、解決したと考えて良さそうだな」
 皮肉のような言葉も、雅には効果が無いらしい。
「千秋で良いよ。友達でしょ」
 何でもないように言う姿に、雅は嬉しそうに笑う。
「そうだな。千秋のおかげで参考書には困らなそうだ」
「俺本屋じゃないんだけど」
「ぶっは!」
 声を出して笑う雅を冷めた目で見る千秋は、今までと変わらない様に見えた。けど、それで良いんだと思う。
「で、俺への用事って何だ?」
「茜の元婚約者、もう悪いことしないって」
「「……は?」」
「そんなハモらんでも。いや、こないだ声掛けられてさ……」
 学校へ向かう途中、バカ女に遭遇した雅は、男心を教えてほしいと言われ、相談に乗ったらしい。俺だったら無視してる事を、平気でやってしまう所は凄いと思う。同棲してた相手との関係がこじれ、八つ当たりしてしまったのが原因のようだ。本人もあそこまでの騒動に発展するとは思っていなかったと、反省していたらしい。今後は八つ当たりではなく、きちんと恋人と向き合っていくと約束した、と、最後まで静かに聞いてから俺は長い息を吐く。八つ当たりがあそこまで大事になるって、一体どんな内容をネットに書き込んだんだか。それにしても、ネットに書き込んだ些細な一言が、何十もの人間の恨みを引き寄せるなんて。日頃の行いとはいえ、少し恐怖を覚えるな。まぁ、今回の話は檜山の保護者に伝えておいた方が良いだろう。
「話は変えるけど」
 千秋の方から話題を変えるのは珍しいな。
「雅、大和とセックスしてないでしょ」
「ごふっ」
 雅はコーヒーを上手く飲み込む事が出来ず、盛大に咳き込む。慌てて立ち上がり、右手で雅の背中を擦る。
「変えすぎだ。せめて飲んでないタイミングで言うべきだろ」
「うん。善処してみる。なんでセックスしないの?」
「「(善処どころか反省すらしてないな)」」
 落ち着いた雅は何度か深呼吸をして、体を落ち着かせる。
「平気か?」
「おう、ありがとう」
「で、何で?」
「ごめん位言えっての!」
 雅の正論に深く頷き、千秋の隣に座り直す。
「千秋は何でそんなことを聞くんだ?」
 俺の質問に、千秋は俯きながら口を開く。
「……って」
「悪い、聞き取れなかった」
「……薫が、慣れるまでは大変って、言ったんでしょ?」
 千秋の言葉に雅は息を長く吐く。
「まだ引きずってんのかよ」
 話が飲み込めない俺は、雅に詳細を教えてほしいと頼む。どうやら、きっかけは薫の大好きな恋ばならしい。大和との進展具合を聞いた薫は、男同士でのセックスに伴う負担を心配してくれたが、心配を口にする度に、自分自身羞恥心を感じ千秋に助けを求めた。けれど、千秋に恋ばなの内容など当然話せるわけもなく、トイレに閉じ籠ってしまったわけで。薫らしいと言えば薫らしい。千秋は当然雅から事情を聞いて、その後泣きじゃくる薫を宥めるため奮起したそうだ。
「やっぱり、負担とかそう言うのが足枷になってるとか?」
「(付き合ってねぇからだよ)」
 両手で頭を抱え込む雅の姿に同情する。いっそ言ったらどうだ?と、目配せすると、更に考え込んでしまった。そもそも、二人の言う男同士のセックスが解らない。
「なぁ、男同士のセックスって、どう成り立つんだ?」
 悩む雅を前にして申し訳無いのは、男同士のセックスに関する知識がない為、一緒に悩めない事だ。疑問を口にしただけなのに、雅と千秋は口を閉じて固まってしまう。些細な質問だと思っていた俺としては、予想外の空気の重さに言葉を無くす。
「あぁ、うん、そっか。幸慈はそうだよね。んー……教えるべき?」
「俺に許可取ってどうにかなんのか?」
 言葉を濁す二人に、良からぬ事を聞いてしまった様で、罪悪感が募る。
「言い難いなら無理しなくて良い。知らなくても生きていけるだろうし」
「まぁ、あれだ。時が来たら茜が教えてくれるって」
 さらりと言ってのける雅の言葉に眉をしかめる。
「何で檜山なんだ?不安要素しかない」
「俺達皆そう思ってるから安心して良いよ」
 千秋の言葉に頭痛がする。
「待て、今のどこに安心する要素があるのか説明してくれ」
「茜の事はどう思ってるの?」
 何故今それを聞く?
「どうでも良い」
「「うわー」」
 今目の前にある不安要素に比べればどうでも良い。そもそも不安要素の塊に、興味を示す人間がいるとも思えないが。檜山に教わるよりも、個人的に調べた方が良さそうだな。けど、どうやって調べれば良いんだ?薫に聞くのはやめた方が良さそうだし、未来に聞いても、知ってるなんて確信は無い。鹿沼に聞くのはどうだろうか。いや、未来と鹿沼の関係を考えると、聞いた後の気まずさを引き摺りそうで、名案とは言えない。消去法で行くと神川しかいないか。
「もー、大和にでも聞けよ。割って入って要らぬ火の粉浴びたくねぇし」
「同感」
「教えてくれると思うか?」
「「思う」」
 断言出来る要因を知りたい。
「茜の事だからキスくらいはしてると思うけど」
 確かにしてるが、何故、してる、と、言い切れるんだ?いや、今までの行いを思えば容易に想像できるか。
「何も感じないの?」
 千秋の言葉に首を傾げる。
「何も……例えば?」
「警察に届け出た方が良いよ」
「飛躍しすぎだって」
「好意の無い相手からの合意のないキスは犯罪だよ」
「(それを言うなら大和も犯罪者だな)えーっと、されてなんともないのか?」
 檜山とキスをした時って、まともな状況じゃなかったからな。最初はストーカーに対する牽制が目的だった。後はチークキスを間違えた時くらいだな。
「怪我はしていない」
「そうじゃねぇんだけど」
「前々から思ってはいたけど、こっちの予想とは大分ずれた返答をするよね。まぁ、だから幸慈は幸慈なのかもしれないけど」
 どう返事をするのが正解なんだろうか。
「つーか、薫と同棲して一年以上経つんだろ。それくらい遠慮せずに聞けよ」
「またトイレに閉じ籠ったらどうすんの?」
 話が戻った。
「ドアを壊すしかないか」
「人の家の事と思って簡単に言ってくれるね」
 俺の疑問なんかどこ吹く風だな。同じやりとりを繰り返す姿に、友達どうこうなんて会話は、必要なかったんじゃないだろうか。まぁ、千秋もどこか吹っ切れた様に雅に接しているし、薫との問題も、時間が上手い具合に解決するのかもな。時間をかけていられればの話だが。堂々巡りを繰り返す二人のやり取りを、遮るように備え付けの電話が鳴る。それに雅が出て、延長しないと告げた。
「帰るぞ」
 雅に言われて、コップをトレーに乗せ、鞄と一緒に手に持って立ち上がる。千秋が部屋のドアを開け、雅が最後に鞄を手に部屋を出たのを見届けて、ドアを閉めた。千秋が、会話を切り上げられた事に対する不満を、ぼそぼそと口にしているのを後ろに聞きながら、カウンター近くへ来ると、意外な人物が店内へ入ってきたのに気が付いて足を止める。
「お、マジで居た」
「薫のお使い御苦労様」
 千秋は神川来るのが解っていたみたいに出迎える。
「雅も居るかもって言うから来てみたんだよ。幸慈も一緒とは思ってなかったわ」
 返却口にトレーを返して、カウンターを離れ神川の近くへ向かう。確か、神川に聞くなら問題無かったよな。
「神川に聞きたい事があるんだ」
「んだ?珍しいな」
「「ちょっと待った」」
 雅に右腕を千秋に左腕を捕まれて、神川から数メートル離される。
「こんな人前で聞くことじゃないだろ」
「せめて口にしない形で伝えなよ」
 俺が何を聞こうとしたのか察した雅と千秋は、声をひそめながら、この場で言葉にして聞くことを反対してきた。
「口にしない……紙に書いて渡すのは有りか?」
「「それなら有り」」
「三人の距離感近くなってねぇ?」
 怪訝な顔をする神川の前まで戻って、本屋のレシートとペンを鞄から取り出し、用件を書き込む。レシートを神川に見せると、それを見たまま動かなくなった。
「何で俺?」
「二人が神川に聞けって」
「ほぉ」
 神川は俺の後ろにいる雅と千秋を交互に睨み付ける。
「じゃ、頑張れよ大和!」
「恋人見捨てる気か?おい」
「検討を祈ってる」
「一ミリも思ってねぇ事祈ってんじゃねぇよ」
 神川も教えるのは渋ってるみたいだな。諦めるしかないか。レシートとペンを元の場所にしまうと、後ろから首襟を捕まれて強く引っ張られる。俺に手を振る雅と千秋に、同じ様に手を振り返す。それを確認した二人は、逃げるように出口へ向かう。
「そこの二人、今度会ったら覚えてろよ」
 そう言ってカラオケのカウンターへと向かう姿に、さっき似た光景を見たな、と、思い出す。
「またカラオケか?」
「大っぴらに話せるかバカ」
 確かにセックスに関しての話は、人が行き来するところで話すのは良くないな。周りの人に不快な思いをさせてしまうところだった。反省した俺は、再度会計をして、さっきとは違う部屋に神川と入る。雅とは正反対に、神川はソファーへ鞄を放り投げ深く座った。テーブルを挟むように丸椅子へ座り、もうひとつの椅子へ鞄を置く。互いにコーヒーを飲んで一息ついてから、神川が先に口を開いた。
「で、何で知りてぇの?」
「特別知りたいわけではない」
「あ?(茜と恋人になったってんじゃなさそうだな)」
「ただ、知っていた方が、悩みを理解しやすい気がしたんだ」
「悩み?」
 悩み悩み、と、呟きながら記憶を辿る神川は、何か心当たりがあったようで、あぁ、と、声を溢す。
「……千秋のやつ、まだ引き摺ってんのか?」
「そうらしい」
 雅と同じ事を言っている所を見て、大まかな説明はしなくて良さそうだと安堵する。
「で、何で俺?」
「二人が、聞くなら神川が適任だと」
「マジで覚えてろよ」
 セックスの方法を説明するだけなのに、何故そんなに頭を抱えるのか解らない。
「学校で教わる分の知識はちゃんとあるから安心しろ」
「(どう安心しろってんだよ)」
「教わる分の知識というのは……」
「言うな。そんなもんは俺だって解ってんだよ」
「すまない」
 何だか、確実に迷惑をかけてしまっているな。謝って帰った方が良さそうだ。
「頼まれたからには教えるが、自分が女側だって事を理解したうえで聞けよ」
「女側?解らないが解った。宜しく頼む」
「それ、解ってねぇから。えーっと……まず完結に言うと、ケツの穴を使う。それが女の穴に入れる代わりに使う場所ってわけ」
 神川の言葉を何度も頭の中で繰り返すも、理解が出来ず眉をしかめる。
「あれは排泄するための場所だぞ」
「言うと思った。現実問題使うんだよ。ローションで濡らして、指で慣らした後に入れんの。初日は慣らすだけで痛いだろうから、すぐに入れるのは無理だと思っとけ。慣れてきたら出し入れもするし。避妊関係無くゴムは使うからな」
 未知の世界過ぎて頭が追い付かないが、神川が俺をからかっているとも思えない。取り敢えず、聞き慣れない言葉を理解する所から始めよう。
「ろーしょんって?」
「んーーーー(いっそ茜と実戦してくんねぇかなぁ)」
 神川は携帯を操作し始めながらも、説明を続けてくれる。
「女は体の作り上濡れるけど、男は濡れねぇから、代わりに使う潤滑用品。こういうやつ」
 神川から携帯を差し出され、大人しくそれを受け取る。
「下にスクロールしてみ。色々出てくっから」
 言われた通りにスクロールすると、ローション、という名目で、写真が並んでいた。
「神川に聞けって言われた理由が解った」
 携帯を返すと、神川は眉間に皺を作った。
「複雑な事言うんじゃねぇよ」
 何が複雑なんだろうか。こんなに種類があるということは、需要は高いと認識するべきだな。
「女もローションマッサージとか好きだからなぁ」
「マッサージにローションは必要なのか?」
 檜山にしてもらった時は、そんなもの使わなかったな。
「前戯でな」
 また知らない単語が出てきた。
「ぜんぎ?」
「んーーーー。何も知らないまま茜に抱かれてろ。その方が平和で良い」
「断る」
「あんなに好き好き言われて、嬉しいとか一ミリもねぇの?」
「無いな」
「ぶっは!はははっ!マジでか!」
 ソファーに横になって笑い出す姿を見て息を吐く。檜山をどうでもよく扱う度に笑ってる気がする。
「あー、ははっ、腹いてー」
 雅も苦労してるんだろうな、と、神川を眺めて思う。
「はー、笑った笑った。で、何だ?前戯だっけ?」
 神川の質問に頷くことで答えると、俺を手招きして、隣に座るように言ってくる。疑うことなく神川の左隣に座ると、右手の人差し指を俺の唇に当ててきた。
「キスして、体を撫でたり」
 唇に当たっていた人差し指が徐々に下へと下がっていき、へその辺りで止まる。
「触り合えば、興奮してセックスへの性欲も増すってわけ」
「それは、好き、だからだよな?」
「当然の事聞くなよ。茜も幸慈が好きだからキスしたり触ったりしてんだし」
「そうなのか?」
「はははっ、そこは茜に聞けや」
 俺の頭をグシャグシャに撫でる神川の手付きは乱暴だが、痛みはなかった。
「うるさいだけだからな」
「ははっ、そりゃ違いねぇわ」
 好きでもない相手とセックスするのは何でだと思う?それがどうしても聞けなかった。檜山の今までの関係の事だけで言うなら、平気で聞けたかもしれない。けど、それに関しては鹿沼も含まれてしまう。それは、未来を傷付ける事に繋がる可能性が高い。だから、口には出せなかった。
「俺は毎日考える」
 神川の言葉に、意識が引き戻される。
「雅の髪の感触、肌から伝わる温度、鼓膜を揺らす声。考えない時は無い。今だって、欲しくて欲しくてたまんねぇ」
 そこまで雅を想っているのに、それが簡単に報われることはない。神川もそれを知っている。知っていて、それでも求め続けるのは、どんな気持ちなんだろう。
「茜だって同じ。幸慈の事ばかり考えて生きてんだぜ」
 その言葉に、吐き気がした。
「それもいつか終わるさ」
 そう言った俺の両頬を神川が強くつねる。あまりの痛さに、神川の頭を叩いたり、手の甲をつねり返す。痛みを訴えて手を話した神川は、俺の頭を叩いてきた。
「んな力どっから出てくんだ!」
「こっちの台詞だ!少しは手加減しろ!」
「はっ、年相応も出来んじゃねぇか」
「は?」
「考え方が大人過ぎんだよ。少しは子供らしく感情任せになれや」
 神川の言葉に瞬きを繰り返す。思い返せば、神川とこんな風にやりとりをした事は無かったな。そう思うと、何だか少し照れくさい。
「ははっ」
「面白い事言ってねぇだろ」
「ひねくれてる人間に、そんな事言われるとは思ってなかった」
「もういっぺんつねるか」
 伸びてきた神川の手を見て、反射的に両頬を両手で隠す。互いに睨み合って動かないで居たが、その光景が面白くて、どちらからともなく、笑い出す。感情任せに、ではないが、こんな風に笑い会うのは悪くないと、最近になって思う。そう思えるからこそ、怖くなる。安易な選択をして、取り返しの付かない事を、いつかしてしまうのではないかと。
「ピアノ」
「ピアノ?」
「駅で弾いてたろ。誰に教わった?」
 ソファーに背中を預けて、少し息を吐く。今更聞いてくるとは思わなかったな。俺に関心がある様に聞こえるが、実際は違う。解っているからこそ、不快ではない。
「雅から練習場所聞いてないのか?」
「悪いかよ」
「いや。本物だって知らないことが沢山有るだろうし。それを考えれば、偽物はそれ以上有って当然だ」
 俺の言葉に、神川は気まずそうに目を反らしてから、座り直す。
「やっぱり知ってたか」
「僕だけだ」
「そりゃ助かる。(だから幸慈ばかりに頼ってたわけか)で、きっかけは?」
「ピアノか?それとも知った事に対して?」
「両方」
 雅が絡む時だけ、神川の顔からは微かに余裕が無くなる。いつもは何を考えてるのか解らないが、こういう時は解りやすいと思う。だからこそ、これが原因で雅が傷つくのではないかと心配にもなる。
「ピアノは祖母から。子供の頃入院してた病院を退院してから、しばらくは祖父母の家で世話になってたんだ。家の建て替えもあってな。その時に祖母が教えてくれた。まぁ、楽しかったし、結果的には良い方に働いたかな」
「父親の事があった後か」
「あぁ。雅とも、これがきっかけだった」
 皆でサンキューレターを贈ろうと作戦を立てた日に、形は違えど、愛を失った者同士だと知って、その日から連絡を取る回数が増えた事を話す。それを神川は少し考え込んで、ソファーに深く背中を預ける。
「何で幸慈なんだって、考えた」
 神川の方を見るわけでもなく、ただ声だけを聞く。一人言のように扱った方が、互いにとって背負うべきものでないと、判断してもらえると思ったからだ。
「(鏡合わせみたいなもん、か)」
「恋愛どうこうじゃないから安心しろ」
「それ、ちょっと疑ったわ」
 神川でもそういう疑いは持つのか。まぁ、神川が本気だった、と言って雅が落ち込む位の執着心はあるんだろうな。薫や千秋のように、両想いになればそれも無くなるのかと思ったが、実際はそうでもないようだし。
「俺よりも後に会ったのに、何でそこまで許されてんだよってな」
 ひょっこり現れた鹿沼が、あっさりと未来の特別になったのと同じ様なものだろうか。それを思うと、先とか後とか関係無いようにも感じる。それに、結局は今なんだろうし。
「死んだ相手は、高校生の雅を知らないだろ」
「まぁな。つーか、俺だって今より前の雅は知らねぇし」
 やっぱり、自分が知らない事ばかりに目を向けている。そんなの、足掻くだけ無駄なのに。
「でも、神川の方が、長い時間を一緒に過ごしてるんじゃないのか?」
「まぁ、受験期間だけ通ったみてぇだから、俺の方が長いだろうな。それが何だ?」
 俺なんかが言ったところで、と、言葉を飲み込もうとする自分を、今だけは抑え込む。
「死んだ相手が知ることの出来なかった雅を、神川は知っていて、これからも知り続けることが出来るのは、強みにならないか?」
 視線を感じて神川の方を向くと、まじまじと顔を見られた。
「何だ?」
「幸慈に化けた何かかと思って」
 化けた、とは失礼極まりないな。人の貴重な気遣いを何だと思っているんだ。神川を睨むと、軽い謝罪の言葉が届いた。
「ま、そう思えば、大分救われるか」
「今はそんな言葉すら信用出来ない。セックスの話も全部怪しくなってきた」
「人の貴重な親切心を疑ってんじゃねぇよ。つーか、恋ばなもカラオケでしたらしいな。歌わねぇのにお得意様じゃねぇか」
 言われて室内を見回す。確かにカラオケに来てマイクを使った記憶はない。カラオケすら人生で二回目だ。
「いや、恋ばなは違うカラオケ店だ。薫が割引券使いたいとか言ってたから、実際はどこでも良かったと思う」
「はっ、薫らしい。……紫陽花、か」
 大和の言葉に視線を辿ると、テレビに紫陽花が映し出され、今の季節に歌いたい曲ランキング、とタイトルが出てくる。全部知らない曲だな。いや、そもそもカラオケで、エリーゼのために、なんて選曲事態存在しないか。
「紫陽花がどうかしたのか?」
「まぁ(激弱の理由はこれだよな)」
 神川は携帯を操作して、何か考えている様だったが、よし、と、声が耳に届いた瞬間、立ち上がった。
「この後、時間あるか?」
「あ、あぁ」
「少し付き合え」
 男同士のセックスについて話が途中だったのを思い出して、コーヒーを飲み干した神川に声をかける。
「セックスの理解は諦めた。大切な知識は無駄にしないよう善処する」
「一応聞くけど、どう無駄にしねぇのか言ってみ」
「ローション市場は意外と需要がある」
 自信満々に言う俺の顔を見る神川は、どんどん呆れた表情になっていった。
「……経済の授業した覚えねぇけど」
 言われてみれば確かにそうだな。どれかというと、保健体育が一番しっくりくるんだが、何故そこに着地しなかったんだろうか。俺の分のコーヒーまで飲み干した神川は、備え付けの電話が鳴っていない事など、どうでも良いようにコップの乗ったトレーと鞄を持って部屋を出た。急いで鞄を持って後を追いかける。返却口にトレーを返して、エレベーターへ向かう姿に息を吐く。せめて今後の予定を教えてくれ。エレベーターのドアが開いて、中から男女が腕を組んで降りてきたので、避ける様に体を動かす。エレベーターに乗ってボタンを押す神川を尻目に、ああいうのが普通の光景なんだよな、と、頭の隅で思う。社会的には受け入れられ始めているけど、否定的な人が居なくなったわけじゃない。世界の男女差別に関しては、日本は堅物と言われるのも解る気がする。古き良き姿を、なんて、どれくらいの人が貫き通して生涯を終えるのだろう。俺には無理だな。何が良いのかも悪いのかも解らない。エレベーターは三階に止まって、閉じていたドアを開く。神川が何も言わずに降りたので、追うように俺も降りる。声くらい掛けてほしい。無言で前を歩き続ける背中を追いながら、通り過ぎる店に目を向ける。一人で来たら迷子になりそうな光景に息を吐く。神川が楽器屋に入っていくのを疑問に感じ足を止める。レジへと向かう姿を黙って見つめていると、案内するように歩き出した店員の背中を顎で指し、付いてくるようにと態度で示す。眉をしかめながらも、黙って付いていくと、一つの部屋に案内される。店員は鍵盤蓋を開け、すぐに弾ける環境を作ってから、簡潔に説明をして去っていった。明らかに防音室と解る部屋の中心には、グランドピアノが存在を主張している。神川は備え付けの本棚から一冊の本を取り出し、一つのページを開いて俺に見せてきた。
「別れの曲って、弾けるか?」
 説明無しでいきなり質問か。本を受け取り楽譜に目を通す。うん、習ったことのあるやつだ。
「弾けるが、この曲がどうしたんだ?」
「ちょっと、な」
 紫陽花の事を聞いたときと同じ顔をした神川を見て、雅の関連だとすぐに解った。
「なぁ、それ教えてくんねぇ?」
「構わないが、今更個人戦に出るのか?」
「出ねぇよ」
 だろうな。仮に出るとしても、もっと早くに対策してるだろうし。
「全部が無理でも、終わりの方だけは知っときたくてな」
 また妙な事を言うな。理由を聞きたい所だが、時間が限られている今、それは無駄と言うものだ。
「曲は聞いたことあるのか?」
「ネットで調べた。三分過ぎた辺りからの部分で」
 解りにくい。楽譜を譜面立てに置いて、椅子に座る。なんとなくだが、神川の言う三分は曲が終わりに近づいている頃の事だろう。それを考えてから、この辺りだろうかと、目ぼしい所を弾き始める。
「そう、その辺」
 神川の言葉に手を止める。
「そうか。細かく教えるよりも、今回は真似る形で覚えた方が良さそうだな」
「つーか、そっちのが得意」
 だろうな。神川を椅子に座らせ、左手だけを鍵盤に乗せてもらい、少し離れた鍵盤の上に俺も左手を乗せる。俺が一度弾くと、リズムは違えど、それを真似る指の動きはスムーズだった。
「右手は違う動きをするんだったか?考えただけで知恵熱出そうだな」
「出たことあるのか?」
「ねぇな」
「僕もだ」
 下らない話をしながら繰り返し動く指は、確実に目に見えて動ける様になっている。次に右手へと変えて動きを教えていく。右手と左手の動きの違いに、神川は顔をしかめながらも手を止める事はしない。雅の前でも、これくらい必死な姿を見せれば良いのに。雅は何が気に食わないんだろう。普通ならそれを考える。けど、それは違う。好きだと言われて喜ぶのは簡単。でも、嫌いと言われて泣くのも同じくらい簡単だ。失ったからこそ、選べない。届いていないわけじゃないが、知らないと振る舞った方が楽。離れそうにない気持ちを遣り過ごし、いつか遠くなるのを待つ。未だに狡いと思う。でも、他の方法を知らない。もう一回、と、頼まれる度、何度だって教えようとは思える。でも、雅を敵に回したような気持ちにもなるのも事実。でも、この時間は神川にとって、とても大切なものだと思うから。雅の中に神川が居ても、居なくても。二人にとって、この曲は、きっと大きな意味がある。俺の知らない衝動が神川を動かしている事くらい、勘なんかなくても解ってしまう。それくらい、今の神川は凛として映った。そして同時に思う。この衝動を知らなくて良かった、と。衝動任せに誰かを傷付ける恐怖を抱かなくて済む。あの恐怖を、誰かに与えるかもしれない。そう考えただけで、今日もまた、死にたくなる。アイツは、少しでも母さんを、無条件に愛してくれただろうか。望むなら、せめて、今の神川の様に。
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