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もう一つの心の封印

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「こちらにどうぞ」

通されたのは庭がよく見えるサロン。
ファッジン辺境伯は相当に裕福なのだろうと思っていたが、勧められたテーブルは大理石の模様の美しいもの。ただ今はこれだけ大きな広さのものは見た事があっただろうか。

「古いものばかりで驚くでしょう?バチェラー独身男なもので流行だの言われてもわからんのです」

絵画も歴史書に出てくるような作家のものだが額縁には埃一つない。
使用人は兵役上がりか負傷兵、そしてその家族でほとんどが徒歩圏内に住まいを持っているというのだが、開けた地に真っ直ぐ通った畦道。附近に家屋があっただろうかと考える。


「さて、お嬢さんは‥‥なんだったか…カモメールティー?カッパティー?ん?」
「失礼ですが、カモミールでは?」
「おっとっと、そうだった。何度も名前を反復したのだが若い人の言葉は覚えにくくていけない。ハハ‥ハハ…」

茶葉の訂正を促しギっと睨むのはベルタである。
流石のファッジン辺境伯も言葉がどんどんと尻すぼみになっていく。
だが、剣を握り戦うばかりの男ではないようで淹れられた茶は丁度良い温度に、爽やかに香りが漂う。ファミル王国の王都でもここまで上手く淹れられるものがいるだろうか。

「なんとかの一つ覚えと申しましょうかね。旨い茶を飲みたいと思ったら納得できるまでやった結果がこれです」

ステファニアは口に含んだ茶が喉を通っていく時も、香りが鼻腔を擽る感覚を楽しんだ。
目を閉じれば、穏かで雄大な自然が思い浮かぶ。その感動を伝えたいのに言葉が出ないもどかしさを感じた。

「では、お嬢さん、いやステファニア・ブレント侯爵令嬢。申し遅れましたが、私はバルトロ・ファッジンと申します。過日は馬車の旅の供をさせて頂きました」

ステファニアはにこやかに挨拶をするバルトロ氏に会釈と微笑を返した。

「貴女の事情は伺っておりますよ。どうして…言葉を発せなくなったかも。詳細は省きますが多分…あの腐れボンボン殿下よりも踏み込んだ内容で。申し訳ない。諸国の事情は押さえておかねばならぬのが辺境伯の務めでもありますのでご容赦願いたい」

どの国も諜報や間者は抱えているものである。いない国のほうが珍しいだろう。
ましてここは辺境の地。攻め入られた時にここが突破されれば戦力もさることながら国は滅亡の危機に直面するのだから、知られたくない事情こそ彼らは握りたい情報だろう。


「さて、先日から貴女様の元に向かわせていたヴァレリオなのですが、見ての通り私はもう良い歳。今更妻を迎えても後を継ぐ者を設けることは出来ないでしょう。何より先の戦で腕をやられましてね‥」

そう言って右腕の肩を左手の手のひらで掴み、くるくると撫でる仕草をする。

「そうは言ってもこの地は戦がなくとも見守らねばならず、レアンドロ殿下より書簡を受け取る前日に、辺境伯という地位をここにいる甥のヴァレリオに譲ったのです」

「なんですってぇ?!」

ステファニアも驚いたが、ベルタは更に驚いて発した声も裏返った。

「なので、書簡には【ファッジン辺境伯の妻とする】とありますので、夫は私ではなく、このヴァレリオという事になります。年も近いですし突然夫だ妻だとなるよりも、姿かたちと名を覚えてもらえと王都に迎えにやったのですが‥‥失礼しかなかったようで申し訳ない」

「で、では…この山猿…いえ御仁がお嬢様の?」
「そうなりますね。殿下はファッジン辺境伯と書かれておりますので」

はくはくとまるで酸欠の鯉のように口を動かしたベルタは、クルっと隣のステファニアの方を向くと肩を掴んだ。

「お嬢様ぁ‥‥」

今度はウルウルと目に涙をいっぱいに貯めて、ガバっと抱き着いてしまった。

「それで‥‥ですね?相談と申しますか…」

バルトロ氏が身を小さくしながら言葉を発するとベルタはバッと顔だけを向けてギロっと睨んだ。ベルタの声は地の底からわき出てくる悪魔の声よりも低い。

「相談?なんの相談ですの?」
「実はヴァレリオを選んだのは、国境添いのこの領地を隅々まで把握している事や…何と言いますか腕は本当に確かなのです。ですけどね…その‥‥」
「男の癖にモゴモゴしない!はっきりと仰ってくださいませ!」

「はっはいっ!人を纏める事と腕、戦術には長けておりますが、そちらに栄養が偏り、ハッキリ言ってバカなんです。暗号は読めても新聞は読めません。天候や風は予測をつけられても収支経営の数字を見ると意識を飛ばすんです」

「では、お嬢様に領地経営をしろ…と仰る?」
「私も当然手伝いますが、なんせヴァレリオはこの通りなので…悪いやつではないんですが、本当に学問についてはバカなんです」

沈黙する一同。ヴァレリオだけは少し機嫌が悪い。
しかし、問題があった。

ヴァレリオは【暗号】は読める。記号の組み合わせだと認識をしているからだ。
だが【文字】になると読めない。領地の5歳児のほうが読めるレベルである。
数も両手と両足を足した数の数字を超えればお手上げである。

敵兵が1万の軍勢は【1】という数字でかなり多いので1万
それなりに多ければ1千、相当に多ければ10万。そういう認識である。

つまりは…。

言葉が発せないステファニアは【筆談】も出来ないと言う事である。

「困りましたね…」
「うむ…困った…」
「・・・・・」
「何にも困らねぇよ。年寄り2人で勝手に困ってろ」


ヴァレリオは立ち上がると、ステファニアの隣に歩み寄った。

「俺はヴァレリオだ。ステファニア。ここに居ても俺は息が詰まる。ステファニアはどうだ?」

ステファニアはヴァレリオの言葉に頭の中で【ピシリ】と音がしたように感じた。

「俺は面倒な話は苦手だから逃げるが、来るか?」

ステファニアは、無意識にヴァレリオに手を差し出した。
ファッジン辺境領に来るまでの間に特に仲が良くなったわけではない。
だが、ステファニアに取ってそれは初めてだったのだ。

自分からこうしたいと言ったことはなかった。言ってはならない事だったからだ。
自分からこうなりたいと思った事はなかった。思ってはならない事だったからだ。

ヴァレリオに取ってそれは普通の事だったかも知れない。だから言葉が出た。
だがステファニアには初めてだった。

どうして手を差し出したのか、ステファニア自身にも答えは出ない。
辺境領の大自然と、ヴァレリオの開放的過ぎる性格に感化されたのかも知れない。


【どうだ?】と思いを問われた事はなかった。
【来るか?】と意思を問われた事はなかった。

ステファニアの19年間と2年間は【こうあるべき】と強制されたもので意思を持つことは許されなかった。アベラルドとの結婚も確かに望んではいたが、物心つく前に決められたもので、「アベラルドの為に生きる」事が前提だった。

アベラルドへの【愛】という気持ちは裏切りによって砕け散ったが、別れとなる婚約解消もハルメル王国への輿入れもステファニアが望んだものではない。決められたものだ。
嫌だと抗ったところで何も変わらない。
誰かに従う。それが貴族令嬢の生き方だと強く教えられた。


しかしヴァレリオの【どうた?】【来るか?】と問うた言葉は、硬い鉄のように【自我】を封印した心に亀裂をもたらした。

「ジジィ、出てくる。後は頼んだ」

ヴァレリオはステファニアが差し出した手を力強く握る。
椅子から立ち上がったステファニアは、一歩を自ら踏み出した。


「お嬢様…大丈夫かしら…」

ぽつりと呟いたベルタの声にバルトロは「大丈夫」だと言った。

「ヴァレリオを選んだ理由は、あぁいうところです。人の心にズカズカ入り込んでくるようで実はちゃんとノックしてるような…天性の人たらしなんですよ。殺し合いも宴会に変えてしまうんです。あいつは」

ステファニアのワンピースが風に歌うように揺れる。
ベルタは軽い足取りのステファニアに幼いステファニアを重ねた。
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