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第三章 裏切り工作

信長の能臣・堀秀政

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 堀秀政ほりひでまさ――。
 生年うまれどし天文てんぶん二十二年(一五五三)である。秀吉の生年を天文六年(一五三五)と仮定した場合、彼らの年齢差は「十八」である。十五歳前後で元服げんぷく、結婚をする当時の武家ならば、このぐらいの年齢差の父子おやこがいても全然おかしくない関係である。
「堀秀政」と聞いて、どういう印象をお持ちだろうか?
 あまり印象のない武将――、と答える方も少なくなかろう。しかし、かれをあなどるなかれ、織田家においてはなかなかの地位を占める有力部将であった。
 それをすこし語りたい。
 堀秀政は、先祖代々美濃みの茜部村あかなべむらを領した堀家の出身で、秀政も堀秀重ほりひでしげの子としてその地で生まれたという。
 なぜかは不明だが、幼時ようじより伯父の堀掃部大夫かもんのだいぶのもとで養育され、長じて大津長治おおつながはる、また木下きのしたを名のっていたころの秀吉の下に付けられたこともあるという。秀吉と秀政は、秀政の少年のころよりの顔なじみということになる。
 永禄えいろく八年(一五六五)、十三歳のときから信長に仕えると史書に見える。
 成人してからは信長の側近という立場になる秀政なので、当時は小姓こしょうとして信長のかたわらにはべっていたと想像できる。
 いま現在伝わる史料から確認されるのは、十六歳の秀政が、新将軍義昭よしあきの仮の居所きょしょとなる本圀寺ほんこくじ普請奉行ふしんぶぎょうをになっていたことである。若くしてこれほどの重責じゅうせきを負っていた秀政の能力と立場を、その一事で理解することができる。
 詳説しょうせつはぶくが、二十五、六歳ころの秀政は、信長の一馬廻部将いちうままわりぶしょうという立場を超えて、柴田勝家や羽柴秀吉といった有力部将よりも立場が上という印象をうける存在であった。
 秀政が信長のお気に入りというだけでなく、有能な人物として、重宝ちょうほうがられていたとみるべきであろう。
 天正てんしょう十年(一五八二)五月、武田たけだ氏を滅亡させた信長は、本格的に毛利征伐もうりせいばつに力をいれることにした。それまで秀吉まかせだったが信長が中国へ出向くことになったのである。
 信長出発のその前に、秀政は秀吉のもとへ使いに出されている。備中びっちゅうに向かったのは同年五月の下旬と思われる。六月二日が本能寺ほんのうじへんだから、本当に直前に秀吉のもとに向かったのだ。
 既述きじゅつのように堀秀政は秀吉よりも立場がうえの存在であるかに織田家中でみられていた。しかし、本能寺の変が勃発ぼっぱつすると、秀政はそれまでの自身の立場をなかば捨て去ったかのように秀吉べったりになる。
 秀政はその切れる頭で、信長の後継者は秀吉であろうと思い定めたのであろうか?
 史料は何も語らない。
 しかし、その後のかれの行動をみるに、やはり、秀政は秀吉を自身の上に置いて、まるでそれまでも秀吉の一部将いちぶしょうであったかのように振る舞っている。
 そしてそれはこのあと起こる賤ヶ岳しずがたけの戦いでも変わらなかった。
 人間は一度高い地位にのぼると、その自尊心じそんしんがゆえになかなか自分の立場を下に置くことが難しいと思われるが、秀政は自身の立場をわきまえ、そのときそのときに応じて自分を変えられる柔軟性じゅうなんせいんだ人物であった。そういったところに、かれの有能さの片鱗へんりんをみることができる。
 ともあれ、本能寺の変という画期かっきさかいに、それまで信長の寵臣ちょうしんであった堀秀政は、秀吉の一部将として生まれ変わった。
 秀政の中ではそういう心理変化しんりへんかがあったやに思われる。
 堀秀政の紹介はそれまで。
 物語に戻る――。

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