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第二章
気持ちの変化と甘い夜(1)
しおりを挟むその日の夜は、先生が缶ビールを飲むと言って聞かなくて一缶だけあけた。
すぐに顔を真っ赤にしながらも潰れることもなく、楽しそうに笑っていた先生。
どうやら二缶飲むと記憶を無くしてしまうようで、残りのビールが先生の視界に入らないよう、隠すのに必死だった。
今日も一緒に寝ると私の身が持たないため、先生の頭が働いているうちに私は先に部屋に戻り、自分で布団を敷いて寝床についた。
先生は酔っていたからか、「みゃーこと一緒に寝たい」と頻りに言っていたものの。
シラフでも理性云々言ってたし、酔った先生と一緒に寝るなんて絶対危険だ。
今日はちゃんと一人でぐっすり眠れそうだ。
そう思っていたのに、実際に布団に潜っても中々睡魔は襲って来なくて。
あの甘い香りが恋しい、なんて。そんな考えは頭の隅に追いやる。
身体は疲れていたからか、ぎゅっと目を瞑っているうちに知らぬ間に眠りに落ちていた。
土曜日は先生に断りを入れて、一人で伯母さんや親戚の家に挨拶と謝罪に回った。
と言っても先生の言っていた通り皆怒ってなどいなくて。「今まで帰って来なかったこと、ちゃんと両親に謝っておくこと」と諭すように言われただけだ。
どちらかというと久しぶりに訪ねて来た私を歓迎してくれていたように思う。
確かに言われてみれば、私が帰ってこなかったことや両親に会いにお墓参りにも行かなかったことを一番怒っているのは両親だろう。
"どうして会いに来ないんだ"って。
「だから私たちが美也子ちゃんに怒ることはないわ。でもこれからは美也子ちゃんがいるから、二人ももう怒っていないはずよ。美也子ちゃんが二人を大切に思ってくれれば、二人は絶対に喜ぶから」
伯母さんは、そう言って私に満面の笑みを向けてくれた。晴美姉ちゃんにそっくりな笑い方で、こちらまで笑顔になってしまう。
伯母さんは、今までの法要の話や今後の話を私にもわかるように説明してくれて、今度からは私が責任を持って二人を弔うことを約束した。
伯母さんと話していると私が来ていると聞き付けた晴美姉ちゃんが来たりして、お母さんの話で盛り上がった。
午後は先生と合流して、実家暮らしで足りなくなりそうなものを買い出しして。
それも先生が払うと言うから、ならもう一緒に買い物には行けないと言えば素直に引き下がった。
今度からこの手を使おうと思う。
そしてこの日も私は夜、お風呂に入った後逃げるように部屋に向かう。
しかし、遮るように腕を取られてしまい、足を止めた。
「みゃーこ、もう寝るの?」
「う、うん。またソファで寝ちゃって先生に迷惑かけるわけにもいかないし。明日帰るから荷物もまとめないといけないし」
「……ふーん。そっか。わかった。おやすみ」
「おやすみなさいっ」
思いの外、先生はすぐに手を離してくれた。
夜になると、どうしても意識してしまう自分がいた。
先生の甘い香りを思い出してしまう。そして、心臓が激しく高鳴るのだ。
そこまで子どもじゃないし、そこまで馬鹿じゃないからさすがに私でもわかる。
……先生のことを、男性として意識し始めてしまっている。
今までは、先生はあくまでも教師で、そこに性別の垣根など考えたことがなかった。
教師は教師という存在で、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
それがどうだろう。今、私は先生のことを教師ではなく、一人の男性として見ている。
まさか、私が先生のことを?無性にムズムズしてしまって落ち着かない。
上京してからというもの、男性とそういう関係になったことがほとんど無い。数人お付き合いをした人はいれど、どれも長くは続かなかったし、ここ数年は特に出会いも無い。恋愛などしてる余裕も無かったというのも理由の一つだが。
誰かからアプローチされることも無ければ、自分からいいなと思えるような男性もいなかった。
部署が女性ばかりというのも大きい。
布団に潜り込んで、ここで過ごす最後の夜を一人でよく考える。
自分の気持ちの変化に頭がついていけていなくて、今日も上手く眠れない。
どうしたものか。そう思っている時に枕元に置いてあるスマートフォンが鳴った。
ん?と、手を伸ばして取って届いたメッセージを開くと、それは先生からのものだった。
"もう寝た?"
同じ家にいるのに。変な感じだ。
"まだ起きてるけど"
条件反射でそう返事をすると、すぐに部屋の扉をノックする音が聞こえる。
……しまった。普通に返事してしまった。
起きてると言った手前、無視をするわけにもいかない。
ゆっくりとドアを開けると、先生が照れたようにな困ったような、そんな表情で頭を掻きながら立っていた。
「……その、眠れなくて……さ」
「……実は、私も」
「……リビング、戻るか」
「うん……」
なんだか、とても気恥ずかしくて。
お互い顔を見ないまま、リビングに戻る。
間接照明だけが付いたリビングは、うっすらと寂しさすら感じた。
ソファに腰を下ろし、二人並んで無言で真っ暗なテレビを見つめる。
「……荷物はまとめ終わった?」
「……うん。とりあえずは」
もう明日、東京に戻るのか。
次にこの街に来る時は、仕事を辞めて帰ってくる時だろう。
「……先生、寂しい?」
「……寂しいよ」
「私も、寂しい」
一人でまたあの孤独としばらく戦わないといけない。
過ごしてみればあっという間かもしれないけれど、今の私にはそれがピンと来ていなくて。
先生にもまたしばらく会えなくなってしまうのが、とても寂しい。
この数日がとても楽しかったから、余計にそう思う。
ソファの上で膝を抱えるように座る。そこに顎を乗せて、テーブルをじっと見つめた。
「みゃーこ、おいで」
顔だけを隣に向けると、両手を広げてこちらに微笑む先生の姿。
「おいで」
もう一度呼ぶ声が、とても優しくて。
寂しさに負けて、自ら先生の胸に飛び込んだ。
甘い香りが私の肺を満たす。それは安定剤のように、私の心を穏やかにさせた。
先生の胸元に当たる私の耳。そこから聞こえてくる、私よりも早い心臓の音。
ドク、ドク、ドク、ドクと短く早く。先生もドキドキしているのだろうか。
「……みゃーこ」
「……なに」
「俺、やばいかも」
「……なにが?」
「みゃーこの甘い匂い、やばい」
私の頭の上に顎を乗せて、一つ、大きな息を吐いた。
そして耳元で、微かな声で囁く。
「───今日、みゃーこと一緒に寝たい」
その声に、ピッタリと胸に付けていた顔を上げようとする。
しかし、先生が私の頭をぎゅっと押さえつけるように抱きしめるから、それは叶わなかった。
「俺も、明日からみゃーこがいないのがすげぇ寂しい」
「……うん」
「……でも、今みゃーこと一緒に寝たら、俺……この間みたいに我慢出来る自信が無い」
その言葉の意味を理解した瞬間。私は上手く呼吸ができなくなった。
……もしかして、木曜日の夜のこと、覚えてるの?
「っ……」
「ごめん。こんなこと言ったってみゃーこを困らせてるだけだって、わかってんだけど。……みゃーこが可愛すぎて、この匂い嗅いだらもう、理性持たない」
その甘く切ない声を発しているこの人は、今一体どんな表情をしているのだろうか。
どんな想いで、私を抱きしめているのだろうか。
そう考えたら、言葉に言い表せない感情が胸の奥に広がる。それは、何と言えばピッタリ当てはまるのだろう。
「……せんせー」
激しく脈打つ鼓動に目を閉じて、胸の辺りを強く掴む。
「……私、先生は付き合ってもいない人とソウイウコトするような人だとは思ってないよ」
そして、私は寂しさを埋めるためだけに都合の良い女になるつもりもない。そんなの、若気の至りだけで十分。
もう、余計な寂しさなんて感じたくないから。
先生の気持ちがわからなくて、傷付きたくなくて。予防線を張った。
「……うん。俺も、自分の欲に負けてみゃーこを傷付けたくないし、それでみゃーこの信頼を失いたくない。……でもさ、俺思うんだよね」
先生の声のトーンが変わった気がして、また心臓がどきりと跳ねる。
「俺、今のままじゃ、みゃーこにとってただの教師止まりなんじゃないかなって。それじゃ意味無いんだよ。教師は聖人君子なんかじゃないし、俺はただの一人の男だから。教師だからって、自分の好きな女の前でまで"先生"でいる必要って、ないんじゃないかなって」
……今、なんて言った?
耳を疑う言葉に、無理矢理顔を上げる。
先生も、私の後頭部から手を離した。
私を見下ろす目は、甘くて滾るように熱い。
なのに、そこからは"愛おしさ"が溢れていた。
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