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第二章『罪』
花園の過去を知る男
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見慣れているのに、何処か懐かしい俺の職場であり住居でもある建物を外から眺める。漸くここまで帰ってこれた。一週間しか離れていなかったけれど、もう古巣の様に感じているこの場所を眺めているだけで、気分が落ち着いてくる。とはいえ、入り口の段階で和んでいる場合じゃない。俺は、この店の中にいる人に、どうしても話を聞かなくちゃならないんだ。これから対峙するだろう、御方との直接対決に向けて、俺にとって、この人との会話は非常に重要な意味を持つ。だから、気持ちを引き締めてから、俺はその重厚な作りのバーの扉を開けて中へと進んだ。
「いらっしゃ……あれぇ?真司、はは!お前よく生きて戻ってきたなぁ!!」
品の良いドアベルを鳴らして中に入ると、真智さんが満面の笑みで恐ろしい事を口にした。歓迎されているのは雰囲気から伝わってくるんだけど、どうにも内容が物騒でならない。でも、確かに。俺が余りにも目に余る行動を続けていたら、俺は蓮さん本人というよりかは、周りを取り囲む信者達に、口にするのも恐ろしい様な目に遭わされていたかも知れないんだ。それは、俺が信仰宗教に持つバッドイメージからくる印象でしかないんだけど、あそこの島にいた人達や、特に蓮さんの身の回りのお世話をする人達なんかは、俺が『薔薇』として相応しくない様な言動を取ったり、必要以上に蓮さんに近づいたりすると、本当に目が笑っていない時も多々あったから、次にもし蓮さんに会う様な機会があれば、今度こそ気をつけて行動しよう、と心に誓った。
「おかげ様で、この通りピンピンしてますよ。すみません、色々とご迷惑や心配を掛けてしまって」
「俺の事なんていいんだよ、気にしなくて。それにしても……ちょっと見ない間に、良い顔する様になったなぁ」
しみじみと褒められて、悪い気はしない。だから、ちょっとだけ照れ臭かったけれど、ありがとうございます、と感謝を軽く述べてから、後ろに続いて入店してきた慎也さんの顔を見せる為に、身体を横にずらした。
「慎也!お前、久しぶりだなぁ!全然顔出さないから、死んだかと思ったぞ」
「さっきから聞いてれば、ずっと物騒なんですけど。まぁ、一応元気にはしてましたよ」
「お前の場合は、冗談じゃないんだけどなぁ……まぁ、いいや。座れよ、二人共。いまお客様いないから、自分の家みたいに寛いでくれ」
「真智さん、俺手伝います」
「いーから、今日はお前もお客様。な?」
にっこりと、朗らかな笑みを浮かべて、俺や慎也さんをカウンター席に促す真智さんに、苦笑しながら、すみません、と言って素直に応じる。そして、真智さんが手ずから作ってくれるカクテルを二人して待ちながら、俺は文字通り腰を据えて、真智さんと話をする事にした。
「真智さんのお酒を飲むのは、久しぶりですね」
「あぁ、初めて店に来た時以来か?あれから随分と出世したよなぁ。たまに九條さんが来るけど、いつもお前の話ばかりしてるよ。本当に拾って貰えて良かったよ。俺も、九條さんにお前を紹介出来て、箔が付いたしな」
そう言って、にっかりと毒のない笑みを浮かべる真智さんを見ていると、この人が、俺の想像も及ばない様な壮絶な人生を送ってきた人には全く見えなくて。人というものは、どれだけ付き合っても、そう簡単に他人には計り知れるものではないんだなと、しみじみ思った。
「……真智さんに会ったら、聞いておきたい話があったんです」
「ん?なんだ、話してみろよ。聞かれた事には答えるぜ。お前は俺にとって、もう身内みたいなもんだからな」
「……ありがとうございます」
家族みたいな付き合いをしていた訳じゃないけれど、とは言え、この人には本当にお世話になりっぱなしだったから、その言葉が胸にじん、ときて。自分にとって大切な人だからこそ、言葉を正確に選んで、慎重に話をしようと思えた。
「真智さんは、一時期、花園にいたとロサ・フェティダさんから聞きました。そして、慎也さんとも深い親交があったと。それは、本当なんですよね?」
微笑みを浮かべながら、しかし、カクテルを作るその手付きに迷いはない。俺の突っ込んだ話にも、動揺してみせる様子はなかった。
「あぁ、そうだよ。随分と昔の、それこそ、10年経つか経たないかくらい前に花園入りした。そして、5年前に独立したんだ」
「改革が進む花園に残る道もありましたよね?だけど、真智さんはそれをしなかった。何か、独立した理由があったんですか?」
先代の教祖が管理していた花園の暗黒時代を乗り越えて、新設される事となった花園から独立し、真智さんはいまこの店を一人で切り盛りしている。だけど、花園という場所を、誰よりも深く知りながら、真智さんは、その場所に留まる道を選ばなかった。そんな人物を、慎也さん以外に、俺は知らない。
しかし、慎也さんの場合、花園との直接的な接触は少なくとも、蓮さんという御方の表側を担当する人物を警護するという役割を担っている。つまり、教会の人間の中でも、最も深い暗部に属している人間の一人なのだ。そんな人から話を聞いても、ロサ・フェティダさんを外の世界に連れ出そうという思惑で動いている俺としては、参考の対象にならなかった。俺が今、最も必要としている知識は、花園関係者でありながら、その道から離れ、現在は独立した人生を歩んでいるとする人から聞ける話。一体、どうやって花園から離れて、独立の道を歩む決心をしたのか、その経緯と心理的な変化について、俺は知りたかった。
「俺が花園を離れて独立した理由は、それなりにあるけど……強いて言うなら、この店自体が理由かな」
「この店が?」
「あぁ。この店、どう見ても、俺が一代で築き上げた店には見えないだろう?」
促されて店内をぐるりと見渡してみる。言われてみなくても、確かにこの店は、真智さんが一人で一から作ったという印象は無い。昔ながらの趣のあるオーセンティックバーで、カウンターのチークの一枚板だけを見ても、長年使用されてきた重厚感があった。
「この店はな、俺の死んだ祖父さんが始めた店だったんだ。酒の作り方は、最初のうちは祖父さんから遊び半分で教わった。常連のお客様なんかも、俺に良くしてくれてな。昔は大人しい子供だったから、店の空気も壊さないっていうんで、何も気にせずに良く遊びに来ていたよ」
しかし、真智さんの祖父さんは、仕事に精を出す人間ではあったものの、その女遊びの激しさだけが難点としてある、所謂、昔ながらの職人気質を地で行く人物だったらしい。そして、高齢の域に差し掛かるご夫婦でありながら家庭内での喧嘩が絶えず、お祖父さんに愛想を尽かした真智さんのお祖母さんは、宗教の中に救いを求める様になっていった。そして、それが真智さんの家庭が壊れてしまった、全ての引き金となっていった。
「当時の教会は、より下の階層の信者から、支配層の人間が金をむしり取っていく図式が成り立っていて、うちの家計はすぐに火の車になっていった。だけど、祖父さんは、そんな祖母さんを止められなかった。罪の意識もあったんだと思う」
そして敢えなく、真智さんのお祖父さんは、この店を手放さずにはいられない状態へと陥っていった。そして、その心労が祟り、お祖父さんも呆気なく天へと召されていき、その後を追う様にしてお祖母さんも。そして、真智さん一家に遺されたのは、祖父達が作った、莫大な借金だった。とても生活が回らないと困窮した真智さんのご両親は、お祖母さんが懇意に……一方的にそう思っていた、実家の一番近くにある教会の司祭に相談をしにいった。そして、借金の支払い期限を伸ばして貰うよう、何とか便宜を払って貰ったのだが、借金そのものの支払いが無くなった訳ではなく、やはり生活は困窮を極めていった。
「そんな時に声を掛けてきたのが、いま話に出てきた地元の教会の司祭だった。俺は高校に進学するのを諦めて働き口を探していたんだけど、それを聞きつけた司祭から、職業訓練を受けて、資格まで取れる上に、将来的には職場を紹介して貰えるという施設に案内されたんだ。そして、それが俺の花園入りをするきっかけとなっていった」
花園に足を踏み入れた、その日の内に、真智さんは違和感を覚えたという。同性の筈なのに、妙に色気のある年頃の人間達の、品定めをしながらも、明らかに自分を下に見てくるその視線を四方八方から浴びている内に、真智さんはすぐに自分が騙された事に気が付いた。そして、その時には既に司祭の手によって、花園に勤め上げるのを前提とした借用書が制作されていた。そして、真智さんにとっての、地獄の日々が始まったのだった。
「まぁ、当時の花園は、本当に何でもありな世界だったからな。自分の性別が男で良かったとすら思えたよ。男としての矜持なんて、ものの半年で粉々に打ち砕かれたけど、その代わりきちんと給金は支払われたし、職業訓練も間違いなく受けられた。殆ど交配の為の実技訓練や交配そのもので潰れた日なんかも沢山あったけど、それでも友達と呼べる様な奴もいたし、可愛い後輩達も沢山いた。だから、全くの絶望だけで塗り固められた記憶じゃない。とは言え、もう俺は、男として機能しない人間になっちまったけどな」
真智さんが、どれほどの絶望の日々を過ごしてきたのか想像はしていたけれど、これ程まで辛い日々を経験していたなんて、思いもしなかった。真智さんにはお世話になってばかりいたから、話を聞いているだけで、自分の事のように辛い。俺が、どんな声を掛けたらいいのか判断に窮していると、真智さんは快活に笑いながら、その後の顛末を話していった。
「けれど、今の御方に代替わりしてから殆ど日を置かずして、花園の空気は一変した。元教祖の威光を笠に着て私腹を肥やしていた花園関係者はごっそり粛正の対象になって、支配者階級の人間達が鎮座していた場所に、御方自らが、後の総元締めとなられた九條さんを引き連れて、華麗なる人事を行使していかれたんだ。これから先、どんな階級の人間を相手にしても物怖じしない様にと用意された講師陣もその道の一流達が集められ、薔薇や薔薇の蕾達が受けられる教育は著しく向上していった」
薔薇や薔薇の蕾達の傷付いた精神面に寄り添う為、カウンセラーなども置かれ、仕事先の斡旋も飛ぶ様に行われていった。そして、半年も過ぎた頃には、花園に漂っていた薄暗い空気は、物の見事に掻き消されてしまった。その頃になると、慌ただしかった花園も落ち着きを取り戻しており、そして、それをきっかけとして、地元の司祭の手を通じて花園の総元締めの手に渡っていた、真智さんの借金の借用書の存在も、御方の目に止まる様になったのだという。
真智さんは、それを自分の手元に置いた御方から、ある提案をされた。このままここで仕事を続け、裏から花園を支えていくか。それとも、花園を出て、残った借金を返しながら違う道を歩んでいくか、と。
御方は、真智さんをひと目見ただけで、真智さんが本当はヘテロであるというのを見抜いたのだという。そんな真智さんが、花園に縛られたまま留まっているのを、御方は『見るに見兼ねた』といって、あっさりと進路を提示したのだった。
「迷ったよ。まだ、生活の基盤すら持てていない蕾連中なんて沢山いたし、慎也みたいに、まるで抜け殻みたいになっちまった後輩もいたからな。そんな奴らを置いて、俺だけ自由になるなんて出来ないと思ったから……」
「え……慎也さんが?」
この場に本人がいる事を失念して、思わず聞き返す。すると、隣に座っていた慎也さんが、真智さんが作ったバージンブリーズというカクテルを一口飲みながら、ん?と此方を振り返った。ちなみに、バージンブリーズは完全なるノンアルコールカクテルだ。慎也さんは、こんなにお酒の似合うスタイルと容姿を兼ね備えながら、残念な事に下戸の人間だった。
「あん時のお前は、本当に、俺もどうしたらいいのか分からないくらい、ぶっ壊れてたよなぁ……」
「まぁ、そうっすね。なんだか当時の記憶自体も、映画見てるみたいな……他人事っぽい感じ?」
「じゃないと、お前の心が保たなかったんだろうさ」
「うーん、かもしんないっすね」
しみじみと、どうあっても聞き捨てならない話をする真智さんに、飄々と切り返す慎也さん。俺は、その話が話の本筋からズレているのを分かっていながら、食い付かざるおえなかった。
「いまの慎也さんは、凄く喜怒哀楽がしっかりある人に見えますけど……一体、何が?」
「そうだな、俺の見立てだと、こいつが人間らしい感情を取り戻せたのは、確実にロサ・フェティダのおかげだと思ってるよ」
ここにきて、ロサ・フェティダさんの名前が出てきたところに、『またか』という感情と『知ってた』という納得が交差した。
ロサ・フェティダさんは、抜け殻みたいな状態になって、日常生活すら碌に送れていない慎也さんの側にずっといて、反応しないのが分かっていても、繰り返し慎也さんに話しかけていたそうだ。最初のうちは徒労に終わっている事も多かったそうだけど、真智さんは、慎也さんの瞳に輝きが次第に戻っていくのが分かったという。
「いつの間にかロサ・フェティダの後を追いかける、カルガモの雛みたいになっていってさ。最初は微笑ましく見ていたんだけど……いつしか、こいつらの関係性には、色がつき始めていった」
ロサ・フェティダさんが慎也さんに甲斐甲斐しく世話を焼いているうちに、慎也さんは、ロサ・フェティダさんを特別な人間だと思う様になっていったんだろう。でも、それは自然な流れのなかにある関係性で、俺なんかが口を挟める話じゃない。だけど、やっぱりショックはショックだった。
「そういえば、お前らって、なんで別れたの?」
「いまでも、本当は俺、別れてるつもりなんてないんです。特別そんな話もしてないし」
「………え?!」
どうしたって聞き捨てならない話を聞かされて、どんどん話の本軸からブレていっているのを、気に留める暇がない。詳しく詳細を聞かざる終えなくて、俺はグイッと慎也さんに詰め寄った。
「ロサ・フェティダさんは、いまは恋人いないみたいな話してましたよ。慎也さんには申し訳ないですけど、多分向こうは自然消滅したと思ってるんじゃないですか?」
「あー……それな?」
「軽い……」
俺の目の前に、真智さんが作ったばかりのカクテルをスッと差し出した。ソルティードッグ。グラスの縁に文字通り塩が効いてるスノースタイルなので、今の俺にぴったりなチョイスだった。空気が読め、仕事ができる男。それが俺の師匠でもある、利根川 真智という人なのである。
「ロサ・フェティダさんは、その、御方一筋な感じの方じゃないですか。そもそもの話、二人は付き合って無かったとかいうオチは無いんですか?」
「うん?……あぁ、大丈夫。それは、間違いなく付き合ってた」
「何を根拠に。だって、その、貴方達は、キスしかしてないって……」
「セックスしないと、恋人にはなれないの?悪いけど、それかなりの偏見じゃねぇ?」
正論をぶつけられて、うぐ、と黙り込む。個人的にはプラトニックな関係性を否定したくは無いが、今この時だけは、意義を申し立てたかった。
「……二人が恋人だった証拠が知りたいんですよ、俺は」
「何でお前の納得したい気持ちを俺が満たしてやらなくちゃいけないのよ。ここの勘定お前持ちにするなら、考えてやってもいいけど」
「払います。今すぐに払いますから、聞かせて下さい」
「えー?なら何かお代わりしていい?」
「……ッ、どうぞ!!」
「わーい、真智さん、じゃあ次、サラトガ・クーラーね」
しかし、慎也さんの口からは、ついぞ二人が恋人同士であったという確たる証拠は語られなかったのであった。
慎也さんが、これまたノンアルコールのサラトガ・クーラーを三分の一程度。俺が塩っぱい思いをしながらソルティードッグを完全に飲み干した辺りで、真智さんが話を本題に戻してくれた。少し浮き立ってしまった空気に水を差す事もなく、まるでこんな過去は確かにあったけど、いまはそれなりに幸せに生きていますよ、といった軽い形で届けられた真智さんの過去の話には、やはりというか、御方の存在が大きく関与していた。
今後の進路について話をされた真智さんは、少しだけ考えさせて下さいと言って、その日は頭を冷やすつもりで、久しぶりに外を歩きながら自分の進路を考えてみる事にしたのだそうだ。すると、不思議なもので、その足は自然とお祖父さんが経営していたこのバーに向けられていたのだという。
その店に愛着のある常連客の支えもあって、全くの売買物件ではなく、借り手を募集しているテナントの扱いにはなっていたけれど、まだきちんとした借り手らしき存在には巡り合っていなかった様で、その店をその目で見た瞬間に、まるで雷に打たれた様な気持ちになって、真智さんは自分の歩むべき道を見出したのだそうだ。そして、花園に御方が訪れた時、話す時間を作って貰い、外に出る決意を固めた話をしに行ったのだという。
しかし、バーを再び再稼働させる為には、どうしても資金が必要だった。それについてどう考えているのかと御方に尋ねられた真智さんは、まだ年齢もそこまで高くはないので、夜の仕事をしながら、まずは頭金を用意していくと力無く告げた。
すると、御方は、そんな真智さんに向けて、自分がその店のオーナーになってやるから、借金が返し終わるまでは、まず自分に雇われてみろ、と突然切り出したのだという。真智さんにしてみれば願ったり叶ったりの提案でしか無かったけれど、流石に裏があるんじゃないかと思った真智さんは、御方の思考を読もうと試みた。すると、その意図に気が付いた御方は、にやりと人の悪い笑みを浮かべて、身構えた真智さんに、こう告げてきた。
『あの街に転がり込んできた、いや、転がり込むしか無かった人間を、お前の手で集めろ。そして、お前があの街の顔役となって、あの街を……この国の未来の人材を、牛耳れ』
そして、真智さんは、御方の後ろ盾を得て、国内で最大規模を誇る繁華街の顔役となり、広く教会の信者を募り、集めていく存在となった。集めた信者は今では鼠算式に増えていき、行き場を失っていた若者達を中心として、教会に入信する事こそがトレンドであるという位置付けを確立しつつあるという。
政財界、メディア、一流企業の経営者、医師会、法曹界……等々といった大枠の信者だけでなく、今後この国を担っていく若年層への働きかけも同時に行っていけば、教会の未来は殊更明るくなると、御方は見込んでいたのだった。つまり、この話を統合するに、真智さんは。
「花園の関係者では無くなっても、教会での位置付けは、以前よりも更に上になったんですね」
「………そう。俺は、教会の人間の中でも、幹部としてその地位を確立している。御方の手足となって動く、最も御方に近い存在の一人だよ」
自分自身の立場や役割に誇りを持っている、とその顔に書いてある真智さんを見て、俺は、言葉に表しようのない、どこまでも暗い気持ちになっていた。
御方が作る世界には、一見して綻び一つとして無い様に思える。実際に本人が私腹を肥やしいる訳でもなければ、弱者への救済にその権能を活用し、教育を必要としている人間には手を差し伸べて、その後の生活まで保証の手を伸ばす。
しかし、御方による管理された環境の中で、幸せを謳歌していると思い込んでいる人間達を見ているだけで、俺は薄寒い気持ちを覚えるんだ。
管理された世界。
管理された信者。
管理された未来。
管理された幸福。
これではまるで、食われないだけの家畜と同じだ。
人間が、その生を謳歌するという本質は、高次元の存在である誰かの寵愛を得なければ成り立たない様な世界の中には、決して存在しない。
しかし、国といった大きな枠で考えていくならば、誰からも管理されずにその人生を送る人間など、この世に存在しないのも、また事実。
だから、この場合の問題は、そしてその欠点は、そんな盲点とも言える場所に存在するのだと思う。
けれど、それを真智さんに向けて指摘しても、単なる徒労に過ぎないだろう。この人は、きっと御方という存在に、俺の想像しているよりも遥かに強烈な忠誠を誓う人間だ。例え、旧体制の教会に無理矢理入信させられていたとしても、今もそうとは限らない。この人が教会の幹部の人間であるとこうして明言した以上、その価値観を覆し、御方から完全に独立を果たすよう促すには、俺が真智さんから、御方その人以上の信頼を勝ち取るところから始めなければならないからだ。
つまり、俺がこれからロサ・フェティダさんにしなければならない事も、それと同義となる。だけど、例えそれが険し過ぎる道のりであっても、俺はその道を踏破してみせる。
御方の、完璧に管理された世界に、風穴を開けて。
「真智さん、色々と失礼な口を聞いてすみませんでした」
「もう行くのか?」
「はい、御方を相手取っても、充分戦えるヒントを得られましたから」
「へぇ……今の話でか?」
俺が静かに頷くと、お前凄いなぁ、と真智さんは心底からの感嘆を上げた。俺は少しだけ気恥ずかしい気持ちになったけれど、それをこの場で表現するまではしなかった。そして、俺は真智さんに向けて、最後の質問を投げ掛けた。
「真智さんは、いまのロサ・フェティダさんを見てどう思いますか?俺は、あの人の価値観や世界が、どうしても狭いものだと感じてしまいます。俺はそれを、俺の手で広げてあげたいと思っているんですが……やはり、これは俺のエゴなんでしょうか」
意表を突かれた、という様に軽く目を見開く真智さんの、そんな表情を見るのは初めてで。この質問というか、自分自身に対する疑問を投げ掛ける時間を最後に持ってきて正解だったなと思った。
「確かに、あいつの見ている世界は狭い。だが、これまでずっと俺達は、あいつの世界を広げようと努力してきた。だけど……残念ながら、その全てが、結局無駄に終わってしまった。御方や花園に掛けるあいつの想いは、それだけ強いんだ」
分かっていた返事が返ってきた事で、その難易度がどれだけ高いかをより一層自覚する。だから、俺は拳を握り締めて、昨日から今日に掛けて何度目かの宣誓を果たした。
「俺が、あの人を救ってみせます。あの人の世界を広げ、自分の意思で歩いていける様に」
「期待してるよ。御方やあいつを説得するのは一筋縄ではいかないだろうが。くれぐれも無茶はするなよ」
『下手をしたら、命に関わる』……そう言い含められているのが分かって、俺は理解を表す為に、深く頷いた。
そして、御方との全ての決着をつける為に、俺は慎也さんを伴って、真智さんが経営しているバーを出て、薔薇の花園のある場所へと向かったのだった。
見慣れているのに、何処か懐かしい俺の職場であり住居でもある建物を外から眺める。漸くここまで帰ってこれた。一週間しか離れていなかったけれど、もう古巣の様に感じているこの場所を眺めているだけで、気分が落ち着いてくる。とはいえ、入り口の段階で和んでいる場合じゃない。俺は、この店の中にいる人に、どうしても話を聞かなくちゃならないんだ。これから対峙するだろう、御方との直接対決に向けて、俺にとって、この人との会話は非常に重要な意味を持つ。だから、気持ちを引き締めてから、俺はその重厚な作りのバーの扉を開けて中へと進んだ。
「いらっしゃ……あれぇ?真司、はは!お前よく生きて戻ってきたなぁ!!」
品の良いドアベルを鳴らして中に入ると、真智さんが満面の笑みで恐ろしい事を口にした。歓迎されているのは雰囲気から伝わってくるんだけど、どうにも内容が物騒でならない。でも、確かに。俺が余りにも目に余る行動を続けていたら、俺は蓮さん本人というよりかは、周りを取り囲む信者達に、口にするのも恐ろしい様な目に遭わされていたかも知れないんだ。それは、俺が信仰宗教に持つバッドイメージからくる印象でしかないんだけど、あそこの島にいた人達や、特に蓮さんの身の回りのお世話をする人達なんかは、俺が『薔薇』として相応しくない様な言動を取ったり、必要以上に蓮さんに近づいたりすると、本当に目が笑っていない時も多々あったから、次にもし蓮さんに会う様な機会があれば、今度こそ気をつけて行動しよう、と心に誓った。
「おかげ様で、この通りピンピンしてますよ。すみません、色々とご迷惑や心配を掛けてしまって」
「俺の事なんていいんだよ、気にしなくて。それにしても……ちょっと見ない間に、良い顔する様になったなぁ」
しみじみと褒められて、悪い気はしない。だから、ちょっとだけ照れ臭かったけれど、ありがとうございます、と感謝を軽く述べてから、後ろに続いて入店してきた慎也さんの顔を見せる為に、身体を横にずらした。
「慎也!お前、久しぶりだなぁ!全然顔出さないから、死んだかと思ったぞ」
「さっきから聞いてれば、ずっと物騒なんですけど。まぁ、一応元気にはしてましたよ」
「お前の場合は、冗談じゃないんだけどなぁ……まぁ、いいや。座れよ、二人共。いまお客様いないから、自分の家みたいに寛いでくれ」
「真智さん、俺手伝います」
「いーから、今日はお前もお客様。な?」
にっこりと、朗らかな笑みを浮かべて、俺や慎也さんをカウンター席に促す真智さんに、苦笑しながら、すみません、と言って素直に応じる。そして、真智さんが手ずから作ってくれるカクテルを二人して待ちながら、俺は文字通り腰を据えて、真智さんと話をする事にした。
「真智さんのお酒を飲むのは、久しぶりですね」
「あぁ、初めて店に来た時以来か?あれから随分と出世したよなぁ。たまに九條さんが来るけど、いつもお前の話ばかりしてるよ。本当に拾って貰えて良かったよ。俺も、九條さんにお前を紹介出来て、箔が付いたしな」
そう言って、にっかりと毒のない笑みを浮かべる真智さんを見ていると、この人が、俺の想像も及ばない様な壮絶な人生を送ってきた人には全く見えなくて。人というものは、どれだけ付き合っても、そう簡単に他人には計り知れるものではないんだなと、しみじみ思った。
「……真智さんに会ったら、聞いておきたい話があったんです」
「ん?なんだ、話してみろよ。聞かれた事には答えるぜ。お前は俺にとって、もう身内みたいなもんだからな」
「……ありがとうございます」
家族みたいな付き合いをしていた訳じゃないけれど、とは言え、この人には本当にお世話になりっぱなしだったから、その言葉が胸にじん、ときて。自分にとって大切な人だからこそ、言葉を正確に選んで、慎重に話をしようと思えた。
「真智さんは、一時期、花園にいたとロサ・フェティダさんから聞きました。そして、慎也さんとも深い親交があったと。それは、本当なんですよね?」
微笑みを浮かべながら、しかし、カクテルを作るその手付きに迷いはない。俺の突っ込んだ話にも、動揺してみせる様子はなかった。
「あぁ、そうだよ。随分と昔の、それこそ、10年経つか経たないかくらい前に花園入りした。そして、5年前に独立したんだ」
「改革が進む花園に残る道もありましたよね?だけど、真智さんはそれをしなかった。何か、独立した理由があったんですか?」
先代の教祖が管理していた花園の暗黒時代を乗り越えて、新設される事となった花園から独立し、真智さんはいまこの店を一人で切り盛りしている。だけど、花園という場所を、誰よりも深く知りながら、真智さんは、その場所に留まる道を選ばなかった。そんな人物を、慎也さん以外に、俺は知らない。
しかし、慎也さんの場合、花園との直接的な接触は少なくとも、蓮さんという御方の表側を担当する人物を警護するという役割を担っている。つまり、教会の人間の中でも、最も深い暗部に属している人間の一人なのだ。そんな人から話を聞いても、ロサ・フェティダさんを外の世界に連れ出そうという思惑で動いている俺としては、参考の対象にならなかった。俺が今、最も必要としている知識は、花園関係者でありながら、その道から離れ、現在は独立した人生を歩んでいるとする人から聞ける話。一体、どうやって花園から離れて、独立の道を歩む決心をしたのか、その経緯と心理的な変化について、俺は知りたかった。
「俺が花園を離れて独立した理由は、それなりにあるけど……強いて言うなら、この店自体が理由かな」
「この店が?」
「あぁ。この店、どう見ても、俺が一代で築き上げた店には見えないだろう?」
促されて店内をぐるりと見渡してみる。言われてみなくても、確かにこの店は、真智さんが一人で一から作ったという印象は無い。昔ながらの趣のあるオーセンティックバーで、カウンターのチークの一枚板だけを見ても、長年使用されてきた重厚感があった。
「この店はな、俺の死んだ祖父さんが始めた店だったんだ。酒の作り方は、最初のうちは祖父さんから遊び半分で教わった。常連のお客様なんかも、俺に良くしてくれてな。昔は大人しい子供だったから、店の空気も壊さないっていうんで、何も気にせずに良く遊びに来ていたよ」
しかし、真智さんの祖父さんは、仕事に精を出す人間ではあったものの、その女遊びの激しさだけが難点としてある、所謂、昔ながらの職人気質を地で行く人物だったらしい。そして、高齢の域に差し掛かるご夫婦でありながら家庭内での喧嘩が絶えず、お祖父さんに愛想を尽かした真智さんのお祖母さんは、宗教の中に救いを求める様になっていった。そして、それが真智さんの家庭が壊れてしまった、全ての引き金となっていった。
「当時の教会は、より下の階層の信者から、支配層の人間が金をむしり取っていく図式が成り立っていて、うちの家計はすぐに火の車になっていった。だけど、祖父さんは、そんな祖母さんを止められなかった。罪の意識もあったんだと思う」
そして敢えなく、真智さんのお祖父さんは、この店を手放さずにはいられない状態へと陥っていった。そして、その心労が祟り、お祖父さんも呆気なく天へと召されていき、その後を追う様にしてお祖母さんも。そして、真智さん一家に遺されたのは、祖父達が作った、莫大な借金だった。とても生活が回らないと困窮した真智さんのご両親は、お祖母さんが懇意に……一方的にそう思っていた、実家の一番近くにある教会の司祭に相談をしにいった。そして、借金の支払い期限を伸ばして貰うよう、何とか便宜を払って貰ったのだが、借金そのものの支払いが無くなった訳ではなく、やはり生活は困窮を極めていった。
「そんな時に声を掛けてきたのが、いま話に出てきた地元の教会の司祭だった。俺は高校に進学するのを諦めて働き口を探していたんだけど、それを聞きつけた司祭から、職業訓練を受けて、資格まで取れる上に、将来的には職場を紹介して貰えるという施設に案内されたんだ。そして、それが俺の花園入りをするきっかけとなっていった」
花園に足を踏み入れた、その日の内に、真智さんは違和感を覚えたという。同性の筈なのに、妙に色気のある年頃の人間達の、品定めをしながらも、明らかに自分を下に見てくるその視線を四方八方から浴びている内に、真智さんはすぐに自分が騙された事に気が付いた。そして、その時には既に司祭の手によって、花園に勤め上げるのを前提とした借用書が制作されていた。そして、真智さんにとっての、地獄の日々が始まったのだった。
「まぁ、当時の花園は、本当に何でもありな世界だったからな。自分の性別が男で良かったとすら思えたよ。男としての矜持なんて、ものの半年で粉々に打ち砕かれたけど、その代わりきちんと給金は支払われたし、職業訓練も間違いなく受けられた。殆ど交配の為の実技訓練や交配そのもので潰れた日なんかも沢山あったけど、それでも友達と呼べる様な奴もいたし、可愛い後輩達も沢山いた。だから、全くの絶望だけで塗り固められた記憶じゃない。とは言え、もう俺は、男として機能しない人間になっちまったけどな」
真智さんが、どれほどの絶望の日々を過ごしてきたのか想像はしていたけれど、これ程まで辛い日々を経験していたなんて、思いもしなかった。真智さんにはお世話になってばかりいたから、話を聞いているだけで、自分の事のように辛い。俺が、どんな声を掛けたらいいのか判断に窮していると、真智さんは快活に笑いながら、その後の顛末を話していった。
「けれど、今の御方に代替わりしてから殆ど日を置かずして、花園の空気は一変した。元教祖の威光を笠に着て私腹を肥やしていた花園関係者はごっそり粛正の対象になって、支配者階級の人間達が鎮座していた場所に、御方自らが、後の総元締めとなられた九條さんを引き連れて、華麗なる人事を行使していかれたんだ。これから先、どんな階級の人間を相手にしても物怖じしない様にと用意された講師陣もその道の一流達が集められ、薔薇や薔薇の蕾達が受けられる教育は著しく向上していった」
薔薇や薔薇の蕾達の傷付いた精神面に寄り添う為、カウンセラーなども置かれ、仕事先の斡旋も飛ぶ様に行われていった。そして、半年も過ぎた頃には、花園に漂っていた薄暗い空気は、物の見事に掻き消されてしまった。その頃になると、慌ただしかった花園も落ち着きを取り戻しており、そして、それをきっかけとして、地元の司祭の手を通じて花園の総元締めの手に渡っていた、真智さんの借金の借用書の存在も、御方の目に止まる様になったのだという。
真智さんは、それを自分の手元に置いた御方から、ある提案をされた。このままここで仕事を続け、裏から花園を支えていくか。それとも、花園を出て、残った借金を返しながら違う道を歩んでいくか、と。
御方は、真智さんをひと目見ただけで、真智さんが本当はヘテロであるというのを見抜いたのだという。そんな真智さんが、花園に縛られたまま留まっているのを、御方は『見るに見兼ねた』といって、あっさりと進路を提示したのだった。
「迷ったよ。まだ、生活の基盤すら持てていない蕾連中なんて沢山いたし、慎也みたいに、まるで抜け殻みたいになっちまった後輩もいたからな。そんな奴らを置いて、俺だけ自由になるなんて出来ないと思ったから……」
「え……慎也さんが?」
この場に本人がいる事を失念して、思わず聞き返す。すると、隣に座っていた慎也さんが、真智さんが作ったバージンブリーズというカクテルを一口飲みながら、ん?と此方を振り返った。ちなみに、バージンブリーズは完全なるノンアルコールカクテルだ。慎也さんは、こんなにお酒の似合うスタイルと容姿を兼ね備えながら、残念な事に下戸の人間だった。
「あん時のお前は、本当に、俺もどうしたらいいのか分からないくらい、ぶっ壊れてたよなぁ……」
「まぁ、そうっすね。なんだか当時の記憶自体も、映画見てるみたいな……他人事っぽい感じ?」
「じゃないと、お前の心が保たなかったんだろうさ」
「うーん、かもしんないっすね」
しみじみと、どうあっても聞き捨てならない話をする真智さんに、飄々と切り返す慎也さん。俺は、その話が話の本筋からズレているのを分かっていながら、食い付かざるおえなかった。
「いまの慎也さんは、凄く喜怒哀楽がしっかりある人に見えますけど……一体、何が?」
「そうだな、俺の見立てだと、こいつが人間らしい感情を取り戻せたのは、確実にロサ・フェティダのおかげだと思ってるよ」
ここにきて、ロサ・フェティダさんの名前が出てきたところに、『またか』という感情と『知ってた』という納得が交差した。
ロサ・フェティダさんは、抜け殻みたいな状態になって、日常生活すら碌に送れていない慎也さんの側にずっといて、反応しないのが分かっていても、繰り返し慎也さんに話しかけていたそうだ。最初のうちは徒労に終わっている事も多かったそうだけど、真智さんは、慎也さんの瞳に輝きが次第に戻っていくのが分かったという。
「いつの間にかロサ・フェティダの後を追いかける、カルガモの雛みたいになっていってさ。最初は微笑ましく見ていたんだけど……いつしか、こいつらの関係性には、色がつき始めていった」
ロサ・フェティダさんが慎也さんに甲斐甲斐しく世話を焼いているうちに、慎也さんは、ロサ・フェティダさんを特別な人間だと思う様になっていったんだろう。でも、それは自然な流れのなかにある関係性で、俺なんかが口を挟める話じゃない。だけど、やっぱりショックはショックだった。
「そういえば、お前らって、なんで別れたの?」
「いまでも、本当は俺、別れてるつもりなんてないんです。特別そんな話もしてないし」
「………え?!」
どうしたって聞き捨てならない話を聞かされて、どんどん話の本軸からブレていっているのを、気に留める暇がない。詳しく詳細を聞かざる終えなくて、俺はグイッと慎也さんに詰め寄った。
「ロサ・フェティダさんは、いまは恋人いないみたいな話してましたよ。慎也さんには申し訳ないですけど、多分向こうは自然消滅したと思ってるんじゃないですか?」
「あー……それな?」
「軽い……」
俺の目の前に、真智さんが作ったばかりのカクテルをスッと差し出した。ソルティードッグ。グラスの縁に文字通り塩が効いてるスノースタイルなので、今の俺にぴったりなチョイスだった。空気が読め、仕事ができる男。それが俺の師匠でもある、利根川 真智という人なのである。
「ロサ・フェティダさんは、その、御方一筋な感じの方じゃないですか。そもそもの話、二人は付き合って無かったとかいうオチは無いんですか?」
「うん?……あぁ、大丈夫。それは、間違いなく付き合ってた」
「何を根拠に。だって、その、貴方達は、キスしかしてないって……」
「セックスしないと、恋人にはなれないの?悪いけど、それかなりの偏見じゃねぇ?」
正論をぶつけられて、うぐ、と黙り込む。個人的にはプラトニックな関係性を否定したくは無いが、今この時だけは、意義を申し立てたかった。
「……二人が恋人だった証拠が知りたいんですよ、俺は」
「何でお前の納得したい気持ちを俺が満たしてやらなくちゃいけないのよ。ここの勘定お前持ちにするなら、考えてやってもいいけど」
「払います。今すぐに払いますから、聞かせて下さい」
「えー?なら何かお代わりしていい?」
「……ッ、どうぞ!!」
「わーい、真智さん、じゃあ次、サラトガ・クーラーね」
しかし、慎也さんの口からは、ついぞ二人が恋人同士であったという確たる証拠は語られなかったのであった。
慎也さんが、これまたノンアルコールのサラトガ・クーラーを三分の一程度。俺が塩っぱい思いをしながらソルティードッグを完全に飲み干した辺りで、真智さんが話を本題に戻してくれた。少し浮き立ってしまった空気に水を差す事もなく、まるでこんな過去は確かにあったけど、いまはそれなりに幸せに生きていますよ、といった軽い形で届けられた真智さんの過去の話には、やはりというか、御方の存在が大きく関与していた。
今後の進路について話をされた真智さんは、少しだけ考えさせて下さいと言って、その日は頭を冷やすつもりで、久しぶりに外を歩きながら自分の進路を考えてみる事にしたのだそうだ。すると、不思議なもので、その足は自然とお祖父さんが経営していたこのバーに向けられていたのだという。
その店に愛着のある常連客の支えもあって、全くの売買物件ではなく、借り手を募集しているテナントの扱いにはなっていたけれど、まだきちんとした借り手らしき存在には巡り合っていなかった様で、その店をその目で見た瞬間に、まるで雷に打たれた様な気持ちになって、真智さんは自分の歩むべき道を見出したのだそうだ。そして、花園に御方が訪れた時、話す時間を作って貰い、外に出る決意を固めた話をしに行ったのだという。
しかし、バーを再び再稼働させる為には、どうしても資金が必要だった。それについてどう考えているのかと御方に尋ねられた真智さんは、まだ年齢もそこまで高くはないので、夜の仕事をしながら、まずは頭金を用意していくと力無く告げた。
すると、御方は、そんな真智さんに向けて、自分がその店のオーナーになってやるから、借金が返し終わるまでは、まず自分に雇われてみろ、と突然切り出したのだという。真智さんにしてみれば願ったり叶ったりの提案でしか無かったけれど、流石に裏があるんじゃないかと思った真智さんは、御方の思考を読もうと試みた。すると、その意図に気が付いた御方は、にやりと人の悪い笑みを浮かべて、身構えた真智さんに、こう告げてきた。
『あの街に転がり込んできた、いや、転がり込むしか無かった人間を、お前の手で集めろ。そして、お前があの街の顔役となって、あの街を……この国の未来の人材を、牛耳れ』
そして、真智さんは、御方の後ろ盾を得て、国内で最大規模を誇る繁華街の顔役となり、広く教会の信者を募り、集めていく存在となった。集めた信者は今では鼠算式に増えていき、行き場を失っていた若者達を中心として、教会に入信する事こそがトレンドであるという位置付けを確立しつつあるという。
政財界、メディア、一流企業の経営者、医師会、法曹界……等々といった大枠の信者だけでなく、今後この国を担っていく若年層への働きかけも同時に行っていけば、教会の未来は殊更明るくなると、御方は見込んでいたのだった。つまり、この話を統合するに、真智さんは。
「花園の関係者では無くなっても、教会での位置付けは、以前よりも更に上になったんですね」
「………そう。俺は、教会の人間の中でも、幹部としてその地位を確立している。御方の手足となって動く、最も御方に近い存在の一人だよ」
自分自身の立場や役割に誇りを持っている、とその顔に書いてある真智さんを見て、俺は、言葉に表しようのない、どこまでも暗い気持ちになっていた。
御方が作る世界には、一見して綻び一つとして無い様に思える。実際に本人が私腹を肥やしいる訳でもなければ、弱者への救済にその権能を活用し、教育を必要としている人間には手を差し伸べて、その後の生活まで保証の手を伸ばす。
しかし、御方による管理された環境の中で、幸せを謳歌していると思い込んでいる人間達を見ているだけで、俺は薄寒い気持ちを覚えるんだ。
管理された世界。
管理された信者。
管理された未来。
管理された幸福。
これではまるで、食われないだけの家畜と同じだ。
人間が、その生を謳歌するという本質は、高次元の存在である誰かの寵愛を得なければ成り立たない様な世界の中には、決して存在しない。
しかし、国といった大きな枠で考えていくならば、誰からも管理されずにその人生を送る人間など、この世に存在しないのも、また事実。
だから、この場合の問題は、そしてその欠点は、そんな盲点とも言える場所に存在するのだと思う。
けれど、それを真智さんに向けて指摘しても、単なる徒労に過ぎないだろう。この人は、きっと御方という存在に、俺の想像しているよりも遥かに強烈な忠誠を誓う人間だ。例え、旧体制の教会に無理矢理入信させられていたとしても、今もそうとは限らない。この人が教会の幹部の人間であるとこうして明言した以上、その価値観を覆し、御方から完全に独立を果たすよう促すには、俺が真智さんから、御方その人以上の信頼を勝ち取るところから始めなければならないからだ。
つまり、俺がこれからロサ・フェティダさんにしなければならない事も、それと同義となる。だけど、例えそれが険し過ぎる道のりであっても、俺はその道を踏破してみせる。
御方の、完璧に管理された世界に、風穴を開けて。
「真智さん、色々と失礼な口を聞いてすみませんでした」
「もう行くのか?」
「はい、御方を相手取っても、充分戦えるヒントを得られましたから」
「へぇ……今の話でか?」
俺が静かに頷くと、お前凄いなぁ、と真智さんは心底からの感嘆を上げた。俺は少しだけ気恥ずかしい気持ちになったけれど、それをこの場で表現するまではしなかった。そして、俺は真智さんに向けて、最後の質問を投げ掛けた。
「真智さんは、いまのロサ・フェティダさんを見てどう思いますか?俺は、あの人の価値観や世界が、どうしても狭いものだと感じてしまいます。俺はそれを、俺の手で広げてあげたいと思っているんですが……やはり、これは俺のエゴなんでしょうか」
意表を突かれた、という様に軽く目を見開く真智さんの、そんな表情を見るのは初めてで。この質問というか、自分自身に対する疑問を投げ掛ける時間を最後に持ってきて正解だったなと思った。
「確かに、あいつの見ている世界は狭い。だが、これまでずっと俺達は、あいつの世界を広げようと努力してきた。だけど……残念ながら、その全てが、結局無駄に終わってしまった。御方や花園に掛けるあいつの想いは、それだけ強いんだ」
分かっていた返事が返ってきた事で、その難易度がどれだけ高いかをより一層自覚する。だから、俺は拳を握り締めて、昨日から今日に掛けて何度目かの宣誓を果たした。
「俺が、あの人を救ってみせます。あの人の世界を広げ、自分の意思で歩いていける様に」
「期待してるよ。御方やあいつを説得するのは一筋縄ではいかないだろうが。くれぐれも無茶はするなよ」
『下手をしたら、命に関わる』……そう言い含められているのが分かって、俺は理解を表す為に、深く頷いた。
そして、御方との全ての決着をつける為に、俺は慎也さんを伴って、真智さんが経営しているバーを出て、薔薇の花園のある場所へと向かったのだった。
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