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第二章『蛇苺』
第一話『思い出のジャム』
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克樹に、キスをされた。酸素マスク越しに、ではあるけれど。間違いなく、確実に、あれはキス以外の何物でも無かった。あれが世間一般に言うキスに換算されないなら、僕の知るキスの常識は、根底から覆されてしまう。
克樹に、キスをされた。自分にとって都合の悪い話の終わり方として、古くから用いられる手法だけれど。あんなにキザったらしくも何でもない雰囲気で、ごく自然にされてしまったら、克樹に対する複雑な感情を持て余してばかりの僕はもう、煮るなり焼くなり好きにして下さい、としか言いようが無かった。言わないけれど、絶対に。そればかりは、自分の胸に秘めた正直な気持ちや衝動は、これから先もずっと、誰にも言わずに隠し続けていくつもりでいるから。だけど。
克樹に、キスをされた。映像では、もっと強烈で鮮烈なアレやソレを見た事があるけれど。だから、口にする事すら憚れる様な辱めを、知らないうちにこの身で受け止めていたというのも、頭では理解している。なのに、それが混じり気のない現実だったんだと受け入れるには、心はまだまだ追いつかなくて。でも、自分の意識がハッキリとある状態でされたキスは、あれが初めてだったから。実際に唇が触れてもいなかったのに、あの時の光景が、目に焼き付いて離れない。
何度も言う、克樹に、キスをされた。どれだけ頭の中でリフレインしても、色褪せない。思い返すだけで心拍数が上がってしまって、看護師さんには、度々深呼吸する様にと求められてしまった。無意識だから、本当に申し訳ない。この年になって、キス一つで狼狽えるだなんて、どうかしてると僕自身も思うけど。ずっと、本当は、ずっと前から好きで。大好き、で。その気持ちに蓋をし続けて来た僕には、克樹の行動は、一から十まで、刺激が強過ぎた。
睫毛、吃驚するくらい、長かったな。髪切ったんだ。今くらいの長さも、似合ってると思う。ピアス、話に聞いていたよりも、沢山付けてたな。でも、格好良いから、あんまり付けてる事に抵抗はないな。漫画やアニメの世界から抜け出して来た様な姿形は、変わっていない所か、磨きが掛かってる。あんまり格好良くなられると、僕の心臓が保たないからやめて欲しいのに。これでいて更に、大人の色気なんて身に纏い始めてしまったら、もう、僕はお手上げじゃないか。
僕のお母さんは今、実家の祖父の介護で忙しいから僕の方にまで手が回せず、親戚よりも深い関係を古くから続けている克樹のお母さんである叔母さんも、自分達の老後資金の貯蓄の為に仕事に復帰したから忙しくて。だから、看病や見舞いの一手を引き受ける事になった克樹が、代わりに僕の病室に通ったり、リハビリを見守ったりしてくれていているんだけれど。その度に、どんな顔をして出迎えれば良いか分からず。事件に巻き込まれる形で怪我を負ったという僕の立場や、心配してくれる家族の手前、追い払ったり邪険にしたりとは扱えず。結局、前にも後にも進まない宙ぶらりんな関係性を、こつこつと積み重ねてきてしまった。
「退院、無事に決まって良かった。想定していたよりだいぶ早いって、看護師さんからも聞いたよ。本当に、お疲れ様、瑠衣君……リハビリ良く頑張ったね」
なのに、僕の複雑な事情や心理状態なんて、全く配慮せずに、この子は。なんで、性懲りもなく、毎日見舞いに来ちゃうかな。面会時間の開始から終わりまで、それこそ、ずっと僕の側に居て。リハビリの見守りや、トイレの付き添い、食事や水分補給の見守りまで、付きっきりで僕に寄り添って。不安にさせたり、心配させたのは、態々言わずにも態度で知れたから、最初は申し訳ないな、と思っていたけれど。この状況を受け入れる心境を整える暇も、これから先、僕達の関係性は、一体どうなるんだろうとか、冷静に考える隙や時間すら与えてくれない。
このまま、ずるずると、昔みたいな共依存みたいな関係性に戻るのだけは、絶対に拒否しなくちゃいけないのに。溢れんばかりの優しさと気遣いが。隠しきれない、そもそも隠そうとすらしていない、僕を大切に想う気持ちが伝わる熱い眼差しとが。僕を、雁字搦めにしようとする。
その眼差しで見つめられるだけで、僕の全身は、熱くなる。時間の経過と、根気良く続けた治療の甲斐があって、以前よりも克樹からの自立心は育った感覚があるし、昔に比べて、勝手に自分の身体が動き出し、克樹の元に現れては付き纏う様な、粘着性の高い依存心や拘りなんかは、綺麗さっぱり無くなって。社会人としても働いたり、人生で初めて恋人が出来たり、色んな経験を、克樹のコミュニティから抜け出してからずっと積み重ねて来たらから、そんな、自立した大人の仲間入りをし始めた自分に対する自信は、間違いなく芽吹きつつあったけれど。とは言え、心配してくる克樹の、近過ぎる距離感や気遣いに、格好良いなとか、嬉しいなだなんて思って、胸がどきどきしてしまうのは、勝手な身体の反射に近い感覚だから、抑えようがなくて弱ってしまう。
だけど、恋愛に関しては、今回こうして見事に大失敗したし、僕にはやっぱり、誰かを幸せにしたり、恋をしたり、といった方面には、徹底的に不向きなんだという自覚を改めて深める結果になってしまったから。誰かを幸せにしたり、自分もそれで幸せを感じたりという資格は、どうしたって、僕にはないみたいだと、開き直って考える事が出来て。それを骨身に染みて理解したから、これで本当に、これから先、もう絶対に恋なんてしないって決めたし、一人で生きていく決心がついた。
だから、僕の中に、克樹を受け入れるスペースなんて、今はこれっぽっちもない。それを、きちんと理解して、僕は、これから先も、克樹と向き合っていく必要がある。克樹が、以前と同じ様な好意や感情を僕に抱いているだなんて都合良く考えたくないけれど、もしも、僕にまだそんな気持ちがカケラでも残っているなら、その希望を徹底的に失わせる必要があると思っていた。
それに、まだ僕は、心の病気が完治したら、贖罪の為にも謝りに行くという、この子にした約束を果たしていない。こんな形での再会になってしまったから、順番は逆になってしまったけれど、今からでも遅くは無いだろうか。こうして、退院が無事に決まったというタイミングは、その機会に丁度良いかもしれないという気持ちもあって。これまで、本当に申し訳ない事をした、という謝罪と、二度とあんな真似はしない、という決意表明と、退院までずっと付き添ってくれて、ありがとうという気持ちを込めて、克樹に向けて頭を下げた。
「これまで、ずっと、ごめんなさい。本当なら、直ぐにでも謝りに行きたかった。だけど、病院通いが終わっても、まだ蟠っていた心の病気が、沢山の人のおかげで本当の意味で完治するまで、時間が必要で。これで漸く謝りに行けるって気持ちになれた途端に、こんな事になって・・・順番が逆になったけど、これでもう二度とあんな真似はしないと絶対に誓うから、安心して欲しいんだ」
口に出して約束した所で、行動が伴わなければ何にもならない。だから、この場合、これから先の僕の行動と、それを見守る周囲の目と、お互いに対する信頼関係が前提として必要となるのだけど、僕は、何としても、この言動にだけは、責任を持ちたかった。だから、その周囲や克樹とにおける信頼関係を再び構築する為の努力は、なんとしてでも続けて見せると誓った。
「もしもまた、僕が同じ事をしたなら、今度は問答無用で警察に突き出して。それと、僕が回復するまで、ずっと側に居てくれて、本当にありがとう。だけど、これからは、もう、僕に気遣ったり、心配したり、しなくていいから。お前は、お前の人生を、きちんと幸せに……ごめん、お節介だったね。今のは忘れて」
退院する迄の間に、僕に付き添い、心理的にも寄り添おうと努力してくれていた克樹に対して、ずっと言いたかった内容を心に溜め込んできた僕は、話の最後に、言わなくても良い事まで余計に詰め込んでしまった。
克樹の様子を見れば、今どれだけ充実した生活を送れているのかくらい、直ぐに見て取れる。爛れた生活を送っている様に見えたのだって、側から見た主観でしかなかったし、その証拠に、入院中に接して来た克樹に、陰らしい陰は見当たらず、いつだって、満たされた様な顔をしていた。最初の頃は、僕に怪我を負わせた先生に向けて物騒な恨み言を呟いていたけれど、僕が先生との間にあった出来事をぽつぽつと順を追って説明していくと、次第に大人しくなっていった。
『患者に手を出すとか医者として失格』『おっさんの癖に自制心とかないのかよ、気持ち悪い』『それでいて、向こうを想って別れを切り出したのに逆恨みして刺すとか、同情する余地なんてないね』等々……言いたい事は様々言ってくれたけれど。尖り切っていた報復衝動は何とか収めてくれたので、ホッと胸を撫で下ろした。
だから、今更僕から、上から目線で馴れ馴れしく幸せを願うなんて、お門違いも良い所で。口にした瞬間に、直ぐ後悔した。
克樹が今一緒にいてくれるのは、これまでの長い付き合いからくる親愛と、僕に対する同情心があったからで、それ以上でも以下でもない。大体、それ以外の感情が理由としてあると言われても、今の僕には、どうする事も出来ない。だから、これから先、ずっと一人で生きていくと決めた、僕にとって。
「俺の幸せは、いつだって、貴方が握ってる。貴方が、俺の元に帰って来てくれるだけで……それだけが俺の願いで、希望で、夢で、幸せなんだよ」
克樹の胸に秘めていた本心は、あまりにも重く。ずしりと大きな石を飲み込んだかの様にお腹の下に収まり、耐え難い急性的な胃痛を齎してしまった。けれど、その痛みを堪えてでも、僕は、この子に向き合う必要があると分かっていたから。掛け布団の下で、克樹からは見えない様に細心の注意を払いながら、痛む腹部を押さえた。
「ストーカーだって、正体が貴方だって知った時、俺は、全身が痺れて動かなくなるくらい、嬉しくて堪らなくて。だけど同時に、後悔で胸が押し潰されそうに苦しくなった。それだけ俺は、貴方を苦しめてしまったんだと、毎晩貴方の身体を掻き抱いて、泣きながら謝り続けて。だけど、そんな夜を過ごしていく内に、朝になれば記憶が無くなってしまう貴方に……自分の欲情を抑えきれなくなっていったんだ」
赤裸々に自分の当時の心境を語る克樹の眼差しは、どこまでも真剣で。それでいて、心底から信頼している牧師の前で懺悔をする人間の様な切迫した心情を、そこから感じ取れた。
「だけど、どれだけ貴方を激しく抱いても、昼間のあなたは、その事を全く覚えていなくて。次第に、本当は俺に会いたいから、抱かれたいから、無意識の内にこうして夜に家に遊びに来ているんだって思い込む様になって。だから、最後に貴方が俺の前から消える時に、ずっとずっと愛してたって言われて、答え合わせが漸く出来て、死んでしまいそうなくらい嬉しいのに、悲しくて堪らなくて。もっと早くに、向き合う事が出来たら、こんなすれ違いなかったのにって、激しく後悔してきたんだ」
克樹は、僕のその告白を聞くだに、どうにか僕に接触する手立てはないかと、日々模索する様になっていったという。例え、心理的な距離が離れてしまっても、お互いの根底にある感情は一致している。だから、熱りが覚めた頃に、またお互いに腹を割って話し合えれば、また以前の様な関係性に戻り、引いては、きちんとした交際にも駒を進める筈だと、最初は考えていた。
けれど、僕の病院通いが落ち着きを見せてきた、と僕の母親伝に聞いた克樹が、花束とリングを購入して、最後に病院に通院する日に病院に迎えに行くと。その病院の前を、僕と先生が、仲睦まじい様子で歩いて駅に向かう姿を発見してしまったのだ。
頭の中は真っ白なのに、身体は無意識に動き、克樹はそのまま、僕と先生を尾行した。そして、僕達が仲睦まじい空気をそのままに先生の自宅に姿を消すと、克樹は、その場で膝から崩れ落ち、花束とリングの入った小箱を抱えたまま、正体を失う程、泣き崩れた。
そうして、克樹は、僕を逐一監視観察し影から尾行する、僕のストーカーとなったんだ。
驚きの展開を迎えた話に、言葉を失う。以前は僕がストーカーとなって、克樹の悩みの種になっていたのに。今度は、被害に遭っていた克樹の方が、僕のストーカーになるだなんて。
けれど、克樹は一度だって僕に接触してこなかったし、遠回しに迷惑行為をしてきた試しもない。だから、世間一般にいうストーカーの枠には当て嵌まらないのかもしれないし、警察に訴えても、取り扱ってはくれないだろう。僕自身、そんな行動に及ぶつもりは微塵も無いから、この話はここで深掘りするのはやめて、早めに次の話題に移った方がいいかもしれない。
克樹は、僕や、僕達の動向を尾行しながら逐一チェックし、僕達の仲睦まじくしている様子を観察していく中で溜まっていった鬱憤やストレスを情報収集に向けた。そして、病院のホームページに記載されている情報や、その病院と提携している薬品関係の卸業者の友人に話を聞いて、僕の隣にいる人物が、以前の僕の担当医である事を知ったらしい。
その出会いの経緯に怒りを抑えきれなくなった克樹は、このまま黙って指を咥えて見ているだけでは埒があかない、と踏ん切りをつけ、なんと、仕事帰りの先生を捕まえて、直接話を付けに行ったというのだ。
寝耳に水の情報に、僕の頭の中は、すっかりと混乱状態に陥った。先生からも、そんな話は一度も聞いた試しがない。克樹が直接対決に踏み切ったという、衝撃的な話なら、話されたら絶対に忘れる筈もないので、先生は、ずっと僕にその事を黙っていたという事になる。何故黙っていたのか、理由は分からないけれど、平常時であれば気が利き過ぎるくらいに良い人だから、もしかしたら、折角落ち着きを取り戻してきた僕の心情を、もうこれ以上波立たせない様にしてくれたのかもしれない、と思った。けれど、それは、僕の希望的観測に過ぎなかったのだと、直ぐに知れる事となる。
克樹は、先生を病院関係者専用の出入り口付近で待ち伏せし、先生が出てきた所で呼び止めた。すると、先生は、克樹の見た目やパッと見の年齢から総合的に判断し、もしかして、君は、と、直ぐに克樹の正体に気が付いた。折り入って話がある、と告げると、立ち話ではなんだからと、以前、先生と待ち合わせに使った喫茶店に二人で入店した。
先生がケニアを、克樹が同じ物を、と店員に注文して、店員をカウンターに見送った後、話は本題に直ぐに移った。克樹は、僕と先生の関係性に深い嫌悪感を抱く態度を隠さずに、先生に、自分の立場が大事なら、思い出が積み重なって別れ辛くなる前に、僕と早々に別れて欲しい、と単刀直入に切り出した。
元とは言え、精神疾患を抱えて弱っている自分の担当患者と関係を持つなんて、年齢、男女問わずに、誰の目から見ても間違っている。この事を病院関係者にリークすれば、貴方は病院の席を追われる事になりますよ、と、盗撮した二人の写真を先生の目の前に並べて、正論を笠にきた脅しを初手から吹っ掛け、相手の出方を待った。
これで尻尾を巻いて逃げ出せば御の字。まだ食い下がる様なら、まだ他の手を用意してあるから、それを使うつもりで。しかし、先生は、その脅しには屈しなかった。他に捨てる物など何も無い、という堂々とした態度で克樹の目を真っ直ぐに見つめて、静かな声で克樹に真っ向から対抗した。
『別れるつもりはない。それに、あの子の心の中には、もう君はいない。未練を捨てて、あの子の周りを彷徨くのは、もう辞めてくれ』
先生は、最初から、僕達に対してストーカー行為を行い尾行している人物が克樹だと知っていたのだ。そこまで気が付かれた上で、仲睦まじく過ごす態度を変えずにいた先生の胆力にも驚いたが、それ以上に克樹は、はらわたが煮えくり返る様な怒りを覚えて、先生の胸ぐらに掴み掛かってしまった。
『心の中に、もういない?未練だって?あんた何様だよ。俺達には、俺達だけの関係性がある。少しお互いにすれ違っただけで、俺達は、元々、深く愛し合っているんだ。今は単なる冷却期間であって、疲れたあの人を休ませなくちゃいけないから大人しくしてるだけなんだよ。だから、あの人の心の傷を利用して、これ以上あの人に近付くな』
話は、一触即発の状況を迎え、お互いの間には、緊迫感に包まれた空気が漂い、絶対に自分からは逸らさないという、強い決意を露わにした視線の応酬が続いた。店全体が緊迫感に包まれ、店員も、他の利用客も、二人の動向を固唾を飲んで見守った。
『心の傷を利用している事の、何が悪い。君だって、あの子の心の弱い部分を、ずっと利用していただろう。元より強く反抗出来ないあの子の優しさを良い事に、あの子を自らのコントロール化に置き、自分の思う通りに動かしてきた。しかし、その関係性に、健全性と将来性が見出せなかったからこそ、心を鬼にして、あの子は、君を切り離したんだ。その努力を積み重ねてきたあの子を見守り、支えてきたのは私だ。立場を利用した、という狡さは勿論自分でも分かっている。けれど、それ以上に、私はあの子を愛してしまったんだ。そして、あの子も、そんな私の狡さを分かった上で、私の手を取ってくれた・・・もう分かるね?君は、あの子にとって、もう過去の男なんだ。そして、もしこの話に逆上して、君が私に手を上げたなら、君はこの話に、少しでも思い当たる節があると言う裏付けにもなる。殴られるのは別にいいが、私はそんな察しの悪い男に殴られた所で、掻痒すら感じないよ』
それを聞いた克樹は、振り上げた拳を震わせながら、ゆっくりとテーブルの下に下ろし。先生の身体が弛緩した瞬間を狙って、腹を一発殴ってから、その店を後にしたらしい。
話が丁度良く一区切り付いたので、話を聞いているうちに僕の中に生まれた疑問を解釈するべく、それって、いつの話?と、恐る恐る尋ねると、克樹は、日時を正確に覚えていたのか、直ぐにその日を教えてくれた。すると、僕の、もしかしたらその日とはこの日だったんじゃないか、という勘は当たっていて。それは、先生が玄関先に泥酔する演技をしながら蹲り、僕に自分のセクシュアリティを告白し、初めて僕を朝まで帰さなかった、あの日だと判明したんだ。
あの時、もしかしたら、先生は泥酔する演技をしていたのではなく、克樹に貰った打撃の影響を受けて、グロッキーになっていたのではないだろうか。そうすれば、何故、先生が突然、僕にあんな告白をしたり、自分の過去を話し始めたりしたのかという疑問の全ての辻褄が合う。
先生は、きっと、克樹という存在が俄にその存在感を発揮した事で、このままでは、本当に克樹が、自分や自分の家庭から僕を回収し、攫って仕舞うのではないかと考えたのかも知れない。そして、僕達の、普通には考えられない程深い絆や関係性を前にして焦りを感じて、何が何でも、僕を本当の意味で手に入れたいと考えたとしたら。焦る気持ちや逸る気持ちを前にして、いつもある冷静さを失って、本当は付き合っていないという事実を隠した上で対峙する道を選んでもおかしくはないと思えた。
あの時、もっと先生の状態に、注意を払っていたら、今とは違う未来もあったんだろうか。僕と、もっとゆっくりと関係性を築いたり、急速に距離を縮めるのではなく、子供や先生の人生、そして、僕自身の人生との折り合いをもっとしっかり話し合って、穏やかな日々を過ごせていた可能性も、もしかしたら。
今考えても、全てが遅過ぎて。僕は、そのまま、口元を手で押さえながら、暫くの間無言で俯き続けた。しかし、克樹は、そんな僕の複雑な心境を知ってか知らずか、そのまま、その後の自分の顛末について、淡々と説明を続けた。
先生と直に話をしてからの克樹は、今まで心の中に張り巡らしていた緊張の糸が切れ、見るに分かり易い、爛れた生活を送る様になっていった。そんな生活を続ける一方で知り合った人間や、昔馴染みとも密に連絡を取り合い、僕のネットワークに自分の情報を絡ませて、僕の関心を常に自分に向けさせる様に仕向けていったらしい。
「……離れていても、貴方に、俺に関心を持って欲しかった。病気がまた悪化して、自分の所に帰って来てくれないかなんて、最低な期待もしていた。だけど、自分から貴方を迎えに行く勇気はなかった。あの男の言っていた事が本当なら、貴方はもう俺を忘れて新しい人生を歩み始めている事になる。そんな貴方の邪魔をする権利が、自分にあるのかって……」
「克樹……」
離れている間、派手な交友関係を広げて、積極的にSNSを活用し、新しい出会いを勢力的に求めている克樹の情報が、嫌でも目に付いたのに、そんな理由が隠されていただなんて。僕は、克樹は僕を忘れて、新しい世界で自由を謳歌しているんだな、とか、そんな生き方が許される克樹を羨ましいなとほんの少し思ったりとか、僕は君をずっと忘れられずにいるのに、君は僕の身体をあんな風に滅茶苦茶にしたのに、もうその事を忘れて、こんな風に楽しそうな日々を送っているの?と信じられない様な、モヤモヤとした気持ちになって。再び気持ちを病んだりまではいかなくとも、明るく楽しく日々を送る克樹を応援する気持ちよりも、憎らしく思ったり軽蔑してしまう自分が、ほとほと嫌になっていた。
だから、忘れようとすればする程、頭の中では克樹の事を考えてしまい、当時はだいぶナーバスな日々を送っていた。それが、克樹の意図した出来事だったなんて。
もっと他にやりようがあるだろうに。そんな方法は、幼稚もいいところだし、はっきり言って逆効果だ。これで元鞘に収まるカップルがいたとしたら、きっとその二人が生きている世界と僕のいる世界は、全くの別世界なんだろうなとしか思えない。そんなにも、離れている間に価値観のズレが生じていたとは、頭が痛い話ではあるけれど。残念ながら、元鞘に戻ったとしても、僕達に付き合ってきた経験など元からありはしないから、どちらにせよ、克樹の盛大な徒労に終わった計画ではあった。
僕は、そんな克樹の情報を追ってナーバスになってばかりいる自分に見切りをつけ、途中からは、先生と先生のお子さんの為に、完全なるSNS断ちをしていたし、だから、流れてくる克樹の情報に翻弄されていくという状況から、早々に足を洗っていたんだ。口には出さないけれど、努力の方向性を完全に間違えていた、としか言い表せず、僕は、ズキズキと痛む胃を上から手で押さえながら、再び克樹の話に耳を傾けていった。
SNS上にて話題の的になり、他者に影響を与えるインフルエンサーとして俄かに人気と知名度を得ていった克樹は、大学を休学して、本格的にその道で仕事を見つけていき、派手な生活に拍車を掛けていった。
ブランド品の広告塔として商品を紹介したり、積極的に他のインフルエンサーや業界のVIP達が集うパーティーに参加して人脈を増やしていったり。そこで知り合った著名人達とコラボ企画を計画したり……けれど、どれだけ高い酒を飲んでも、ブランド品に身を包み羨望の的になろうと、この世界の頂上に登り詰めた一部VIP達と知り合い、ラグジュアリーな環境に置かれた自分に次第に慣れていっても、心の中は、いつだって空虚で。
「俺は、一体、何になりたいんだろう。どんな人生を歩む気でいるんだろう。貴方は、もう俺の隣に居ないのに、これから、何を支えにして生きていきたいんだろう……そんな風に、ふと考えたら、全てがどうでも良くなったんだ」
自暴自棄になり、来る日も来る日も酒を浴びる様に飲んで、自分の身体と心の悲鳴を聞きながら、日々を自堕落に過ごした。あれだけ固執していたSNSの更新を全て停止し、あの人は今、という話題に上る様になるまで、その存在を霞の様に眩ましていった。もしもこのまま、夏の蝉の様な人生が、ぷつりと終わりを迎えるならば、死ぬ前に最後に一目だけ僕の姿を見ようと思い、先生達と共に生活しているその家に向かって足を向けた。すると、最早歩き慣れたしまった、その家にまで続く道の、その途中。
花畑で、子供と一緒に蛇苺を摘む僕の、穏やかな笑顔を確認した。
その幸せそうな僕の笑顔を見た瞬間。自分は、どうして、僕の最後に残した、『僕の知る誰よりも、幸せになって』という望みを叶える努力をせずに、こんなにも愚かな真似をしてしまったのかと、激しく後悔し。そして、そんな穏やかな笑顔を見せるまでに、自分抜きで幸せになってしまえた僕を、心の中で、漸く少しだけ受け入れる事が出来た、と克樹は苦笑した。
だけど、僕に言われた通りに、僕を忘れて他の誰かや自分自身を幸せに出来るだなんて、夢夢思える筈もなく。これから先、一体自分は、僕のいない世界でどうしたら幸せになれるのかと、只管に模索する日々が続いた。
けれど、休学していた大学に復学し、その近くにある、その地元で有名なカフェをふらりと訪れ、そこの名物店長であり、腕利きのバリスタでもある高橋さんと出会ってからは、良い意味で風向きが変わっていった。そして、その店のオーナーである真宮寺さんに、有名インフルエンサーとしての手腕と、見た目から受ける印象よりも真面目な部分を買われて、克樹は、その店でアルバイトを始めて、本格的にバリスタの勉強を初めていった。
インフルエンサーとしての活動は、派手だった交友関係や着飾るものをSNSで見せびらかしてきたこれまでの物とは一変し、カフェで培ったバリスタの経験を活かした、珈琲専門のアカウントに切り替えた。その為、既存ファンの一部が離れてしまい、フォロワー数そのものは一時期減りはしたものの、代わりにアンチとも呼べる面倒な絡まれ方をする人間は少なくなっていった。
交友関係も、それまで培ってきた其れとは少しずつ変わっていき、今では、珈琲愛好家である同年代から、ベテラン珈琲マイスターの中年層までと、幅広く交友関係を広げているらしい。そして、そこで交流を重ねて行った人達と協力しあい、敏腕実業家でもある真宮寺さんや、その店の常連客だったイベント企画を専門職にしている藤崎さんからのアドバイスを受けながら、様々な珈琲関連のイベントの企画や、店の運営及び出店のアドバイザーに至るまで、今では幅広く仕事の手を伸ばしているのだという。
その精力的な活動と、現役大学生有名インフルエンサーの華麗なる転身とが業界内において高評価され、克樹本人が雑誌やTVで特集され、今では珈琲王子だなんて名称を付けられて、以前よりも更に大規模なアカウントを保有する有名人として活躍しているらしい。
自分では、珈琲王子とか、ちょっとダサいしキャラじゃない、と思っているそうだが、人気の一人歩きだけで、こうも成功し続ける事などありはしないので、克樹本人の純粋な努力と、本来持つ素直で明るい人間性が今の結果を呼んでいるのは間違いないだろうなと、僕自身は話を聞きながら感心してしまった。
最近は、先程も言った様にSNS断ちをしていたし、そもそも芸能関係には全く興味が無かったので、克樹の最新の情報なんかは、僕の耳に一切入って来なかった。知らない間に、色々な経験を積んで、新しく、それでいて幅広い人脈を築いて、自分の力で自分の道を切り開いていったその努力や手腕は、尊敬と賛辞とを惜しみなく送るに値すると思う。そんな風に、変わろうとしたきっかけとなったのが、僕自身だなんて、俄かには信じられないけれど。
「今の俺があるのは、全部、瑠衣君のおかげなんだ。いつだって、貴方は俺に良い影響を与え続けてきてくれた。その事に改めて気が付けたのは、いま俺の周りにいる人達のおかげでもあるんだけど……あんまりその話をすると、みんな調子に乗ってしまうから、この話は、ここだけの話にしておいて」
僕は、特に何をしてきた訳じゃないから、僕のおかげで、という部分に関しては、どうしても首を傾げてしまうけれど。謙虚で、素直な所は、昔から変わらないなと思って、くすりと微笑んでから、静かに頷いた。
僕の大好きだった幼馴染は、本当に人から好かれる類い稀な存在で、僕の自慢の弟だった。その人間性が評価され、本当の意味で尊重されている現在の克樹の表情は、どこまでも晴れやかで。僕は、この時になって、漸く心の底から安堵したんだ。
あの日、僕達は、一度大きく袂を分かってしまったけれど。あの時の決断が今に繋がっているのなら、きっと間違いばかりではなかったんだと。
「これが、瑠衣君への、お礼になるかは分からないけど……良かったら受け取って貰えないかな?」
そう言って克樹が自分の背負っていたボディバッグから取り出したのは、茶色い紙袋に入った小さな小瓶だった。中には、紅いジャムが入っている。繁々と、克樹の手の中にあるそれを覗き込んでいると、頭の中にあったある一つの思い出が、パッと頭の中に浮かび上がった。
「これって……もしかして、蛇苺で作った、ジャム?」
「うん、そう。加害者の親族と、被害者が面会出来る機会は少ないよね。だから、警察を介して窓口になる人間が必要で、この場合、それは俺しかいなかった。俺は、本当の身内ではないけれど、珈琲豆の有名な焙煎士の刈谷さんとの打ち合わせで駅前まで足を伸ばしていて、偶然事件現場にいた第一発見者の一人になったんだ。犯人を取り押さえたのは近くにいたその刈谷さんと俺だったから、被害者家族とも、警察を介して関わる機会が多くて。その時、謝りに来た加害者の親族が、これを瑠衣君に渡して欲しいって、俺に……やっぱり、見覚えがあるんだね?」
先生に別れを告げた日に、子供と一緒に作った時は、瓶になんて詰めなかったし、食べ切れる量しか作らなかったけど。だから、これはきっとあの子が、身元預かり先の、唯一御存命だと話してくれた先生のお祖母様と一緒に作ったんだろう。
ジャムは煮詰める必要があるから、これだけの量を作るとなると、相当苦労した筈だ。せっせと蛇苺を摘んで、お祖母様と一緒になって小さな椅子に立ってキッチンに並んで、くつくつとジャムになるまで煮詰めていったあの子の姿を思うだけで、涙が溢れた。
「……僕は、あの子の人生を、無茶苦茶にしてしまった。だから、こんな僕に、幸せになる資格なんてない。いつも誰かを傷付けて、周りにいる人間を不幸にしてばかりで」
「……だから、自分を殺して欲しいだなんて、あの時俺に向かって、口にしたんだね」
ジャムの小瓶を両手でギュッと握り締め、返事のつもりで頷くと、克樹は、僕の背中の傷に触らない様に気遣いながら、そっと僕を腕の中に包み込んだ。そして、そのまま暫く、僕は、克樹の腕の中で泣き続けた。子供の様に全身から熱を放出しているから、絶対に暑い筈なのに、克樹は、文句も何も言わずに、僕の頭を撫でて、言葉にならない『好きなだけ泣いていいんだよ』を僕にそっと送り届けてくれた。
「……高校の頃に虐めにあった女子生徒は、もともと、俺に対して強い執着がある人だった。貴方に近づき、ありもしない俺との捏造の噂を流したり、虚言癖が酷くて……彼女は、貴方ではなく、それがきっかけになって、虐めを受ける様になったんだ」
克樹は、僕が過去に傷付けてしまったと思い込んでいた女子生徒の話をし始めた。きっと、僕にこの話をするタイミングは、今しかないと分かって、この話をするつもりになってくれたんだろう。克樹にとっても、恐らく苦い経験だった筈だ。だから、自分自身の身勝手な理由から、彼女を巻き込んでしまったと思っていた僕も、気持ちを切り替えて、克樹の話す彼女の話に、耳を傾けていった。
「それでも、彼女には、虐めに屈する様な気の弱さなんて、まるで無かった。寧ろ、俺との間を嫉妬する女達の目が気持ちいいと、笑いながら俺に告げてくるくらいには。俺は、瑠衣君が好きだった人でもあるから、それまでは我慢して接していたんだけど。俺が、瑠衣君の事をどう思うか、痺れを切らして尋ねたら、彼女は平然と、そんな奴、俺に近づく為の布石でしかないと言い切ったんだ。流石にカチンと来たから、俺は、君には何の興味もない。俺はゲイなんだ、と告げてしまって。そうしたら彼女は、次の週にはあっさりと、学校に退学届を提出してしまったんだ。初めて自分のセクシュアリティを告白したのが彼女だっていうのはと苦い思い出だけど……だから、瑠衣君が、彼女の事で思い悩んだり、自分自身が幸せになる資格なんてないと考えたりする必要はないんだよ」
初めて明かされる、彼女の、事件全体の全様に衝撃を受けて、僕の涙はすっかりと止まってしまった。つまり、僕は、彼女に好感を抱く様に意識的にアプローチを受け、克樹を誘き寄せる餌として、まんまと彼女に利用されていたという事なのか。
その話が本当だとしたら、僕は、これまでずっと、何を自分の楔にして、自分が幸せになるのを躊躇したり、克樹への恋心が育たないように、自らを律し続けてきたんだろう。
でも、この話を何でもっと早くしてくれなかったのか、と問い詰める真似は出来なかった。何故なら、彼女が引き下がった理由は、克樹のセクシュアリティの告白にこそあったからだ。その肝を話さずに、この話に真実味を持たせるのは難しい。だから、こうして話が事実だと納得できる今だからこそ、克樹は、僕にこの顛末を話せたんだ。
僕を納得させるのと同時に、この僕にもカミングアウトを果たすというのは、まだお互いに気持ちが一方通行だった克樹には、酷な話だろう。だから、黙って克樹の話を聞きながらも、『話してくれて、ありがとう』という気持ちを胸に、続きを促した。
「今回の加害者の先生も、本気で貴方を殺すつもりでは刺していなかった。医師の経験から、主要な臓器が全くない、命には何の支障もない脇腹を、最初から狙っていたんだ。何故そんな真似をしたのか、それは、俺には分からないけれど……どれだけ憎しみを抱いていても、それ以上に彼は、貴方を愛していた、という事何じゃないかなって、俺は思う」
慰めではない、気遣いでもない、事実を事実として口にしてくれているのは、僕にも分かる。だから、その言葉の一つ一つは、僕のカサカサに乾涸びてしまった心に、スッと馴染んだ。だけど。
「あの人を不幸にしたのは、変わらないよ」
「瑠衣君は、何もしてないよ」
「でも、僕は……あの人を、独りぼっちにさせてしまった。もっと、他に気遣いや注意を払っていたら、あんな事にはならなかった。僕は、だからやっぱり、幸せになったら、いけない人間なんだよ」
「……お願いだから、これ以上、俺の腕の中で、貴方を傷付けた男の話を、しないで」
ハッと、その言葉の意味に気が付いた僕は、思わず、至近距離にある克樹の顔を、そこにくっきりと縁取られた深い悲しみを、覗き込んだ。ずきり、と胸が、本当のナイフで劈かれた時以上の痛みを発する。
僕は、後から後から克樹の頬を流れ落ちる、この世のどんな水よりも清涼で、純粋なまでの想いが込められた涙を、止めるのも、泣き止ませるのも、どうしてやる事も出来ずに。ただ、唇を噛み締めた。
「貴方の、恋人だった人を、庇いたくなんてない。本当は、今だって直ぐにそいつの所に行って、殴り飛ばしてやりたいんだ。でも、貴方が、その人に対する気持ちを乗り越えないと、きちんと自分の幸せを、願えないから。だから……」
「克樹、ごめんね。本当に……ごめんね」
「謝らなくて、良い。でも、もしも俺に対して申し訳ないと思うなら。これだけは教えて」
克樹が聞きたいなら、僕はなんでも答える。克樹が、その答えに納得するまで、何度だって。だから、真剣な眼差しを意識して向けてから、何が聞きたいの、と尋ねた。
「俺と、その人の、どっちの方が、好きだった?」
その質問を向けられた時、僕は、まざまざと、もう一度、思い知ったんだ。この世に、神様なんていないんだって。
だから、こんな純粋で、優しくて、ただただ、綺麗な子が、いつも一番、傷付いたりするんだ。
「何度目にしたSEXで、俺を忘れられたの」
もういい、いいんだよ、克樹。言って良いんだ。お前は、その言葉を、僕に言っていい。君には、それを言う資格と権利があって、僕は、その言葉をこの身に受けなければならない、義務がある。だから、遠慮なく、罵ってくれて良いんだ。
「俺と、あんなにした、のに。あれだけ、愛してたのに。貴方も、愛してるって、言った癖に。どうして……他の人を愛せたの」
全部、吐き出して。自分の中にある、ドロドロと澱んだ感情を。僕は、それを全部飲み干して、お前に、伝えるから。どんなに最初は信じて貰えなくても、伝わるまで、繰り返すから。
「なんで、他の人に触らせたの。どうしてそんな酷いことが出来るの。俺がいるのに、どうして、他のひとを愛せたの。殺したかった、貴方を殺して、俺も一緒に、死にたかった。だから、だから、俺は、あの日貴方に、本当は、その人の家で、貴方を殺すつもりで会いに行ったんだ。なのに、貴方が子供と幸せそうにしている笑顔を見たら、俺は……貴方との小さな頃の記憶が、蘇って」
心の底に澱んでいた感情を、全部、僕に曝け出して。その先にある、本当に言いたかった本心を、僕に。
「幼稚園の帰り道にある野原で、俺、可愛らしい苺を摘んで、それが、とても美味しそうだったから、それを摘んで食べようとした時に。ねぇ、って後ろから声がして」
大切にとって置いた、僕との間にあった、古い古いその記憶を、僕に。
「その声に振り向いた俺は、そこから身動きがとれなくなった。あんまりにも、その子が可愛いかったから。だけど、その子が俺に向けて、申し訳なさそうに、すまなそうに、『可哀想だから、食べてもがっかりしないでね』って、優しく教えてくれて。可愛いだけじゃなく、なんて、優しい気遣いが出来るんだろうって、感動して。それから、すぐに俺は、その子の事を大好きになって。毎日毎日、一緒に過ごして」
覚えてるよ、全部。僕だって、そうだったから。
「……いつの間にか、気が付いた時には、俺は、貴方しか目に入らない人間になっていた。それを思い出して、俺は犯行を断念したんだ。俺には、絶対に、貴方を傷付けたりなんて出来ないって」
だって僕も、君をその時、好きになってしまったから。
いつも、一緒にいると胸がドキドキして。大人になっても、ずっとそうで。今思えば、それが本当の初恋で。本当に初めて、好きになった人で。だけど君の周りには、いつだって人がいたから。僕は、君になんて全然釣り合わないなって、君にどれだけ慕われいても、自分に自信が持てなかった。
君と向き合う事から、逃げ続けてきた。心がときめかない様に、君が成長する瞬間を、出来るだけ見逃したかった。だけど、本当は、いつだって、君の一番側にいたかったんだ。
「克樹、僕ね、信じて貰えないのを承知で言うんだけど……僕、その、……先生と、そういう事は、した事ないんだ」
「……え?」
嗚呼、怪訝そうというか、何言ってるの?というか、本当に、何を言われたのか、分かっていない人間の顔をしている。だけど、めげずに、話を続けなくちゃ。この子の誤解を解いて、少しでもこの子の心が軽くなるなら、僕は、正直に、赤裸々に、僕の事情を話してみせる。
「僕、先生に、ずっとそれだけは、まだ待っていて欲しいって言ってきて。本当の意味でお前を忘れられずに他の人に触れるなんて、お前との思い出や想いを裏切るだけじゃなく、相手にも失礼だからって、思ったから。だから、付き合っている間も、その前も、僕は、先生に、指一本触れて貰ったりしなかったんだ」
ぽかん、と口を開き、でも、目だけはしっかりと僕の顔を凝視して。僕の話の一語一句聞き漏らしはしない、という顔をしている克樹に。だからこそ、話がし辛い、言い難い話もする事にした。
「でも、僕は、先生を愛していたし、先生も、僕を誰よりも大切にして、僕の心の整理が付くまではって、ずっと待っていてくれた。だから、お互いを信頼し合う、強い絆は、確かにあって。だから、早くに家族みたいな関係性を築いていけたのは、そんな関係性にあったから、というか、性愛の匂いのする行為からは、遠ざかった生活をしていたからっていうのもあったんだ。でも、全くのゼロじゃ、なくて……僕が、先生に触れて、身体の熱を労ったりするのは、してきた」
ギュッと、克樹の眉間に皺が寄る。聞きたくない話を聞いてしまったからだとは、分かるけれど、そこは、総合的に判断して、文句は言わずに堪えた様だ。僕は、先生と僕との関係性を赤裸々に話し終えると、体力をどっと消耗して、は、と溜息にならない様に気を付けて息を吐いた。
「……瑠衣君は、その人に触れたんだ。俺には、一度だってそんな事してくれなかったのに」
痛いところを刺されてしまい、思わず、う、と唸ってしまう。抱かれた事があるとか無いとか、きっとこの子の本当に取り出したい論点は、そこにもあるけど、そこじゃないんだ。最初に切り出した質問にこそ、この子が僕に問い詰めたかった本心が秘められている。だから、僕は、改めてその最初の質問に答える態勢を整えていった。
「僕は、克樹の事が、いまでも一番に、す、好き。あんな風に別れを切り出したのは、僕だったのに、本当に勝手で、ごめんなさい。だけど、本当なんだ。だから、本当に触れたい相手は、触れて欲しい人は……ずっとお前だけだった」
至近距離にある、不正を許さない眼差しが、真っ直ぐに、僕の双眸を捉えて離さない。じっと、お互いに見つめ合う時間だけが、ゆっくりと流れていく。
「それなのに、どうしてその人と付き合う事になっ……はぁ、その流れはさっき話して貰ったから、もう話さなくていいよ。だけど、なら、もっと早く踏ん切りをつけて、俺の所に帰って来てくれたら良かったのに」
「お前と、付き合うつもりは、無かったから」
「……そ、ッ……ねぇ、まさか、今でも、そう思ってる?」
「お前は、こんなぼろぼろの僕を見ても、まだそんな事が言えるの?」
僕は、自分自身を小馬鹿にする様にして、口元だけで笑い、克樹に、今の惨めな姿を確認出来る様に、セパレートタイプの病院服の上だけを脱いで、上半身裸になり、ゆっくりと身体を捻って、鈍い痛みを訴える、刺されてしまった幹部を、ガーゼ越しに見せ付けた。
「こんな、別れ話一つ碌に出来ない、甲斐性無し、誰が魅力を感じるんだよ。そんな物好きな人間、居るわけないだろ」
「ここに、いるよ」
右手に、そっと触れて、まるで、安心させる様な声色で、胸がどきり、とする様な台詞を吐く克樹に、思わず顔だけで振り返ると、そこには、嘘や冗談で、こんな話は絶対にしない、と顔に書いてある克樹の顔があって。思わず身を引こうとした瞬間に、顎を引かれ、無理矢理顔を固定されて、至近距離から、囁かれた。
「貴方しか愛せない人間が、ここにいる」
声のトーンも、表情も、シュチェーションも、どれもこれもがタイミング良く合わさり、僕の逃げ道を塞ぐ。このままだと、僕は、この子に。そう考えるだけで、全身が燃える様に熱くなった。やめて、もしいま、アレなんてされてしまったら、僕、胸が破裂して、そのまま……なんて可能性だって考えてしまうのに。だから、いまは、まだ待って。
「か、克樹、僕、ほ、ほんとうに、こういうの、慣れてなくて。だから、いまは、まだ待って」
「じゃあ、俺を触って。貴方は他の男に触れたのに、俺には触ってくれないの?」
逆に、ハードルが上がっていませんかね、それは。僕から、克樹にだなんて。ていうか、今ここで?個室とは言え、病室なんですが。そんな場所で、臆面もなく、触ってなんて。ちょっと破廉恥ですよ、君。
「ここ、じゃ、駄目。病院、だから」
「なら、どこでなら触ってくれる?」
「た、退院するまでは、待って」
「じゃあ、退院したら、直ぐに、俺と一緒に住もう。そこでなら、何にも気にせず触れ合えるから」
「そんな、か、勝手な……」
「瑠衣君のお母さんとは、もうその方向で話が付いてるよ。その方が安心だからって、瑠衣君の身の回りのサポートを頼まれたんだ。周りの事は心配しないで。だから、後は瑠衣君の気持ち一つだよ。直ぐに返事を貰おうとは思わないから、退院するまでの間に考えておいて」
退院までって、来週じゃない。考える余裕なんて、ある訳ないし。ていうか、この流れ、自然と付き合ってる感じになってるよね。勘違い、とかじゃないよね。だって、さっき迄は、克樹を宥めたり、誤解を解くのに必死で、自分が何を口走ったか、分かっている様な、いないような。本当、どうして同居したり、まるでこれから親公認のお付き合い始めますみたいな話になってるの?まるで、狐にでも摘まれたみたいな気分だ。
まさか、これを予め予見して、この話に自然に持っていったとか?……いやいや、それはなんでも、流石にねぇ。考え過ぎだよ……ね?克樹君。
「先に物件の話をするとね、俺が経営の補助と相談役をしてるカフェがあるんだけど、そこのビルの最上階が丁度良く空いていてさ、しかもそこのビルのオーナーが、お世話になってる店のオーナーの真宮寺さんなんだ。だから、敷金はだいぶ抑えられるし、折角だから、浮いた資金で旅行したりしようよ。あと、その二階に、俺もお世話になっていた心療内科があるから、もし仕事場で噂になっていて環境を変えたいなら、当面はそこで働くと良いかも。そこも俺と真宮寺さんの紹介でいけると思うから、心配しなくても大丈夫だよ」
……何から何まで、どうも。まだ、一緒に住むとは決めていませんが。というか、本当に、凄いな、この子。暫く見ていないうちに、夏の筍の様に成長している。それで雲海を突き抜けて、雲上人の仲間入りに近いというか、それそのものになっている気が。
巷で話題沸騰中の、珈琲王子とか呼ばれてる現役大学生バリスタで、超有名なインフルエンサーで、しかも、イベントの企画やら店の運営出店に関わったり。人脈作りが得意なのは知っていたけれど、水を得た魚の様に生き生きとしている。
きっと、素敵な人達に、囲まれてきたんだな。そして、そんな人達に、この子もきっと癒されて、支えられてきたんだ。いつか、直接話に行って、きちんと頭を下げて、そして、本当にありがとうございましたって、感謝しに行かないと、僕は、きっと今以上のバチが当たる。
「旅行はさ、仕事でもずっとお世話になってる藤崎さんが別荘を持ってるんだけど、掃除すればタダで貸してくれるって言うから、休職中はそこでゆっくりしながら、離れていた間の時間を取り戻せたらいいなって思うんだ。俺もその間は、仕事をきっちりセーブして、瑠衣君と過ごす時間をたっぷり用意するから。その別荘の近くに、さっき話した焙煎士の刈谷さんが住んでいるんだ。車出して地元を案内してくれるって言ってくれたから、観光もきっと楽しめるよ。空気が綺麗な場所だから、瑠衣君も気に入ってくれたら嬉しいんだけど……でも、まずは、身体をゆっくり休めて欲しいんだ。それには、その場所は凄くいい所だと思うから」
きっと、僕が退院してからの生活をこれからどうしていけばいいか、どうしたら僕にとって一番良い環境を整えられるのか、周りの人達に、ずっと相談してきたんだろう。それに、この子一人で頼み込んで、この状況を用意してきたというよりは、何処となく、周りがそっと、この子に手を差し出してくれた様な、そんな想像が頭を過った。
これだけ、退院してからの生活のルートがしっかりと用意されているのに、中学生の頃からあった閉塞的な雰囲気や、押し付けがましさを全く感じない。自分自身のコミュニティに僕を取り込んで、監視や束縛をしてきた、あの頃の暗い面影は、いまはもう、すっかりと無くなっていた。
「……分かったよ、克樹。心配してくれて、ありがとう。退院した後の僕が困らない様に、そこまでしていてくれたんだね。僕は、お前をずっと裏切ってきたのに、いまだって、またお前を遠去けようとしていたのに、こんなにも気遣ってくれて、本当に、申し訳ないよ……だけど、やっぱりまだ、考えさせて。僕が、自分の幸せを求められる様になるには、時間が必要なんだ」
誰かに支えられる、というのは、何も、恥ずかしい事じゃない。みんながみんな、支え合いながら、生きているのだから。だけど、そんな優しさや純粋な気遣いで向けられた手を、僕は再び振り払ってしまった。それは、まだきっと、僕の心に、大切にしてきた人を傷付け、子供から親を奪ってしまったという後悔が付き纏っているからだ。
僕が、自分の幸せを求められる人間になれるかは、まだ分からないし、その可能性を考える事すら、烏滸がましいと感じてしまう。だから、直ぐに、克樹が僕に伸ばした気遣いの手を取る気にはなれなかった。
「貴方は、何か勘違いしてる。俺は別に優しい奴でも、気遣いでこんな事をしている訳でもない。この退院後の計画も、これまでずっと貴方の交友関係を縛り続けてきたのも、全て、俺の打算なんだから」
え、と思う間に、また再び、僕の身体は克樹の腕の中にすっぽりと包み込まれ。そして、再び顎を上に強引で性急な手付きで上げられて、今度は何の抵抗も許されずに、窺いの一つとして取らず、克樹は、上から覆い被さる様にして、僕の唇に噛み付く様なキスをした。突然の出来事に、驚きで目が白黒してしまって。慌てて、克樹の服の裾をギュッと握り締めて、身体を引き離そうとしたけれど。克樹の厚い身体を前にして、僕の抵抗は全くの無抵抗に等しかった。
「……っん゛、………っぅ、ふ、ぁ」
ぐちゅぐちゅ、と卑猥な水音を立てて、自分の舌が舌裏から側面まで舐め上げられ、歯列に這わした舌先で、粘膜の薄い敏感な部分を集中的に責め上げられる。頭は腰に腕を回され、反対の手で顎をがっちりと押さえ付けられていたから、初めて意識のあるうちに経験する大人のキスに、ただただ翻弄されるしかなかった。
「ん、ッ、はぁ、……んく、……っむ」
気持ちいい。キスって、こんなに、気持ちいいの。頭がボーってして、口の中が、全部、隅々までこの子に犯されてる。駄目なのに、こんな場所で、こんな事しちゃ。それに、僕は、この子を受け入れる気持ちなんて、まだ全然。なのに、どうしてこんなに、胸が、破裂しそうなくらいに、苦しいの。好きだって、嬉しいって、思っちゃうの。恥ずかしいのに、息も出来ないくらいに。でも、やだ。だめ、やめて。もう、僕を。
僕を、解放して。
「自分がどれだけ俺に愛されてるか、まだ分からないの。貴方の全てが欲しかった。貴方の関心が、ずっと自分にだけ向けばいいと本気で思っていた。その為なら、俺は何だってする。人殺しだって、躊躇なく。貴方に向けられる感情なら、憎しみすら、喜びだから」
思う様、僕の口の中を荒らし回り、蹂躙しつくしてから、克樹は、ずるん、と長く挿入していた自分の舌を抜き出した。そして、僕の剥き出しの上半身に掌を滑らせると、今度は僕の下半身や股間部を中心に、病院服の上から、ぞろぞろと、まさぐって。この子の興奮が伝わってくるその熱い吐息と、掌に、恐怖と無理矢理引き摺り出された興奮とで、背中がゾクゾクするのを止められなかった。
「貴方の頭の中を、俺だけの事で、いっぱいにしたい。それだけの理由で、俺はこうしてずっと、貴方の側にいるんだよ」
股間部をじっくりとまさぐっていた克樹の手が、その言葉をきっかけにして、病院服のズボンの中に、ぬっと入り込んだ。だめ、いや、と頭を振って反抗したけれど、克樹は、にっこりと深い笑みを浮かべるだけで、僕の意に沿う様な行動をしてくれなかった。
「可愛い。キスだけで、こんなに興奮したんだ。素直な身体……だって、俺のこと、大好きだもんね。だから、こんな風におちんちん勃っちゃっても、仕方ないよね」
股間部を直接まさぐり、亀頭に滴っていたカウパー液を指先で拭うと、克樹はその手を取り出し、僕の目の前で、てらてらと光る指先を見せびらかした。
かぁ、と顔に熱が一気に篭って、ズボンや克樹の身体を辛うじて抑えていた手が、強過ぎる羞恥と興奮で、かたかたと震え出す。言わないで、これ以上、触らないで……僕の身体を、頭を、おかしく、しないで。
「俺の所為で苦しませてしまったのは、凄く申し訳なかったけど、本心では、あんな病気、治す必要なんて無いのに、って思っていた。だけど、あの時はまだ、俺も幼くて、罪悪感もあったから、貴方をみすみす手放すしかなかった。でも、こうしていると実感する。やっぱり、俺達は、愛し合う為に生まれてきた、運命の相手なんだって」
克樹は、深い深い笑みを浮かべてから、僕の性器の先端から滴り落ちていたカウパー液を拭った指を、僕の顔の前で一本一本、ねっとりとした舌使いでしゃぶっていった。それを、信じられない気持ちで唖然と眺めていると、その隙を見計らって、克樹は僕の病院着のズボンの前を完全に寛げて、僕の恥部を露わにしてしまった。
「あ、っ、いや、……ッ、やめて、見ないでっ」
くつくつと愉しそうに笑ってから、克樹は、僕の上半身を至って優しい手付きでベッドに横たわらせると、ベッドの上に完全に乗り上げて僕の身体に跨り、完全にマウントの体勢を取った。そして、病院着の股間部を隠しながら身を捩り震える僕の全身をうっとりとした目付きで眺めると、上体を屈めて、僕の唇にちゅ、と唇を落とし、首筋や上半身にも、満遍なく唇を落としていった。暫くしてその唇の行き先が下腹部に差し掛かった所で、はぁ、と熱い溜息を吐いて、上目遣いで僕の顔を下から覗いた。
「俺、中学の時に、貴方が背伸びして買ったボクサーパンツを見て、衝動的にそれを盗んでしまった時があったんだ。周りの異性の目や、早く大人になりたい気持ちを意識してる貴方を知った瞬間に、堪らなくなって。気がついたら、洗濯物の籠の中から……その日は体育の授業があったから、脱ぎたてのそれには、貴方の汗の匂いが染み付いていて、どうしようもないくらい興奮して。精通して初めてしたオナニーが、それを使ったやつだったから、頭が真っ白になるくらい、気持ち良かった。毎晩取り憑かれた様にオナニーしまくって、そのパンツの布が擦り切れるまで、貴方を犯す妄想で抜きまくって……ふふ、実は、まだそれ、俺の部屋に大切に取ってあるんだよ。ねぇ、俺って、本当に一途だと思わない?」
顔に篭っていた熱が、その話を聞いた瞬間、さぁ、と引いて。明らかに、興奮や羞恥からではない震えが、全身に広がっていった。片想いしていた当時のエピソードとして語られたそれには、僕にも覚えがある。だから、僕は、その当時の一心不乱に僕のパンツを使って自慰をしている克樹の後ろ姿の記憶や、その後に起こった、意識の無い僕の身体を蹂躙し続ける克樹の姿を芋づる式に思い出してしまった。
それと同時に、目の前にいる男が、どれだけの深い執着心と独占欲、そして支配欲求を、僕の身体に毎夜毎晩叩きつけていたかを思い起こして。
この子は、単なる野原の雑草でしかない蛇苺を、摘んで、摘んで、摘み続け。自分の愛情という名前のシロップを沢山沢山掛けて煮詰めて、ジャムにして。これ以上に美味しい物などない、これ以外自分には必要無いと言ってのける『中毒者(junkie)』なんだと、改めて理解した。
「下脱がすから、お尻少しだけ上げて」
頭の中は、真っ白で。自分でも、どうしてか分からないけれど、克樹に言われた通りに、身体が勝手に動いていた。克樹は、『痛くない?ゆっくりでいいからね』と身体の動きや体勢が傷に障らないかどうか気遣う素振りは見せたけれど、もし本当に嫌なら止めようか、と促したりは決してしてこなかった。
そして、僕を完全に真裸の状態にすると、俺の脚を掴んで股をぱっくりと割り、僕の恥部を医師が患部を観察する様な目付きで観察し始めた。
「本当に、俺以外に触られてないの」
質問に答える様に、僕は、無意識の内に、こくん、と頷いていた。自分の身体が、自分の物では無い様な、不思議な感覚だった。すると克樹は、僕のその様子を見て、何の脈絡も、前兆すらなく、静かに、幾筋もの涙を流した。その、痛烈に此方の心の柔らかい部分に突き刺さる無音の号泣に、ずきり、と再び胸と胃に痛みが走って。もう絶対に、この子をこんな風に泣かせたり、辛い目に遭わせはしないと、心の底から誓った。
静かに涙を流したまま、克樹は、僕の下生えや、睾丸と肛門の間の蒸れやすい部分に集中的に自分の鼻頭を押し付けて、ゆっくりと深い深呼吸を繰り返していった。克樹の一挙一動に振り回されて、赤くなったり、青くなったり、また再び赤くなったりと、僕は本当に忙しい奴だ。昨日、僕はお風呂に入っていない。午前中にはリハビリで運動もしたから、下生えも汗でしっとりと草臥れているし、股間部全体が、汗や皮脂で蒸れた匂いを放っているはずだ。そんな清潔な状態とは程遠い場所に、絶世の美貌を持つ青年が顔を埋め、恍惚とした表情を浮かべながら涙を流し、匂いを嗅ぎ回っているだなんて。世の中、なんだか、これでいいのか、という複雑な気持ちと、後から後からやってくる身悶える様な羞恥心で、頭も身体も、どうにかなってしまいそうだった。
だけど、身体の大きな大型犬に跨られて、お尻や身体の匂いを、ぶんぶんと千切れんばかりに尻尾を振って、くんくん嗅ぎ回られている様な気分にもなって。余計に怖くて、抵抗出来なかった。
「どんなに抱いても、意識の無い貴方の身体が俺の腕の中で反応する事はなかった……だから、どれだけ身体を重ねても、心が満たされる事は無かった。そんな過去を想えば、今こうしていられるのが、夢みたいだよ」
そこで喋らないでよ。良かったね、とも言えないし。この調子だと何をされるか分かったものじゃないから、なら好きにして、とも言えないし。だから、僕はきゅ、と唇を噛み締めて、目を瞑って、早くこの恥ずかしくて堪らない時間が早く終わりますように、と必死になって祈り続けた。
なのに、克樹は僕の心の声を無視して、鼻先を押し付けていた蟻の門渡りから睾丸に掛けてを、舌を長々と出して、べろり、とひと舐めすると、緩く勃ち上がっていた僕の性器の竿に唇を押し当て、性器の先端に向かって下からむちゅむちゅと吸い付いていき、突然の刺激に驚いて、ぱくぱくと開閉しながらカウパー液を溢す尿道を、舌先でくりくりとこじ開ける様にして刺激を加え始めた。
「あ、……っ、や、そんな……だめ、きたな、いから、ぁ、……っ」
まさかそんな所を舐められるなんて、と予想外の事態に激しく動揺して。初めて人から与えられる快感にも、身体が吃驚して。自分の身体は、まだ自分物じゃないみたいに意識と齟齬を起こしてごわついているけれど、そんな事気にしている場合じゃないと、慌てて、克樹の頭を引き剥がそうとした。
だけど、ここ最近の入院生活の影響で身体の筋肉が落ちたのと、僕の拒絶反応を見てもまるで意に介さず性器に刺激を加えてくる克樹の、此方の顔を真っ直ぐに見つめるぎらぎらと欲情に濡れた眼差しに射抜かれて、身体が萎縮してしまって。そして、それ以上に、性器に与えられる未知の刺激と快楽に意識が捉われて。頭を引き剥がそうとする手に、まるで力が入らなかった。
性器の先端部をぴちゃぴちゃと音を立てて舐められ、ふくふくと膨らんでいく濃いピンク色をした亀頭。それが、包皮から完全に隆起すると、克樹は、薄らと段になっている雁首に、ぐるうり、と舌を這わせていった。最後の洗浄から一日半経過したそこには、白い恥垢が微かにこびり付いていて。なんと、信じられない事に、克樹は、それを舌先で綺麗に舐め取ってしまった。
幼馴染とは言え、絶世の美貌を有した青年が……というか、他の誰であってもそうだけど、そんな汚い物を口にするなんて考えられない。休む事なく与えられる快感と羞恥心が胸の中をぎゅうぎゅうにしてしまって、僕は、ぐすぐすと子供の様に泣きべそを掻いてしまった。
「……ッぅ、や、らぁ……、ぺっ、てして、口から、だしてぇ……やだ、もう、そんな恥ずかしい、こと……やめて、おねがい」
克樹は、僕がしゃくり上げながら泣き噦る様子をまじまじと見て、ぶる、と水浴びをした直後の大型犬の様に全身を震わせると。明らかに興奮を極めた様な熱い息を、はぁ、と漏らしてから、半狂乱状態に近い僕に向けて、まるで天使の様に穏やかで安らかな笑顔をにっこりと浮かべた。
「ご馳走様。本当は、このまま最後まで可愛がってあげたいんだけど、俺も、もう限界だから……ごめんね、瑠衣」
克樹は、僕の性器に向けていた執着心を手離して、上体を起こすと、そのまま伸び上がって、僕の額に唇を落とした。そして、目尻から後頭部に掛けて伝う涙を指で拭い、それにも舌を伸ばした。
僕の身体から排泄される物なら、何でも口にしてしまうその子に、何度目か分からない衝撃と恐怖と微かな呆れを感じていると、その子は身体を起こして自分の高そうなベルトをかちゃかちゃと音を立てて外し、ジッパーを下げて、股間部がふっくらと盛り上がっているボクサーパンツのボタンを開けて、ずるん、と自分の怒張を取り出した。
「何にもしてないのに、こんな風になるの、貴方にだけだよ。見て、これなら、直ぐに入れられる……あぁ、でも今日は、そこまでしないから、安心して」
映像では見た事があるけれど、それと肉眼では、視覚に与えるインパクトが段違いだ。僕は、呼吸するのも忘れて暴力的な見た目に育った其れに見入っていたのだけど、『貴方にだけ』という部分に心が引っ掛かったり、『そこまでって何処まで?』という当然の疑問が生まれたりと、兎に角、不安や不満で胸がモヤモヤとして。克樹は、そんな僕の様子に直ぐに気が付いたのか、『どうしたの?もしかして、背中が痛い?』と不思議そうに、心配した表情を浮かべた。
何と答えればいいのか、全く分からなくて。この感情を、具現化して言葉にしてしまった所で、何というか、自分が凄く狭量な人間になってしまうだけなんじゃないか、とぐるぐると頭の中で考えたのだけど。
「……他の人と、比べないで」
気が付いた時には、もう、口から不満が漏れていて。
「それに、そこまでって、何処までを言ってるのか、分からないけど。僕には、お前が僕にすること、ぜんぶが、刺激が強いし。だから、あんまり、僕を置いてきぼりに、しないで」
それに釣られて、僕の不安は、余す所なく、克樹に向かってぶつけられていた。
「瑠衣君、ごめんなさい。そんなつもり無かったんだ。ただ、本当に、俺には貴方しかいないんだって、それだけで。だから、機嫌直して」
焦った口調で、僕の機嫌を取る克樹に、胸の中にあったモヤモヤが、次第に薄くなっていく。けれど、モヤモヤが晴れていき、それに微かな安堵を抱いたのと同時に、『いま、一体僕、何言った?』と頭の中が凍りついて。僕は、単なる道端の雑草なのに、幼馴染とはいえ雲上人になった人間の前で、自分の立場も弁えずに、こんな高飛車な発言をして。この子は、一体どんな反応をしているのかと、恐る恐る、克樹の顔を覗いたら。
そこには、この世界の幸せを、ギュッと封じ込めた様な、本当に満たされた人間の、笑顔があった。
僕は、この笑顔を、見た事がある。幼稚園で虐められたこの子に、『僕がずっと一緒にいるからね』と、小指と小指を繋いで、約束した、夏の初めの日。この子は、これと全く同じ笑顔を見せてくれた。
高い小鼻には、横断する形で僕の貼った絆創膏があって。そして、その幼稚園の中にある小さな雑木林で、一緒にナワシロイチゴを摘んで食べたんだ。だけど、酸っぱい苺に当たったのか、克樹は『あんまり好きじゃ無い』と苺に向かって文句を言った。だから、僕は、『また、そんな事言って、ダメだよ』と注意して。そしたら、その帰り道に、克樹と初めて出会った野原の中にある蛇苺に、克樹は反応した。
『瑠衣君、あれは、本当に食べられないの?』
『食べられなくはないけれど……味が殆どないから、ジャムにしたりしないと、食べられないんだ』
『でも、俺、あれが食べたい』
『大変だよ?沢山取らないといけないし、お砂糖も沢山入れないと』
『うん、でも、あれがいい』
『どうして?ちゃんとした苺とか、ブルーベリーとか……他にも美味しい物は、沢山あるのに』
『知ってる。だけど』
瑠衣君との思い出があるから、それと一緒に食べたいんだ。きっと、どんな物よりも、俺には美味しく感じるだろうから。
「嫉妬してくれたの?……嬉しい。凄く、凄く嬉しい。泣きたいくらい……ないちゃう、くらい、嬉しい」
その野原で、幼稚園バックに入ったお弁当袋にそれを沢山摘んで入れて、僕の家で、お母さんに手伝って貰いながら、刻みレモンと一緒に煮て、二人で交互にコンロの前に立ち、せっせとジャムにして。ホットプレートで焼いたパンケーキに塗って。殆ど砂糖と刻みレモンの味しかしないそれを、お前は、とてもとても美味しそうに食べて。
『俺、世界で一番、これが好き』
「ねぇ、どうしたら、俺には貴方しか好きになれないんだって、信じてくれる?……どうしたら、貴方は、俺だけに夢中になってくれる?……分からないんだ。だって、本当に、俺には貴方しかいなかったから」
圧倒的な罪悪感と幸福感。深い深い後悔と、自分への失望。下らない自分自身の拘り。そして、胸の中にあった蝋燭に、暖かな火が灯る様にして生まれた、なけなしの勇気が。
「抱いて」
僕の心の中に聳え立つ脆弱な壁を、打ち砕いた。
克樹に、キスをされた。酸素マスク越しに、ではあるけれど。間違いなく、確実に、あれはキス以外の何物でも無かった。あれが世間一般に言うキスに換算されないなら、僕の知るキスの常識は、根底から覆されてしまう。
克樹に、キスをされた。自分にとって都合の悪い話の終わり方として、古くから用いられる手法だけれど。あんなにキザったらしくも何でもない雰囲気で、ごく自然にされてしまったら、克樹に対する複雑な感情を持て余してばかりの僕はもう、煮るなり焼くなり好きにして下さい、としか言いようが無かった。言わないけれど、絶対に。そればかりは、自分の胸に秘めた正直な気持ちや衝動は、これから先もずっと、誰にも言わずに隠し続けていくつもりでいるから。だけど。
克樹に、キスをされた。映像では、もっと強烈で鮮烈なアレやソレを見た事があるけれど。だから、口にする事すら憚れる様な辱めを、知らないうちにこの身で受け止めていたというのも、頭では理解している。なのに、それが混じり気のない現実だったんだと受け入れるには、心はまだまだ追いつかなくて。でも、自分の意識がハッキリとある状態でされたキスは、あれが初めてだったから。実際に唇が触れてもいなかったのに、あの時の光景が、目に焼き付いて離れない。
何度も言う、克樹に、キスをされた。どれだけ頭の中でリフレインしても、色褪せない。思い返すだけで心拍数が上がってしまって、看護師さんには、度々深呼吸する様にと求められてしまった。無意識だから、本当に申し訳ない。この年になって、キス一つで狼狽えるだなんて、どうかしてると僕自身も思うけど。ずっと、本当は、ずっと前から好きで。大好き、で。その気持ちに蓋をし続けて来た僕には、克樹の行動は、一から十まで、刺激が強過ぎた。
睫毛、吃驚するくらい、長かったな。髪切ったんだ。今くらいの長さも、似合ってると思う。ピアス、話に聞いていたよりも、沢山付けてたな。でも、格好良いから、あんまり付けてる事に抵抗はないな。漫画やアニメの世界から抜け出して来た様な姿形は、変わっていない所か、磨きが掛かってる。あんまり格好良くなられると、僕の心臓が保たないからやめて欲しいのに。これでいて更に、大人の色気なんて身に纏い始めてしまったら、もう、僕はお手上げじゃないか。
僕のお母さんは今、実家の祖父の介護で忙しいから僕の方にまで手が回せず、親戚よりも深い関係を古くから続けている克樹のお母さんである叔母さんも、自分達の老後資金の貯蓄の為に仕事に復帰したから忙しくて。だから、看病や見舞いの一手を引き受ける事になった克樹が、代わりに僕の病室に通ったり、リハビリを見守ったりしてくれていているんだけれど。その度に、どんな顔をして出迎えれば良いか分からず。事件に巻き込まれる形で怪我を負ったという僕の立場や、心配してくれる家族の手前、追い払ったり邪険にしたりとは扱えず。結局、前にも後にも進まない宙ぶらりんな関係性を、こつこつと積み重ねてきてしまった。
「退院、無事に決まって良かった。想定していたよりだいぶ早いって、看護師さんからも聞いたよ。本当に、お疲れ様、瑠衣君……リハビリ良く頑張ったね」
なのに、僕の複雑な事情や心理状態なんて、全く配慮せずに、この子は。なんで、性懲りもなく、毎日見舞いに来ちゃうかな。面会時間の開始から終わりまで、それこそ、ずっと僕の側に居て。リハビリの見守りや、トイレの付き添い、食事や水分補給の見守りまで、付きっきりで僕に寄り添って。不安にさせたり、心配させたのは、態々言わずにも態度で知れたから、最初は申し訳ないな、と思っていたけれど。この状況を受け入れる心境を整える暇も、これから先、僕達の関係性は、一体どうなるんだろうとか、冷静に考える隙や時間すら与えてくれない。
このまま、ずるずると、昔みたいな共依存みたいな関係性に戻るのだけは、絶対に拒否しなくちゃいけないのに。溢れんばかりの優しさと気遣いが。隠しきれない、そもそも隠そうとすらしていない、僕を大切に想う気持ちが伝わる熱い眼差しとが。僕を、雁字搦めにしようとする。
その眼差しで見つめられるだけで、僕の全身は、熱くなる。時間の経過と、根気良く続けた治療の甲斐があって、以前よりも克樹からの自立心は育った感覚があるし、昔に比べて、勝手に自分の身体が動き出し、克樹の元に現れては付き纏う様な、粘着性の高い依存心や拘りなんかは、綺麗さっぱり無くなって。社会人としても働いたり、人生で初めて恋人が出来たり、色んな経験を、克樹のコミュニティから抜け出してからずっと積み重ねて来たらから、そんな、自立した大人の仲間入りをし始めた自分に対する自信は、間違いなく芽吹きつつあったけれど。とは言え、心配してくる克樹の、近過ぎる距離感や気遣いに、格好良いなとか、嬉しいなだなんて思って、胸がどきどきしてしまうのは、勝手な身体の反射に近い感覚だから、抑えようがなくて弱ってしまう。
だけど、恋愛に関しては、今回こうして見事に大失敗したし、僕にはやっぱり、誰かを幸せにしたり、恋をしたり、といった方面には、徹底的に不向きなんだという自覚を改めて深める結果になってしまったから。誰かを幸せにしたり、自分もそれで幸せを感じたりという資格は、どうしたって、僕にはないみたいだと、開き直って考える事が出来て。それを骨身に染みて理解したから、これで本当に、これから先、もう絶対に恋なんてしないって決めたし、一人で生きていく決心がついた。
だから、僕の中に、克樹を受け入れるスペースなんて、今はこれっぽっちもない。それを、きちんと理解して、僕は、これから先も、克樹と向き合っていく必要がある。克樹が、以前と同じ様な好意や感情を僕に抱いているだなんて都合良く考えたくないけれど、もしも、僕にまだそんな気持ちがカケラでも残っているなら、その希望を徹底的に失わせる必要があると思っていた。
それに、まだ僕は、心の病気が完治したら、贖罪の為にも謝りに行くという、この子にした約束を果たしていない。こんな形での再会になってしまったから、順番は逆になってしまったけれど、今からでも遅くは無いだろうか。こうして、退院が無事に決まったというタイミングは、その機会に丁度良いかもしれないという気持ちもあって。これまで、本当に申し訳ない事をした、という謝罪と、二度とあんな真似はしない、という決意表明と、退院までずっと付き添ってくれて、ありがとうという気持ちを込めて、克樹に向けて頭を下げた。
「これまで、ずっと、ごめんなさい。本当なら、直ぐにでも謝りに行きたかった。だけど、病院通いが終わっても、まだ蟠っていた心の病気が、沢山の人のおかげで本当の意味で完治するまで、時間が必要で。これで漸く謝りに行けるって気持ちになれた途端に、こんな事になって・・・順番が逆になったけど、これでもう二度とあんな真似はしないと絶対に誓うから、安心して欲しいんだ」
口に出して約束した所で、行動が伴わなければ何にもならない。だから、この場合、これから先の僕の行動と、それを見守る周囲の目と、お互いに対する信頼関係が前提として必要となるのだけど、僕は、何としても、この言動にだけは、責任を持ちたかった。だから、その周囲や克樹とにおける信頼関係を再び構築する為の努力は、なんとしてでも続けて見せると誓った。
「もしもまた、僕が同じ事をしたなら、今度は問答無用で警察に突き出して。それと、僕が回復するまで、ずっと側に居てくれて、本当にありがとう。だけど、これからは、もう、僕に気遣ったり、心配したり、しなくていいから。お前は、お前の人生を、きちんと幸せに……ごめん、お節介だったね。今のは忘れて」
退院する迄の間に、僕に付き添い、心理的にも寄り添おうと努力してくれていた克樹に対して、ずっと言いたかった内容を心に溜め込んできた僕は、話の最後に、言わなくても良い事まで余計に詰め込んでしまった。
克樹の様子を見れば、今どれだけ充実した生活を送れているのかくらい、直ぐに見て取れる。爛れた生活を送っている様に見えたのだって、側から見た主観でしかなかったし、その証拠に、入院中に接して来た克樹に、陰らしい陰は見当たらず、いつだって、満たされた様な顔をしていた。最初の頃は、僕に怪我を負わせた先生に向けて物騒な恨み言を呟いていたけれど、僕が先生との間にあった出来事をぽつぽつと順を追って説明していくと、次第に大人しくなっていった。
『患者に手を出すとか医者として失格』『おっさんの癖に自制心とかないのかよ、気持ち悪い』『それでいて、向こうを想って別れを切り出したのに逆恨みして刺すとか、同情する余地なんてないね』等々……言いたい事は様々言ってくれたけれど。尖り切っていた報復衝動は何とか収めてくれたので、ホッと胸を撫で下ろした。
だから、今更僕から、上から目線で馴れ馴れしく幸せを願うなんて、お門違いも良い所で。口にした瞬間に、直ぐ後悔した。
克樹が今一緒にいてくれるのは、これまでの長い付き合いからくる親愛と、僕に対する同情心があったからで、それ以上でも以下でもない。大体、それ以外の感情が理由としてあると言われても、今の僕には、どうする事も出来ない。だから、これから先、ずっと一人で生きていくと決めた、僕にとって。
「俺の幸せは、いつだって、貴方が握ってる。貴方が、俺の元に帰って来てくれるだけで……それだけが俺の願いで、希望で、夢で、幸せなんだよ」
克樹の胸に秘めていた本心は、あまりにも重く。ずしりと大きな石を飲み込んだかの様にお腹の下に収まり、耐え難い急性的な胃痛を齎してしまった。けれど、その痛みを堪えてでも、僕は、この子に向き合う必要があると分かっていたから。掛け布団の下で、克樹からは見えない様に細心の注意を払いながら、痛む腹部を押さえた。
「ストーカーだって、正体が貴方だって知った時、俺は、全身が痺れて動かなくなるくらい、嬉しくて堪らなくて。だけど同時に、後悔で胸が押し潰されそうに苦しくなった。それだけ俺は、貴方を苦しめてしまったんだと、毎晩貴方の身体を掻き抱いて、泣きながら謝り続けて。だけど、そんな夜を過ごしていく内に、朝になれば記憶が無くなってしまう貴方に……自分の欲情を抑えきれなくなっていったんだ」
赤裸々に自分の当時の心境を語る克樹の眼差しは、どこまでも真剣で。それでいて、心底から信頼している牧師の前で懺悔をする人間の様な切迫した心情を、そこから感じ取れた。
「だけど、どれだけ貴方を激しく抱いても、昼間のあなたは、その事を全く覚えていなくて。次第に、本当は俺に会いたいから、抱かれたいから、無意識の内にこうして夜に家に遊びに来ているんだって思い込む様になって。だから、最後に貴方が俺の前から消える時に、ずっとずっと愛してたって言われて、答え合わせが漸く出来て、死んでしまいそうなくらい嬉しいのに、悲しくて堪らなくて。もっと早くに、向き合う事が出来たら、こんなすれ違いなかったのにって、激しく後悔してきたんだ」
克樹は、僕のその告白を聞くだに、どうにか僕に接触する手立てはないかと、日々模索する様になっていったという。例え、心理的な距離が離れてしまっても、お互いの根底にある感情は一致している。だから、熱りが覚めた頃に、またお互いに腹を割って話し合えれば、また以前の様な関係性に戻り、引いては、きちんとした交際にも駒を進める筈だと、最初は考えていた。
けれど、僕の病院通いが落ち着きを見せてきた、と僕の母親伝に聞いた克樹が、花束とリングを購入して、最後に病院に通院する日に病院に迎えに行くと。その病院の前を、僕と先生が、仲睦まじい様子で歩いて駅に向かう姿を発見してしまったのだ。
頭の中は真っ白なのに、身体は無意識に動き、克樹はそのまま、僕と先生を尾行した。そして、僕達が仲睦まじい空気をそのままに先生の自宅に姿を消すと、克樹は、その場で膝から崩れ落ち、花束とリングの入った小箱を抱えたまま、正体を失う程、泣き崩れた。
そうして、克樹は、僕を逐一監視観察し影から尾行する、僕のストーカーとなったんだ。
驚きの展開を迎えた話に、言葉を失う。以前は僕がストーカーとなって、克樹の悩みの種になっていたのに。今度は、被害に遭っていた克樹の方が、僕のストーカーになるだなんて。
けれど、克樹は一度だって僕に接触してこなかったし、遠回しに迷惑行為をしてきた試しもない。だから、世間一般にいうストーカーの枠には当て嵌まらないのかもしれないし、警察に訴えても、取り扱ってはくれないだろう。僕自身、そんな行動に及ぶつもりは微塵も無いから、この話はここで深掘りするのはやめて、早めに次の話題に移った方がいいかもしれない。
克樹は、僕や、僕達の動向を尾行しながら逐一チェックし、僕達の仲睦まじくしている様子を観察していく中で溜まっていった鬱憤やストレスを情報収集に向けた。そして、病院のホームページに記載されている情報や、その病院と提携している薬品関係の卸業者の友人に話を聞いて、僕の隣にいる人物が、以前の僕の担当医である事を知ったらしい。
その出会いの経緯に怒りを抑えきれなくなった克樹は、このまま黙って指を咥えて見ているだけでは埒があかない、と踏ん切りをつけ、なんと、仕事帰りの先生を捕まえて、直接話を付けに行ったというのだ。
寝耳に水の情報に、僕の頭の中は、すっかりと混乱状態に陥った。先生からも、そんな話は一度も聞いた試しがない。克樹が直接対決に踏み切ったという、衝撃的な話なら、話されたら絶対に忘れる筈もないので、先生は、ずっと僕にその事を黙っていたという事になる。何故黙っていたのか、理由は分からないけれど、平常時であれば気が利き過ぎるくらいに良い人だから、もしかしたら、折角落ち着きを取り戻してきた僕の心情を、もうこれ以上波立たせない様にしてくれたのかもしれない、と思った。けれど、それは、僕の希望的観測に過ぎなかったのだと、直ぐに知れる事となる。
克樹は、先生を病院関係者専用の出入り口付近で待ち伏せし、先生が出てきた所で呼び止めた。すると、先生は、克樹の見た目やパッと見の年齢から総合的に判断し、もしかして、君は、と、直ぐに克樹の正体に気が付いた。折り入って話がある、と告げると、立ち話ではなんだからと、以前、先生と待ち合わせに使った喫茶店に二人で入店した。
先生がケニアを、克樹が同じ物を、と店員に注文して、店員をカウンターに見送った後、話は本題に直ぐに移った。克樹は、僕と先生の関係性に深い嫌悪感を抱く態度を隠さずに、先生に、自分の立場が大事なら、思い出が積み重なって別れ辛くなる前に、僕と早々に別れて欲しい、と単刀直入に切り出した。
元とは言え、精神疾患を抱えて弱っている自分の担当患者と関係を持つなんて、年齢、男女問わずに、誰の目から見ても間違っている。この事を病院関係者にリークすれば、貴方は病院の席を追われる事になりますよ、と、盗撮した二人の写真を先生の目の前に並べて、正論を笠にきた脅しを初手から吹っ掛け、相手の出方を待った。
これで尻尾を巻いて逃げ出せば御の字。まだ食い下がる様なら、まだ他の手を用意してあるから、それを使うつもりで。しかし、先生は、その脅しには屈しなかった。他に捨てる物など何も無い、という堂々とした態度で克樹の目を真っ直ぐに見つめて、静かな声で克樹に真っ向から対抗した。
『別れるつもりはない。それに、あの子の心の中には、もう君はいない。未練を捨てて、あの子の周りを彷徨くのは、もう辞めてくれ』
先生は、最初から、僕達に対してストーカー行為を行い尾行している人物が克樹だと知っていたのだ。そこまで気が付かれた上で、仲睦まじく過ごす態度を変えずにいた先生の胆力にも驚いたが、それ以上に克樹は、はらわたが煮えくり返る様な怒りを覚えて、先生の胸ぐらに掴み掛かってしまった。
『心の中に、もういない?未練だって?あんた何様だよ。俺達には、俺達だけの関係性がある。少しお互いにすれ違っただけで、俺達は、元々、深く愛し合っているんだ。今は単なる冷却期間であって、疲れたあの人を休ませなくちゃいけないから大人しくしてるだけなんだよ。だから、あの人の心の傷を利用して、これ以上あの人に近付くな』
話は、一触即発の状況を迎え、お互いの間には、緊迫感に包まれた空気が漂い、絶対に自分からは逸らさないという、強い決意を露わにした視線の応酬が続いた。店全体が緊迫感に包まれ、店員も、他の利用客も、二人の動向を固唾を飲んで見守った。
『心の傷を利用している事の、何が悪い。君だって、あの子の心の弱い部分を、ずっと利用していただろう。元より強く反抗出来ないあの子の優しさを良い事に、あの子を自らのコントロール化に置き、自分の思う通りに動かしてきた。しかし、その関係性に、健全性と将来性が見出せなかったからこそ、心を鬼にして、あの子は、君を切り離したんだ。その努力を積み重ねてきたあの子を見守り、支えてきたのは私だ。立場を利用した、という狡さは勿論自分でも分かっている。けれど、それ以上に、私はあの子を愛してしまったんだ。そして、あの子も、そんな私の狡さを分かった上で、私の手を取ってくれた・・・もう分かるね?君は、あの子にとって、もう過去の男なんだ。そして、もしこの話に逆上して、君が私に手を上げたなら、君はこの話に、少しでも思い当たる節があると言う裏付けにもなる。殴られるのは別にいいが、私はそんな察しの悪い男に殴られた所で、掻痒すら感じないよ』
それを聞いた克樹は、振り上げた拳を震わせながら、ゆっくりとテーブルの下に下ろし。先生の身体が弛緩した瞬間を狙って、腹を一発殴ってから、その店を後にしたらしい。
話が丁度良く一区切り付いたので、話を聞いているうちに僕の中に生まれた疑問を解釈するべく、それって、いつの話?と、恐る恐る尋ねると、克樹は、日時を正確に覚えていたのか、直ぐにその日を教えてくれた。すると、僕の、もしかしたらその日とはこの日だったんじゃないか、という勘は当たっていて。それは、先生が玄関先に泥酔する演技をしながら蹲り、僕に自分のセクシュアリティを告白し、初めて僕を朝まで帰さなかった、あの日だと判明したんだ。
あの時、もしかしたら、先生は泥酔する演技をしていたのではなく、克樹に貰った打撃の影響を受けて、グロッキーになっていたのではないだろうか。そうすれば、何故、先生が突然、僕にあんな告白をしたり、自分の過去を話し始めたりしたのかという疑問の全ての辻褄が合う。
先生は、きっと、克樹という存在が俄にその存在感を発揮した事で、このままでは、本当に克樹が、自分や自分の家庭から僕を回収し、攫って仕舞うのではないかと考えたのかも知れない。そして、僕達の、普通には考えられない程深い絆や関係性を前にして焦りを感じて、何が何でも、僕を本当の意味で手に入れたいと考えたとしたら。焦る気持ちや逸る気持ちを前にして、いつもある冷静さを失って、本当は付き合っていないという事実を隠した上で対峙する道を選んでもおかしくはないと思えた。
あの時、もっと先生の状態に、注意を払っていたら、今とは違う未来もあったんだろうか。僕と、もっとゆっくりと関係性を築いたり、急速に距離を縮めるのではなく、子供や先生の人生、そして、僕自身の人生との折り合いをもっとしっかり話し合って、穏やかな日々を過ごせていた可能性も、もしかしたら。
今考えても、全てが遅過ぎて。僕は、そのまま、口元を手で押さえながら、暫くの間無言で俯き続けた。しかし、克樹は、そんな僕の複雑な心境を知ってか知らずか、そのまま、その後の自分の顛末について、淡々と説明を続けた。
先生と直に話をしてからの克樹は、今まで心の中に張り巡らしていた緊張の糸が切れ、見るに分かり易い、爛れた生活を送る様になっていった。そんな生活を続ける一方で知り合った人間や、昔馴染みとも密に連絡を取り合い、僕のネットワークに自分の情報を絡ませて、僕の関心を常に自分に向けさせる様に仕向けていったらしい。
「……離れていても、貴方に、俺に関心を持って欲しかった。病気がまた悪化して、自分の所に帰って来てくれないかなんて、最低な期待もしていた。だけど、自分から貴方を迎えに行く勇気はなかった。あの男の言っていた事が本当なら、貴方はもう俺を忘れて新しい人生を歩み始めている事になる。そんな貴方の邪魔をする権利が、自分にあるのかって……」
「克樹……」
離れている間、派手な交友関係を広げて、積極的にSNSを活用し、新しい出会いを勢力的に求めている克樹の情報が、嫌でも目に付いたのに、そんな理由が隠されていただなんて。僕は、克樹は僕を忘れて、新しい世界で自由を謳歌しているんだな、とか、そんな生き方が許される克樹を羨ましいなとほんの少し思ったりとか、僕は君をずっと忘れられずにいるのに、君は僕の身体をあんな風に滅茶苦茶にしたのに、もうその事を忘れて、こんな風に楽しそうな日々を送っているの?と信じられない様な、モヤモヤとした気持ちになって。再び気持ちを病んだりまではいかなくとも、明るく楽しく日々を送る克樹を応援する気持ちよりも、憎らしく思ったり軽蔑してしまう自分が、ほとほと嫌になっていた。
だから、忘れようとすればする程、頭の中では克樹の事を考えてしまい、当時はだいぶナーバスな日々を送っていた。それが、克樹の意図した出来事だったなんて。
もっと他にやりようがあるだろうに。そんな方法は、幼稚もいいところだし、はっきり言って逆効果だ。これで元鞘に収まるカップルがいたとしたら、きっとその二人が生きている世界と僕のいる世界は、全くの別世界なんだろうなとしか思えない。そんなにも、離れている間に価値観のズレが生じていたとは、頭が痛い話ではあるけれど。残念ながら、元鞘に戻ったとしても、僕達に付き合ってきた経験など元からありはしないから、どちらにせよ、克樹の盛大な徒労に終わった計画ではあった。
僕は、そんな克樹の情報を追ってナーバスになってばかりいる自分に見切りをつけ、途中からは、先生と先生のお子さんの為に、完全なるSNS断ちをしていたし、だから、流れてくる克樹の情報に翻弄されていくという状況から、早々に足を洗っていたんだ。口には出さないけれど、努力の方向性を完全に間違えていた、としか言い表せず、僕は、ズキズキと痛む胃を上から手で押さえながら、再び克樹の話に耳を傾けていった。
SNS上にて話題の的になり、他者に影響を与えるインフルエンサーとして俄かに人気と知名度を得ていった克樹は、大学を休学して、本格的にその道で仕事を見つけていき、派手な生活に拍車を掛けていった。
ブランド品の広告塔として商品を紹介したり、積極的に他のインフルエンサーや業界のVIP達が集うパーティーに参加して人脈を増やしていったり。そこで知り合った著名人達とコラボ企画を計画したり……けれど、どれだけ高い酒を飲んでも、ブランド品に身を包み羨望の的になろうと、この世界の頂上に登り詰めた一部VIP達と知り合い、ラグジュアリーな環境に置かれた自分に次第に慣れていっても、心の中は、いつだって空虚で。
「俺は、一体、何になりたいんだろう。どんな人生を歩む気でいるんだろう。貴方は、もう俺の隣に居ないのに、これから、何を支えにして生きていきたいんだろう……そんな風に、ふと考えたら、全てがどうでも良くなったんだ」
自暴自棄になり、来る日も来る日も酒を浴びる様に飲んで、自分の身体と心の悲鳴を聞きながら、日々を自堕落に過ごした。あれだけ固執していたSNSの更新を全て停止し、あの人は今、という話題に上る様になるまで、その存在を霞の様に眩ましていった。もしもこのまま、夏の蝉の様な人生が、ぷつりと終わりを迎えるならば、死ぬ前に最後に一目だけ僕の姿を見ようと思い、先生達と共に生活しているその家に向かって足を向けた。すると、最早歩き慣れたしまった、その家にまで続く道の、その途中。
花畑で、子供と一緒に蛇苺を摘む僕の、穏やかな笑顔を確認した。
その幸せそうな僕の笑顔を見た瞬間。自分は、どうして、僕の最後に残した、『僕の知る誰よりも、幸せになって』という望みを叶える努力をせずに、こんなにも愚かな真似をしてしまったのかと、激しく後悔し。そして、そんな穏やかな笑顔を見せるまでに、自分抜きで幸せになってしまえた僕を、心の中で、漸く少しだけ受け入れる事が出来た、と克樹は苦笑した。
だけど、僕に言われた通りに、僕を忘れて他の誰かや自分自身を幸せに出来るだなんて、夢夢思える筈もなく。これから先、一体自分は、僕のいない世界でどうしたら幸せになれるのかと、只管に模索する日々が続いた。
けれど、休学していた大学に復学し、その近くにある、その地元で有名なカフェをふらりと訪れ、そこの名物店長であり、腕利きのバリスタでもある高橋さんと出会ってからは、良い意味で風向きが変わっていった。そして、その店のオーナーである真宮寺さんに、有名インフルエンサーとしての手腕と、見た目から受ける印象よりも真面目な部分を買われて、克樹は、その店でアルバイトを始めて、本格的にバリスタの勉強を初めていった。
インフルエンサーとしての活動は、派手だった交友関係や着飾るものをSNSで見せびらかしてきたこれまでの物とは一変し、カフェで培ったバリスタの経験を活かした、珈琲専門のアカウントに切り替えた。その為、既存ファンの一部が離れてしまい、フォロワー数そのものは一時期減りはしたものの、代わりにアンチとも呼べる面倒な絡まれ方をする人間は少なくなっていった。
交友関係も、それまで培ってきた其れとは少しずつ変わっていき、今では、珈琲愛好家である同年代から、ベテラン珈琲マイスターの中年層までと、幅広く交友関係を広げているらしい。そして、そこで交流を重ねて行った人達と協力しあい、敏腕実業家でもある真宮寺さんや、その店の常連客だったイベント企画を専門職にしている藤崎さんからのアドバイスを受けながら、様々な珈琲関連のイベントの企画や、店の運営及び出店のアドバイザーに至るまで、今では幅広く仕事の手を伸ばしているのだという。
その精力的な活動と、現役大学生有名インフルエンサーの華麗なる転身とが業界内において高評価され、克樹本人が雑誌やTVで特集され、今では珈琲王子だなんて名称を付けられて、以前よりも更に大規模なアカウントを保有する有名人として活躍しているらしい。
自分では、珈琲王子とか、ちょっとダサいしキャラじゃない、と思っているそうだが、人気の一人歩きだけで、こうも成功し続ける事などありはしないので、克樹本人の純粋な努力と、本来持つ素直で明るい人間性が今の結果を呼んでいるのは間違いないだろうなと、僕自身は話を聞きながら感心してしまった。
最近は、先程も言った様にSNS断ちをしていたし、そもそも芸能関係には全く興味が無かったので、克樹の最新の情報なんかは、僕の耳に一切入って来なかった。知らない間に、色々な経験を積んで、新しく、それでいて幅広い人脈を築いて、自分の力で自分の道を切り開いていったその努力や手腕は、尊敬と賛辞とを惜しみなく送るに値すると思う。そんな風に、変わろうとしたきっかけとなったのが、僕自身だなんて、俄かには信じられないけれど。
「今の俺があるのは、全部、瑠衣君のおかげなんだ。いつだって、貴方は俺に良い影響を与え続けてきてくれた。その事に改めて気が付けたのは、いま俺の周りにいる人達のおかげでもあるんだけど……あんまりその話をすると、みんな調子に乗ってしまうから、この話は、ここだけの話にしておいて」
僕は、特に何をしてきた訳じゃないから、僕のおかげで、という部分に関しては、どうしても首を傾げてしまうけれど。謙虚で、素直な所は、昔から変わらないなと思って、くすりと微笑んでから、静かに頷いた。
僕の大好きだった幼馴染は、本当に人から好かれる類い稀な存在で、僕の自慢の弟だった。その人間性が評価され、本当の意味で尊重されている現在の克樹の表情は、どこまでも晴れやかで。僕は、この時になって、漸く心の底から安堵したんだ。
あの日、僕達は、一度大きく袂を分かってしまったけれど。あの時の決断が今に繋がっているのなら、きっと間違いばかりではなかったんだと。
「これが、瑠衣君への、お礼になるかは分からないけど……良かったら受け取って貰えないかな?」
そう言って克樹が自分の背負っていたボディバッグから取り出したのは、茶色い紙袋に入った小さな小瓶だった。中には、紅いジャムが入っている。繁々と、克樹の手の中にあるそれを覗き込んでいると、頭の中にあったある一つの思い出が、パッと頭の中に浮かび上がった。
「これって……もしかして、蛇苺で作った、ジャム?」
「うん、そう。加害者の親族と、被害者が面会出来る機会は少ないよね。だから、警察を介して窓口になる人間が必要で、この場合、それは俺しかいなかった。俺は、本当の身内ではないけれど、珈琲豆の有名な焙煎士の刈谷さんとの打ち合わせで駅前まで足を伸ばしていて、偶然事件現場にいた第一発見者の一人になったんだ。犯人を取り押さえたのは近くにいたその刈谷さんと俺だったから、被害者家族とも、警察を介して関わる機会が多くて。その時、謝りに来た加害者の親族が、これを瑠衣君に渡して欲しいって、俺に……やっぱり、見覚えがあるんだね?」
先生に別れを告げた日に、子供と一緒に作った時は、瓶になんて詰めなかったし、食べ切れる量しか作らなかったけど。だから、これはきっとあの子が、身元預かり先の、唯一御存命だと話してくれた先生のお祖母様と一緒に作ったんだろう。
ジャムは煮詰める必要があるから、これだけの量を作るとなると、相当苦労した筈だ。せっせと蛇苺を摘んで、お祖母様と一緒になって小さな椅子に立ってキッチンに並んで、くつくつとジャムになるまで煮詰めていったあの子の姿を思うだけで、涙が溢れた。
「……僕は、あの子の人生を、無茶苦茶にしてしまった。だから、こんな僕に、幸せになる資格なんてない。いつも誰かを傷付けて、周りにいる人間を不幸にしてばかりで」
「……だから、自分を殺して欲しいだなんて、あの時俺に向かって、口にしたんだね」
ジャムの小瓶を両手でギュッと握り締め、返事のつもりで頷くと、克樹は、僕の背中の傷に触らない様に気遣いながら、そっと僕を腕の中に包み込んだ。そして、そのまま暫く、僕は、克樹の腕の中で泣き続けた。子供の様に全身から熱を放出しているから、絶対に暑い筈なのに、克樹は、文句も何も言わずに、僕の頭を撫でて、言葉にならない『好きなだけ泣いていいんだよ』を僕にそっと送り届けてくれた。
「……高校の頃に虐めにあった女子生徒は、もともと、俺に対して強い執着がある人だった。貴方に近づき、ありもしない俺との捏造の噂を流したり、虚言癖が酷くて……彼女は、貴方ではなく、それがきっかけになって、虐めを受ける様になったんだ」
克樹は、僕が過去に傷付けてしまったと思い込んでいた女子生徒の話をし始めた。きっと、僕にこの話をするタイミングは、今しかないと分かって、この話をするつもりになってくれたんだろう。克樹にとっても、恐らく苦い経験だった筈だ。だから、自分自身の身勝手な理由から、彼女を巻き込んでしまったと思っていた僕も、気持ちを切り替えて、克樹の話す彼女の話に、耳を傾けていった。
「それでも、彼女には、虐めに屈する様な気の弱さなんて、まるで無かった。寧ろ、俺との間を嫉妬する女達の目が気持ちいいと、笑いながら俺に告げてくるくらいには。俺は、瑠衣君が好きだった人でもあるから、それまでは我慢して接していたんだけど。俺が、瑠衣君の事をどう思うか、痺れを切らして尋ねたら、彼女は平然と、そんな奴、俺に近づく為の布石でしかないと言い切ったんだ。流石にカチンと来たから、俺は、君には何の興味もない。俺はゲイなんだ、と告げてしまって。そうしたら彼女は、次の週にはあっさりと、学校に退学届を提出してしまったんだ。初めて自分のセクシュアリティを告白したのが彼女だっていうのはと苦い思い出だけど……だから、瑠衣君が、彼女の事で思い悩んだり、自分自身が幸せになる資格なんてないと考えたりする必要はないんだよ」
初めて明かされる、彼女の、事件全体の全様に衝撃を受けて、僕の涙はすっかりと止まってしまった。つまり、僕は、彼女に好感を抱く様に意識的にアプローチを受け、克樹を誘き寄せる餌として、まんまと彼女に利用されていたという事なのか。
その話が本当だとしたら、僕は、これまでずっと、何を自分の楔にして、自分が幸せになるのを躊躇したり、克樹への恋心が育たないように、自らを律し続けてきたんだろう。
でも、この話を何でもっと早くしてくれなかったのか、と問い詰める真似は出来なかった。何故なら、彼女が引き下がった理由は、克樹のセクシュアリティの告白にこそあったからだ。その肝を話さずに、この話に真実味を持たせるのは難しい。だから、こうして話が事実だと納得できる今だからこそ、克樹は、僕にこの顛末を話せたんだ。
僕を納得させるのと同時に、この僕にもカミングアウトを果たすというのは、まだお互いに気持ちが一方通行だった克樹には、酷な話だろう。だから、黙って克樹の話を聞きながらも、『話してくれて、ありがとう』という気持ちを胸に、続きを促した。
「今回の加害者の先生も、本気で貴方を殺すつもりでは刺していなかった。医師の経験から、主要な臓器が全くない、命には何の支障もない脇腹を、最初から狙っていたんだ。何故そんな真似をしたのか、それは、俺には分からないけれど……どれだけ憎しみを抱いていても、それ以上に彼は、貴方を愛していた、という事何じゃないかなって、俺は思う」
慰めではない、気遣いでもない、事実を事実として口にしてくれているのは、僕にも分かる。だから、その言葉の一つ一つは、僕のカサカサに乾涸びてしまった心に、スッと馴染んだ。だけど。
「あの人を不幸にしたのは、変わらないよ」
「瑠衣君は、何もしてないよ」
「でも、僕は……あの人を、独りぼっちにさせてしまった。もっと、他に気遣いや注意を払っていたら、あんな事にはならなかった。僕は、だからやっぱり、幸せになったら、いけない人間なんだよ」
「……お願いだから、これ以上、俺の腕の中で、貴方を傷付けた男の話を、しないで」
ハッと、その言葉の意味に気が付いた僕は、思わず、至近距離にある克樹の顔を、そこにくっきりと縁取られた深い悲しみを、覗き込んだ。ずきり、と胸が、本当のナイフで劈かれた時以上の痛みを発する。
僕は、後から後から克樹の頬を流れ落ちる、この世のどんな水よりも清涼で、純粋なまでの想いが込められた涙を、止めるのも、泣き止ませるのも、どうしてやる事も出来ずに。ただ、唇を噛み締めた。
「貴方の、恋人だった人を、庇いたくなんてない。本当は、今だって直ぐにそいつの所に行って、殴り飛ばしてやりたいんだ。でも、貴方が、その人に対する気持ちを乗り越えないと、きちんと自分の幸せを、願えないから。だから……」
「克樹、ごめんね。本当に……ごめんね」
「謝らなくて、良い。でも、もしも俺に対して申し訳ないと思うなら。これだけは教えて」
克樹が聞きたいなら、僕はなんでも答える。克樹が、その答えに納得するまで、何度だって。だから、真剣な眼差しを意識して向けてから、何が聞きたいの、と尋ねた。
「俺と、その人の、どっちの方が、好きだった?」
その質問を向けられた時、僕は、まざまざと、もう一度、思い知ったんだ。この世に、神様なんていないんだって。
だから、こんな純粋で、優しくて、ただただ、綺麗な子が、いつも一番、傷付いたりするんだ。
「何度目にしたSEXで、俺を忘れられたの」
もういい、いいんだよ、克樹。言って良いんだ。お前は、その言葉を、僕に言っていい。君には、それを言う資格と権利があって、僕は、その言葉をこの身に受けなければならない、義務がある。だから、遠慮なく、罵ってくれて良いんだ。
「俺と、あんなにした、のに。あれだけ、愛してたのに。貴方も、愛してるって、言った癖に。どうして……他の人を愛せたの」
全部、吐き出して。自分の中にある、ドロドロと澱んだ感情を。僕は、それを全部飲み干して、お前に、伝えるから。どんなに最初は信じて貰えなくても、伝わるまで、繰り返すから。
「なんで、他の人に触らせたの。どうしてそんな酷いことが出来るの。俺がいるのに、どうして、他のひとを愛せたの。殺したかった、貴方を殺して、俺も一緒に、死にたかった。だから、だから、俺は、あの日貴方に、本当は、その人の家で、貴方を殺すつもりで会いに行ったんだ。なのに、貴方が子供と幸せそうにしている笑顔を見たら、俺は……貴方との小さな頃の記憶が、蘇って」
心の底に澱んでいた感情を、全部、僕に曝け出して。その先にある、本当に言いたかった本心を、僕に。
「幼稚園の帰り道にある野原で、俺、可愛らしい苺を摘んで、それが、とても美味しそうだったから、それを摘んで食べようとした時に。ねぇ、って後ろから声がして」
大切にとって置いた、僕との間にあった、古い古いその記憶を、僕に。
「その声に振り向いた俺は、そこから身動きがとれなくなった。あんまりにも、その子が可愛いかったから。だけど、その子が俺に向けて、申し訳なさそうに、すまなそうに、『可哀想だから、食べてもがっかりしないでね』って、優しく教えてくれて。可愛いだけじゃなく、なんて、優しい気遣いが出来るんだろうって、感動して。それから、すぐに俺は、その子の事を大好きになって。毎日毎日、一緒に過ごして」
覚えてるよ、全部。僕だって、そうだったから。
「……いつの間にか、気が付いた時には、俺は、貴方しか目に入らない人間になっていた。それを思い出して、俺は犯行を断念したんだ。俺には、絶対に、貴方を傷付けたりなんて出来ないって」
だって僕も、君をその時、好きになってしまったから。
いつも、一緒にいると胸がドキドキして。大人になっても、ずっとそうで。今思えば、それが本当の初恋で。本当に初めて、好きになった人で。だけど君の周りには、いつだって人がいたから。僕は、君になんて全然釣り合わないなって、君にどれだけ慕われいても、自分に自信が持てなかった。
君と向き合う事から、逃げ続けてきた。心がときめかない様に、君が成長する瞬間を、出来るだけ見逃したかった。だけど、本当は、いつだって、君の一番側にいたかったんだ。
「克樹、僕ね、信じて貰えないのを承知で言うんだけど……僕、その、……先生と、そういう事は、した事ないんだ」
「……え?」
嗚呼、怪訝そうというか、何言ってるの?というか、本当に、何を言われたのか、分かっていない人間の顔をしている。だけど、めげずに、話を続けなくちゃ。この子の誤解を解いて、少しでもこの子の心が軽くなるなら、僕は、正直に、赤裸々に、僕の事情を話してみせる。
「僕、先生に、ずっとそれだけは、まだ待っていて欲しいって言ってきて。本当の意味でお前を忘れられずに他の人に触れるなんて、お前との思い出や想いを裏切るだけじゃなく、相手にも失礼だからって、思ったから。だから、付き合っている間も、その前も、僕は、先生に、指一本触れて貰ったりしなかったんだ」
ぽかん、と口を開き、でも、目だけはしっかりと僕の顔を凝視して。僕の話の一語一句聞き漏らしはしない、という顔をしている克樹に。だからこそ、話がし辛い、言い難い話もする事にした。
「でも、僕は、先生を愛していたし、先生も、僕を誰よりも大切にして、僕の心の整理が付くまではって、ずっと待っていてくれた。だから、お互いを信頼し合う、強い絆は、確かにあって。だから、早くに家族みたいな関係性を築いていけたのは、そんな関係性にあったから、というか、性愛の匂いのする行為からは、遠ざかった生活をしていたからっていうのもあったんだ。でも、全くのゼロじゃ、なくて……僕が、先生に触れて、身体の熱を労ったりするのは、してきた」
ギュッと、克樹の眉間に皺が寄る。聞きたくない話を聞いてしまったからだとは、分かるけれど、そこは、総合的に判断して、文句は言わずに堪えた様だ。僕は、先生と僕との関係性を赤裸々に話し終えると、体力をどっと消耗して、は、と溜息にならない様に気を付けて息を吐いた。
「……瑠衣君は、その人に触れたんだ。俺には、一度だってそんな事してくれなかったのに」
痛いところを刺されてしまい、思わず、う、と唸ってしまう。抱かれた事があるとか無いとか、きっとこの子の本当に取り出したい論点は、そこにもあるけど、そこじゃないんだ。最初に切り出した質問にこそ、この子が僕に問い詰めたかった本心が秘められている。だから、僕は、改めてその最初の質問に答える態勢を整えていった。
「僕は、克樹の事が、いまでも一番に、す、好き。あんな風に別れを切り出したのは、僕だったのに、本当に勝手で、ごめんなさい。だけど、本当なんだ。だから、本当に触れたい相手は、触れて欲しい人は……ずっとお前だけだった」
至近距離にある、不正を許さない眼差しが、真っ直ぐに、僕の双眸を捉えて離さない。じっと、お互いに見つめ合う時間だけが、ゆっくりと流れていく。
「それなのに、どうしてその人と付き合う事になっ……はぁ、その流れはさっき話して貰ったから、もう話さなくていいよ。だけど、なら、もっと早く踏ん切りをつけて、俺の所に帰って来てくれたら良かったのに」
「お前と、付き合うつもりは、無かったから」
「……そ、ッ……ねぇ、まさか、今でも、そう思ってる?」
「お前は、こんなぼろぼろの僕を見ても、まだそんな事が言えるの?」
僕は、自分自身を小馬鹿にする様にして、口元だけで笑い、克樹に、今の惨めな姿を確認出来る様に、セパレートタイプの病院服の上だけを脱いで、上半身裸になり、ゆっくりと身体を捻って、鈍い痛みを訴える、刺されてしまった幹部を、ガーゼ越しに見せ付けた。
「こんな、別れ話一つ碌に出来ない、甲斐性無し、誰が魅力を感じるんだよ。そんな物好きな人間、居るわけないだろ」
「ここに、いるよ」
右手に、そっと触れて、まるで、安心させる様な声色で、胸がどきり、とする様な台詞を吐く克樹に、思わず顔だけで振り返ると、そこには、嘘や冗談で、こんな話は絶対にしない、と顔に書いてある克樹の顔があって。思わず身を引こうとした瞬間に、顎を引かれ、無理矢理顔を固定されて、至近距離から、囁かれた。
「貴方しか愛せない人間が、ここにいる」
声のトーンも、表情も、シュチェーションも、どれもこれもがタイミング良く合わさり、僕の逃げ道を塞ぐ。このままだと、僕は、この子に。そう考えるだけで、全身が燃える様に熱くなった。やめて、もしいま、アレなんてされてしまったら、僕、胸が破裂して、そのまま……なんて可能性だって考えてしまうのに。だから、いまは、まだ待って。
「か、克樹、僕、ほ、ほんとうに、こういうの、慣れてなくて。だから、いまは、まだ待って」
「じゃあ、俺を触って。貴方は他の男に触れたのに、俺には触ってくれないの?」
逆に、ハードルが上がっていませんかね、それは。僕から、克樹にだなんて。ていうか、今ここで?個室とは言え、病室なんですが。そんな場所で、臆面もなく、触ってなんて。ちょっと破廉恥ですよ、君。
「ここ、じゃ、駄目。病院、だから」
「なら、どこでなら触ってくれる?」
「た、退院するまでは、待って」
「じゃあ、退院したら、直ぐに、俺と一緒に住もう。そこでなら、何にも気にせず触れ合えるから」
「そんな、か、勝手な……」
「瑠衣君のお母さんとは、もうその方向で話が付いてるよ。その方が安心だからって、瑠衣君の身の回りのサポートを頼まれたんだ。周りの事は心配しないで。だから、後は瑠衣君の気持ち一つだよ。直ぐに返事を貰おうとは思わないから、退院するまでの間に考えておいて」
退院までって、来週じゃない。考える余裕なんて、ある訳ないし。ていうか、この流れ、自然と付き合ってる感じになってるよね。勘違い、とかじゃないよね。だって、さっき迄は、克樹を宥めたり、誤解を解くのに必死で、自分が何を口走ったか、分かっている様な、いないような。本当、どうして同居したり、まるでこれから親公認のお付き合い始めますみたいな話になってるの?まるで、狐にでも摘まれたみたいな気分だ。
まさか、これを予め予見して、この話に自然に持っていったとか?……いやいや、それはなんでも、流石にねぇ。考え過ぎだよ……ね?克樹君。
「先に物件の話をするとね、俺が経営の補助と相談役をしてるカフェがあるんだけど、そこのビルの最上階が丁度良く空いていてさ、しかもそこのビルのオーナーが、お世話になってる店のオーナーの真宮寺さんなんだ。だから、敷金はだいぶ抑えられるし、折角だから、浮いた資金で旅行したりしようよ。あと、その二階に、俺もお世話になっていた心療内科があるから、もし仕事場で噂になっていて環境を変えたいなら、当面はそこで働くと良いかも。そこも俺と真宮寺さんの紹介でいけると思うから、心配しなくても大丈夫だよ」
……何から何まで、どうも。まだ、一緒に住むとは決めていませんが。というか、本当に、凄いな、この子。暫く見ていないうちに、夏の筍の様に成長している。それで雲海を突き抜けて、雲上人の仲間入りに近いというか、それそのものになっている気が。
巷で話題沸騰中の、珈琲王子とか呼ばれてる現役大学生バリスタで、超有名なインフルエンサーで、しかも、イベントの企画やら店の運営出店に関わったり。人脈作りが得意なのは知っていたけれど、水を得た魚の様に生き生きとしている。
きっと、素敵な人達に、囲まれてきたんだな。そして、そんな人達に、この子もきっと癒されて、支えられてきたんだ。いつか、直接話に行って、きちんと頭を下げて、そして、本当にありがとうございましたって、感謝しに行かないと、僕は、きっと今以上のバチが当たる。
「旅行はさ、仕事でもずっとお世話になってる藤崎さんが別荘を持ってるんだけど、掃除すればタダで貸してくれるって言うから、休職中はそこでゆっくりしながら、離れていた間の時間を取り戻せたらいいなって思うんだ。俺もその間は、仕事をきっちりセーブして、瑠衣君と過ごす時間をたっぷり用意するから。その別荘の近くに、さっき話した焙煎士の刈谷さんが住んでいるんだ。車出して地元を案内してくれるって言ってくれたから、観光もきっと楽しめるよ。空気が綺麗な場所だから、瑠衣君も気に入ってくれたら嬉しいんだけど……でも、まずは、身体をゆっくり休めて欲しいんだ。それには、その場所は凄くいい所だと思うから」
きっと、僕が退院してからの生活をこれからどうしていけばいいか、どうしたら僕にとって一番良い環境を整えられるのか、周りの人達に、ずっと相談してきたんだろう。それに、この子一人で頼み込んで、この状況を用意してきたというよりは、何処となく、周りがそっと、この子に手を差し出してくれた様な、そんな想像が頭を過った。
これだけ、退院してからの生活のルートがしっかりと用意されているのに、中学生の頃からあった閉塞的な雰囲気や、押し付けがましさを全く感じない。自分自身のコミュニティに僕を取り込んで、監視や束縛をしてきた、あの頃の暗い面影は、いまはもう、すっかりと無くなっていた。
「……分かったよ、克樹。心配してくれて、ありがとう。退院した後の僕が困らない様に、そこまでしていてくれたんだね。僕は、お前をずっと裏切ってきたのに、いまだって、またお前を遠去けようとしていたのに、こんなにも気遣ってくれて、本当に、申し訳ないよ……だけど、やっぱりまだ、考えさせて。僕が、自分の幸せを求められる様になるには、時間が必要なんだ」
誰かに支えられる、というのは、何も、恥ずかしい事じゃない。みんながみんな、支え合いながら、生きているのだから。だけど、そんな優しさや純粋な気遣いで向けられた手を、僕は再び振り払ってしまった。それは、まだきっと、僕の心に、大切にしてきた人を傷付け、子供から親を奪ってしまったという後悔が付き纏っているからだ。
僕が、自分の幸せを求められる人間になれるかは、まだ分からないし、その可能性を考える事すら、烏滸がましいと感じてしまう。だから、直ぐに、克樹が僕に伸ばした気遣いの手を取る気にはなれなかった。
「貴方は、何か勘違いしてる。俺は別に優しい奴でも、気遣いでこんな事をしている訳でもない。この退院後の計画も、これまでずっと貴方の交友関係を縛り続けてきたのも、全て、俺の打算なんだから」
え、と思う間に、また再び、僕の身体は克樹の腕の中にすっぽりと包み込まれ。そして、再び顎を上に強引で性急な手付きで上げられて、今度は何の抵抗も許されずに、窺いの一つとして取らず、克樹は、上から覆い被さる様にして、僕の唇に噛み付く様なキスをした。突然の出来事に、驚きで目が白黒してしまって。慌てて、克樹の服の裾をギュッと握り締めて、身体を引き離そうとしたけれど。克樹の厚い身体を前にして、僕の抵抗は全くの無抵抗に等しかった。
「……っん゛、………っぅ、ふ、ぁ」
ぐちゅぐちゅ、と卑猥な水音を立てて、自分の舌が舌裏から側面まで舐め上げられ、歯列に這わした舌先で、粘膜の薄い敏感な部分を集中的に責め上げられる。頭は腰に腕を回され、反対の手で顎をがっちりと押さえ付けられていたから、初めて意識のあるうちに経験する大人のキスに、ただただ翻弄されるしかなかった。
「ん、ッ、はぁ、……んく、……っむ」
気持ちいい。キスって、こんなに、気持ちいいの。頭がボーってして、口の中が、全部、隅々までこの子に犯されてる。駄目なのに、こんな場所で、こんな事しちゃ。それに、僕は、この子を受け入れる気持ちなんて、まだ全然。なのに、どうしてこんなに、胸が、破裂しそうなくらいに、苦しいの。好きだって、嬉しいって、思っちゃうの。恥ずかしいのに、息も出来ないくらいに。でも、やだ。だめ、やめて。もう、僕を。
僕を、解放して。
「自分がどれだけ俺に愛されてるか、まだ分からないの。貴方の全てが欲しかった。貴方の関心が、ずっと自分にだけ向けばいいと本気で思っていた。その為なら、俺は何だってする。人殺しだって、躊躇なく。貴方に向けられる感情なら、憎しみすら、喜びだから」
思う様、僕の口の中を荒らし回り、蹂躙しつくしてから、克樹は、ずるん、と長く挿入していた自分の舌を抜き出した。そして、僕の剥き出しの上半身に掌を滑らせると、今度は僕の下半身や股間部を中心に、病院服の上から、ぞろぞろと、まさぐって。この子の興奮が伝わってくるその熱い吐息と、掌に、恐怖と無理矢理引き摺り出された興奮とで、背中がゾクゾクするのを止められなかった。
「貴方の頭の中を、俺だけの事で、いっぱいにしたい。それだけの理由で、俺はこうしてずっと、貴方の側にいるんだよ」
股間部をじっくりとまさぐっていた克樹の手が、その言葉をきっかけにして、病院服のズボンの中に、ぬっと入り込んだ。だめ、いや、と頭を振って反抗したけれど、克樹は、にっこりと深い笑みを浮かべるだけで、僕の意に沿う様な行動をしてくれなかった。
「可愛い。キスだけで、こんなに興奮したんだ。素直な身体……だって、俺のこと、大好きだもんね。だから、こんな風におちんちん勃っちゃっても、仕方ないよね」
股間部を直接まさぐり、亀頭に滴っていたカウパー液を指先で拭うと、克樹はその手を取り出し、僕の目の前で、てらてらと光る指先を見せびらかした。
かぁ、と顔に熱が一気に篭って、ズボンや克樹の身体を辛うじて抑えていた手が、強過ぎる羞恥と興奮で、かたかたと震え出す。言わないで、これ以上、触らないで……僕の身体を、頭を、おかしく、しないで。
「俺の所為で苦しませてしまったのは、凄く申し訳なかったけど、本心では、あんな病気、治す必要なんて無いのに、って思っていた。だけど、あの時はまだ、俺も幼くて、罪悪感もあったから、貴方をみすみす手放すしかなかった。でも、こうしていると実感する。やっぱり、俺達は、愛し合う為に生まれてきた、運命の相手なんだって」
克樹は、深い深い笑みを浮かべてから、僕の性器の先端から滴り落ちていたカウパー液を拭った指を、僕の顔の前で一本一本、ねっとりとした舌使いでしゃぶっていった。それを、信じられない気持ちで唖然と眺めていると、その隙を見計らって、克樹は僕の病院着のズボンの前を完全に寛げて、僕の恥部を露わにしてしまった。
「あ、っ、いや、……ッ、やめて、見ないでっ」
くつくつと愉しそうに笑ってから、克樹は、僕の上半身を至って優しい手付きでベッドに横たわらせると、ベッドの上に完全に乗り上げて僕の身体に跨り、完全にマウントの体勢を取った。そして、病院着の股間部を隠しながら身を捩り震える僕の全身をうっとりとした目付きで眺めると、上体を屈めて、僕の唇にちゅ、と唇を落とし、首筋や上半身にも、満遍なく唇を落としていった。暫くしてその唇の行き先が下腹部に差し掛かった所で、はぁ、と熱い溜息を吐いて、上目遣いで僕の顔を下から覗いた。
「俺、中学の時に、貴方が背伸びして買ったボクサーパンツを見て、衝動的にそれを盗んでしまった時があったんだ。周りの異性の目や、早く大人になりたい気持ちを意識してる貴方を知った瞬間に、堪らなくなって。気がついたら、洗濯物の籠の中から……その日は体育の授業があったから、脱ぎたてのそれには、貴方の汗の匂いが染み付いていて、どうしようもないくらい興奮して。精通して初めてしたオナニーが、それを使ったやつだったから、頭が真っ白になるくらい、気持ち良かった。毎晩取り憑かれた様にオナニーしまくって、そのパンツの布が擦り切れるまで、貴方を犯す妄想で抜きまくって……ふふ、実は、まだそれ、俺の部屋に大切に取ってあるんだよ。ねぇ、俺って、本当に一途だと思わない?」
顔に篭っていた熱が、その話を聞いた瞬間、さぁ、と引いて。明らかに、興奮や羞恥からではない震えが、全身に広がっていった。片想いしていた当時のエピソードとして語られたそれには、僕にも覚えがある。だから、僕は、その当時の一心不乱に僕のパンツを使って自慰をしている克樹の後ろ姿の記憶や、その後に起こった、意識の無い僕の身体を蹂躙し続ける克樹の姿を芋づる式に思い出してしまった。
それと同時に、目の前にいる男が、どれだけの深い執着心と独占欲、そして支配欲求を、僕の身体に毎夜毎晩叩きつけていたかを思い起こして。
この子は、単なる野原の雑草でしかない蛇苺を、摘んで、摘んで、摘み続け。自分の愛情という名前のシロップを沢山沢山掛けて煮詰めて、ジャムにして。これ以上に美味しい物などない、これ以外自分には必要無いと言ってのける『中毒者(junkie)』なんだと、改めて理解した。
「下脱がすから、お尻少しだけ上げて」
頭の中は、真っ白で。自分でも、どうしてか分からないけれど、克樹に言われた通りに、身体が勝手に動いていた。克樹は、『痛くない?ゆっくりでいいからね』と身体の動きや体勢が傷に障らないかどうか気遣う素振りは見せたけれど、もし本当に嫌なら止めようか、と促したりは決してしてこなかった。
そして、僕を完全に真裸の状態にすると、俺の脚を掴んで股をぱっくりと割り、僕の恥部を医師が患部を観察する様な目付きで観察し始めた。
「本当に、俺以外に触られてないの」
質問に答える様に、僕は、無意識の内に、こくん、と頷いていた。自分の身体が、自分の物では無い様な、不思議な感覚だった。すると克樹は、僕のその様子を見て、何の脈絡も、前兆すらなく、静かに、幾筋もの涙を流した。その、痛烈に此方の心の柔らかい部分に突き刺さる無音の号泣に、ずきり、と再び胸と胃に痛みが走って。もう絶対に、この子をこんな風に泣かせたり、辛い目に遭わせはしないと、心の底から誓った。
静かに涙を流したまま、克樹は、僕の下生えや、睾丸と肛門の間の蒸れやすい部分に集中的に自分の鼻頭を押し付けて、ゆっくりと深い深呼吸を繰り返していった。克樹の一挙一動に振り回されて、赤くなったり、青くなったり、また再び赤くなったりと、僕は本当に忙しい奴だ。昨日、僕はお風呂に入っていない。午前中にはリハビリで運動もしたから、下生えも汗でしっとりと草臥れているし、股間部全体が、汗や皮脂で蒸れた匂いを放っているはずだ。そんな清潔な状態とは程遠い場所に、絶世の美貌を持つ青年が顔を埋め、恍惚とした表情を浮かべながら涙を流し、匂いを嗅ぎ回っているだなんて。世の中、なんだか、これでいいのか、という複雑な気持ちと、後から後からやってくる身悶える様な羞恥心で、頭も身体も、どうにかなってしまいそうだった。
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そこで喋らないでよ。良かったね、とも言えないし。この調子だと何をされるか分かったものじゃないから、なら好きにして、とも言えないし。だから、僕はきゅ、と唇を噛み締めて、目を瞑って、早くこの恥ずかしくて堪らない時間が早く終わりますように、と必死になって祈り続けた。
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「あ、……っ、や、そんな……だめ、きたな、いから、ぁ、……っ」
まさかそんな所を舐められるなんて、と予想外の事態に激しく動揺して。初めて人から与えられる快感にも、身体が吃驚して。自分の身体は、まだ自分物じゃないみたいに意識と齟齬を起こしてごわついているけれど、そんな事気にしている場合じゃないと、慌てて、克樹の頭を引き剥がそうとした。
だけど、ここ最近の入院生活の影響で身体の筋肉が落ちたのと、僕の拒絶反応を見てもまるで意に介さず性器に刺激を加えてくる克樹の、此方の顔を真っ直ぐに見つめるぎらぎらと欲情に濡れた眼差しに射抜かれて、身体が萎縮してしまって。そして、それ以上に、性器に与えられる未知の刺激と快楽に意識が捉われて。頭を引き剥がそうとする手に、まるで力が入らなかった。
性器の先端部をぴちゃぴちゃと音を立てて舐められ、ふくふくと膨らんでいく濃いピンク色をした亀頭。それが、包皮から完全に隆起すると、克樹は、薄らと段になっている雁首に、ぐるうり、と舌を這わせていった。最後の洗浄から一日半経過したそこには、白い恥垢が微かにこびり付いていて。なんと、信じられない事に、克樹は、それを舌先で綺麗に舐め取ってしまった。
幼馴染とは言え、絶世の美貌を有した青年が……というか、他の誰であってもそうだけど、そんな汚い物を口にするなんて考えられない。休む事なく与えられる快感と羞恥心が胸の中をぎゅうぎゅうにしてしまって、僕は、ぐすぐすと子供の様に泣きべそを掻いてしまった。
「……ッぅ、や、らぁ……、ぺっ、てして、口から、だしてぇ……やだ、もう、そんな恥ずかしい、こと……やめて、おねがい」
克樹は、僕がしゃくり上げながら泣き噦る様子をまじまじと見て、ぶる、と水浴びをした直後の大型犬の様に全身を震わせると。明らかに興奮を極めた様な熱い息を、はぁ、と漏らしてから、半狂乱状態に近い僕に向けて、まるで天使の様に穏やかで安らかな笑顔をにっこりと浮かべた。
「ご馳走様。本当は、このまま最後まで可愛がってあげたいんだけど、俺も、もう限界だから……ごめんね、瑠衣」
克樹は、僕の性器に向けていた執着心を手離して、上体を起こすと、そのまま伸び上がって、僕の額に唇を落とした。そして、目尻から後頭部に掛けて伝う涙を指で拭い、それにも舌を伸ばした。
僕の身体から排泄される物なら、何でも口にしてしまうその子に、何度目か分からない衝撃と恐怖と微かな呆れを感じていると、その子は身体を起こして自分の高そうなベルトをかちゃかちゃと音を立てて外し、ジッパーを下げて、股間部がふっくらと盛り上がっているボクサーパンツのボタンを開けて、ずるん、と自分の怒張を取り出した。
「何にもしてないのに、こんな風になるの、貴方にだけだよ。見て、これなら、直ぐに入れられる……あぁ、でも今日は、そこまでしないから、安心して」
映像では見た事があるけれど、それと肉眼では、視覚に与えるインパクトが段違いだ。僕は、呼吸するのも忘れて暴力的な見た目に育った其れに見入っていたのだけど、『貴方にだけ』という部分に心が引っ掛かったり、『そこまでって何処まで?』という当然の疑問が生まれたりと、兎に角、不安や不満で胸がモヤモヤとして。克樹は、そんな僕の様子に直ぐに気が付いたのか、『どうしたの?もしかして、背中が痛い?』と不思議そうに、心配した表情を浮かべた。
何と答えればいいのか、全く分からなくて。この感情を、具現化して言葉にしてしまった所で、何というか、自分が凄く狭量な人間になってしまうだけなんじゃないか、とぐるぐると頭の中で考えたのだけど。
「……他の人と、比べないで」
気が付いた時には、もう、口から不満が漏れていて。
「それに、そこまでって、何処までを言ってるのか、分からないけど。僕には、お前が僕にすること、ぜんぶが、刺激が強いし。だから、あんまり、僕を置いてきぼりに、しないで」
それに釣られて、僕の不安は、余す所なく、克樹に向かってぶつけられていた。
「瑠衣君、ごめんなさい。そんなつもり無かったんだ。ただ、本当に、俺には貴方しかいないんだって、それだけで。だから、機嫌直して」
焦った口調で、僕の機嫌を取る克樹に、胸の中にあったモヤモヤが、次第に薄くなっていく。けれど、モヤモヤが晴れていき、それに微かな安堵を抱いたのと同時に、『いま、一体僕、何言った?』と頭の中が凍りついて。僕は、単なる道端の雑草なのに、幼馴染とはいえ雲上人になった人間の前で、自分の立場も弁えずに、こんな高飛車な発言をして。この子は、一体どんな反応をしているのかと、恐る恐る、克樹の顔を覗いたら。
そこには、この世界の幸せを、ギュッと封じ込めた様な、本当に満たされた人間の、笑顔があった。
僕は、この笑顔を、見た事がある。幼稚園で虐められたこの子に、『僕がずっと一緒にいるからね』と、小指と小指を繋いで、約束した、夏の初めの日。この子は、これと全く同じ笑顔を見せてくれた。
高い小鼻には、横断する形で僕の貼った絆創膏があって。そして、その幼稚園の中にある小さな雑木林で、一緒にナワシロイチゴを摘んで食べたんだ。だけど、酸っぱい苺に当たったのか、克樹は『あんまり好きじゃ無い』と苺に向かって文句を言った。だから、僕は、『また、そんな事言って、ダメだよ』と注意して。そしたら、その帰り道に、克樹と初めて出会った野原の中にある蛇苺に、克樹は反応した。
『瑠衣君、あれは、本当に食べられないの?』
『食べられなくはないけれど……味が殆どないから、ジャムにしたりしないと、食べられないんだ』
『でも、俺、あれが食べたい』
『大変だよ?沢山取らないといけないし、お砂糖も沢山入れないと』
『うん、でも、あれがいい』
『どうして?ちゃんとした苺とか、ブルーベリーとか……他にも美味しい物は、沢山あるのに』
『知ってる。だけど』
瑠衣君との思い出があるから、それと一緒に食べたいんだ。きっと、どんな物よりも、俺には美味しく感じるだろうから。
「嫉妬してくれたの?……嬉しい。凄く、凄く嬉しい。泣きたいくらい……ないちゃう、くらい、嬉しい」
その野原で、幼稚園バックに入ったお弁当袋にそれを沢山摘んで入れて、僕の家で、お母さんに手伝って貰いながら、刻みレモンと一緒に煮て、二人で交互にコンロの前に立ち、せっせとジャムにして。ホットプレートで焼いたパンケーキに塗って。殆ど砂糖と刻みレモンの味しかしないそれを、お前は、とてもとても美味しそうに食べて。
『俺、世界で一番、これが好き』
「ねぇ、どうしたら、俺には貴方しか好きになれないんだって、信じてくれる?……どうしたら、貴方は、俺だけに夢中になってくれる?……分からないんだ。だって、本当に、俺には貴方しかいなかったから」
圧倒的な罪悪感と幸福感。深い深い後悔と、自分への失望。下らない自分自身の拘り。そして、胸の中にあった蝋燭に、暖かな火が灯る様にして生まれた、なけなしの勇気が。
「抱いて」
僕の心の中に聳え立つ脆弱な壁を、打ち砕いた。
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天利は時折アピールする水華に対して好きすぎて理性の糸が切れそうになるが、なんとか保ち普段から好きすぎで悶え苦しんでいる。
水華はアピールしてるつもりでも普段の天然の部分でそれ以上のことをしているので何しても天然故の行動だと思われてる。
イケメンで物凄くモテるが水華に初めては全て捧げると内心勝手に誓っているが水華としかやりたいと思わないので、どんなに迫られようと見向きもしない、少し女嫌いで女子や興味、どうでもいい人物に対してはすごく冷たい、水華命の水華LOVEで水華のお願いなら何でも叶えようとする
好きになって貰えるよう努力すると同時に好き好きアピールしているが気づかれず何年も続けている内に気づくとヤンデレとかしていた
自分でもヤンデレだと気づいているが治すつもりは微塵も無い
そんな2人の両片思い、もう付き合ってんじゃないのと思うような、じれ焦れイチャラブな恋物語
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閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
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