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え――
最初に感じたのは熱だった。温泉の湯よりもはるかに熱い。
熱源が友人の素肌であることをやっと脳が理解して、飛びずさろうとしたときには、体はがっちりと捕らえられ、逃げることはかなわなかった。
「りゅうすけ、」
これはいったいなんだろう。どういうつもりなんだろう。名前を呼ぶ声さえおぼつかない。
はなせ、とかろうじて続けると「嫌だ」とはっきりと断られた。
「ずっとこうしたかった」
濡れた髪に、濡れた吐息が囁きかける。
ずっと?
「こう」の背負う意味がわからないほど子供じゃない。
でも、だめだ。
「なんだ、ここに来るまでにもう一杯ひっかけてたのか? 彼女と間違ってるのか。ほら、そろそろ上がって――」
「――」
「……ッ! りゅ、龍介」
腕に込められる力は、声と同じに怒りを孕んでいた。ごまかすな、ということなんだろう。
龍介に彼女がいないことなんか知ってる。訊ねたことはなかったが、いればきっと役所の誰かの口から耳に入る。そういう土地なのだ。
拘束する腕の力強さと裏腹に、龍介の声には迷いがにじんでいた。
「……俺たち、中二くらいまではほんとに毎日一緒にいたよな」
「う、ん?」
龍介の言葉の真意を掴めないまま、頷く。
厳格な祖父がいて、しょっちゅう親戚の出入りのある家は子供心にもあまり居心地のいいものではなかったから、椿は隙あらば龍介の家に遊びに行った。龍介の両親は仕事の都合でいないことが多く、大人のいない空間は子供にとって楽園のようなものだった。
ゲームも、体に悪そうででもそこが美味い駄菓子も、龍介の家がなければ椿はずっと経験しないままだったろう。
「でもいつの間にかおまえは来なくなって……俺はそれがずっと気になってた」
「おまえは、野球で忙しくなったから」
地元のシニアチームに参加していた彼は、次第にその才能を発揮して、練習だ遠征試合だと忙しくなっていったから、それで疎遠になったのだ。……ということにしてあった。今まで。
実際に足が遠のいたのは、殿様と小姓の話で自分が「そう」なのだと自覚して、徐々に人との距離を取っていったからだ。
唯一と言っていい友だちにすら自分のことを隠している。
龍介なら、自分がゲイだと知っても、蔑んだりしないかもしれない。
いや、でも。万が一――
一度でもそう思ってしまったら、心はもう凪には戻らなかった。
だから龍介が忙しくなったのを口実に接触を避けた。梓を出たいという気持ちがいっそう強くなり、その準備として城高に受かるための勉強に没頭した。それもまた都合のいい言い訳にして。
「おまえが好きだ、椿。 こういうことをしたいって意味でだ」
告げられると、混乱と哀しみのようなものがじんわりと目じりを濡らした。
「なに、言って……俺たち、男同士だし、友だち、だろ?」
「……おまえがそう思いたがってるのはわかってる。おまえがそれを望むなら、ずっとそれでもいいと思ってた。俺はそもそもそっちじゃないし」
そっちじゃない。わざわざそう口にされるということは、椿が「そっち」であるということは、ずっと知られていたということだ。こちらに戻って二年と少し、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
息を詰めた気配が伝わったのだろうか。龍介の声から、不意に怒気が消えた。
「……おまえが隠したがってるのは、ずっとわかってたのにな」
龍介は椿の肩に額を押し当て、はあ、と息を吐く。龍介にひどく不似合いな切ない響きに、どうしたらいいのかわからなくなる。素肌に触れる濡れた髪は冷たかった。
龍介は、吐息の終わりに「あいつが」と重ねた。
「あいつが現れなきゃ、ずっと黙って――外野に色々言われはするだろうけど、お互い結婚しないで、ずっと隣にいられりゃそれでよかった。この辺りだって、一生独身の男がまったくいないって訳じゃないしな」
「あいつ……?」
「早坂だよ」
龍介は、子供が嫌いなピーマンの話をするときのような声でそう言った。仕事の場では「さん」をつけていたのに――いやそんなことより。
「あいつと、この状況と、なんの関係が?」
「みんなおまえとあいつをニコイチにするだろ。ゲイだって公言もしてる。あいつは図々しい渡り鳥だ。よそからやってきて、おまえをかっさらう。……そう思ったら」
「ゲイ同士、周りにたきつけられたらすぐどうにかなるって? やめてくれ。そういうのが一番腹立つ」
言い放つと、龍介の腕の力がわずかだけゆるんだ。胸板を押しやり、逃れようともがく。龍介は一瞬だけ叱られた小学生のように心細そうな顔をして、すぐに我に返ると、あらためて逃げようとする椿の手首を強く掴んだ。
「い……ッ!」
露天の湯が、嵐に翻弄される海面のように揺れる。龍介は少しだけすまなさそうな顔をしたものの、解放してはくれなかった。
「たきつけられたくらいでどうこうなんて思ってない。そのくらいじゃ、こんなに焦ったりしない。だけど明らかにおまえ、あいつが来てから」
俺が?
いやだ。その先は聞きたくない。
「……!」
椿は闇雲にもがいた。湯が跳ね、派手な音を立てる。
「お客様?」
洗い場のほうから従業員らしき声が聞こえたとき、龍介に隙が生まれた。
屈強な腕を振り払い、水音をたてて立ち上がる。従業員にことさら存在を知らせるように――龍介が追って来られないように――ざばざばと湯をかき分けて、風呂を後にした。
最初に感じたのは熱だった。温泉の湯よりもはるかに熱い。
熱源が友人の素肌であることをやっと脳が理解して、飛びずさろうとしたときには、体はがっちりと捕らえられ、逃げることはかなわなかった。
「りゅうすけ、」
これはいったいなんだろう。どういうつもりなんだろう。名前を呼ぶ声さえおぼつかない。
はなせ、とかろうじて続けると「嫌だ」とはっきりと断られた。
「ずっとこうしたかった」
濡れた髪に、濡れた吐息が囁きかける。
ずっと?
「こう」の背負う意味がわからないほど子供じゃない。
でも、だめだ。
「なんだ、ここに来るまでにもう一杯ひっかけてたのか? 彼女と間違ってるのか。ほら、そろそろ上がって――」
「――」
「……ッ! りゅ、龍介」
腕に込められる力は、声と同じに怒りを孕んでいた。ごまかすな、ということなんだろう。
龍介に彼女がいないことなんか知ってる。訊ねたことはなかったが、いればきっと役所の誰かの口から耳に入る。そういう土地なのだ。
拘束する腕の力強さと裏腹に、龍介の声には迷いがにじんでいた。
「……俺たち、中二くらいまではほんとに毎日一緒にいたよな」
「う、ん?」
龍介の言葉の真意を掴めないまま、頷く。
厳格な祖父がいて、しょっちゅう親戚の出入りのある家は子供心にもあまり居心地のいいものではなかったから、椿は隙あらば龍介の家に遊びに行った。龍介の両親は仕事の都合でいないことが多く、大人のいない空間は子供にとって楽園のようなものだった。
ゲームも、体に悪そうででもそこが美味い駄菓子も、龍介の家がなければ椿はずっと経験しないままだったろう。
「でもいつの間にかおまえは来なくなって……俺はそれがずっと気になってた」
「おまえは、野球で忙しくなったから」
地元のシニアチームに参加していた彼は、次第にその才能を発揮して、練習だ遠征試合だと忙しくなっていったから、それで疎遠になったのだ。……ということにしてあった。今まで。
実際に足が遠のいたのは、殿様と小姓の話で自分が「そう」なのだと自覚して、徐々に人との距離を取っていったからだ。
唯一と言っていい友だちにすら自分のことを隠している。
龍介なら、自分がゲイだと知っても、蔑んだりしないかもしれない。
いや、でも。万が一――
一度でもそう思ってしまったら、心はもう凪には戻らなかった。
だから龍介が忙しくなったのを口実に接触を避けた。梓を出たいという気持ちがいっそう強くなり、その準備として城高に受かるための勉強に没頭した。それもまた都合のいい言い訳にして。
「おまえが好きだ、椿。 こういうことをしたいって意味でだ」
告げられると、混乱と哀しみのようなものがじんわりと目じりを濡らした。
「なに、言って……俺たち、男同士だし、友だち、だろ?」
「……おまえがそう思いたがってるのはわかってる。おまえがそれを望むなら、ずっとそれでもいいと思ってた。俺はそもそもそっちじゃないし」
そっちじゃない。わざわざそう口にされるということは、椿が「そっち」であるということは、ずっと知られていたということだ。こちらに戻って二年と少し、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
息を詰めた気配が伝わったのだろうか。龍介の声から、不意に怒気が消えた。
「……おまえが隠したがってるのは、ずっとわかってたのにな」
龍介は椿の肩に額を押し当て、はあ、と息を吐く。龍介にひどく不似合いな切ない響きに、どうしたらいいのかわからなくなる。素肌に触れる濡れた髪は冷たかった。
龍介は、吐息の終わりに「あいつが」と重ねた。
「あいつが現れなきゃ、ずっと黙って――外野に色々言われはするだろうけど、お互い結婚しないで、ずっと隣にいられりゃそれでよかった。この辺りだって、一生独身の男がまったくいないって訳じゃないしな」
「あいつ……?」
「早坂だよ」
龍介は、子供が嫌いなピーマンの話をするときのような声でそう言った。仕事の場では「さん」をつけていたのに――いやそんなことより。
「あいつと、この状況と、なんの関係が?」
「みんなおまえとあいつをニコイチにするだろ。ゲイだって公言もしてる。あいつは図々しい渡り鳥だ。よそからやってきて、おまえをかっさらう。……そう思ったら」
「ゲイ同士、周りにたきつけられたらすぐどうにかなるって? やめてくれ。そういうのが一番腹立つ」
言い放つと、龍介の腕の力がわずかだけゆるんだ。胸板を押しやり、逃れようともがく。龍介は一瞬だけ叱られた小学生のように心細そうな顔をして、すぐに我に返ると、あらためて逃げようとする椿の手首を強く掴んだ。
「い……ッ!」
露天の湯が、嵐に翻弄される海面のように揺れる。龍介は少しだけすまなさそうな顔をしたものの、解放してはくれなかった。
「たきつけられたくらいでどうこうなんて思ってない。そのくらいじゃ、こんなに焦ったりしない。だけど明らかにおまえ、あいつが来てから」
俺が?
いやだ。その先は聞きたくない。
「……!」
椿は闇雲にもがいた。湯が跳ね、派手な音を立てる。
「お客様?」
洗い場のほうから従業員らしき声が聞こえたとき、龍介に隙が生まれた。
屈強な腕を振り払い、水音をたてて立ち上がる。従業員にことさら存在を知らせるように――龍介が追って来られないように――ざばざばと湯をかき分けて、風呂を後にした。
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