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稲妻
しおりを挟む入社間もない頃。社の所有する研修センターで、講師を招いてのセミナーがあった。
「現地集合だったんで、ひとりで向かって……道に迷ったんです。仕方なく、会場に電話して。応対してくれたのが水野さんでした」
「あー、なんかそんなの手伝いに行った気が……する……?」
頼りない佑の受け答えに、理央が眉根を寄せる。
「手伝いに駆り出されるのはしょっちゅうだし、三十路に二年も前の詳細な記憶求めないでよ」
しかもその頃と言えば、元恋人と別れたばかりだ。心を守るため、記憶は一層曖昧になっている。
「恥を忍んで会場までの行き方を訊いたら、凄く丁寧に対応してくれて……」
最後に自分はこう言ったのだそうだ。少し声を潜めて。
『万が一遅れちゃってもうまく言っときますから、急いで事故なんかに遭わないよう、ゆっくり来てくださいね』
と。
「……それだけ?」
新入社員相手だ。きっと当時の自分は、緊張をほぐしてやろうと思ったに違いない。でも、それだけだ。
それだけの、ごく自然にやったことを、ずっと覚えていた? カミソリ王と呼ばれる男が?
「電話だったので」
「電話、だったから?」
「変な話、対面だったら、贔屓というか――下心ありで丁重に扱われるのには慣れてます」
そう語る言葉に、自慢げな気配は一切ない。
「だけど電話じゃ俺の顔は見えない。入ったばっかりだから、実績もなにもない。なのにそ ういう言葉が出るってことは、本当にやさしい人なんだなって」
そんなふうに言われると、妙な居心地の悪さを感じる。
新入社員の世話を焼くのも、上司の目をごまかすのも、勤続九年にもなれば自然と身につく「面倒を避ける術」に過ぎないのに。
「水野さんの名前、ずっと覚えてました。こっちの支社の人だって知って、会えるのを楽しみにしてたのに――たまに廊下ですれ違っても、水野さん俺を気に留めてもくれなくて……こっちでも営業成績上げたら、気づいて貰えるかと思って、焦ってパソコン閉じる間も惜しんでて、すみませんでした」
「自分でも不思議でした」と理央は続ける。
「今まで、ずっと〈見られたくない〉って思ってたのに、水野さんには〈もっと見て欲しい〉って思ったんです」
予想外の告白に言葉を失っていると、理央は佑の手を取った。「しゃぶって」と告げたときとは、打って変わった恭しい仕草で。
「怪我がなくて良かった」と囁いて、慈しむように目を細める。
そんな顔もできるなんて、反則だ。
唇を押し当てながら、切なげな瞳がこちらを見上げる。
「……おれとのことも、無駄な工程ですか?」
不意に非常灯が明滅し、通常の照明が灯った。まぶしさに目を閉じる。
がたりという衝撃があったかと思うと、かごはゆっくりと動き出した。
八階、九階、とボタンが点滅し、徐々に地上が近づいてくる。
言わなければいけないことがある。
それはわかるのに、肝心のなにを言ったらいいのかということは、わからない。
沈黙の中に、チン、と微かな音が響く。到着階を示すボタンは、一階で点灯していた。閉じ込められていたことなど嘘だったように、あっさりと。
「――着きましたね」
理央が静かに言い、握っていた手を離した。
スーツの埃を払いながら立ち上がる。ドアが開くと、微かに雨のにおいを含んだ外気が入り込んできた。
ここで別れたらもう、話をする機会もない。
そう思ったら体は勝手に動いて、〈閉〉のボタンを押していた。
「――」
大きく目を見開いた理央の顔がこちらを見下ろしている。黒い石の中に包まれた、水晶の結晶。それを垣間見る度、どうしてか胸が弾んでしまう――
佑は理央のネクタイに指を絡めると、戸惑う端正な顔を力任せに引き寄せた。
唇が触れる。
初めは逃げた理央の唇が、ためらいがちに押しつけられた。
このままでは終わりにしたくない。
そう思ったのは自分のほうだったが、理央の熱は次第に強くなり、圧倒される。
いつしか両手を壁に縫い止められ、口腔を貪られていた。
「ん……、」
飲み下しきれない唾液が口の端から滴り落ちても、理央の愛撫は止まない。
それがたまらなく嬉しい。
三十過ぎたら恋愛はもういいなんて、嘘っぱちだ。
誰かに強く欲しいと望まれると、こんなにも魂が震える。全身が叫んでいる。
これが欲しかった、と。
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