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誠影

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 母が昔、僕に「あなたは子供の頃から、いつも大事なものを持って歩いていたの」と言っていたことを覚えている。

 幼児期は歯磨き粉や車のおもちゃ。

 小学生から中学生まではカードゲームのデッキ、携帯ゲーム機など。

 高校生の頃からは・・・・・・何だったっけな。

 大学生からはスマホか。

 ずっと片耳にイヤホンを付けて、好きな音楽を聴いていた。

 より正確にいうなら、「音楽を持ち歩いていた」ことになるのだろうか。

 どうやらその癖は大人になっても変わらないようだ。

 僕は今の家に移り住んでから、ずっと1人で過ごしてきた。

 しかし、今は違う。

 今の僕は、心の底から愛する女性と暮らしている。

 過去、自分の側に置いていたどんなものよりも価値がある。

 願わくばずっと、側にいてほしいものだ。



 この家に連れてこられて数日が経った。

 いつになったら、私をここから逃がしてくれるのか。

 今はそれだけが知りたい。

 外の景色を見た最後の記憶。

 確か、仕事帰りの夜だった。

 繁忙期ということもあり、その日仕事が終わったのは夜9時過ぎ。

 激務から解放された私はとにかく、早く家に帰りたかった。

 お風呂に浸かり、1日の疲れを取る。

 風呂上がりには缶チューハイひと缶と、休みの日に作り置きしていたおかずをお供に1話から観続けている恋愛ドラマを観て、しばし現実から逃れる時間を過ごす。

 いつもと同じ、仕事が終えた後の家での過ごし方。

 変わり映えもしない、ただの一社員の日常だけど、それでも私にとっては大事な時間。

 しかも今週末には、最近付き合い始めた彼と日帰りの旅行に行く予定を組んでいる。

 それまであと少しだから、いつも通り自分を労りながら頑張ろう。

 そう考えながら家を目指していた。

 しかし、その日だけはいつもと違うことが起きた。

 突然、後ろから知らない人に口元を抑えられる。

 何が起きたかハッキリとはわからなかった。

 ただし、今自分がまずい状況にあることはわかった。

 誰か、誰か助けて。

 声を上げようとしたが、今度は視界にナイフが映る。

 そして、

「静かにしていれば絶対に傷つけないから。乱暴することもしないから、とにかく静かにしていてほしい」

 後ろから私を襲った人が、私の耳元で小さく、震える声でそう語りかけた。

 どうやら男のようだ。

 その程度のことは理解できるくらい、私の頭はハッキリしているようだけど、体は恐怖で固まってしまっている。

 ただ後ろから抱きしめられただけなら、靴が脱げようが転びそうになろうが、死に物狂いでどうにか逃げようとするだろう。

 しかし、目の前の手にはナイフが握られている。

 優しい言葉をかけてきたが、それでも相手は夜に女性を襲う不審者だ。

 その男が言うことは信じられない。

 抵抗すれば何をされるかわからない。

 私はそのままその男に自由を奪われ、場所も目的も知らされないまま運ばれていった。



 君を観る度に、その美しさに惚れ惚れする。

 これまでは遠くからでしか君を観ることは叶わなかった。

 それが今、こんな間近で君を眺めることができる。

 黒い髪は艶があり、触れると滑らかな感触が手に伝わる。

 まるでシルクのようだ。

 肌は白く、きめ細かい。

 確か、少し高そうな化粧品か何かを買っていた気がする。

 普段から気を遣っているのだろう。

 鼻は高く、形も綺麗だ。

 詳しいわけではないが、きっと化粧では誤魔化しが効かないと思う。

 そして、猫のようなぱっちりとした吊り目。

 この目で見られることに、僕はまだ慣れていない。

 いまだに心臓の鼓動が速くなるのがわかる。

 外見的な美しさだけではない。

 食事の時にはちゃんと手を合わせ、挨拶をする。

 お店の店員には必ず敬語を使い、会計を済ませたら必ずお礼の言葉をかける。

 外で出たゴミは家に持ち帰る。

 そういえばこの前、お年寄りに道を訪ねられていたな。

 君もそこまでの行き方がわからなかったようだった。

 しかし、わざわざスマホで地図を調べ、一緒に目的地を目指してあげていた。

 そこまで他人に対して親切にできる人間が、他にどこにいるだろうか。

 しかし、これだけ完璧な君だ。

 きっとこれまでの人生で悪い男に言い寄られたり、付き纏われたりすることがあったのではないだろうか。

 大変だったと思う。

 目の前にいる女性の魅力を改めて実感している間、彼女は僕に震えた声で話しかける。

 少し怖い想いをさせてしまったこと、状況がまだ理解できていないこともあり、混乱しているようだ。

 そんな君に、「ここは安全だ」と優しく答える。

 そして、続けて僕の想いを伝える。

 僕は君を誰よりも大切にする。

 君の好みに合う食事を作り続けてあげよう。

 好きなブランドの服も買い与えよう。

 よく飲んでいるお酒も欠かさないように買ってきてあげよう。

 まだ途中のドラマも観させてあげる。

 君を傷つけようとする悪い男は殺してやる。

 僕が君を守るから。



「このことは誰にも言わないから、お願いです。家に帰してください」

 ここに連れてこられてしばらくの間はひたすら懇願していた。

 家に帰って、またいつもと変わらない日々を送れるならそれで充分だ。

 悔しいけど、この男が捕まらなくても、罰を受けなくてもいい。

 ただ私は、私が元いた日常に戻りたかった。

 しかし、その度この男は見当違いな答えを返してくる。

 加えて、その内容からこの男がこれまでずっと私をつけ回していたことがわかり、より恐怖を覚えた。

 どうにかこの手足を縛る男の拘束を解かなければ。

 そして、この男から離れ、この男がいるこの場所から逃げ出したい。

 そう願い続けたものの、私が逃げ出す機会など来ることはなかった。



 料理は嫌いじゃない。

 自分だけの為でも、そこそこ栄養バランスや見た目には気を遣った。

 それが今は、愛する女性のために料理ができる。

 君はいつも、朝にトーストとヨーグルトをかけたグラノーラを食べていた。

 君はいつも、昼に自分で作ったお弁当を同僚の女性と食べていた。

 君はいつも、夜に鳥の胸肉と野菜を和えたサラダを食べていた。

 休日のお昼には時々、駅から少し歩く距離にあるカフェに行っていたね。

 そこでは小倉トーストとサラダ、カフェオレのセットをよく頼んでいた。

 毎回そんなことを考えながら、見よう見まねで同じメニューを作った。

 いつもの通り、作った食事を持っていく。

 しかし、やはり今回も食べてくれない。

「困ったな」

 過度なルッキズムがそうさせるのか、極端な食事制限は良くない。

 身体を壊してしまう。

 後でまた様子を見ることにしよう。

 もしダメなら、せめて栄養剤でも飲んでもらわなければならない。

 君には生きていてほしい。

 残した食事は僕が食べればいい。

 彼女の体調を心配しつつ、寝室を出た。



 食べてやるものか。

 知らない男が作った料理。

 何が入っているかもわからない。

 そんなものを誰が口にするというのか。

 ここに連れてこられて今日まで、この男は3食欠かさず食事を持ってきた。

 そのことから、私を殺す気が無いことはわかった。

 今のところは、だが。

 しかし、私のここで過ごす時間における、その微かな安心材料が吹き飛んでしまうような衝撃もまた、食事が理由だった。

 私が連れ去られた次の日、その食事の内容にひどく恐怖を覚えたのを覚えている。

 朝はトースト、そしてヨーグルトをかけたグラノーラ。

 仕事に行くまでの時間が無い中で、最低限の栄養と食事を取れるようにといつも食べていたメニューだった。

 お昼は小倉トーストとサラダとカフェオレ。

 私が通っていたカフェの、お気に入りのメニューを模したものだった。

 そして、夕食として出されたのは私がよく風呂上がりに食べていた、鳥の胸肉と野菜を和えたサラダだった。

 この男は私が行きつけのカフェがどんなお店で、どんなメニューを頼んでいるのかを知っている。

 まさかそこまでつけ回されていたとは思わなかった。

 朝食と夕食は、おそらくどこかで友人にでも話をしたのかもしれない。

 そう信じたい。

 家の中の様子まで見られているなんて、考えたくもない。

 考えただけで鳥肌が立つ。

 ニュースでよく、ずっと付き纏われていたストーカーに女性が殺される事件を目にしていた。

 観る度に「怖いな」なんて、テレビ越しにどこか他人事のように考えていた。

 それが今は、私自身が事件の当事者だ。

 もう涙も涸れた。

 いつかあの男も、私が思い通りにならないことに腹を立て、殺そうとするのだろう。

 そうなる前に誰か、私を見つけて助け出してほしい。



 度々CMを目にしていたので、彼女が観ているドラマを調べることは簡単だった。

 内容としては似たようなものはどこにでもありそうな恋愛ドラマだった


 正直少し気は進まなかったが、彼女のためにこれまで放送された話を観ることにした。

 なるほど、確かに面白い。

 これまでの人生で恋が叶ったことなど1回も無いため、恋愛ドラマは避けていた。

 観ると、ずっと抱いてきた劣等感が溢れ出そうになるからだ。

 しかし、今は愛する人と共に暮らす生活を送れているので、これまでとは異なり、純粋に物語を楽しむことができる。

 これまでの話を全て観終えたところ、ちょうど最新話が今日放送されることに気がつく。

 そしてその放送時間の5分前、テレビの前に僕と君で並んで座る。

 君がいつも、ドラマを観ながら飲んでいるお酒も用意した。

 最新話が始まり、お互いテレビの画面に目を向けながらも2人の時間を共有する。

 ふとした時に君の顔を見ると、今僕は満たされていることを改めて実感する。

 また、涙が流れる君の横顔も目に止まる。

 このドラマはフィクションだ、作り物だ。

 しかし、それでも観ている人間の感情を動かせる。

 素晴らしいものだ。

 これから先、このドラマのような恋愛を、他でもない君とできるんだ。

 僕の未来は明るいようだ。



 彼は今、何をしているだろうか。

 本当は今日、彼と日帰りの旅行に行くはずだった。

 私が連れ去られて数日、当然連絡は取れていない。

 だからきっと、私に何かあったと気がついてくれるはずだ。

 いつも観ている恋愛ドラマ。

 今日は内容が頭に入らない。

 好きでもない、興味もない男の隣で観たところで楽しめるわけがない。

 もしここから助け出されて気持ちが落ち着いたらまずは、彼と行くはずだった旅行に行こう。

 いつか、「もう大丈夫だよ」という言葉に始まり、「また来ようね」と言ってもらえるような日常を迎えられるよう願う。



 気がつけば私の手にはシワが増えた。

 鏡を見ていないからわからないが、おそらく顔にも少なからずシワが増えていると思う。

 攫われてから、どのくらい経ったのだろうか。

 少なくとももう、私は若くない。

 きっと付き合っていた彼も、私のことなんか忘れて別の人と付き合ってるのだろう。

 辛いはずなのに、不思議と悲しくはない。

 というか「悲しい」ってなんだっけ。

 思い出せないや。

 私を攫った男の気持ちは、あの時から全く変わらないようだ。

 当然、私を逃がしてくれる気もない。

 最初は細やかな抵抗として食事を拒否し続けた。

 彼はそれでも料理を運んできたが、拒否し続ける私を見ていつからか無理やり錠剤を飲ませるようになった。

 ついに殺されるのかと思ったが、どうやら違ったようだ。

 いや、いっそ殺されたほうが幸せだったのかもしれない。

 これからもずっとこのままなのだろうか。

 なんでこんなことになってしまったのだろうか。

 私が何か悪いことをしたのだろうか。

 一生懸命働き続けて、楽しみは友達や好きな人と出掛けること。

 普通の生活を送っていたはずだ。

(誰か・・・・・・)

 誰でもよかった。

 心の中で、ただただこの生き地獄から助け出される未来を願った。



 君と暮らし始めてもう10年程経った。

 お互い歳を取ったね。

 ただ、それでも君は美しい。

 ましてや、僕が君の中で最も好きな目の形は全く変わらない。

 ああ、僕の愛しい人。

 これまでの時間、君が歳を重ねても、痩せても、言葉を話さなくなっても気持ちは変わらなかった。

 そして、これからもそれは変わらないだろう。

 遅くなってしまったが、プレゼントだ。

 これまでの人生で1番高い買い物だったが、君のためなら惜しくない。

 箱を開け、君の薬指に嵌めた。

「良かった。ピッタリだ」

 つい安堵の声が漏れる。

 暮らし始めて随分と時間は経ったが、それでもちゃんと伝えるべきことは伝えなくては。

 改めて。

「今までも。そして、これからも。僕は君を愛し続けよう」
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