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第一章『楊貴妃』
第二話『シェリー』
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「楊貴妃を出せるお店があったので、本国にいる時は、良くそのお店を使ってたんですけど。帰ってきたらマスターが年取って畳んじゃってて、困っていたんですよね」
「あぁ、そうなんですか」
「はい、だから、この店に出会えて良かった」
いちいちどきりとする言葉選びをする男だなと、思った。流石に、そういった生業をしているだけはあるな、とも同時に感じた。けれど、そんな感想を抱いてしまったのは態度におくびにも出さずに、彰はただ静かに、仕事に従事し続けた。
その後も、その一輪の花のもとに、次々と男達は現れ、そして彼等は皆決まって『ビトインザシーツ』を注文していった。しかし、その悉くを、彼はブルームーンを注文することでばっさりと薙ぎ払っていった。
あまりにも鮮やかな流れだったので、彼がこの道の玄人である事は、直ぐに彰の知る所となった。どうやら、彼と『お知り合い』になる為には、一定のルールがあるのだろう。その流れを見守る内に、彰は自然とそのルールを知っていった。
楊貴妃。つまりは、その淡い水色をしたカクテルが、彼の目印。男達は、それを見て『彼』だと気が付き、そして近付く。その後ビトインザシーツを注文して、ご機嫌伺いをする。彼にとっての断りのサインが、ブルームーン……その流れが大体分かったところで、彰は口を開いた。
「お酒、強いんですか?」
話し掛けられるとは思わなかったのか、彼は少しだけ驚いたように目を瞬くと、口元に困ったような笑みを浮かべて、曖昧に首を横に振った。その反応を見てから、そういえば自分から客に声を掛けたのは初めてだな、と彰は頭の隅で思った。
「それなら、このやり方は、あまりお勧め出来ないですね」
「ご心配どうも。でも、自分の酒量は分かってる。だから、今日はここまでって、自分で決められるんだ」
「なるほど……そうなんですね」
考えての事だったのかと知り、じゃあ口を挟むことじゃないなと思い直した。しかし、一度好奇心を鍵として開いた口は、なかなか閉じてはくれなかった。
「断らない時は、何を頼むんですか?」
「それは……」
その疑問に彼が答えようとした、その時。カラン、とドアチャイムが鳴って、また一人男が来店した。知的な雰囲気の男だった。シルバーカラーの髪を撫で付け、かっちりとした品の良いスーツを着こなしている。知的さの演出に余計に拍車を掛けている黒縁の眼鏡を掛けたその男は、チラと彼の手元にある楊貴妃を見ると、眼鏡のズレを直してから彼の元に歩み寄った。
「隣に座っても?」
「……どうぞ」
彼が促すと、男が静かに、彼の隣に座った。
「ビトインザシーツを」
間髪入れずに、そう口にして。しっかりと彰の方を向いて注文してくるその男を、彼はちらりと横目で見た。今日何度目かのビトインザシーツを作り、男の前に差し出すと、男は彼の方を全く見もせずに、カクテルに口を付けた。
静かな男だ。彼の気を惹こうだとか、そんな男が醸し出す色気を全く感じさせない。彼は、カウンターに頬杖をつき、男がカクテルを飲む様子をじっと伺っている。しかし、先程までの、どこにでもいるような青年の雰囲気は、がらりと変容していた。
男を見る、その目付きや、仕草、纏う空気、フェロモンと言うものが目に見えるのだとしたら、それ。その全てが一変している。
彼の変わり様に、一番驚いたのは彰だった。心臓が自分の意思に反して、どくりと脈打ち、肋骨を圧迫する。まさかこの自分が、男相手に、反応を示す筈が無い・・・そう思っているのに。その目で、こちらを見て欲しいと考えてしまう。その指先で摘んだ、カクテルグラスの蔓になりたいと、妄想してしまう。生まれて初めての感覚に、彰は人知れず、そして激しく困惑した。
「お兄さん」
「はい」
呼び掛けに応える声に、動揺が乗らなかったことに、彰はホッと胸を撫で下ろした。
「シェリー下さい」
今日初めての、違う注文だったので、彰は驚きに目を瞬いた。それを聞いて俄かに反応を示したのは、彼の隣に座る、眼鏡を掛けた男も同様だった。男は眼鏡のズレを直すと、それまで興味も関心も示さなかった彼に、背中に一本針金が通っているかのような動きをして向き直った。
「……俺でいいのかい?」
「カウンターの上では会話しないのが、俺のルールなんです」
「……分かった。すまない」
そう照れたように謝ってから、また、男はカウンターの正面を向いた。しかし、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいる。
きちんとした身なりと雰囲気から、その男の事を三十代後半くらいかと彰は見込んでいたが、その素朴な反応を見て、その予想を下方修正した。こう見えて、もっと若いのかも知れない。じっと男の様子を伺っていた彼だったが、彰にシェリーを注文し終えると、まるで興味を失ったかのように男から視線を剥がして、再び彰の居るカウンターの方を向いた。そうして、シェリーを用意する彰の手元を、男と一緒になって眺め始めた。
シェリーは、スペイン南部のアンダルシア地方産の強化白ワインを指す。度数は、普通のワインより高めだ。寝る前に飲む、ナイトキャップには適している。だが、この場合は意味合いが異なるだろう。シェリーのカクテル言葉は、『今夜は貴方に全てを捧げます』……どうやら今夜の相手が決まったらしい。用意したシェリーを彼の目の前に差し出すと、花が綻ぶように、にこりと微笑まれた。
「また、来てもいいですか?」
「はい。お待ちしております」
「ふふ、ありがと」
軽くウィンクをしてから、可愛らしく茶目っ気を見せ、彼はゆっくりとシェリーを楽しんだあと、席を立った。彼の分の会計は、今晩の相手である男が纏めてしていき、そして二人は夜の街に消えていった。彰の、一体彼は何者なんだ、という疑問をそのままにして。
「楊貴妃を出せるお店があったので、本国にいる時は、良くそのお店を使ってたんですけど。帰ってきたらマスターが年取って畳んじゃってて、困っていたんですよね」
「あぁ、そうなんですか」
「はい、だから、この店に出会えて良かった」
いちいちどきりとする言葉選びをする男だなと、思った。流石に、そういった生業をしているだけはあるな、とも同時に感じた。けれど、そんな感想を抱いてしまったのは態度におくびにも出さずに、彰はただ静かに、仕事に従事し続けた。
その後も、その一輪の花のもとに、次々と男達は現れ、そして彼等は皆決まって『ビトインザシーツ』を注文していった。しかし、その悉くを、彼はブルームーンを注文することでばっさりと薙ぎ払っていった。
あまりにも鮮やかな流れだったので、彼がこの道の玄人である事は、直ぐに彰の知る所となった。どうやら、彼と『お知り合い』になる為には、一定のルールがあるのだろう。その流れを見守る内に、彰は自然とそのルールを知っていった。
楊貴妃。つまりは、その淡い水色をしたカクテルが、彼の目印。男達は、それを見て『彼』だと気が付き、そして近付く。その後ビトインザシーツを注文して、ご機嫌伺いをする。彼にとっての断りのサインが、ブルームーン……その流れが大体分かったところで、彰は口を開いた。
「お酒、強いんですか?」
話し掛けられるとは思わなかったのか、彼は少しだけ驚いたように目を瞬くと、口元に困ったような笑みを浮かべて、曖昧に首を横に振った。その反応を見てから、そういえば自分から客に声を掛けたのは初めてだな、と彰は頭の隅で思った。
「それなら、このやり方は、あまりお勧め出来ないですね」
「ご心配どうも。でも、自分の酒量は分かってる。だから、今日はここまでって、自分で決められるんだ」
「なるほど……そうなんですね」
考えての事だったのかと知り、じゃあ口を挟むことじゃないなと思い直した。しかし、一度好奇心を鍵として開いた口は、なかなか閉じてはくれなかった。
「断らない時は、何を頼むんですか?」
「それは……」
その疑問に彼が答えようとした、その時。カラン、とドアチャイムが鳴って、また一人男が来店した。知的な雰囲気の男だった。シルバーカラーの髪を撫で付け、かっちりとした品の良いスーツを着こなしている。知的さの演出に余計に拍車を掛けている黒縁の眼鏡を掛けたその男は、チラと彼の手元にある楊貴妃を見ると、眼鏡のズレを直してから彼の元に歩み寄った。
「隣に座っても?」
「……どうぞ」
彼が促すと、男が静かに、彼の隣に座った。
「ビトインザシーツを」
間髪入れずに、そう口にして。しっかりと彰の方を向いて注文してくるその男を、彼はちらりと横目で見た。今日何度目かのビトインザシーツを作り、男の前に差し出すと、男は彼の方を全く見もせずに、カクテルに口を付けた。
静かな男だ。彼の気を惹こうだとか、そんな男が醸し出す色気を全く感じさせない。彼は、カウンターに頬杖をつき、男がカクテルを飲む様子をじっと伺っている。しかし、先程までの、どこにでもいるような青年の雰囲気は、がらりと変容していた。
男を見る、その目付きや、仕草、纏う空気、フェロモンと言うものが目に見えるのだとしたら、それ。その全てが一変している。
彼の変わり様に、一番驚いたのは彰だった。心臓が自分の意思に反して、どくりと脈打ち、肋骨を圧迫する。まさかこの自分が、男相手に、反応を示す筈が無い・・・そう思っているのに。その目で、こちらを見て欲しいと考えてしまう。その指先で摘んだ、カクテルグラスの蔓になりたいと、妄想してしまう。生まれて初めての感覚に、彰は人知れず、そして激しく困惑した。
「お兄さん」
「はい」
呼び掛けに応える声に、動揺が乗らなかったことに、彰はホッと胸を撫で下ろした。
「シェリー下さい」
今日初めての、違う注文だったので、彰は驚きに目を瞬いた。それを聞いて俄かに反応を示したのは、彼の隣に座る、眼鏡を掛けた男も同様だった。男は眼鏡のズレを直すと、それまで興味も関心も示さなかった彼に、背中に一本針金が通っているかのような動きをして向き直った。
「……俺でいいのかい?」
「カウンターの上では会話しないのが、俺のルールなんです」
「……分かった。すまない」
そう照れたように謝ってから、また、男はカウンターの正面を向いた。しかし、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいる。
きちんとした身なりと雰囲気から、その男の事を三十代後半くらいかと彰は見込んでいたが、その素朴な反応を見て、その予想を下方修正した。こう見えて、もっと若いのかも知れない。じっと男の様子を伺っていた彼だったが、彰にシェリーを注文し終えると、まるで興味を失ったかのように男から視線を剥がして、再び彰の居るカウンターの方を向いた。そうして、シェリーを用意する彰の手元を、男と一緒になって眺め始めた。
シェリーは、スペイン南部のアンダルシア地方産の強化白ワインを指す。度数は、普通のワインより高めだ。寝る前に飲む、ナイトキャップには適している。だが、この場合は意味合いが異なるだろう。シェリーのカクテル言葉は、『今夜は貴方に全てを捧げます』……どうやら今夜の相手が決まったらしい。用意したシェリーを彼の目の前に差し出すと、花が綻ぶように、にこりと微笑まれた。
「また、来てもいいですか?」
「はい。お待ちしております」
「ふふ、ありがと」
軽くウィンクをしてから、可愛らしく茶目っ気を見せ、彼はゆっくりとシェリーを楽しんだあと、席を立った。彼の分の会計は、今晩の相手である男が纏めてしていき、そして二人は夜の街に消えていった。彰の、一体彼は何者なんだ、という疑問をそのままにして。
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