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第五章『旅立ち』
約束と旅立ち
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よく整備された中庭には、昼間であれば、その新緑に溶け込んでしまいそうな薄らとした緑色の塗料で塗られたガゼボがあって、女性であれば見ただけではしゃぎそうな趣味で形作られていた。だから、そこの中にあるベンチに腰を下ろし、空に浮かぶ丸い月を見上げていた男性の後ろ姿は、どこか少女趣味な印象のある光景の中で、少しだけ浮いて見えた。
「やぁ、真司。良い夜だね」
後ろを振りかってもいないのに、その男性は真司の存在に気が付いた。その声とシルエットに見覚えがある真司は、その男に向けてまず一礼してから挨拶をした。
「お久しぶりです、新庄さん」
「あぁ。今日は色々と大変な目に遭った様だね。しかし、これで自分の立場という物が、少しは分かったんじゃ無いかな?」
この場所で何が起こったのか、その全てを知っている口振りの新庄に、真司は微かに苦笑してから、はい、と短く答えた。
「御方の御身の一番近くに存在し、御身をお守りするつもりでいるのなら、君は御方の愛玩動物という立場から脱却する必要がある。君の為に用意された『ケルベロス』という名前に相応しい働きをしたいのなら、相応の覚悟を持って私に着いて来ない限り、君はいつか間違いなく、死ぬだろう」
比喩も冗談も一切存在しない新庄の話を聞いて、真司は息を詰まらせた。確かに、今までの自分は、雅之にとって愛玩されるだけの存在でしかなかった。ロサ・キネンシスとして医療・福祉施設の現場の視察を出雲としている時も、自分に出来る事など何もないのだとまざまざと思い知ったし、建築のプロとしての手腕を発揮する出雲と自分を比べては劣等感に苛まれ、自己嫌悪に陥る日々を過ごしていた。
その為、自分が最も寵愛を受けるに相応しい実感が得られるセックスにどっぷりと依存し、雅之の身の回りの世話を一手に引き受ける事で、雅之の中にある自らの存在価値を高めようと奔走していた。
しかし、そんな事をしていても、他の薔薇の八大原種達からの信頼を勝ち得るなど、所詮無理な話なのだという事も分かっていた。だけど、自分には、他にどうすれば良いのか方法が分からなかった。しかし、雅之によって、自らの価値を自分の手で掴み取る機会を与えてもらえた。それに手を伸ばさずして、雅之と共に生きていくという自分の人生は成し得ないのだ。
だから、迷わずに、真司は新庄に向けて、直角90度に頭を下げた。
「俺は、御方から、貴方に着いていき、その存在から学べる全てを手にして帰ってこいと言われました。だから、俺は貴方に、自分の持つ全てを賭してついて行きます。俺が、その名前に恥じない、御方の忠実なる守護者『ケルベロス』になるまで、どうか俺を導いて下さい」
御方の表面を担当している蓮を護衛し、その補佐を一手に担当している新庄が目の前に現れた時、真司の頭には、成る程、という光が差し込んだ。確かにこの人物なら、自分が学びたいと思っていた全ての知識と経験を兼ね備えているだろう、と。新庄は、その真司の誠意溢れる言葉を受けると、その場から立ち上がって真司の前に静かに佇んだ。
「御方、そして、他数名の薔薇の八大原種から、俺は君を託された。御方の御身をお守りする守護者として、充分以上の働きが出来る様になるまで、君は御方の元には帰れない。下手をしたらその道すがらで命を落とす可能性すらある。それでも、前に進む覚悟はあるかい?」
「………はいっ!!」
真司は、新庄の双眸を真っ直ぐに見つめて返事をした。それを受けて、新庄は鷹揚に頷いてから、これから真司が、御方の忠実なる守護者ケルベロスとして生きていくに必要なルートを、淡々と説明していった。
「ではまず、君にはアメリカ海軍特殊部隊に所属する為の試験に合格し、その後二年間そこで訓練と実績を積み上げて貰う。そして、そこより無事に帰還した君に、ブラック・バカラの構成員としての任に就いてもらい、再びそこで数年間、訓練と実績を積んで貰う。その際に、君はこの教会の暗部を目撃する事になるだろう。この世の地獄をその目で見ても、それでも尚立ち上がるというのなら……その時は、私自らが君に指導を行うと約束しよう。御方の御身をお守りするという、その本当の意味を知りなさい。そして、必ずや、冥界の門の番人であり、御方を守る忠実なる守護者『ケルベロス』として、御方の隣に君臨するに値する、自らの存在価値を勝ち取りなさい」
無表情、しかし、その眼差しには『お前になら出来る』という無言の激励が込められている新庄の言葉に、真司の全身には痺れる様な衝撃が走った。これまで真司は、誰かから本当の意味で期待を掛けられた経験が無かった。それは、真司自身が自ら築き上げた経験や知識、実績という物を持たず、自己肯定感が低い人間であった事も、要因の一つだった。
しかし、この新庄の眼差しには、明らかな自分に対する『期待』が込められている。それは、以前に見たカーディナルに扮していた出雲が、真司をロサ・キネンシスとして騙し招こうとして画策していた時の眼差しとは、全く隔絶された領域にある代物だった。誰かからの期待を、本当の意味でその身に宿し、愛する人の隣に立つに相応しい人間になる為に、自分自身の存在価値を高める決意を固めた真司は、『お願いします!!』と腹の底から声を張り上げた。
「凄いやる気だね、真司」
林の様な場所にひっそりと佇んで、二人の会話を聞いていた雅之は、真司の気合いの篭った宣誓に、くすくすと鈴を転がす様に笑った。その笑顔を見た瞬間に、真司は雅之から離れがたい気持ちに再び火がつき、決心がぐらり、と足元から揺らいでしまった。しかし、いつまでも雅之から乳離れ出来ていない人間にはなりたくなかったから、今すぐに駆け寄って抱き締めてキスをして……という妄想を振り払い、雅之に向けて、にこ、とぎこちない笑いを浮かべた。
「貴方の隣に相応しい男になる為ですから」
「そう……そうだね」
暫く、お互いに見つめ合い、まるでその視線だけで、お互いの身体を抱き締め合う様な時間が流れる。それに水を差す事もせず、新庄は、二人の気が済むまで、二人を自由にさせていた。何しろ今日を持って、後数年、二人は離れ離れになってしまうのだから。
真司の資質と努力次第で、ブラック・バカラでの訓練期間に差は生じるだろうが、それでも間違いなく、5年~10年はお互いに顔を見る事も出来ないだろう。ブラック・バカラとしての任務に就いて、雅之の警護に当たる可能性も無くはないが、雅之と真司の関係性と、真司除外派の他の薔薇の八大原種の性格を考えると、それも難しい。だから、新庄は、二人が自分達の世界を形成できる今この時を、大切に見守っていた。
「お久しぶりです、ロサ・モスカータ。ロサ・ダマスケナの警護でお忙しいのに、お呼び立てして、すみませんでした」
二人の世界を優しく解して、新庄に声を掛けたのは、雅之だった。新庄は、そんな雅之に、首を横に、小さく振った。
「お気になさらずに。御方自らの頼みであれば、いつでも駆け付けます……お元気でいらっしゃいましたか?報告はいつもブラック・バカラからロサ・ギガンティア経由で受けては来ましたが、お話をする機会は少なかったものですから」
「だって、貴方と沢山お話をしてしまったら、俺はきっと、昔みたいに貴方を困らせてしまうから……わざと機会を少なくしていたんです」
「ふふ、気付いていましたよ。しかし、それが貴方にとって、御方として君臨する為に必要な事だったはず。だから、気に病まないで下さい」
寂しげで、しかし、成長した雅之を見て誇らしいとでも言うような笑みを浮かべる新庄に、雅之は思わず駆け寄って抱き締めて貰いたくなってしまう自分を必死で抑え込んだ。新庄も新庄で、そんな雅之に向けて、一戦を引いてくる様に、静かに首を横に振る。二人だけに分かる、伝わる、テレパシーの様な視線だけの会話に、雅之に強く想いを寄せている真司は、思わず二人の関係性を尋ねた。
「あの……お二人には、何か深い接点があったんですか?」
「不思議な事を。薔薇の八大原種のメンバーに、御方と深い接点の無い人間などおりませんよ」
「えっと、なら……二人には、一体どんな接点が?俺には、その……ふ、二人が昔付き合ってた、みたいな空気が感じられてしまって。邪推ならすみません」
ぺこり、と頭を下げる真司に、雅之と新庄は、目を少しだけ見開いてからお互いに視線を合わせ……ふっ、と笑った。
「俺達に、そんな色の付いた関係は無いよ。ただ、ロサ……要さんには、昔から本当にお世話になっていたんだ。本当の兄の様に慕っていた……あの教会で出会った時から」
雅之の言葉に、嘘はない。新庄は、御方になる前の雅之の、お世話係兼護衛を務めていた人物だったからだ。雅之にとって、新庄は誰よりも近くにいて、自分を育ててくれた血の繋がらない兄であり、家族の存在が希薄だった雅之の、数少ない心の支えだった。
蓮が御方の表を担当する事になり、その警護に新庄が着くという話が纏まると、雅之は子供の様に泣き縋って、新庄を困らせた。しかし、新庄を蓮の警護に当たらせるという指示をしたのも、御方である雅之だったのだ。
身分を隠して花園で暮らす決意をした雅之とは違い、表立って御方を名乗り行動する蓮の方がより危ない橋を渡る人生を歩む事になる。そんな蓮を心配した雅之が、一番信頼を置く新庄を、蓮の元に派遣したのだった。
新庄は、弟の様に、そして、唯一無二である自身の神として崇めていた雅之と離れるのはとても辛かったが、雅之の采配に従って、蓮と共に生きる道を選んだ。しかし、新庄が蓮と共に旅立つその前日になって、雅之はとうとう、新庄に泣きついてしまった。
雅之は、自分がどれだけ情け無い事をしているのか分かっていた。けれど、自分の心の支えだった人間が遠く離れた場所に行ってしまうのだけが、どうしても辛くて、耐えきれなかったのだ。
頼りにしていた祐樹も、新しくなった教会の抱える様々な問題を蓮と共に解決に向かわねばならず、泣く泣く雅之の側を離れる選択をせねばならなかった。だから、その教会の重要人物である二人の警護を任せられるのは、元教祖が隠し持っていた、ブラック・バカラの前身である暗殺部隊で脅威と猛威を奮っていた、原種の薔薇『ロサ・ロクスブルギー』……十六夜(イザヨイ)の異名を持つ、新庄 要を置いて他にいなかったのだ。
新庄は、泣き噦る幼い頃の雅之に、月を見れば自分がそこにいる。だから、寂しくなったら月を見て、とまるでお月様の様に優しい笑みを浮かべてから、雅之の元を去っていった。
そして、原種の薔薇ロサ・ロクスブルギーは、その後の功績を認められて、薔薇の八大原種ロサ・モスカータに任命された。そして同時期にロサ・キネンシスとロサ・ルキアエ……出雲と祐樹も薔薇の八大原種入りを果たし、その後に薔薇の花園で出逢ったロサ・ムルティフロラとロサ・ギガンティア……真智と慎也が加わり、雅之の愛しき薔薇達は、ここに揃ったのである。
雅之と新庄の二人の関係性は、恋ではない。雅之には真司が。新庄には蓮という心に決めた人がいた。しかし二人は、誰よりも深く、お互いを愛していたのだった。それは、家族愛、兄弟愛、そんな括りにも似ていたが、もしどちらが先に死んだ時は、遺骨をダイヤモンドに変えて終生に渡り身につけて行こうという約束をしていた。
それを知った蓮は『なら、今から髪で作れば?』と平然と二人に向けて言い放った。あまりに目から鱗だったその提案を受けて、二人はその後それを実行に移そうとしたのだが、隣に座って話を聞いていた祐樹によって、空気の読まない『毛髪ダイヤモンド婚約指輪プロポーズ事件』が発生し、何となくその話自体が流れてしまった。
薔薇の八大原種達にとって未だに『あれは無い』扱いを受けるその事件は、幹部達の心に深く刻まれる事となるのだが、その経緯があって、雅之の元に集まった七つの小さな小箱の中身は全部、毛髪ダイヤモンドが嵌められた仕様となっていた。
蓮は悪ノリ、九條は空気を読んで、出雲は面白がって、新庄は雅之との約束を守っての行動だと推察できるが、後の二人と祐樹に関しては、雅之としては扱いに困ってしまう、というのが現状だった。
その三つに込められている意味は雅之にも何処となく分かっているし、真司除外派に属しているのもこの三名なので、無闇に扱うと本当に真司の命と自分の身が危なくなる。だからこそ雅之は、その三人にだけは悟らせない様に、蓮や九條といった少数の同士と共に慎重に行動しながら、真司を一旦海外に逃すという目的も兼ねて、この計画を練り上げていったのだった。
そして、今日。雅之達の、『谷川 真司救済作戦』が、漸くスタートする。真司には、何処までも苦労を掛けてしまうし、新庄や蓮には苦労を掛け、九條と出雲には、これまで嫌な役ばかり押し付けて来てしまったが、雅之の中には、複雑な罪悪感はあれど、後悔は殆どなかった。
内心では真司を薔薇の八大原種と同等の位置に受け入れてもいいと考えているこの四人には、どうあっても後の三人にその心理を悟らせない様に動いてもらうしか無かった。二重三重と計画を立てて同時進行させていき、今漸く、その最後の計画は動き出そうとしている。
後は、慎也さえ、自分を裏切らなければ……
「って、考えてた?」
聞き覚えのあり過ぎる、そして、この場には絶対にいない筈のその声がした方を、ハッと振り返ると。雅之は驚愕の眼差しで、その人物を凝視した。
「………真智さん」
「やっほー、お前の驚いた顔とか久々だな。あ、新庄、お前も元気してた?」
「あぁ、今さっきまでな」
突然の乱入者に、その場の空気が凍りつく。しかし、その場所にあって真司は、動かない。いや、動けなかった。何故なら、この場にいない筈の、もう一人の人物、祐樹によって後頭部に銃口が押し付けられていたからだ。
「ふぅん、そっか。でさぁ、お前、ずっと雅之と一緒に、真司を逃す為に俺達の事騙してたわけ?」
「そうなるな。しかし、お前達に悪い事をしたつもりはないよ。御方の為に動く事こそが、俺の信条だからな」
「まぁ、そこは否定しないよ。お前がどれだけ雅之に甘いかは、俺達も知ってるしな。でも、悪いけど俺達は、どうあってもそいつだけは許せない。このまま海外に行かせて、立派に成長して、ブラック・バカラで経験積ませて、最後にお前に扱かれたからって、それで『はい、幹部入りおめでとう』とはならないんだよ」
真智が、笑う……『いつもの様に』
その笑みの意味を知る雅之と新庄は、このまま黙って真司を行かせるつもりはない、という真智の物言わぬ圧力に押し黙った。
「……雅之、俺はさ。強いお前も好きだったけど、俺の前だけで弱さを見せてくれるお前が、好きだった。だけど、お前の話に出てくる真司の話だけは、聞きたくなかった。お前が、教祖として生きる道に迷ったなら、俺が絶対に支えるつもりだった。だけど、その理由が真司だって聞いて……もう、無理だと思った」
誰の前でも、決して弱音を吐かなかった真智の沈痛な言葉に、真司の後頭部に押し当てられた銃口が、ごり、と更に強く押し当てられる。真司は、全身にぐっしょりと緊張からくる汗をかいていたが、この場にいて唯一、冷静さを保っていたのも、他の誰でもない真司だった。
真司は、祐樹の自分に向ける殺意に、揺らぎが生じている事に気が付いていた。何故なら、祐樹は直ぐに自分を撃つでもなく、こうして真智の話を聞きながら、何かを待っていたからだ。この状況を作り上げたこの二人が、これだけの裏切りを働いたこの二人が、一体何を心情として抱えているのか。そして、何を原動力として動いているのか、それをしっかりと見定めようとしていた。
そして、真司が知りたくて堪らなかったその理由が、明らかになる。
「谷川 真司。お前はずっと、俺達に騙されてきた」
ずっと黙り込んでいた祐樹が、口を開く。すると、ハッと真司達の方を振り返った雅之が、『待って』と唇を動かした。しかし、声にはならない。出せるわけがない。ここまで雅之を欺いてまで、この状況を作り出した二人の愛する薔薇達の悲痛な心の叫びが、それをさせてくれなかったのだ。
「お前が知る、幼い頃に教会で出会った御方は、出雲じゃない。出雲は、お前を自然に教会に招き入れる為に、御方のフリをしていた。肩書きだって最初からロサ・キネンシスだった。お前は、それすらも騙されていたんだよ。そのシナリオを考えたのも、全部雅之だ。そして、本当の御方も……ずっと、雅之ただ一人だ」
真司は、言われた事の意味を解釈する事に、必死になった。そして、祐樹の言葉の中に嘘がないという事を理解すると、銃口を後頭部に向けられたまま、祐樹に質問をした。
「何故、そんな事を?」
「信者ではないお前を、自然にうちの教会に招き入れる為には、様々な策略を用意する必要があった。教会に纏わる嫌な記憶を凌駕して、最愛の人間の為に努力を積み重ね、最後に手に入れた栄光を手元に置かせて、お前を自分と教会とに飼い慣らしたんだ……お前が今まで選んできた道は全部、雅之が用意してきた謀略の上に築かれたものだったんだよ」
自分自身が選び取ってきた道が全て、雅之が用意したシナリオ通りに進んでいたという事実を知った真司は、自然に頭の上に上げていた手を、スッ……と静かに下ろした。
「お前の母親だって、あれも本当は、全部演技だ。お前の父親が死んだのも、お前に酷い虐待をしていた事実を知った雅之がブラック・バカラに指示して消したからさ。そして、お前の行動を全て監視して、真智の用意した工作員にお前を確保させ、真智の手元に渡らせた。何も知らないお前は、まんまとロサ・フェティダに魅了され、あいつの為に雅之が敷いたレールを突き進んで行ったんだよ。それこそ馬鹿みたいに、真っ直ぐにな」
祐樹の口元が、真司を嘲る様にして歪む。しかし、祐樹の心にあるのは愉悦ではない。
深い、ただ深い、悲しみと、怒りと、嫉妬だった。
「あの街そのものが、お前の為に用意された箱庭だ。あの街に住んでいる住人は、子供から老人まで全てが信者で構成されている。そして、お前がいつも食ったり、飲んだりしてきたものは、全部雅之が選んで教会の傘下に加えてきた企業のものだ。『Secret Garden』は、教会のお墨付きがない商品や企業でなければそのマークは付けられない。そして、あの街そのものこそが、信者達にとって憧れの地である、ユートピア『秘密の花園』なんだよ」
誰しもが、祐樹の言葉に、声に、眼差しに、深い嫉妬と怒り、悲しみが混ざり込んでいた事を知っていた。雅之は悲痛な表情で、これまでの雅之の謀略の数々の詳細を、事細かに語る祐樹を見ていた。これまでずっと自分ただ一人の為だけに愛と献身を注いで来てくれた祐樹や真智を、こんなにも追い詰めてしまったのか、という罪悪感で、雅之は胸が押し潰されそうだった。
これは、これまで人の気持ちを踏み躙り、真司を騙し続けてきた自分に課せられた『罰』なのだ。当然の報いだ……と雅之は、例えこの先、どんな結果になろうとも、その結果を受け入れようと思った。
「そして、一番お前が知りたくないだろう真実を教えてやる。雅之は、お前が愛していた、ロサ・フェティダじゃない。あいつは、雅之のもう一つの人格。お前に裏切られたショックで、雅之が生み出した『心の中の友達』だったんだ」
真司は、頭に銃口が向けられているという事実を完全に忘れて、祐樹を振り返った。祐樹は少しだけ苛立ったが、何食わぬ顔で、再び真司の額に銃口を向けた。
「あいつは、お前をずっと恨んできた。雅之をあれだけ追い詰めたのはお前だったから……お前を完全に懐柔した満足感を抱えて最後に消えた瞬間、あいつは、お前を殺せないなら、死んだ方がマシなくらいの目に遭わせてくれと告げてから消えていった。いまはもう、雅之の中に溶けてしまったが……あいつのあの時の約束を、俺達は忘れられないんだよ」
「なら、どうしてこんな話を?何も知らずに海外に行って、のこのこ帰ってきた俺をみんなで大歓迎してから殺すなり、俺の目の前で媚薬を盛った雅之さんを、雅之さんの事が好きな人みんなで回すなりすれば良かったじゃないですか」
祐樹は、ぽかん、と口を開けて真司の澄んだ眼差しを見つめた。何を言っているのか分からない、という顔をしている祐樹を見て、『ああ、この人は、ただ単に、俺を傷付ける為だけにこの話をしたんだな』と唐突に理解して。
その全てを真司は、はっ、と鼻で笑い飛ばした。
「もしかして、ただ俺を絶望させるなり、雅之さんを軽蔑して欲しいとか考えて、こんな真似したんですか?だとしたら、あんまり俺を舐めないで欲しいですね。色々と話を聞かされて、先生の顔を見た瞬間、全部悟りましたよ………『騙されて来て、良かった』ってね」
その場にいる、真司以外の人間全てが、『谷川 真司』という人間の発想に、驚愕した。
これだけの大掛かりな謀略を受けて、これまでずっと騙されて来た人間が口にする台詞だとは、到底思えない。これには、半ばこの状況を傍観していた新庄も。その新庄を介して、会話の全てを盗聴していた蓮、九條、出雲。そして、仁と共に、この場に真智と祐樹を黙って通した慎也も、唖然とした。
「雅之さん、貴方は、どうしてこんな面倒な計画ばかり組み立ててきたんですか?なんで素直に俺に会いに来なかったの?よければ、その理由を教えて下さい」
額に銃口を押し当てられながら放つ質問でもなければ、言わなくても分かるだろう分かりきった理由を尋ねた真司の意図が分からず、雅之は動揺した。しかし、何か考えがあるのだろうと判断して、それを雅之が震えながら言葉にしようとした瞬間に、『辞めろ』という、二人分の拒絶が割って入った。
「………辞めてくれ。言わないでくれ、雅之」
その声の主は、祐樹と真智だった。祐樹は歯を食いしばり、俯いて微かに震えている。だから、さっき続けた台詞は、真智が放ったものだった。
「雅之さん、教えて」
しかし、真司は引かなかった。そして、それを受けた雅之は、二人の静止を振り払い、自分の勇気を振り絞って、その理由を口にした。
「……君が、好きだったから。俺が君を不幸にした教会の教祖だって知ったら、振り向いてくれないと思ったんだ。だから、教会の事も、自分の事も、ゆっくり知っていって……それで、俺を好きになって欲しかった。ごめん……騙して、ずっと嘘をついて、ごめんなさい」
絶対に泣いたりはしない、と心に誓った雅之だったが、最後に謝罪をした瞬間に、堪え切れなくなってしまった。繰り返し、繰り返し謝罪しながら、手の甲で、指で涙を拭う雅之の気配を背後に感じて。
真司は、『いま殺されても構わない』と思った。
「祐樹先生は、俺を殺したいですか?」
「………ああ」
「なら、撃てばいい。俺は、あの人にこれだけ愛されたのなら、もう思い残す事はありません。いつ死んでも構わない。どんな残虐な目に遭っても構わない。だけど、これだけは確かです」
真司は、目の前にいる、自分の額に銃口を押し付けている祐樹に向けて、にこり、と邪気の無い勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あの人、俺じゃないと、駄目なんですって」
真司は、目の前で泣きながらずるずると崩れ落ちる祐樹を、静かに見つめた。そして、その手に握られた拳銃の安全装置が解除されていない事に気が付いた。地面の土を握りしめている左手薬指には、雅之に贈った物と対になっている婚約指輪が嵌められている。それを目にした真司は、祐樹に最後に一つだけ伝えたかった事を思い出した。
「俺をあの島で迎えてくれた時の祐樹先生の優しさは、偽物だとは思えませんでした。貴方は、大切にしている人の大切な物を無碍に扱える人じゃない。だから、俺にとって先生は、あの島で独りぼっちになってしまった、俺の心の支えでした。演技だったとしても、俺は貴方に感謝しています………今まで、ありがとうございました」
地面に蹲り、号泣し続ける祐樹に、真司はもう、何も掛けられる言葉は無いと悟った。そして、祐樹から視線を外すと、今度は林の中にひっそりと佇んでいた真智に向けて、自分の想いを投げ掛けた。
「俺がアパートから追い出された時、本当はあのまま死ぬつもりでした。けど、真智さんが俺に声を掛けてくれたから、そして、俺を暖かく迎えてくれたから、今の俺があります。思えば、俺を初めて一人の人間として扱って、向き合ってくれたのが、真智さんでした。だから、最初は騙すつもりであったとしても、俺は真智さんとの出会いに、感謝しています。ありがとうございました……『師匠』」
『師匠』と呼ばれた真智は、少しだけ目を見開き、驚いた様な顔をしてから、小さく苦笑した。真智は、いま蹲って泣き噦っている祐樹とは違い、目の前で壊れてしまった雅之を見てきた訳では無かった。真司の所為で傷付いて、別人格すら生み出してしまった雅之を支え続けて来た真智としては、面白くない存在である事は確かだったが、とは言え、真司を心の底から憎んでいた訳では無かったのだ。
雅之が真司の所為で教祖として生きる道に迷う様になってしまった時は流石に焦ったし、なんとかして軌道修正をしなくてはと、本腰を入れて真司除外に乗り出してはきたが、これだけの雅之に対する熱意と、真実を知っても尚、揺るがない強い精神力には、素直に感嘆していた。
人間不信を起こし、それこそ精神障害を引き起こす程のトラウマになってもおかしくない人生を歩まされて来たにも関わらず、真司は、しっかりと前を向き、自分と、周囲と、向き合っている。真司の師匠として、弟子の成長は、素直に喜ばしい事ではあった。
補足ではあるが、以前、仁から届けて貰い、真智が手ずから茹でて真司に提供した生ウィンナーは、中身は本物の豚である。慎也は勘違いというか早とちりしている感はあったし、真智も若干の悪ノリをしていたが、酒屋の店主である原種の薔薇ロサ・エグランテリアが、牧場を経営している信者から直接提供を受けた豚一頭の処分に困り、何とか加工するなりして処理してくれないか、という打診をしてきた為に、真智が雅之御用達の食肉加工業者のラインの一角を借り受けて作った物だった。
真智が指示してブラック・バカラ達に作らせた『本物のウィンナー』は、『生産元』である本人達が直接口にしていており、全て彼らの胃袋の中に収まって、完全なるサーキュレーションが行われていた。殺しはしなかったが、相当の生き地獄を味合わせてから解放したので、もう教会にも、真司にも関わろうとはしないだろう。
真司は、海外で厳しい訓練と実践を積み重ねてから帰国し、そのままブラック・バカラに配属される事になっている。その為、人間の持つ残虐性をこれでもかと見せつけられる環境に身を移し、尚且つ、最高の性能を誇る教会屈指の超エリート諜報員やボディーガードとしてブラック・バカラで活躍をせねば、自分の道は切り開けない。それでいて、更に、教会の中にあって、その存在を本当の意味で知る幹部達から恐れられている新庄の個人的な指導に耐えてその実力を認められねば、真司は、雅之の顔を見る事すら叶わないのだ。それが、一体何年掛かるかは誰にも分からない。5年先か、10年先か……
その薔薇の道を歩んでいく真司に、真智は最後に師匠としての顔を作ってから、自分の本心を露わにした。
「お前を初めて見た時、お前は今まで俺の見てきた人間の誰よりも死に近いところにいた。だけど、そこから良くここまで立ち直って、成長して来られたな。これから先、辛い経験がお前を待っている。教会の闇を見て、御方の背負う本当の苦悩を見て、俺達の様に自分の無力を嘆く時が必ず訪れる。けれど、もしもお前がそれを乗り越えたなら、俺は素直にお前を称賛するよ……歓迎するかは、別の話だけどな」
どれだけの献身や努力を向けても、どうにもならない現実というものは存在する。それが、薔薇の八大原種に共通した願い……『雅之と立場を代わって、自由にして差し上げたい』という、絶対に叶わない願いだった。
真司は、雅之が持つ本当の苦悩、本当の生き様、本当の教祖として抱える重圧を、これから目にしていくだろう。そして、自分自身の無力を嘆き、自分の存在意義すらも見失う時が必ずやって来る。そんな人間でなければ、薔薇の八大原種に並ぶ存在にはなれないのだから、それは真司にとって通過儀礼でしかないのだ。それを乗り越えたなら、真司は本当の意味で、薔薇の八大原種に並ぶ存在として、彼らからその存在を認められる様になるかも知れない。
御方の忠実なる守護者『ケルベロス』として。
「………真司、申し訳ないが、そろそろこの場所を出発しなければならない。だから、最後に御方に、別れの言葉を」
すまなそうに口にした新庄の気遣いを受けて、真司は小さく頷いた。そして、いつの間にか祐樹の隣に腰を下ろして、教祖として纏う礼服が汚れるのも構わずに、号泣する祐樹を抱き締めて、その背中をゆっくりと撫でていた雅之の背後に、そっと近付いた。
声を掛けるのが躊躇われる光景だった。雅之の腕の中で、まるで小さな子供の様に泣き縋っている祐樹は、いつもの威風堂々とした雰囲気はまるでなく、母親に捨てられたばかりの幼児の様に真司の目に映った。しかし、雅之が何事か祐樹の耳元で囁くと、泣き噦っていた祐樹はぴたりと泣き止んで、信じられないものを見るかの様な目で、雅之をじっと見つめた。
「雅之……本当か?」
「うん、本当だよ。今まで全く声が聞こえなかったけれど、俺が真司に本当の気持ちを伝えた時に、あの子は笑っていた……とても幸せそうに。だから、祐樹先生があの子の為に、必要以上に復讐心を持つ必要は無いんだ。だから……もう休んでいいんだよ」
「そうか………そうか」
雅之は憑き物が落ちた様な顔をしている祐樹の額に優しく唇を落とした。目を閉じて、その唇の感触を覚えた祐樹は、雅之の頬に手を当てて、自分から雅之にキスをした。慎也の様な、お互いを確かめ合う様なキスではなく、もっと神聖な空気が流れる特別なそのキスに、真司は、不思議なくらい心の何処にも嫉妬の念が見当たらなかった。
「雅之……お前は、お前の好きに生きろ。俺達は、そんなお前を支えて、ついて行く。だから、もう迷わないでいい。お前の幸せが、俺の……俺達の幸せなんだ」
「ありがとう、祐樹先生。俺はもう、迷わないよ。真司と一緒に、みんなと一緒に、もっと強い自分になる。だから、安心して見守っていて」
「あぁ、当たり前だ……ふん、傍観者が目障りだから、俺は行くよ。服、悪かったな」
「これくらい、大丈夫。ありがとう……先生」
祐樹は立ち上がり、雅之に後ろ手で小さく手を振ると、真司には全く視線を寄越さずに、真司の隣を通り過ぎて行った。しかし、去り際のその瞬間、『死ぬなよ』と小さく風に乗せて告げてきたので、思わず真司は祐樹の背中を振り返ってしまった。すると祐樹はこちらを一度も振り返りもせずに、祐樹を待っていた真智と共に、林の中に消えて行った。
残されたのは、雅之、新庄、真司の三名のみとなった。時間も僅かだった事もあり、雅之は、自ら進んで真司の前にスッと佇んだ。
「………改めて、ごめんなさい。俺は、ずっと君を」
思い詰めた顔をして、雅之が謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、真司は雅之を、強く、強く抱き竦めた。雅之の後頭部に自分右手を回すと、そのまま髪の中に指を通して頭皮を触り、しっかりと腕の中に抱き込んでいく。雅之も真司に応えて、背中に手を回し、肩甲骨にそっと手を当てて、無言で真司を抱き締めた。
「雅之さんは、俺のどこが好きですか?」
ずっと尋ねたくて、でも、それがもしも時の経過と共に変わってしまう部分だったらと考えると、知るのが怖くて。胸の内側に仕舞い込んでいた疑問を、今だからこそ聞いてみようと、真司は雅之の耳元に、囁いた。
「どこが好きかと聞かれたら、全部が好きだよ。だけど、初めのうちはずっと憎んでいた。俺を置いて行ってしまった事を。だけど、ずっとずっと君の事を考えているうちに、君の笑顔ばかり思い出すようになって……いつの間にか、君との思い出は、俺の中で一番大切な思い出になっていた。それに気が付いた時には、もう、君に恋をしていたんだ」
もっとも深い絶望を与えた相手を、いつの間にか好きになっていく。それは、ある種の錯覚である様にも思えるが、真司にとってはそんな違い、些細な問題でしかなかった。重要なのは、これだけの大掛かりな謀略を繰り広げてまで、自分を求めて愛してくれた人間が、自分が誰よりも愛して、何よりも大切に想っている雅之だという事だった。
街を、家を、食事を、服を、居場所を作り、そこに真司を招き寄せた理由が『どうか自分を好きになって』なのだから、真司としては、堪らなかった。これだけ一生懸命に巣作りをして、ただ自分だけを健気に待ち続けてくれた雅之に、真司は全身を包む歓喜と多幸感で、どうにかなってしまいそうだった。
これだけの深い愛が、他にあるだろうか。
真司はもう、雅之でなければ決して満たされない。この人の愛以外、必要ない。この人の与えてくれる愛だけを貪って生きていく。そして、雅之にも、自分の注ぐ愛だけを食べて、飲んで、吸って、生きていって欲しい。だけど、それが難しいどころか、到底現実的ではない事も、同時に理解していた。
雅之は、世界最大規模を誇る、巨大信仰宗教の教祖だ。だからこそ、自分自身の幸せだけを願って生きていく訳にはいかない。真司と生活を共にしていた幸せな時間は、雅之にとって、真司の今後の生活が保証されるまでの、限られた時間と考えられた上で成立していた時間だったのだ。
しかし、その事を誰よりも知っていた雅之は、その時間を大切に過ごした。祐樹や真智、慎也といった薔薇の八大原種を油断させる為に、あと五年半掛けて真司の身体を自分の愛で満たしていく、と口にはしたが、それは本心からの発言ではなかった。そう出来たらどれだけいいか、とは思ったが、それ以上に、真司の命を守ることの方が、雅之にとって最も重要だったのだ。
雅之は、真司と生活を共にして来たその日々で、どれだけの癒しを感じられたのかを、真司に伝えた。その思い出さえあれば、たとえこの先、どれだけの時間離れていても、教祖として、御方として生きていく自分に迷う事などないと。
それを聞いて、真司は不安を覚えた。自分が海外で経験を積み、ブラック・バカラでの任期を終え、新庄という関門をクリアして雅之と共にいられる様になるまで、どれだけの時間が掛かるか分からない。その間、雅之を狙う今日の様な男達から、誰が雅之を守るのかと。すると、その疑問に答える様に、中庭に慎也が仁と共に姿を現した。
「お前が心配するまでもないよ。俺達が、こいつの警護に当たるから。だから、安心して行ってこい」
日頃の行いから、その人選に不安しか感じられない真司は、心無しか清々しく言い放った慎也を、胡乱な眼差しで見つめた。
「雅之さんに手出ししないでしょうね?」
「ばぁか。出来てるなら最初からしてるわ。でもまぁ、少しずつ、雅之様としても、俺達の気持ちに応えてくれる気にはなったみたいだから……全く良い思いをしないって事はないけどな」
はぁ?!という、絶叫にも似た声が真司の喉から生まれた。慌てて腕の中にいる雅之に、どういう訳なのか、事情を尋ねる。すると雅之は困った様な笑顔を浮かべながら、詳細を話してくれた。
「これまで、ずっと俺を慕ってくれている人達からの気持ちには全く応えては来なかったんだ。でも、真司という存在が現れて、俺も人間なんだっていう認識が一部の教会幹部に広がってしまった。でも、一度芽生えたその意識を取り除くのはとても難しい。だから、教会への貢献度の高い人と、お茶したり、会食をしたりする機会は少しずつ取り入れて行こうと思うんだ。だけど、今日みたいな事は、もう絶対に起こさない。だから、安心して?」
「あ、いや、それは当然、徹底するとしてですよ?なら、慎也さんや、薔薇の八大原種の方々の気持ちに応えて行くっていうのは……?」
「あぁ……それはね」
真司は、ごくり、と固唾を飲んで雅之の言葉を待った。もしこれで、『仲良くみんなとベッドインします』だなんて言われたら、このままハイさよなら、と海外に飛んでいける気には絶対にならない。すると、雅之は軽く逡巡してから、薔薇の八大原種達への今後の対応について、其々語り始めた。
雅之はまず、みんなから預かっている『小さな小箱』について真司に正直に話した。真司は、あんぐりと口を開いていたが、雅之は真司の態度には敢えて触れずに、あっさりと小さな小箱に関する説明を終わらせた。
雅之と薔薇の八大原種にとって、その指輪は雅之と愛しい薔薇との強固な関係性を目に見える形に表した物だ。だから、個人的に会う際は、雅之はその指輪を、左手ではなく『右手』の薬指に嵌めて会う事にしている。そして一緒に仕事に当たる、というのが真司が雅之のもとに現れてからのスタンダードだったのだが、やはりそれだけでは、愛しい薔薇達からの不満が噴出したのだ。ならば、どうすれば満足するのかとアンケートを取った所、其々が不思議な事を言い始めたのだという。
九條、新庄に関しては、仙人扱いされているだけあり、現状維持のままでいいと言われた。しかし、指輪は付けてくれると、親しみが感じられるので嬉しいと言われたらしい。
出雲は、女子会……という名前の買い物デート。今狙っている雄花が薔薇の花園にいるらしく、その相談に乗って貰いたいのだとか。慎也に話しても暖簾に腕押しで全く役に立たず、親友だったロサ・フェティダは雅之と同化してしまった。だから、雅之にロサ・フェティダの様に親しくして欲しいとお願いしてきたらしい。
真司にとって、この三人は希望とも言える存在だった。真司擁護派もこの三名が組みしているとの事らしいので、真司としても雅之を任せても安心できる人間達だった。しかし、問題はそれ以降の人間達だった。
蓮は、雅之を唯一神として崇める一方で、雅之を至極の鑑賞対象としている。一緒にお茶を飲み、同じ時間を過ごして、お互いの恋バナが出来ればそれでよしと言っていたらしいが、どうにも真司には胡散臭さしか感じられ無かった。蓮の側には新庄がいる為、大人しくはしているだろうが、いつの間にか目眩く百合の世界が広がっていてもおかしくは無い雰囲気だと、言動の端々から感じ取れてしまうのだ。蓮が本気でそんな動きを取るかは分からないが、注意だけはして下さいね、と真司は慎也に口酸っぱく忠告した。
祐樹については、ある意味でこの人物も仙人扱いの部類に値しているという認識が薔薇の八大原種の共通認識らしい。『本当かよ』というの真司の率直な感想ではあるが、実際、祐樹は雅之を相手にすると、そのあまりの尊さに全く手が出せないのだとか。性的な目で見た試しもなく、キスですら、本人なりの精一杯の勇気を振り絞っているらしい。なので、本人からは、雅之からもキスをして欲しい、という要望すら出てこず。ならどうしたら満足するのかと尋ねると、小さい頃の様に、添い寝がしたいと言われたそうだ。いや、危ない、絶対危ない、と真司は断固として反対したが、慎也曰く『お前と一緒にするな』と言われてしまった。俗物の塊扱いされている様で真司としては釈然としないが、雅之と祐樹の間にも世界観というものがあるのだろうから、心配は心配だけど、取り敢えずは真司の中で保留扱いとなった。
真智は、雅之に対する恋心を隠そうとしなくなったどころか、プロポーズまで決行した猛者の一人である。なので、それなりの要求をしてくるかと雅之も思っていたらしいのだが、真智はあっさりとそれを否定した。どうやら、心が自分に向いていない対象には手を出さないという信条があるらしい。そこまでは紳士だなぁ、流石師匠。と聞いていたが、そこから先が真司としては黙っていられない内容になっていった。真智は、男性としての機能を過去の経験から無くしていた。しかし、雅之に対してのみ、その機能が発揮されるのを自覚していた。だから、お酒を飲んだりして、気分が高揚したら、そんな気分になってしまう時もあったのだという。
そして、今までは何とか我慢していたのだけれど、真司という存在が現れた事でそのタガが外れてしまった。真智は、何と雅之の目の前で自慰をする事を許して欲しいと言ってきたそうだ。雅之は、何もしないでいい。ただ、目の前にいて微笑みながら、自分の作ったカクテルを飲んでくれればそれで良いのだと。そこまで聞いた真司は、何その耽美な世界観は、と頭を抱えた。真智の考えている事は、分かりそうで分からない。真智としても、誰かに分かって貰いたいものでも無いのだろうから、これも二人の世界観という事で纏めるしかないだろう。後は、真司の師匠でもある男が、ガチの紳士である事を祈るしかない。あのスマイルモンスターが、自分の離れているうちに、本格的に活動を開始しませんように、と。
最後に、真司の前にいる慎也が話題に上がった。一体何を雅之に所望したのか、真司が雅之に恐る恐るそれを尋ねると、雅之は『真智さんと大体同じ』と微笑みを浮かべた。なんですかそれ、大体同じで納得出来るわけないでしょうと目を血走らせて問い詰めると、慎也は昔、ロサ・フェティダと付き合っている時に、ロサ・フェティダとキスをしながら自慰をするという行為を時たま行っていたのだという。
ロサ・フェティダとしても、慎也が本当に好きなのは雅之だという事を知っていたのでそれ以上を許さなかった。また、真司と再会した時まで処女のままでいたかったという雅之の気持ちにも応えていた。だから、その制約が解除されたいま、慎也を縛るものはない。しかし、雅之が想う人間は、ただ一人。身体を許したい人間も同様、となれば、やはり慎也としても、真智と同じ考えで、雅之に本格的には手が出せないと考えてしまう。だから、慎也は、ロサ・フェティダとしていた事を、雅之にもして欲しいと頼んできたのだそうだ。
真司としては、異議があり過ぎて言葉にすらならない。そのまま泣き落としに掛かって、なし崩しにセックスに雪崩れ込んでも全くおかしくないからだ。大体あんた、俺の前で雅之さんの尻ガッツリ揉んでたでしょう、全く信用出来ませんよ、と真司が詰め寄ると、慎也は、明後日の方向を見ながら口笛なんて吹き始めてしまった。無かった事にするつもりかこの人は……と苛立ちを募らせた真司は、『大体なんなんだ、その尊い世界観は。さっきからどうなってるんだ薔薇の八大原種達の脳味噌は?』という疑問で頭が沸騰しそうになった。しかし、そんな真司を見て呆れ顔をするしかないのが慎也だった。
「お前、本当に、信仰ってものが分かってないよな。あのね、俺達にとって御方は、いと尊き方なの。俺だって結構頑張ってフランクに接してるだけで、本来なら話が出来るだけで夢心地になる様な、そんな方なんだよ。俺達からして見たら、お前の方が異常なの。分かった?」
確かに真司には信仰心というものがいまいち欠けている。母親の反面教師だった可能性は大だが、だからといって今後もその調子で行っては、幹部層の中で真司は浮いた存在になってしまう。雅之もそれを心配してくれている様で、取り敢えずは、経典を読んで教会の教義を勉強する所から始めて欲しいと真司に告げた。真司はそれを快諾して、雅之がブラック・バカラに用意させた経典を自分の持って来た鞄の中にしまい込んだ。自分の分もあるにはあったが、雅之から貰った物の方を大切にしたいと考えて、まずは行きの飛行機の中で読む事にしようと、真司は心に決めた。
これまでは、信者の真似事に近い感覚でいた。しかし、本格的に敬虔な信者になれるかどうかは別問題だとしても、教義が碌に頭に入っていない人間が薔薇の八大原種と肩を並べる幹部になれる筈がない。だから、きちんと経典の内容を頭に叩き込んで、信者から見てもお手本になる様な格好は身に付けないとならないな、と真司は自分を律した。
「あの、雅之さん。俺、さっきの話を聞いて、貴方がもし不安になっているならと思って、これだけは伝えなくちゃって思った話があって」
なぁに?と言った風に首を傾げるその仕草が堪らなくて、真司は真っ先にキスをしたい衝動をグッと抑えて、ゆっくりと自分の気持ちを伝えていった。
「確かに俺は初め、好きになったのはロサ・フェティダさんでした。だけど、ロサ・フェティダさんが貴方から分離していた人格なら、つまりは、それだって貴方の一つの『側面』でしかない。俺の中で、貴方達二人は最初から一人の人間です。ロサ・フェティダさんが貴方と同化して一人の存在になったのだとしたら、余計に……貴方は、俺にとってこの世界で唯一の、そして、一番特別な存在です」
真司の中で、雅之が二人の人格を有していたという事実は、はっきり言って些細な問題でしかなかった。難しい事は分からないけれど、ロサ・フェティダが元々ある雅之の人格から生まれたのだったとしたら、それだって雅之の一つの『側面』でしかない。だとしたならば、真司の中で、雅之に対する違和感など始めから存在していない様なもの。そして何より、ロサ・フェティダと完全に同化した雅之は、以前と比べて、精神的に穏やかに、それでいてしなやかで、神々しくも威厳があり、そして……どこまでも魅力的かつ扇情的に、真司の目に映った。
その、何処までも嫋やかな眼差しで見つめられただけで、身体に熱が籠る。いつまでも、いつまでも睦み合い、その眼差しで見つめられたい。跪いて、足先にキスをして、そこからじっくりと全身を下から上へと舐め啜って、お互いの存在を確かめ合う様な濃厚なキスをしながら、深く、深く、繋がりたい。
以前の、何倍も、何十倍も、そもそも比較にならない程。真司は、今の雅之を愛していた。
「貴方の為に生きられるこれからの人生が、俺には輝いて見えて仕方がない。どれだけの事がこれから先待っていても、俺は、絶対に貴方のもとに帰ってきます」
自分の腕の中に再び雅之を収納し、耳元に唇を寄せ、何度も何度も、唇で耳たぶを食んで、必ず帰ってくるという誓いを、熱く囁く。雅之の身体が、ひくん、と腕の中で微かに震えた瞬間に、真司は、瞳に妖しい光を灯して、ひっそりと、雅之にだけ伝わる声量で語りかけた。
「ねぇ、雅之さん。俺、ロサ・フェティダさんを初めて抱いたその時と、今の貴方を抱いている時の違和感が全く無いんです。もしかして、貴方は実技練習の時、ロサ・フェティダさんと殆ど同化していたんじゃないですか?つまり、いまの貴方に近い存在だった……違いますか?」
希望的観測ではあるが、そこは明らかに、真司の中で確定事項として扱われていた。何故なら、あれだけ雅之を大切に思っているロサ・フェティダが、憎しみを抱いている真司に身体を許すにしては、理由が軽過ぎる気がしたのだ。提案したのは真司だが、それにしてもあの日のロサ・フェティダの陥落は早過ぎた。だとしたら、真司は一つの可能性を導きだせるのだ。
雅之は、あの日、真司に『抱かれに来ていた』のだと。
「そんなに、俺が欲しかったの?もしかして、ずっとロサ・フェティダさんに嫉妬してた?あの人だって貴方自身なのに、自分自身に嫉妬するだなんて……なんて可愛い人」
「……あ、真司……言わないで」
真司は、雅之のその言葉と態度に満足すると、するすると手のひらを滑らせて、雅之の臀部まで到達させ、礼服の上から尻たぶをゆるゆると撫で回した。
「改めて言わせて下さい。俺は、貴方の初めての人になれて、本当に嬉しかった。貴方の二回分の初めてを貰えた様なものだって分かって、余計に……ねぇ、絶対に浮気したら駄目ですからね。もしそんな事したら、間違いなく赦さないですから」
「………赦さないって、どうするの?」
「今日のおっさんにしたのと同じ事……いや、それ以上の事をしてから、そいつを殺します。それで、貴方を一生何処かに監禁しちゃうかも」
雅之の当たり前に持つ疑問に答えた真司の瞳に、妖しく、どろっ、と濁った殺意と情欲、そして、底知れぬ雅之への愛情と執着とが宿る。それに呼応する様にふるり、と身震いをした雅之は、思わず苦笑した。
あの明るくて素直だった真司を、こんな狂愛に満ちた男に変えてしまった責任を、自分は必ず取らなければならないな、と。
「ふふ、お前は、本当に怖いなぁ……」
「だから言ったでしょう?……男って、怖いんだって。それが嫌なら、絶対に俺以外としないでね。貴方を見れば俺には分かるから、隠しても無駄ですよ」
「分かってる……君以外とは絶対にしない。だから、真司も、浮気したら駄目だからね」
「そうしたら雅之さんは、俺に何をするんですか?」
「君と同じ事をしてから、君を食べちゃおうかな」
数々の謀略を尽くして真司を囲い込み、その人生そのものに関わって、自分だけを愛する様に真司を導いて来た人間の深い、底無しの愛と執着。それを、雅之の中に見つけた真司の全身は、歓喜と興奮に打ち震えた。そして、一瞬でガチガチに勃起した怒張を、ズボン越しに雅之の礼服の下腹部に擦り付けた瞬間、信じられない事に、真司はそのまま絶頂を極めた。
最高だ。
そんな死に様、最高だ。
俺が貴方に、貴方が俺に。
そして俺は、貴方を内側から支え続ける礎となる。
ずっと、ずぅっと、離れられない。
もう、俺達を引き離す事は誰にも出来ない。
真司は、にたぁ、と心の底から満ち足りた深く歪んだ笑みを浮かべて、雅之の頭に頬擦りをした。
「誰にも、一口もあげないでね。貴方が、全部食べて」
「浮気するの?」
「絶対に何があってもしない。けど、俺がいつか死んだ時は、必ずそうして。骨までしゃぶって、全部綺麗になったら、貴方の寝室のオブジェにして。夢でも、朝までずっと抱いてあげる」
「それはそれで素敵だけれど……でも、俺より先に死ぬなんて許さない。だから、無事に帰ってきてね」
お互いの愛……と、呼ぶべきかどうかも難しい、深い深い執着を確認しあった二人は、惹かれ合う様に、申し合わせた様に、唇を合わせた。
「…….君が帰ってきたら、君の為に四日間、時間を作るよ。そして、今回の慰安の続きをしよう。だから君は、離れていた間にあった出来事を、俺に沢山聞かせてね」
「そんな余裕、俺にあると思いますか?」
「じゃあ、身体で教えて……君の身体に刻まれた傷を、俺の身体で数えさせて」
唇同士を合わせるだけだったキスが、段々と深くなっていく。そして、お互いの呼吸を奪い合って、雅之が呼吸困難になる寸前になって、真司は漸く、雅之から身体を離した。
「これ以上は、名残惜しくなるばかりなので、行きます。慎也さん、仁さん……俺が戻るまで、御方を、宜しくお願いします」
まるで自分以上に主人を守るに相応しい存在など居ないのに、渋々と御身から離れなければならない歴戦の武人の様な佇まいをする真司に、その場にいる慎也と新庄は苦笑し、仁は優しい微笑を浮かべた。慎也は、『お前に言われるまでもない』と言ってやるつもりだったが、真司のあまりにも真っ直ぐな瞳に射抜かれて、言葉にするのを辞めてしまった。そして、その代わりに小さく頷いて、過不足無い了承を真司に伝えた。
新庄に無言で促され、真司は雅之と最後に視線を絡めてから、それを振り解く様にして瞼を閉じた。そして、身体を反転させて、ゆっくりと瞼を開き、先を行く新庄の背中を追った。
満月が形作る、薄ぼんやりとした影だけを、長く、長く伸ばして。その影を雅之の身体に優しく纏わせながら、真司は、雅之がいる場所を一度も振り返らずに、その場を後にしたのだった。
よく整備された中庭には、昼間であれば、その新緑に溶け込んでしまいそうな薄らとした緑色の塗料で塗られたガゼボがあって、女性であれば見ただけではしゃぎそうな趣味で形作られていた。だから、そこの中にあるベンチに腰を下ろし、空に浮かぶ丸い月を見上げていた男性の後ろ姿は、どこか少女趣味な印象のある光景の中で、少しだけ浮いて見えた。
「やぁ、真司。良い夜だね」
後ろを振りかってもいないのに、その男性は真司の存在に気が付いた。その声とシルエットに見覚えがある真司は、その男に向けてまず一礼してから挨拶をした。
「お久しぶりです、新庄さん」
「あぁ。今日は色々と大変な目に遭った様だね。しかし、これで自分の立場という物が、少しは分かったんじゃ無いかな?」
この場所で何が起こったのか、その全てを知っている口振りの新庄に、真司は微かに苦笑してから、はい、と短く答えた。
「御方の御身の一番近くに存在し、御身をお守りするつもりでいるのなら、君は御方の愛玩動物という立場から脱却する必要がある。君の為に用意された『ケルベロス』という名前に相応しい働きをしたいのなら、相応の覚悟を持って私に着いて来ない限り、君はいつか間違いなく、死ぬだろう」
比喩も冗談も一切存在しない新庄の話を聞いて、真司は息を詰まらせた。確かに、今までの自分は、雅之にとって愛玩されるだけの存在でしかなかった。ロサ・キネンシスとして医療・福祉施設の現場の視察を出雲としている時も、自分に出来る事など何もないのだとまざまざと思い知ったし、建築のプロとしての手腕を発揮する出雲と自分を比べては劣等感に苛まれ、自己嫌悪に陥る日々を過ごしていた。
その為、自分が最も寵愛を受けるに相応しい実感が得られるセックスにどっぷりと依存し、雅之の身の回りの世話を一手に引き受ける事で、雅之の中にある自らの存在価値を高めようと奔走していた。
しかし、そんな事をしていても、他の薔薇の八大原種達からの信頼を勝ち得るなど、所詮無理な話なのだという事も分かっていた。だけど、自分には、他にどうすれば良いのか方法が分からなかった。しかし、雅之によって、自らの価値を自分の手で掴み取る機会を与えてもらえた。それに手を伸ばさずして、雅之と共に生きていくという自分の人生は成し得ないのだ。
だから、迷わずに、真司は新庄に向けて、直角90度に頭を下げた。
「俺は、御方から、貴方に着いていき、その存在から学べる全てを手にして帰ってこいと言われました。だから、俺は貴方に、自分の持つ全てを賭してついて行きます。俺が、その名前に恥じない、御方の忠実なる守護者『ケルベロス』になるまで、どうか俺を導いて下さい」
御方の表面を担当している蓮を護衛し、その補佐を一手に担当している新庄が目の前に現れた時、真司の頭には、成る程、という光が差し込んだ。確かにこの人物なら、自分が学びたいと思っていた全ての知識と経験を兼ね備えているだろう、と。新庄は、その真司の誠意溢れる言葉を受けると、その場から立ち上がって真司の前に静かに佇んだ。
「御方、そして、他数名の薔薇の八大原種から、俺は君を託された。御方の御身をお守りする守護者として、充分以上の働きが出来る様になるまで、君は御方の元には帰れない。下手をしたらその道すがらで命を落とす可能性すらある。それでも、前に進む覚悟はあるかい?」
「………はいっ!!」
真司は、新庄の双眸を真っ直ぐに見つめて返事をした。それを受けて、新庄は鷹揚に頷いてから、これから真司が、御方の忠実なる守護者ケルベロスとして生きていくに必要なルートを、淡々と説明していった。
「ではまず、君にはアメリカ海軍特殊部隊に所属する為の試験に合格し、その後二年間そこで訓練と実績を積み上げて貰う。そして、そこより無事に帰還した君に、ブラック・バカラの構成員としての任に就いてもらい、再びそこで数年間、訓練と実績を積んで貰う。その際に、君はこの教会の暗部を目撃する事になるだろう。この世の地獄をその目で見ても、それでも尚立ち上がるというのなら……その時は、私自らが君に指導を行うと約束しよう。御方の御身をお守りするという、その本当の意味を知りなさい。そして、必ずや、冥界の門の番人であり、御方を守る忠実なる守護者『ケルベロス』として、御方の隣に君臨するに値する、自らの存在価値を勝ち取りなさい」
無表情、しかし、その眼差しには『お前になら出来る』という無言の激励が込められている新庄の言葉に、真司の全身には痺れる様な衝撃が走った。これまで真司は、誰かから本当の意味で期待を掛けられた経験が無かった。それは、真司自身が自ら築き上げた経験や知識、実績という物を持たず、自己肯定感が低い人間であった事も、要因の一つだった。
しかし、この新庄の眼差しには、明らかな自分に対する『期待』が込められている。それは、以前に見たカーディナルに扮していた出雲が、真司をロサ・キネンシスとして騙し招こうとして画策していた時の眼差しとは、全く隔絶された領域にある代物だった。誰かからの期待を、本当の意味でその身に宿し、愛する人の隣に立つに相応しい人間になる為に、自分自身の存在価値を高める決意を固めた真司は、『お願いします!!』と腹の底から声を張り上げた。
「凄いやる気だね、真司」
林の様な場所にひっそりと佇んで、二人の会話を聞いていた雅之は、真司の気合いの篭った宣誓に、くすくすと鈴を転がす様に笑った。その笑顔を見た瞬間に、真司は雅之から離れがたい気持ちに再び火がつき、決心がぐらり、と足元から揺らいでしまった。しかし、いつまでも雅之から乳離れ出来ていない人間にはなりたくなかったから、今すぐに駆け寄って抱き締めてキスをして……という妄想を振り払い、雅之に向けて、にこ、とぎこちない笑いを浮かべた。
「貴方の隣に相応しい男になる為ですから」
「そう……そうだね」
暫く、お互いに見つめ合い、まるでその視線だけで、お互いの身体を抱き締め合う様な時間が流れる。それに水を差す事もせず、新庄は、二人の気が済むまで、二人を自由にさせていた。何しろ今日を持って、後数年、二人は離れ離れになってしまうのだから。
真司の資質と努力次第で、ブラック・バカラでの訓練期間に差は生じるだろうが、それでも間違いなく、5年~10年はお互いに顔を見る事も出来ないだろう。ブラック・バカラとしての任務に就いて、雅之の警護に当たる可能性も無くはないが、雅之と真司の関係性と、真司除外派の他の薔薇の八大原種の性格を考えると、それも難しい。だから、新庄は、二人が自分達の世界を形成できる今この時を、大切に見守っていた。
「お久しぶりです、ロサ・モスカータ。ロサ・ダマスケナの警護でお忙しいのに、お呼び立てして、すみませんでした」
二人の世界を優しく解して、新庄に声を掛けたのは、雅之だった。新庄は、そんな雅之に、首を横に、小さく振った。
「お気になさらずに。御方自らの頼みであれば、いつでも駆け付けます……お元気でいらっしゃいましたか?報告はいつもブラック・バカラからロサ・ギガンティア経由で受けては来ましたが、お話をする機会は少なかったものですから」
「だって、貴方と沢山お話をしてしまったら、俺はきっと、昔みたいに貴方を困らせてしまうから……わざと機会を少なくしていたんです」
「ふふ、気付いていましたよ。しかし、それが貴方にとって、御方として君臨する為に必要な事だったはず。だから、気に病まないで下さい」
寂しげで、しかし、成長した雅之を見て誇らしいとでも言うような笑みを浮かべる新庄に、雅之は思わず駆け寄って抱き締めて貰いたくなってしまう自分を必死で抑え込んだ。新庄も新庄で、そんな雅之に向けて、一戦を引いてくる様に、静かに首を横に振る。二人だけに分かる、伝わる、テレパシーの様な視線だけの会話に、雅之に強く想いを寄せている真司は、思わず二人の関係性を尋ねた。
「あの……お二人には、何か深い接点があったんですか?」
「不思議な事を。薔薇の八大原種のメンバーに、御方と深い接点の無い人間などおりませんよ」
「えっと、なら……二人には、一体どんな接点が?俺には、その……ふ、二人が昔付き合ってた、みたいな空気が感じられてしまって。邪推ならすみません」
ぺこり、と頭を下げる真司に、雅之と新庄は、目を少しだけ見開いてからお互いに視線を合わせ……ふっ、と笑った。
「俺達に、そんな色の付いた関係は無いよ。ただ、ロサ……要さんには、昔から本当にお世話になっていたんだ。本当の兄の様に慕っていた……あの教会で出会った時から」
雅之の言葉に、嘘はない。新庄は、御方になる前の雅之の、お世話係兼護衛を務めていた人物だったからだ。雅之にとって、新庄は誰よりも近くにいて、自分を育ててくれた血の繋がらない兄であり、家族の存在が希薄だった雅之の、数少ない心の支えだった。
蓮が御方の表を担当する事になり、その警護に新庄が着くという話が纏まると、雅之は子供の様に泣き縋って、新庄を困らせた。しかし、新庄を蓮の警護に当たらせるという指示をしたのも、御方である雅之だったのだ。
身分を隠して花園で暮らす決意をした雅之とは違い、表立って御方を名乗り行動する蓮の方がより危ない橋を渡る人生を歩む事になる。そんな蓮を心配した雅之が、一番信頼を置く新庄を、蓮の元に派遣したのだった。
新庄は、弟の様に、そして、唯一無二である自身の神として崇めていた雅之と離れるのはとても辛かったが、雅之の采配に従って、蓮と共に生きる道を選んだ。しかし、新庄が蓮と共に旅立つその前日になって、雅之はとうとう、新庄に泣きついてしまった。
雅之は、自分がどれだけ情け無い事をしているのか分かっていた。けれど、自分の心の支えだった人間が遠く離れた場所に行ってしまうのだけが、どうしても辛くて、耐えきれなかったのだ。
頼りにしていた祐樹も、新しくなった教会の抱える様々な問題を蓮と共に解決に向かわねばならず、泣く泣く雅之の側を離れる選択をせねばならなかった。だから、その教会の重要人物である二人の警護を任せられるのは、元教祖が隠し持っていた、ブラック・バカラの前身である暗殺部隊で脅威と猛威を奮っていた、原種の薔薇『ロサ・ロクスブルギー』……十六夜(イザヨイ)の異名を持つ、新庄 要を置いて他にいなかったのだ。
新庄は、泣き噦る幼い頃の雅之に、月を見れば自分がそこにいる。だから、寂しくなったら月を見て、とまるでお月様の様に優しい笑みを浮かべてから、雅之の元を去っていった。
そして、原種の薔薇ロサ・ロクスブルギーは、その後の功績を認められて、薔薇の八大原種ロサ・モスカータに任命された。そして同時期にロサ・キネンシスとロサ・ルキアエ……出雲と祐樹も薔薇の八大原種入りを果たし、その後に薔薇の花園で出逢ったロサ・ムルティフロラとロサ・ギガンティア……真智と慎也が加わり、雅之の愛しき薔薇達は、ここに揃ったのである。
雅之と新庄の二人の関係性は、恋ではない。雅之には真司が。新庄には蓮という心に決めた人がいた。しかし二人は、誰よりも深く、お互いを愛していたのだった。それは、家族愛、兄弟愛、そんな括りにも似ていたが、もしどちらが先に死んだ時は、遺骨をダイヤモンドに変えて終生に渡り身につけて行こうという約束をしていた。
それを知った蓮は『なら、今から髪で作れば?』と平然と二人に向けて言い放った。あまりに目から鱗だったその提案を受けて、二人はその後それを実行に移そうとしたのだが、隣に座って話を聞いていた祐樹によって、空気の読まない『毛髪ダイヤモンド婚約指輪プロポーズ事件』が発生し、何となくその話自体が流れてしまった。
薔薇の八大原種達にとって未だに『あれは無い』扱いを受けるその事件は、幹部達の心に深く刻まれる事となるのだが、その経緯があって、雅之の元に集まった七つの小さな小箱の中身は全部、毛髪ダイヤモンドが嵌められた仕様となっていた。
蓮は悪ノリ、九條は空気を読んで、出雲は面白がって、新庄は雅之との約束を守っての行動だと推察できるが、後の二人と祐樹に関しては、雅之としては扱いに困ってしまう、というのが現状だった。
その三つに込められている意味は雅之にも何処となく分かっているし、真司除外派に属しているのもこの三名なので、無闇に扱うと本当に真司の命と自分の身が危なくなる。だからこそ雅之は、その三人にだけは悟らせない様に、蓮や九條といった少数の同士と共に慎重に行動しながら、真司を一旦海外に逃すという目的も兼ねて、この計画を練り上げていったのだった。
そして、今日。雅之達の、『谷川 真司救済作戦』が、漸くスタートする。真司には、何処までも苦労を掛けてしまうし、新庄や蓮には苦労を掛け、九條と出雲には、これまで嫌な役ばかり押し付けて来てしまったが、雅之の中には、複雑な罪悪感はあれど、後悔は殆どなかった。
内心では真司を薔薇の八大原種と同等の位置に受け入れてもいいと考えているこの四人には、どうあっても後の三人にその心理を悟らせない様に動いてもらうしか無かった。二重三重と計画を立てて同時進行させていき、今漸く、その最後の計画は動き出そうとしている。
後は、慎也さえ、自分を裏切らなければ……
「って、考えてた?」
聞き覚えのあり過ぎる、そして、この場には絶対にいない筈のその声がした方を、ハッと振り返ると。雅之は驚愕の眼差しで、その人物を凝視した。
「………真智さん」
「やっほー、お前の驚いた顔とか久々だな。あ、新庄、お前も元気してた?」
「あぁ、今さっきまでな」
突然の乱入者に、その場の空気が凍りつく。しかし、その場所にあって真司は、動かない。いや、動けなかった。何故なら、この場にいない筈の、もう一人の人物、祐樹によって後頭部に銃口が押し付けられていたからだ。
「ふぅん、そっか。でさぁ、お前、ずっと雅之と一緒に、真司を逃す為に俺達の事騙してたわけ?」
「そうなるな。しかし、お前達に悪い事をしたつもりはないよ。御方の為に動く事こそが、俺の信条だからな」
「まぁ、そこは否定しないよ。お前がどれだけ雅之に甘いかは、俺達も知ってるしな。でも、悪いけど俺達は、どうあってもそいつだけは許せない。このまま海外に行かせて、立派に成長して、ブラック・バカラで経験積ませて、最後にお前に扱かれたからって、それで『はい、幹部入りおめでとう』とはならないんだよ」
真智が、笑う……『いつもの様に』
その笑みの意味を知る雅之と新庄は、このまま黙って真司を行かせるつもりはない、という真智の物言わぬ圧力に押し黙った。
「……雅之、俺はさ。強いお前も好きだったけど、俺の前だけで弱さを見せてくれるお前が、好きだった。だけど、お前の話に出てくる真司の話だけは、聞きたくなかった。お前が、教祖として生きる道に迷ったなら、俺が絶対に支えるつもりだった。だけど、その理由が真司だって聞いて……もう、無理だと思った」
誰の前でも、決して弱音を吐かなかった真智の沈痛な言葉に、真司の後頭部に押し当てられた銃口が、ごり、と更に強く押し当てられる。真司は、全身にぐっしょりと緊張からくる汗をかいていたが、この場にいて唯一、冷静さを保っていたのも、他の誰でもない真司だった。
真司は、祐樹の自分に向ける殺意に、揺らぎが生じている事に気が付いていた。何故なら、祐樹は直ぐに自分を撃つでもなく、こうして真智の話を聞きながら、何かを待っていたからだ。この状況を作り上げたこの二人が、これだけの裏切りを働いたこの二人が、一体何を心情として抱えているのか。そして、何を原動力として動いているのか、それをしっかりと見定めようとしていた。
そして、真司が知りたくて堪らなかったその理由が、明らかになる。
「谷川 真司。お前はずっと、俺達に騙されてきた」
ずっと黙り込んでいた祐樹が、口を開く。すると、ハッと真司達の方を振り返った雅之が、『待って』と唇を動かした。しかし、声にはならない。出せるわけがない。ここまで雅之を欺いてまで、この状況を作り出した二人の愛する薔薇達の悲痛な心の叫びが、それをさせてくれなかったのだ。
「お前が知る、幼い頃に教会で出会った御方は、出雲じゃない。出雲は、お前を自然に教会に招き入れる為に、御方のフリをしていた。肩書きだって最初からロサ・キネンシスだった。お前は、それすらも騙されていたんだよ。そのシナリオを考えたのも、全部雅之だ。そして、本当の御方も……ずっと、雅之ただ一人だ」
真司は、言われた事の意味を解釈する事に、必死になった。そして、祐樹の言葉の中に嘘がないという事を理解すると、銃口を後頭部に向けられたまま、祐樹に質問をした。
「何故、そんな事を?」
「信者ではないお前を、自然にうちの教会に招き入れる為には、様々な策略を用意する必要があった。教会に纏わる嫌な記憶を凌駕して、最愛の人間の為に努力を積み重ね、最後に手に入れた栄光を手元に置かせて、お前を自分と教会とに飼い慣らしたんだ……お前が今まで選んできた道は全部、雅之が用意してきた謀略の上に築かれたものだったんだよ」
自分自身が選び取ってきた道が全て、雅之が用意したシナリオ通りに進んでいたという事実を知った真司は、自然に頭の上に上げていた手を、スッ……と静かに下ろした。
「お前の母親だって、あれも本当は、全部演技だ。お前の父親が死んだのも、お前に酷い虐待をしていた事実を知った雅之がブラック・バカラに指示して消したからさ。そして、お前の行動を全て監視して、真智の用意した工作員にお前を確保させ、真智の手元に渡らせた。何も知らないお前は、まんまとロサ・フェティダに魅了され、あいつの為に雅之が敷いたレールを突き進んで行ったんだよ。それこそ馬鹿みたいに、真っ直ぐにな」
祐樹の口元が、真司を嘲る様にして歪む。しかし、祐樹の心にあるのは愉悦ではない。
深い、ただ深い、悲しみと、怒りと、嫉妬だった。
「あの街そのものが、お前の為に用意された箱庭だ。あの街に住んでいる住人は、子供から老人まで全てが信者で構成されている。そして、お前がいつも食ったり、飲んだりしてきたものは、全部雅之が選んで教会の傘下に加えてきた企業のものだ。『Secret Garden』は、教会のお墨付きがない商品や企業でなければそのマークは付けられない。そして、あの街そのものこそが、信者達にとって憧れの地である、ユートピア『秘密の花園』なんだよ」
誰しもが、祐樹の言葉に、声に、眼差しに、深い嫉妬と怒り、悲しみが混ざり込んでいた事を知っていた。雅之は悲痛な表情で、これまでの雅之の謀略の数々の詳細を、事細かに語る祐樹を見ていた。これまでずっと自分ただ一人の為だけに愛と献身を注いで来てくれた祐樹や真智を、こんなにも追い詰めてしまったのか、という罪悪感で、雅之は胸が押し潰されそうだった。
これは、これまで人の気持ちを踏み躙り、真司を騙し続けてきた自分に課せられた『罰』なのだ。当然の報いだ……と雅之は、例えこの先、どんな結果になろうとも、その結果を受け入れようと思った。
「そして、一番お前が知りたくないだろう真実を教えてやる。雅之は、お前が愛していた、ロサ・フェティダじゃない。あいつは、雅之のもう一つの人格。お前に裏切られたショックで、雅之が生み出した『心の中の友達』だったんだ」
真司は、頭に銃口が向けられているという事実を完全に忘れて、祐樹を振り返った。祐樹は少しだけ苛立ったが、何食わぬ顔で、再び真司の額に銃口を向けた。
「あいつは、お前をずっと恨んできた。雅之をあれだけ追い詰めたのはお前だったから……お前を完全に懐柔した満足感を抱えて最後に消えた瞬間、あいつは、お前を殺せないなら、死んだ方がマシなくらいの目に遭わせてくれと告げてから消えていった。いまはもう、雅之の中に溶けてしまったが……あいつのあの時の約束を、俺達は忘れられないんだよ」
「なら、どうしてこんな話を?何も知らずに海外に行って、のこのこ帰ってきた俺をみんなで大歓迎してから殺すなり、俺の目の前で媚薬を盛った雅之さんを、雅之さんの事が好きな人みんなで回すなりすれば良かったじゃないですか」
祐樹は、ぽかん、と口を開けて真司の澄んだ眼差しを見つめた。何を言っているのか分からない、という顔をしている祐樹を見て、『ああ、この人は、ただ単に、俺を傷付ける為だけにこの話をしたんだな』と唐突に理解して。
その全てを真司は、はっ、と鼻で笑い飛ばした。
「もしかして、ただ俺を絶望させるなり、雅之さんを軽蔑して欲しいとか考えて、こんな真似したんですか?だとしたら、あんまり俺を舐めないで欲しいですね。色々と話を聞かされて、先生の顔を見た瞬間、全部悟りましたよ………『騙されて来て、良かった』ってね」
その場にいる、真司以外の人間全てが、『谷川 真司』という人間の発想に、驚愕した。
これだけの大掛かりな謀略を受けて、これまでずっと騙されて来た人間が口にする台詞だとは、到底思えない。これには、半ばこの状況を傍観していた新庄も。その新庄を介して、会話の全てを盗聴していた蓮、九條、出雲。そして、仁と共に、この場に真智と祐樹を黙って通した慎也も、唖然とした。
「雅之さん、貴方は、どうしてこんな面倒な計画ばかり組み立ててきたんですか?なんで素直に俺に会いに来なかったの?よければ、その理由を教えて下さい」
額に銃口を押し当てられながら放つ質問でもなければ、言わなくても分かるだろう分かりきった理由を尋ねた真司の意図が分からず、雅之は動揺した。しかし、何か考えがあるのだろうと判断して、それを雅之が震えながら言葉にしようとした瞬間に、『辞めろ』という、二人分の拒絶が割って入った。
「………辞めてくれ。言わないでくれ、雅之」
その声の主は、祐樹と真智だった。祐樹は歯を食いしばり、俯いて微かに震えている。だから、さっき続けた台詞は、真智が放ったものだった。
「雅之さん、教えて」
しかし、真司は引かなかった。そして、それを受けた雅之は、二人の静止を振り払い、自分の勇気を振り絞って、その理由を口にした。
「……君が、好きだったから。俺が君を不幸にした教会の教祖だって知ったら、振り向いてくれないと思ったんだ。だから、教会の事も、自分の事も、ゆっくり知っていって……それで、俺を好きになって欲しかった。ごめん……騙して、ずっと嘘をついて、ごめんなさい」
絶対に泣いたりはしない、と心に誓った雅之だったが、最後に謝罪をした瞬間に、堪え切れなくなってしまった。繰り返し、繰り返し謝罪しながら、手の甲で、指で涙を拭う雅之の気配を背後に感じて。
真司は、『いま殺されても構わない』と思った。
「祐樹先生は、俺を殺したいですか?」
「………ああ」
「なら、撃てばいい。俺は、あの人にこれだけ愛されたのなら、もう思い残す事はありません。いつ死んでも構わない。どんな残虐な目に遭っても構わない。だけど、これだけは確かです」
真司は、目の前にいる、自分の額に銃口を押し付けている祐樹に向けて、にこり、と邪気の無い勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あの人、俺じゃないと、駄目なんですって」
真司は、目の前で泣きながらずるずると崩れ落ちる祐樹を、静かに見つめた。そして、その手に握られた拳銃の安全装置が解除されていない事に気が付いた。地面の土を握りしめている左手薬指には、雅之に贈った物と対になっている婚約指輪が嵌められている。それを目にした真司は、祐樹に最後に一つだけ伝えたかった事を思い出した。
「俺をあの島で迎えてくれた時の祐樹先生の優しさは、偽物だとは思えませんでした。貴方は、大切にしている人の大切な物を無碍に扱える人じゃない。だから、俺にとって先生は、あの島で独りぼっちになってしまった、俺の心の支えでした。演技だったとしても、俺は貴方に感謝しています………今まで、ありがとうございました」
地面に蹲り、号泣し続ける祐樹に、真司はもう、何も掛けられる言葉は無いと悟った。そして、祐樹から視線を外すと、今度は林の中にひっそりと佇んでいた真智に向けて、自分の想いを投げ掛けた。
「俺がアパートから追い出された時、本当はあのまま死ぬつもりでした。けど、真智さんが俺に声を掛けてくれたから、そして、俺を暖かく迎えてくれたから、今の俺があります。思えば、俺を初めて一人の人間として扱って、向き合ってくれたのが、真智さんでした。だから、最初は騙すつもりであったとしても、俺は真智さんとの出会いに、感謝しています。ありがとうございました……『師匠』」
『師匠』と呼ばれた真智は、少しだけ目を見開き、驚いた様な顔をしてから、小さく苦笑した。真智は、いま蹲って泣き噦っている祐樹とは違い、目の前で壊れてしまった雅之を見てきた訳では無かった。真司の所為で傷付いて、別人格すら生み出してしまった雅之を支え続けて来た真智としては、面白くない存在である事は確かだったが、とは言え、真司を心の底から憎んでいた訳では無かったのだ。
雅之が真司の所為で教祖として生きる道に迷う様になってしまった時は流石に焦ったし、なんとかして軌道修正をしなくてはと、本腰を入れて真司除外に乗り出してはきたが、これだけの雅之に対する熱意と、真実を知っても尚、揺るがない強い精神力には、素直に感嘆していた。
人間不信を起こし、それこそ精神障害を引き起こす程のトラウマになってもおかしくない人生を歩まされて来たにも関わらず、真司は、しっかりと前を向き、自分と、周囲と、向き合っている。真司の師匠として、弟子の成長は、素直に喜ばしい事ではあった。
補足ではあるが、以前、仁から届けて貰い、真智が手ずから茹でて真司に提供した生ウィンナーは、中身は本物の豚である。慎也は勘違いというか早とちりしている感はあったし、真智も若干の悪ノリをしていたが、酒屋の店主である原種の薔薇ロサ・エグランテリアが、牧場を経営している信者から直接提供を受けた豚一頭の処分に困り、何とか加工するなりして処理してくれないか、という打診をしてきた為に、真智が雅之御用達の食肉加工業者のラインの一角を借り受けて作った物だった。
真智が指示してブラック・バカラ達に作らせた『本物のウィンナー』は、『生産元』である本人達が直接口にしていており、全て彼らの胃袋の中に収まって、完全なるサーキュレーションが行われていた。殺しはしなかったが、相当の生き地獄を味合わせてから解放したので、もう教会にも、真司にも関わろうとはしないだろう。
真司は、海外で厳しい訓練と実践を積み重ねてから帰国し、そのままブラック・バカラに配属される事になっている。その為、人間の持つ残虐性をこれでもかと見せつけられる環境に身を移し、尚且つ、最高の性能を誇る教会屈指の超エリート諜報員やボディーガードとしてブラック・バカラで活躍をせねば、自分の道は切り開けない。それでいて、更に、教会の中にあって、その存在を本当の意味で知る幹部達から恐れられている新庄の個人的な指導に耐えてその実力を認められねば、真司は、雅之の顔を見る事すら叶わないのだ。それが、一体何年掛かるかは誰にも分からない。5年先か、10年先か……
その薔薇の道を歩んでいく真司に、真智は最後に師匠としての顔を作ってから、自分の本心を露わにした。
「お前を初めて見た時、お前は今まで俺の見てきた人間の誰よりも死に近いところにいた。だけど、そこから良くここまで立ち直って、成長して来られたな。これから先、辛い経験がお前を待っている。教会の闇を見て、御方の背負う本当の苦悩を見て、俺達の様に自分の無力を嘆く時が必ず訪れる。けれど、もしもお前がそれを乗り越えたなら、俺は素直にお前を称賛するよ……歓迎するかは、別の話だけどな」
どれだけの献身や努力を向けても、どうにもならない現実というものは存在する。それが、薔薇の八大原種に共通した願い……『雅之と立場を代わって、自由にして差し上げたい』という、絶対に叶わない願いだった。
真司は、雅之が持つ本当の苦悩、本当の生き様、本当の教祖として抱える重圧を、これから目にしていくだろう。そして、自分自身の無力を嘆き、自分の存在意義すらも見失う時が必ずやって来る。そんな人間でなければ、薔薇の八大原種に並ぶ存在にはなれないのだから、それは真司にとって通過儀礼でしかないのだ。それを乗り越えたなら、真司は本当の意味で、薔薇の八大原種に並ぶ存在として、彼らからその存在を認められる様になるかも知れない。
御方の忠実なる守護者『ケルベロス』として。
「………真司、申し訳ないが、そろそろこの場所を出発しなければならない。だから、最後に御方に、別れの言葉を」
すまなそうに口にした新庄の気遣いを受けて、真司は小さく頷いた。そして、いつの間にか祐樹の隣に腰を下ろして、教祖として纏う礼服が汚れるのも構わずに、号泣する祐樹を抱き締めて、その背中をゆっくりと撫でていた雅之の背後に、そっと近付いた。
声を掛けるのが躊躇われる光景だった。雅之の腕の中で、まるで小さな子供の様に泣き縋っている祐樹は、いつもの威風堂々とした雰囲気はまるでなく、母親に捨てられたばかりの幼児の様に真司の目に映った。しかし、雅之が何事か祐樹の耳元で囁くと、泣き噦っていた祐樹はぴたりと泣き止んで、信じられないものを見るかの様な目で、雅之をじっと見つめた。
「雅之……本当か?」
「うん、本当だよ。今まで全く声が聞こえなかったけれど、俺が真司に本当の気持ちを伝えた時に、あの子は笑っていた……とても幸せそうに。だから、祐樹先生があの子の為に、必要以上に復讐心を持つ必要は無いんだ。だから……もう休んでいいんだよ」
「そうか………そうか」
雅之は憑き物が落ちた様な顔をしている祐樹の額に優しく唇を落とした。目を閉じて、その唇の感触を覚えた祐樹は、雅之の頬に手を当てて、自分から雅之にキスをした。慎也の様な、お互いを確かめ合う様なキスではなく、もっと神聖な空気が流れる特別なそのキスに、真司は、不思議なくらい心の何処にも嫉妬の念が見当たらなかった。
「雅之……お前は、お前の好きに生きろ。俺達は、そんなお前を支えて、ついて行く。だから、もう迷わないでいい。お前の幸せが、俺の……俺達の幸せなんだ」
「ありがとう、祐樹先生。俺はもう、迷わないよ。真司と一緒に、みんなと一緒に、もっと強い自分になる。だから、安心して見守っていて」
「あぁ、当たり前だ……ふん、傍観者が目障りだから、俺は行くよ。服、悪かったな」
「これくらい、大丈夫。ありがとう……先生」
祐樹は立ち上がり、雅之に後ろ手で小さく手を振ると、真司には全く視線を寄越さずに、真司の隣を通り過ぎて行った。しかし、去り際のその瞬間、『死ぬなよ』と小さく風に乗せて告げてきたので、思わず真司は祐樹の背中を振り返ってしまった。すると祐樹はこちらを一度も振り返りもせずに、祐樹を待っていた真智と共に、林の中に消えて行った。
残されたのは、雅之、新庄、真司の三名のみとなった。時間も僅かだった事もあり、雅之は、自ら進んで真司の前にスッと佇んだ。
「………改めて、ごめんなさい。俺は、ずっと君を」
思い詰めた顔をして、雅之が謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、真司は雅之を、強く、強く抱き竦めた。雅之の後頭部に自分右手を回すと、そのまま髪の中に指を通して頭皮を触り、しっかりと腕の中に抱き込んでいく。雅之も真司に応えて、背中に手を回し、肩甲骨にそっと手を当てて、無言で真司を抱き締めた。
「雅之さんは、俺のどこが好きですか?」
ずっと尋ねたくて、でも、それがもしも時の経過と共に変わってしまう部分だったらと考えると、知るのが怖くて。胸の内側に仕舞い込んでいた疑問を、今だからこそ聞いてみようと、真司は雅之の耳元に、囁いた。
「どこが好きかと聞かれたら、全部が好きだよ。だけど、初めのうちはずっと憎んでいた。俺を置いて行ってしまった事を。だけど、ずっとずっと君の事を考えているうちに、君の笑顔ばかり思い出すようになって……いつの間にか、君との思い出は、俺の中で一番大切な思い出になっていた。それに気が付いた時には、もう、君に恋をしていたんだ」
もっとも深い絶望を与えた相手を、いつの間にか好きになっていく。それは、ある種の錯覚である様にも思えるが、真司にとってはそんな違い、些細な問題でしかなかった。重要なのは、これだけの大掛かりな謀略を繰り広げてまで、自分を求めて愛してくれた人間が、自分が誰よりも愛して、何よりも大切に想っている雅之だという事だった。
街を、家を、食事を、服を、居場所を作り、そこに真司を招き寄せた理由が『どうか自分を好きになって』なのだから、真司としては、堪らなかった。これだけ一生懸命に巣作りをして、ただ自分だけを健気に待ち続けてくれた雅之に、真司は全身を包む歓喜と多幸感で、どうにかなってしまいそうだった。
これだけの深い愛が、他にあるだろうか。
真司はもう、雅之でなければ決して満たされない。この人の愛以外、必要ない。この人の与えてくれる愛だけを貪って生きていく。そして、雅之にも、自分の注ぐ愛だけを食べて、飲んで、吸って、生きていって欲しい。だけど、それが難しいどころか、到底現実的ではない事も、同時に理解していた。
雅之は、世界最大規模を誇る、巨大信仰宗教の教祖だ。だからこそ、自分自身の幸せだけを願って生きていく訳にはいかない。真司と生活を共にしていた幸せな時間は、雅之にとって、真司の今後の生活が保証されるまでの、限られた時間と考えられた上で成立していた時間だったのだ。
しかし、その事を誰よりも知っていた雅之は、その時間を大切に過ごした。祐樹や真智、慎也といった薔薇の八大原種を油断させる為に、あと五年半掛けて真司の身体を自分の愛で満たしていく、と口にはしたが、それは本心からの発言ではなかった。そう出来たらどれだけいいか、とは思ったが、それ以上に、真司の命を守ることの方が、雅之にとって最も重要だったのだ。
雅之は、真司と生活を共にして来たその日々で、どれだけの癒しを感じられたのかを、真司に伝えた。その思い出さえあれば、たとえこの先、どれだけの時間離れていても、教祖として、御方として生きていく自分に迷う事などないと。
それを聞いて、真司は不安を覚えた。自分が海外で経験を積み、ブラック・バカラでの任期を終え、新庄という関門をクリアして雅之と共にいられる様になるまで、どれだけの時間が掛かるか分からない。その間、雅之を狙う今日の様な男達から、誰が雅之を守るのかと。すると、その疑問に答える様に、中庭に慎也が仁と共に姿を現した。
「お前が心配するまでもないよ。俺達が、こいつの警護に当たるから。だから、安心して行ってこい」
日頃の行いから、その人選に不安しか感じられない真司は、心無しか清々しく言い放った慎也を、胡乱な眼差しで見つめた。
「雅之さんに手出ししないでしょうね?」
「ばぁか。出来てるなら最初からしてるわ。でもまぁ、少しずつ、雅之様としても、俺達の気持ちに応えてくれる気にはなったみたいだから……全く良い思いをしないって事はないけどな」
はぁ?!という、絶叫にも似た声が真司の喉から生まれた。慌てて腕の中にいる雅之に、どういう訳なのか、事情を尋ねる。すると雅之は困った様な笑顔を浮かべながら、詳細を話してくれた。
「これまで、ずっと俺を慕ってくれている人達からの気持ちには全く応えては来なかったんだ。でも、真司という存在が現れて、俺も人間なんだっていう認識が一部の教会幹部に広がってしまった。でも、一度芽生えたその意識を取り除くのはとても難しい。だから、教会への貢献度の高い人と、お茶したり、会食をしたりする機会は少しずつ取り入れて行こうと思うんだ。だけど、今日みたいな事は、もう絶対に起こさない。だから、安心して?」
「あ、いや、それは当然、徹底するとしてですよ?なら、慎也さんや、薔薇の八大原種の方々の気持ちに応えて行くっていうのは……?」
「あぁ……それはね」
真司は、ごくり、と固唾を飲んで雅之の言葉を待った。もしこれで、『仲良くみんなとベッドインします』だなんて言われたら、このままハイさよなら、と海外に飛んでいける気には絶対にならない。すると、雅之は軽く逡巡してから、薔薇の八大原種達への今後の対応について、其々語り始めた。
雅之はまず、みんなから預かっている『小さな小箱』について真司に正直に話した。真司は、あんぐりと口を開いていたが、雅之は真司の態度には敢えて触れずに、あっさりと小さな小箱に関する説明を終わらせた。
雅之と薔薇の八大原種にとって、その指輪は雅之と愛しい薔薇との強固な関係性を目に見える形に表した物だ。だから、個人的に会う際は、雅之はその指輪を、左手ではなく『右手』の薬指に嵌めて会う事にしている。そして一緒に仕事に当たる、というのが真司が雅之のもとに現れてからのスタンダードだったのだが、やはりそれだけでは、愛しい薔薇達からの不満が噴出したのだ。ならば、どうすれば満足するのかとアンケートを取った所、其々が不思議な事を言い始めたのだという。
九條、新庄に関しては、仙人扱いされているだけあり、現状維持のままでいいと言われた。しかし、指輪は付けてくれると、親しみが感じられるので嬉しいと言われたらしい。
出雲は、女子会……という名前の買い物デート。今狙っている雄花が薔薇の花園にいるらしく、その相談に乗って貰いたいのだとか。慎也に話しても暖簾に腕押しで全く役に立たず、親友だったロサ・フェティダは雅之と同化してしまった。だから、雅之にロサ・フェティダの様に親しくして欲しいとお願いしてきたらしい。
真司にとって、この三人は希望とも言える存在だった。真司擁護派もこの三名が組みしているとの事らしいので、真司としても雅之を任せても安心できる人間達だった。しかし、問題はそれ以降の人間達だった。
蓮は、雅之を唯一神として崇める一方で、雅之を至極の鑑賞対象としている。一緒にお茶を飲み、同じ時間を過ごして、お互いの恋バナが出来ればそれでよしと言っていたらしいが、どうにも真司には胡散臭さしか感じられ無かった。蓮の側には新庄がいる為、大人しくはしているだろうが、いつの間にか目眩く百合の世界が広がっていてもおかしくは無い雰囲気だと、言動の端々から感じ取れてしまうのだ。蓮が本気でそんな動きを取るかは分からないが、注意だけはして下さいね、と真司は慎也に口酸っぱく忠告した。
祐樹については、ある意味でこの人物も仙人扱いの部類に値しているという認識が薔薇の八大原種の共通認識らしい。『本当かよ』というの真司の率直な感想ではあるが、実際、祐樹は雅之を相手にすると、そのあまりの尊さに全く手が出せないのだとか。性的な目で見た試しもなく、キスですら、本人なりの精一杯の勇気を振り絞っているらしい。なので、本人からは、雅之からもキスをして欲しい、という要望すら出てこず。ならどうしたら満足するのかと尋ねると、小さい頃の様に、添い寝がしたいと言われたそうだ。いや、危ない、絶対危ない、と真司は断固として反対したが、慎也曰く『お前と一緒にするな』と言われてしまった。俗物の塊扱いされている様で真司としては釈然としないが、雅之と祐樹の間にも世界観というものがあるのだろうから、心配は心配だけど、取り敢えずは真司の中で保留扱いとなった。
真智は、雅之に対する恋心を隠そうとしなくなったどころか、プロポーズまで決行した猛者の一人である。なので、それなりの要求をしてくるかと雅之も思っていたらしいのだが、真智はあっさりとそれを否定した。どうやら、心が自分に向いていない対象には手を出さないという信条があるらしい。そこまでは紳士だなぁ、流石師匠。と聞いていたが、そこから先が真司としては黙っていられない内容になっていった。真智は、男性としての機能を過去の経験から無くしていた。しかし、雅之に対してのみ、その機能が発揮されるのを自覚していた。だから、お酒を飲んだりして、気分が高揚したら、そんな気分になってしまう時もあったのだという。
そして、今までは何とか我慢していたのだけれど、真司という存在が現れた事でそのタガが外れてしまった。真智は、何と雅之の目の前で自慰をする事を許して欲しいと言ってきたそうだ。雅之は、何もしないでいい。ただ、目の前にいて微笑みながら、自分の作ったカクテルを飲んでくれればそれで良いのだと。そこまで聞いた真司は、何その耽美な世界観は、と頭を抱えた。真智の考えている事は、分かりそうで分からない。真智としても、誰かに分かって貰いたいものでも無いのだろうから、これも二人の世界観という事で纏めるしかないだろう。後は、真司の師匠でもある男が、ガチの紳士である事を祈るしかない。あのスマイルモンスターが、自分の離れているうちに、本格的に活動を開始しませんように、と。
最後に、真司の前にいる慎也が話題に上がった。一体何を雅之に所望したのか、真司が雅之に恐る恐るそれを尋ねると、雅之は『真智さんと大体同じ』と微笑みを浮かべた。なんですかそれ、大体同じで納得出来るわけないでしょうと目を血走らせて問い詰めると、慎也は昔、ロサ・フェティダと付き合っている時に、ロサ・フェティダとキスをしながら自慰をするという行為を時たま行っていたのだという。
ロサ・フェティダとしても、慎也が本当に好きなのは雅之だという事を知っていたのでそれ以上を許さなかった。また、真司と再会した時まで処女のままでいたかったという雅之の気持ちにも応えていた。だから、その制約が解除されたいま、慎也を縛るものはない。しかし、雅之が想う人間は、ただ一人。身体を許したい人間も同様、となれば、やはり慎也としても、真智と同じ考えで、雅之に本格的には手が出せないと考えてしまう。だから、慎也は、ロサ・フェティダとしていた事を、雅之にもして欲しいと頼んできたのだそうだ。
真司としては、異議があり過ぎて言葉にすらならない。そのまま泣き落としに掛かって、なし崩しにセックスに雪崩れ込んでも全くおかしくないからだ。大体あんた、俺の前で雅之さんの尻ガッツリ揉んでたでしょう、全く信用出来ませんよ、と真司が詰め寄ると、慎也は、明後日の方向を見ながら口笛なんて吹き始めてしまった。無かった事にするつもりかこの人は……と苛立ちを募らせた真司は、『大体なんなんだ、その尊い世界観は。さっきからどうなってるんだ薔薇の八大原種達の脳味噌は?』という疑問で頭が沸騰しそうになった。しかし、そんな真司を見て呆れ顔をするしかないのが慎也だった。
「お前、本当に、信仰ってものが分かってないよな。あのね、俺達にとって御方は、いと尊き方なの。俺だって結構頑張ってフランクに接してるだけで、本来なら話が出来るだけで夢心地になる様な、そんな方なんだよ。俺達からして見たら、お前の方が異常なの。分かった?」
確かに真司には信仰心というものがいまいち欠けている。母親の反面教師だった可能性は大だが、だからといって今後もその調子で行っては、幹部層の中で真司は浮いた存在になってしまう。雅之もそれを心配してくれている様で、取り敢えずは、経典を読んで教会の教義を勉強する所から始めて欲しいと真司に告げた。真司はそれを快諾して、雅之がブラック・バカラに用意させた経典を自分の持って来た鞄の中にしまい込んだ。自分の分もあるにはあったが、雅之から貰った物の方を大切にしたいと考えて、まずは行きの飛行機の中で読む事にしようと、真司は心に決めた。
これまでは、信者の真似事に近い感覚でいた。しかし、本格的に敬虔な信者になれるかどうかは別問題だとしても、教義が碌に頭に入っていない人間が薔薇の八大原種と肩を並べる幹部になれる筈がない。だから、きちんと経典の内容を頭に叩き込んで、信者から見てもお手本になる様な格好は身に付けないとならないな、と真司は自分を律した。
「あの、雅之さん。俺、さっきの話を聞いて、貴方がもし不安になっているならと思って、これだけは伝えなくちゃって思った話があって」
なぁに?と言った風に首を傾げるその仕草が堪らなくて、真司は真っ先にキスをしたい衝動をグッと抑えて、ゆっくりと自分の気持ちを伝えていった。
「確かに俺は初め、好きになったのはロサ・フェティダさんでした。だけど、ロサ・フェティダさんが貴方から分離していた人格なら、つまりは、それだって貴方の一つの『側面』でしかない。俺の中で、貴方達二人は最初から一人の人間です。ロサ・フェティダさんが貴方と同化して一人の存在になったのだとしたら、余計に……貴方は、俺にとってこの世界で唯一の、そして、一番特別な存在です」
真司の中で、雅之が二人の人格を有していたという事実は、はっきり言って些細な問題でしかなかった。難しい事は分からないけれど、ロサ・フェティダが元々ある雅之の人格から生まれたのだったとしたら、それだって雅之の一つの『側面』でしかない。だとしたならば、真司の中で、雅之に対する違和感など始めから存在していない様なもの。そして何より、ロサ・フェティダと完全に同化した雅之は、以前と比べて、精神的に穏やかに、それでいてしなやかで、神々しくも威厳があり、そして……どこまでも魅力的かつ扇情的に、真司の目に映った。
その、何処までも嫋やかな眼差しで見つめられただけで、身体に熱が籠る。いつまでも、いつまでも睦み合い、その眼差しで見つめられたい。跪いて、足先にキスをして、そこからじっくりと全身を下から上へと舐め啜って、お互いの存在を確かめ合う様な濃厚なキスをしながら、深く、深く、繋がりたい。
以前の、何倍も、何十倍も、そもそも比較にならない程。真司は、今の雅之を愛していた。
「貴方の為に生きられるこれからの人生が、俺には輝いて見えて仕方がない。どれだけの事がこれから先待っていても、俺は、絶対に貴方のもとに帰ってきます」
自分の腕の中に再び雅之を収納し、耳元に唇を寄せ、何度も何度も、唇で耳たぶを食んで、必ず帰ってくるという誓いを、熱く囁く。雅之の身体が、ひくん、と腕の中で微かに震えた瞬間に、真司は、瞳に妖しい光を灯して、ひっそりと、雅之にだけ伝わる声量で語りかけた。
「ねぇ、雅之さん。俺、ロサ・フェティダさんを初めて抱いたその時と、今の貴方を抱いている時の違和感が全く無いんです。もしかして、貴方は実技練習の時、ロサ・フェティダさんと殆ど同化していたんじゃないですか?つまり、いまの貴方に近い存在だった……違いますか?」
希望的観測ではあるが、そこは明らかに、真司の中で確定事項として扱われていた。何故なら、あれだけ雅之を大切に思っているロサ・フェティダが、憎しみを抱いている真司に身体を許すにしては、理由が軽過ぎる気がしたのだ。提案したのは真司だが、それにしてもあの日のロサ・フェティダの陥落は早過ぎた。だとしたら、真司は一つの可能性を導きだせるのだ。
雅之は、あの日、真司に『抱かれに来ていた』のだと。
「そんなに、俺が欲しかったの?もしかして、ずっとロサ・フェティダさんに嫉妬してた?あの人だって貴方自身なのに、自分自身に嫉妬するだなんて……なんて可愛い人」
「……あ、真司……言わないで」
真司は、雅之のその言葉と態度に満足すると、するすると手のひらを滑らせて、雅之の臀部まで到達させ、礼服の上から尻たぶをゆるゆると撫で回した。
「改めて言わせて下さい。俺は、貴方の初めての人になれて、本当に嬉しかった。貴方の二回分の初めてを貰えた様なものだって分かって、余計に……ねぇ、絶対に浮気したら駄目ですからね。もしそんな事したら、間違いなく赦さないですから」
「………赦さないって、どうするの?」
「今日のおっさんにしたのと同じ事……いや、それ以上の事をしてから、そいつを殺します。それで、貴方を一生何処かに監禁しちゃうかも」
雅之の当たり前に持つ疑問に答えた真司の瞳に、妖しく、どろっ、と濁った殺意と情欲、そして、底知れぬ雅之への愛情と執着とが宿る。それに呼応する様にふるり、と身震いをした雅之は、思わず苦笑した。
あの明るくて素直だった真司を、こんな狂愛に満ちた男に変えてしまった責任を、自分は必ず取らなければならないな、と。
「ふふ、お前は、本当に怖いなぁ……」
「だから言ったでしょう?……男って、怖いんだって。それが嫌なら、絶対に俺以外としないでね。貴方を見れば俺には分かるから、隠しても無駄ですよ」
「分かってる……君以外とは絶対にしない。だから、真司も、浮気したら駄目だからね」
「そうしたら雅之さんは、俺に何をするんですか?」
「君と同じ事をしてから、君を食べちゃおうかな」
数々の謀略を尽くして真司を囲い込み、その人生そのものに関わって、自分だけを愛する様に真司を導いて来た人間の深い、底無しの愛と執着。それを、雅之の中に見つけた真司の全身は、歓喜と興奮に打ち震えた。そして、一瞬でガチガチに勃起した怒張を、ズボン越しに雅之の礼服の下腹部に擦り付けた瞬間、信じられない事に、真司はそのまま絶頂を極めた。
最高だ。
そんな死に様、最高だ。
俺が貴方に、貴方が俺に。
そして俺は、貴方を内側から支え続ける礎となる。
ずっと、ずぅっと、離れられない。
もう、俺達を引き離す事は誰にも出来ない。
真司は、にたぁ、と心の底から満ち足りた深く歪んだ笑みを浮かべて、雅之の頭に頬擦りをした。
「誰にも、一口もあげないでね。貴方が、全部食べて」
「浮気するの?」
「絶対に何があってもしない。けど、俺がいつか死んだ時は、必ずそうして。骨までしゃぶって、全部綺麗になったら、貴方の寝室のオブジェにして。夢でも、朝までずっと抱いてあげる」
「それはそれで素敵だけれど……でも、俺より先に死ぬなんて許さない。だから、無事に帰ってきてね」
お互いの愛……と、呼ぶべきかどうかも難しい、深い深い執着を確認しあった二人は、惹かれ合う様に、申し合わせた様に、唇を合わせた。
「…….君が帰ってきたら、君の為に四日間、時間を作るよ。そして、今回の慰安の続きをしよう。だから君は、離れていた間にあった出来事を、俺に沢山聞かせてね」
「そんな余裕、俺にあると思いますか?」
「じゃあ、身体で教えて……君の身体に刻まれた傷を、俺の身体で数えさせて」
唇同士を合わせるだけだったキスが、段々と深くなっていく。そして、お互いの呼吸を奪い合って、雅之が呼吸困難になる寸前になって、真司は漸く、雅之から身体を離した。
「これ以上は、名残惜しくなるばかりなので、行きます。慎也さん、仁さん……俺が戻るまで、御方を、宜しくお願いします」
まるで自分以上に主人を守るに相応しい存在など居ないのに、渋々と御身から離れなければならない歴戦の武人の様な佇まいをする真司に、その場にいる慎也と新庄は苦笑し、仁は優しい微笑を浮かべた。慎也は、『お前に言われるまでもない』と言ってやるつもりだったが、真司のあまりにも真っ直ぐな瞳に射抜かれて、言葉にするのを辞めてしまった。そして、その代わりに小さく頷いて、過不足無い了承を真司に伝えた。
新庄に無言で促され、真司は雅之と最後に視線を絡めてから、それを振り解く様にして瞼を閉じた。そして、身体を反転させて、ゆっくりと瞼を開き、先を行く新庄の背中を追った。
満月が形作る、薄ぼんやりとした影だけを、長く、長く伸ばして。その影を雅之の身体に優しく纏わせながら、真司は、雅之がいる場所を一度も振り返らずに、その場を後にしたのだった。
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