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第二章『変態』

第二話『人魚姫』

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多分そうなるだろうな、と考えていた通り、和己は俺の前から姿を消した。北瀬さんは相変わらず店にやって来るのだが、その隣に彼の姿は無く、その代わりに綾瀬が彼女の隣に位置するようになった。二人の関係性がどうなったのかまでは分からない。だけど、恐らく色の付いた関係はある種の終わりを見せたのは何処となく察した。それを事実として受け入れて安堵している一方で、誰の物でも無くなってしまった彼の今を想うと、僅かな焦燥にも駆られてしまって。何の動きを見せるでもなく過ごしている内に、時間ばかりが過ぎて行った。


考えてみなくても、和己と俺との間にある接点なんて、この店で、人目を忍んで酔い覚ましをしている僅かな時間ばかりでしかなく。しかも、北瀬さんが気紛れに店に足を運ぶ、そのタイミングしかなかった。お互いに連絡先を交換した試しも無ければ、普段どんな事をして過ごしているのかも分からない。ダンサーとして活動していることは知っていても、彼がどんな舞台を舞っているのかも、知識すら持っていない。自分に対して興味関心すら抱いていない様にしか見えないこんな男を相手に、痺れを切らしてしまうのは当然で、一歩前に出て、関係を進めようなどと思わないのも道理で。俺は、彼を糾弾できる立場に無い事をまざまざと思い知った。


誑かしたのは、どっちかだなんて、誰の目にも明らかだ。だけど、俺はずっと、ただ生きているだけで人が寄ってきて、そこに目に見えた技量を働かせなくても、誰しもが俺に好感を抱き、人によっては媚びを売ってきた。そんな生き方やスタイルを今更になって変えるだなんて無茶が過ぎるし、それこそいっそ生まれ直してしまった方が早い。


初めての経験を前にしても停滞を選び取る事に安堵する様な年齢になってしまった俺にとって、和己は眩し過ぎる存在だった。可能性と才能の塊であるあいつが、こんな薄汚れた人間に嵌ってしまうのは、世の常なんだろうか。遊びを知らない、ダンス一本でやってきた彼が、初めて遭遇した未知の存在。俺に対する興味関心が、いつの間にか形を変えていってしまうのも、分からないでもないけれど。そんな人間、これまで何度も見てきたのに。そしてそんな人間を何人も食い物にしてきたのに、どうあっても、彼だけは無視出来なかった。


俺という存在によって彼が変わってしまったというのなら、彼が一体どんな風に変わってしまったのか、隅々まで確認したい。もしも朽ち果ててしまうというのなら、その前に一目でもいいから俺の前に現れて、そして。


「今日は、あなたにお礼を言いに来たの」


久し振りに店に顔を出した北瀬さんが、俺を呼び出して傍らに置き、開口一番にそんな話を切り出したので、北瀬さんの隣にある空白の席にぼんやりと視線を移していた俺は、はたりと気を取り戻した。仕事中に何やってんだ。こんなんじゃプロ失格も良い所だ。綾瀬が他の太客を相手にしている間、この人のご機嫌を取らなくちゃいけないのは分かっていた事なのに、集中していないにも程がある。自分を激しく叱咤しながら、それでも内心の焦りや動揺を気取らさせぬ微笑を浮かべて、話を促した。


「お礼ですか?それは、一体……」

「まぁ、態とらしい。ここに居もしない人間にすっかり心を奪われてる癖に、その子以外の話をする訳が無いでしょう」


小馬鹿にしている様な口調で、呆れ顔を作る北瀬さんが、愛煙している煙草を取り出して人差し指と中指で挟んだので、流れる様な動作でその先をジッポで炙る。肺まで到達するかしないかの浅い呼吸で紫煙を燻らせると、今度は何処までもお見通しだとでも言う様なしたり顔で、にこりと笑った。


「私にも出来なかったあの子の仕上げをしてくれて、感謝しているわ。あなたのおかげで、あの子は表現者として一段も二段も上のステージに上り詰める事が出来た。私の手には、余る程のね」


言われている事の意味は分かっても、自分が彼に一体何をしたのか、どんな働き掛けをしてそんな結果が付いて来たのかが分からず、素直に感謝を受け取れない。俺が口元に浮かべていた笑みを鎮めて、代わりに困惑を縁取ると、それを見た北瀬さんは、俺の顔に紫煙を吹き掛けて、深い笑みを浮かべてから、目の前にあるテーブルに一枚のチケットを差し出した。


「この舞台で主演を張る事を、あの子はずっと悩んでいた。その壁を越えさせたのは、あなたなの。だからこそ、あなたには、あの子の舞台を見る義務がある」


その一枚のチケットをゆっくりと手に取り、そこに書かれた演目を見て、俺が驚愕と共に目を見張ると、悪戯が成功した少女の様に軽やかな笑声が上がった。


◇◇◇◇


きらきら輝く照明を、ゆらゆらと反射させながら、シャンパンタワーが運び込まれる。綾瀬にしなだれ掛かり、子供の様にはしゃぐ北瀬さん。それら全てを視界に映すことなく、静かにグラスを傾ける和己。シャンパンが封を切られてタワーの頂点に向かって注がれると、男達が手を叩いて歓声を上げた。


音頭を取ったのは綾瀬だった。北瀬さんは傍らに本日の主役である和己を置きながらも、ちやほやと扱うのは綾瀬の方ばかりで、和己が自らの主演である舞台をやり遂げ、無事に千秋楽を迎えた事を祝う会だというのにも関わらず、彼を構おうとか持て囃そうとかいう積極性を発揮しなかった。


その様子を見ただけで、二人の、ある種に置ける関係が終わりを告げたのだという事実が確定的となった。しかし、そのどれもこれもが見ていられなくなって。俺は、歓声が静まりを見せ始めた頃合いを見計らってその場から離れた。


非常階段。その中腹。手摺に頭を擡げて、酔いを冷ます。久し振りに己の酒量を上回った。もともと酒には弱い性質だから、自分なりにセーブしてきたし、これまで『飲まずの帝王』でやってきたのだが、今日は飲まない事にはやっていられなかった。


抜けるのも早いから、そこまで大袈裟に失態として受け止めてはいないが、自分以上に周りが慄いていた。崩れてしまった体調を周りの若いホストに気遣われるのは自分の癪に触るので、結局何も言わずに出てきてしまったが、今頃富永さん辺りは俺の存在が無くなった事に気が付いて、人知れず苦み走った表情を浮かべているかもしれない。


吹き付ける風の勢いが強い所為か、煙草の火の回りが早い。熱心に吹かしている訳ではないので、あまり頓着していないが、そろそろフィルターに差し掛かってしまう。それが分かっているにも関わらず、四肢を動かそうという気力が湧いてこなかった。


半年振りにこんなに至近距離で彼の姿を確認してしまったが為に、衝撃と酔いとで、頭がくらくらする。主演舞台をやり遂げて、表現者としての貫禄すら身に付けた和己は、前よりもずっと嫋やかで、艶やかで、鮮烈なまでに美しかった。


アンデルセンの童話をベースに、コンテンポラリーダンスを中心として演じ切る『人魚姫』の主人公を、その中世的な見た目としなやかな肢体を生かして完遂した彼の引き絞った肢体は、スーツ越しに見ても芸術作品の様に無駄が無かった。一目惚れは、よく耳にするけれど。じゃあ、二度目はなんて言うんだ。聡い人なら知っているだろうか。例えば、いま目の前で水の入ったペットボトルをちらつかせる彼だとか。


「毒入り?」

「残念でした」


眼前で開封済みの水のペットボトルを振ってくる和己は此方にそれを手渡すと、俺の斜め下に腰を下ろした。そこは以前、俺の定位置だった場所だ。いま俺が座っている場所が和己の良く座っていた場所で。置かれている状況といい何といい、これではすっかりあべこべだった。


「北瀬さん放って置いていいのかよ」

「綾瀬がいるから大丈夫だろ」

「お前女心分かってねぇな。あんなもん当て付けだろうが」

「さあ、どうだか。私、育てる過程が好きなの……これ、あの人の置き台詞ね」

「はは、格好良い」


和己の話によると、関係の解消はあっさりと進んだという。内実は定かではないし、首を突っ込む気もない。だが、強がりにせよ何にせよ、そんな風に言ってのける女は逞しくて好ましく思う。一度は俺の事も育ててくれた時期もあるので、彼女の性質は知っている。女というものは執念深いと思って生きてきたが、あの人の内面はさっぱりとしていて昔から好ましく感じていた。関係を解消したところで、和己に辛く当たるような狭量な女ではない。落ち着くところに落ち着いて何よりだ。


「なんかもう、刺されたところで死にそうにねぇな」

「安心した?」

「気が気じゃ無かったわ」


どの口がほざくのかと、我ながら呆れる。だが紛れも無い本心だった。半年前の和己は、いつ倒れてもおかしく無いほど疲弊し、窶れ切っていたから。


そんな追い詰められた和己に対して、俺は、人でなしと罵られても返しようのないほど酷い仕打ちをした。よりによって、死ぬ前にいっそ手に掛けてくれだなんて口走ってしまうなんて。他に、いくらでも仕様があるだろうに。


それだけ、自分も限界ではあったのだろうが、堂々巡りの着地点がそれとは、いい歳をこいて、目も当てられない。むざむざと彼を窮地に陥れておいて、あの様。この半年間、穴を掘って埋まりたいと何度思ったか。


「離れてる方が上手くいく関係もあるんだな」


なのに和己が、達観したかのようにそう呟くので。そこに救いを見出せばまだ良かったのに。一人置いてきぼりを食らったかの様な気持ちに勝手になって。よせば良いのに、気が付けば彼を茶化していた。


「別居婚が理想とか臆面なく言っちゃう奴だろお前。モテないからやめとけよ」

「女は、もういい」


はっきりと口にする和己の後ろ姿を、ぼんやりと見つめる。主演を完遂した祝いという形で北瀬さんに最後に贈られたのか、それとも自分で稼いだ金で誂えたのか。前よりも上等なスーツに身を包み、品のある革靴を履いている和己の背中は、心成しか広く見えた。
煙草の火がフィルターに差し掛かって、酷い匂いを立て始めた。手を動かすのは億劫だが仕方ない。気怠げに懐から携帯灰皿を取り出して捨てた。


「で、死にもしない、俺を殺しにきたわけでもない和己君は、ここに何しに来たわけ?」

「さよならをしに」


ざくりと、鋭い刃が胸を劈く。分かっていたというか。でもまぁ、今更来ないだろうとか。つまりは油断も隙もあったりだとか。様々な要因が積み重なっている上に、刃があまりにも薄く鋭利過ぎて、捌ききれなかった。


率直さは武器だ。毒も盛られていないのに、致命傷を受けてしまった。


「良い趣味してんな」


やっと絞り出した言葉は思いの外しっかりしたものだった。年の功だと笑いたければ笑え。大人になったら、どんな場面でもポーカーフェイスを貫かなければならない時がある。今の様に。何の為にかと聞かれれば、勿論自分自身の為に。


「勘違いすんなよ、あんたにじゃない。昔の俺に言いにきたんだ」


彼は此方を振り返ると、自分自身に向けたかの様な苦笑いを浮かべた。


「人魚姫の気持ちが分からなくて、主演を踊りきれる自信が無くて、そんな時に出会った人と関わる中で、漸く何かが掴める様な気持ちになって・・・なのに、変わってく自分が怖くて、切羽だけは詰まってた自分に。お互いさ、もっと豊かに考えてれば良かったな」


そう穏やかに語る和己は、以前纏っていた何処か陰鬱とした雰囲気を脱ぎ捨てていた。少しだけ寂しくもあったが、今の和己の方がよっぽど好ましいので、些事として片付けた。


「観たよ、お前の舞台」


振り返るかと思ったが、彼は俺にその視線を寄こしはしなかった。微動だにせず、動揺もしていない様子の彼に頓着する事なく、俺は続けた。


「最初はどうなる事かと思ってたけど、お前が舞台に現れた瞬間に、全部が杞憂になった。あの場に居た観客全員が、相手役の王子に嫉妬したと思う」


その観客の中には自分も居たのだから、それがニュアンスとして伝わってしまうのはどうあっても防ぎきれないのだけど、俺の中に目立った羞恥心は無かった。綺麗だった。これまで見てきた誰よりも美しかった。だからこそ、お前には俺だけに微笑んで欲しかった。


「舞台の上からって、案外観客の顔が見えるんだ。だから初日だったあの日、あんたが来ていたのは、知っていた」


胸の内を素直に告白していく率直さに。


「あんたの目が、観客の眼差しが、段々と嫉妬に濡れていくのを肌で感じながら、愛する男の為に変わっていく生き物を演じられた。それは、何物にも代えがたい経験だった」


彼の中にある、表現者という生き物が持つ貪欲なまでの直向きさに。


「泡となって朽ちる瞬間まで、ダンサーとして、演者として、これ以上ない幸せを謳歌出来た。あの視線があったからこそ、俺の人魚姫は完成した。感謝してるよ。俺を狂わせてくれて、ありがとう」


彼の中にある狂気に、魅せられて。このまま、泡の様に俺の目の前から消えるつもりだったであろう、彼の腕を捕まえて引き寄せ、その唇を奪った。逃げ惑う舌。それを逃さない俺。彼の上半身を撫で上げながら暫く膠着状態に陥ると、彼は渋々と、諦めたかの様に俺の背中に腕を回した。俺はそのタイミングを見計らって自分の身体を離し、拳一つ分あるか無いかの至近距離から、彼の瞳を射抜く様に見つめ、以前彼が俺に言い放った台詞を口にした。


「変態」


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