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38 一年
しおりを挟むそう。驚くかもしれないけど一年が経った。あれから明日でぴったり一年。
あとほんの一日と少しが経てば"一年以上"と言うのが正しくなる。
約束の日の前日の夜。その日も俺は、押入れの扉を開けていた。
「……やっぱりダメか」
一人呟く。そんな時だ。スマホが小さく震えた。
視線を落としてみると、通知のタブが同僚のメッセージを表示している。
飲みの誘いだった。タイミングがいい。
『一年後、また会いにいく』
そんな約束を明日には破ってしまうんだろうこんな時に家に一人でいたのでは、一日中ここでジッと扉を睨みかねない。
俺は深いため息をつき、最後にもう一度だけ何の変哲もない押し入れの中を見回して、ガチャと扉を閉めた。
「やっぱお前さ、失恋したんだろ」
「ん?」
同僚の突然の言葉に、俺は顔を上げた。
同僚のお気に入りらしい居酒屋の店内は、平日の夜でもガヤガヤと賑わっていて騒がしい。
「お待たせー」なんて言いながら席についた俺を、この一年でこれまた随分と慣れ親しんだ視線……観察するような窺うような視線で見回した同僚は「おー、まあ飲め飲め」と大袈裟に腕を広げて、出迎えてみせた。
頼んでもいないジョッキがドンと目の前に置かれて、ビールがこぼれる。
なんだか既視感のある光景を振り払うように、俺はビールに口をつけた。電車の暖房が随分と効きすぎていたせいか、ここに来るまでポカポカと熱った体にひんやりと冷たいビールが気持ち良い。これもまた覚えのある感覚だ。
……自分の頭の隅っこが考え始めたことに気がついて、俺はジョッキを置き「あー……」なんて声を出しながら机に突っ伏した。
ここのところ、というかこの一年、俺はずっとこんな感じなのだ。
どれだけ平静を取り繕っていつも通りの生活を送っていても、何かするたびにシドのことや、それに関することが頭をよぎる。
おかげで何も手に付かない。
美味しいものを食べていれば、シドもこれ好きそうだななんて考えるし。
最近暖かくなり始めた気候について考えれば、王都はどうかななんてことを考える。
趣味のゲームだってできたものじゃない。特にRPG。それからトランプゲーム。
要するに、ずっと夢うつつなままなのだ。気持ちがぼんやり宙に浮いている。心の半分がまだウィンターグレーにあるみたいに。
そんな俺と数分のくだらない雑談を交わしたのち、おもむろに同僚が発した言葉が、上記のそれだった。
「やっぱお前さ、失恋したんだろ」
俺は突っ伏していた顔をあげ、「なんて?」と彼の言葉を聞き返した。
ぐったりとしたままの俺に、同僚がジョッキを置いて「その怪我の時だよ。今だから首突っ込むけどさ」と俺の左手を指差す。
俺はそんな彼の視線を目で追って、一年経ったにも関わらず相変わらずそこにある、大袈裟なみみず腫れを見つめた。
……「ケロイドになっているので手術をすることもできますよ」と最近お医者さんに勧められた見栄えの悪い傷だ。
もちろん俺は「大丈夫です」とすぐさまそれを断った。
これがなくなったら、一年も扉が繋がらない今、いよいよ自分の頭を信じられなくなってしまうような気がしたのである。
確かにこれはあの忌々しい監視役に負わされた傷ではあるけど、それと同時にウィンターグレーでの時間が実在したことを証明する傷でもあるのだ。
ジ……とおおよそ、人生のトラウマになってもおかしくないような事件の傷を見つめる目ではない視線を手の甲に向ける俺に「やっぱり……」と同僚が視線を落とす。……何がやっぱり?
「お前さては、その傷を負わせたメンヘラ彼女ちゃんのことまだ忘れられてないんだろ」
「……」
一年前。そういえば俺が病院で目を覚ました時も同じこと言ってたな、こいつ。
向かいの同僚の顔に視線をやりつつ、一度まばたきをした。
突然の手作り弁当、必死で自分の身を守っているように見える物騒な検索履歴、そして無断欠勤に謎の大怪我。
なるほど。確かに俺の言動を端から見ていると、そういう解釈になるのかもしれない。
「失恋引きずってるんだろ」
俺はそんな同僚の言葉を「しつれん……」と繰り返しながら、よろよろと身を起こした。
まあ、相手に自分がしてしまったことについて考えて落ち込みつづけている、というのは失恋に近いのかもしれない。
「近からずも遠からずなのかもしれない」
もう一度ビールを仰いで「すみません、おかわりください」と店員さんを呼び止めた俺が曖昧な相槌をうつと、「やっぱり……!」と今日何度目かになる言葉を発した同僚が身を乗り出した。
ようやく自白し始めた犯人を見るような顔をやめてほしい。
「じゃあ、お前やっぱりその怪我は彼女にやられたんだろ……!」
「……」
「彼女なら合鍵を持ってるからドアの鍵が閉まってたのも納得だし、何よりお前が庇うのもわかる。まだ彼女に未練があるから……!」
……どうやら同僚は、あの衝撃事件現場発見からずっと犯人について考えていたらしい。道理でこの一年、ジロジロと見られていたわけだ。
しかし残念ながら、テーブルの向かいで声を張っている名探偵の推理は何もかも外れていた。
だけどここで「違う」と否定をして、ならどうしてと掘り下げられても答えられないしな。
俺が視線を逸らしながら同僚の前にあった枝豆を勝手につまんでいると、「……なるほどね」とまた正面からそんな声が聞こえてきた。
なにやら訳知り顔をしている。
「なるほどなるほど、確かに記憶喪失を装っているお前の立場だと、それを声に出して認めるわけにはいかないか。認めると彼女に罪が行っちゃうしな」
……何やら勝手に納得してくれたみたいだ。
何も言ってないのに、人を騙している気分である。
「で、俺が思うにはさ」
「まだ続くんだ、この話……」
「ずばり、プレゼントのあの子だろ」
「"プレゼントのあの子"……?」
ズビシ。俺はこちらに向けられた人差し指をそっと逸らしながら同僚の言葉を繰り返した。
"プレゼントのあの子"。
……ああそういえば。シドにあげるプレゼントについて相談したことがあったな。
昔のことを懐かしく思い出し、つい小さく笑う。
「うん、まあそう。プレゼントのあの子」
そんな俺の顔を見た同僚がさらに身を乗り出して「やっぱり……!」と声をあげた。
「そうじゃないかと思ってたんだ……!」
……俺を襲ったスプラッタ事件の犯人が、猟奇殺人犯などではないことがわかって安心しているようだ。
同僚が目を丸め、控えめに声を張り上げる。
「いやさ、弁当のあたりから様子おかしいなと思ってたんだよ。お前、普段は全然惚れっぽいタイプじゃないけど。そういう奴に限って一回ハマるととことんハマるって言うじゃん」
「……そうなのかもしれない」
心当たりのありすぎる同僚の言葉に、つい深々と頷く。
同僚が鼻の穴を膨らませた。間抜けである。
「なんでそんな好きだった子と、あんな別れ方することになったんだよ」
「……ん、まあ、その。……実は相手が、外国人で」
右上のあたりを見ながら言葉を探す。
全くの嘘をつくのは気が引けて、嘘とも本当とも言えない曖昧な返事をすることになった。
同僚がハッとした顔をして口を覆う。
「全ての原因は遠距離恋愛か」
「……そう」
まあ、俺が落ち込んでる原因はそう。
俺は頷きながら、もう一つ枝豆を摘んだ。
「おま、ようやく好きな相手が国を隔ての遠恋って……」
「……」
……国どころか世界を隔ててます。
そんなこと言えるはずもなく、そっと視線を逸らす。
「何、もう吹っ切れたの?」
「うん」
嘘だ。
吹っ切れてない。
「……今嘘ついた?」
「……」
「お前、今日来たとき見るからに落ち込んでだろ。最近ちょっとずつマシになってきたかなって思ってたのに。あれだろ。あの事件からちょうど一年になるから落ち込んでるんだろ」
「……何、お前日付まで覚えてるの」
「お前は元同級生で現同僚が自宅で血まみれで気を失ってる現場を発見した人生でもトップスリーには入るだろう衝撃的な日付を忘れられるとでも?」
「……その節は大変ご迷惑をおかけしました」
それはそう。
俺は深々と頭を下げながら、取引先に言うように謝罪をした。
「ウム」なんて太々しい声が頭上から降ってきて顔を上げる。
「いや、しかしまさか、あの高梨にそんな相手が現れるとはなあ……」
偉そうに眉をあげた同僚がしみじみと呟きながらビールに口をつける。
「らしくなくプレゼントごときでウンウン頭抱えてたお前がその子のことめちゃくちゃ好きなのは察してたけど……」
「……」
「なんだね、高梨君。後に引くような恋愛は初めてかね」
「……初めてです」
「だろうな。俺お前がそんな落ち込んでるとこ初めて見るもん。珍しすぎて一年しみじみと観察しちゃったわ。……よし。ここは失恋マスターの俺が失恋ビギナーの高梨くんに一つアドバイスを授けてやろう」
あまりに不名誉な称号である。
しかし、どうしたって会えない相手について考え続けて、何かと情緒不安定な日々が続いているのは確かだ。
俺はなんだかんだ俺のことを心配してくれてるんだろう目の前の鬱陶しい失恋マスターに小さく笑いながら「ご教示願います」なんて頭を下げた。
「ウム」
キャバ嬢に入れ込んではその度捨てられている失恋マスターが重々しく頷き口を開いた。
子曰く。
――まあ、なんだ。過ぎた恋の思い出はさっさと片付けることだな。それが一番いい気持ちの切り替えになる。帰ったらすぐにしろよ。こういうのはもう勢いでやっちゃうのが良い。ちょうど一年。良い機会だろ。見るたび思い出すようなら全部捨てちまえ。てか、いっそのこと引っ越しちまえ。傷害事件現場に住み続けてるの普通に考えて心配だし。
「……」
俺は同僚の言葉にゆっくりと息をつき、「……なるほど」なんて力なく呟きながら、ビールジョッキに口をつけた。
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