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記憶が消えた日③ー①

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ギシギシと不規則な音を立てる寝台。
ゆっくりした軋みから激しい軋みになると程なくして音が止まった。


発散したはずだが、直ぐに全身に溜っていく苛立ち。
セレスタンは兎角苛立っていた。髪を掻きむしり言葉を吐き捨てた。

「もういい。失せろ」
「はい」


公爵家に移籍となり実権は直ぐに握れた。
色仕掛けをしてきた公爵夫妻の娘はかなりの年上で直ぐに飽きた。

急いで下着を身に纏う隣の女はセレスタンに傾倒していた。
公爵家の侍女で名をリーネと言った。愛想のない女だったが体の相性は抜群に良かった。苛立ちを精に置き換えて何度も吐き出すが、吐き出せば吐き出す程にセレスタンの苛立ちは強くなった。


実権は握ったものの、クディエ公爵家にはさほどに財産がなかった。
借金はないが、自由にできる金もない。

数年横流しで貢がせてきた支度金こそクロヴィスの名義で保管してあるがそのクロヴィスとも引き離されてしまった。名義こそクロヴィスだがクロヴィスはその存在を知らない。

支度金の横流しは疑われたが、同額をシルヴェーヌに使っていた事で横領は免れたクディエ公爵家。セレスタンはそこも見抜いて首の皮一枚繋がったランヴェルの肩を叩いた。


だが預けた先が悪かった。いや、良かったのか。
預ける時に証となる品と、金庫を開設した本人の署名が揃わなければ例えそれが犯罪によって得た金品であっても確実に守って貰える商会を利用したのだ。

署名は偽名でもセレスタンの筆跡だが、証となるのはクロヴィスが「側近の証」として受け取っていたセレスタンの紋をかたどったブローチだった。側近用に用意された部屋には何もなかった。

王太子で無くなった瞬間に側近を解任されたクロヴィスは実家のトラント公爵家に一旦は戻ったが養子縁組を解除されて1週間もしないうちに出されたと聞いた。
本来の実家である遠く離れた領にある伯爵家にも戻っておらず行方不明となっていた。

クディエ公爵家当主のランヴェルにクロヴィスを探すように言いつけてはいるが結果は芳しくない。


自由も無くなり、自分も敬う者もいない。その上
苛立っていたセレスタンの部屋からリーネが静かに出ていった。
入れ替わるように公爵家の家令がセレスタンの部屋の扉を叩いた。

「なんだ」
「はい、王宮のディオン第二王子殿下より先触れが届いております」
「ディオンが?…判った。会うと返事を持たせてくれ」
「畏まりました」


だらしなく上着を羽織り、食堂に行きメイドにワインを持ってこいと告げる。
出されたワインを一口飲んでメイドの顔に吹きかけた。

「なんだこのワインは!」
「も、申し訳ございませんっ。これしかないのです」
「どいつもこいつも…公爵を呼べ」
「は、はいっ。いますぐっ」

髪からワインを滴らせたメイドがクディエ公爵家当主のランヴェルを呼びに走った。

本来の当主の部屋はセレスタンが使用し、ランヴェルとリベイラは客間を使用している。
使用人達もどちらに着くか一時期は割れたが、力の差が歴然としていてシルヴェーヌの一件で目を付けられたクディエ公爵家は潮が引くように取引先もいなくなった。
引き留める事が出来なかった本当の主と、元王太子という肩書で【過去の功績】で仕事を取って来るセレスタンならどちらに分があるかは一目瞭然だった。


やって来たランヴェルとリベイラを絨毯の上に跪かせ、セレスタンはワインを交互に2人の頭に注いだ。

「飲めよ」
「えっ…飲めと言われましても…」
「絨毯と言うグラスに注いでやっただろう?お前たちにピッタリのワインだ」
「は、はい…ありがたく…」

床に顔をつけるランヴェルの頭を手で押し込んで、ビチャっと言う音と共にランヴェルの顔にワインが滴った。

「私が満足できるワインくらい用意できないのか」
「ですが、そのワインもそれなり――うぐっ」
「私に対して【それなり】とはなかなかに言うではないか」
「決してそんなつもりでは…ですが金が…」
「金?そんなものは何とでもなるだろう。例えばお前の娘の子を娼館に――」
「それだけはっ!それだけはお許しくださいっ」


実権だけでなく、生殺与奪まで全てを握られているランヴェルは抵抗できなかった。
捨て身になったセレスタンに支度金の流用を自白されては困るのだ。


リベイラの宝飾品を売り、最高級のワインをランヴェル自らが買いに出る。
馬車の使用さえセレスタンの許しが無ければならないため、公爵が1人で護衛も連れず歩いてワインを買に出向くのだ。それも屈辱的だった。

――いつかやり返してやる――

ワインの入った籠を抱えて屋敷に帰る途中で王家の紋がついた馬車がランヴェルを追い越していった。向かう先にあるのは4つの公爵家のみ。

――もしかして、セレスタンを迎えに来てくれたのでは?――

過去には功績のあった王太子。
まだ立った3か月だがやはり国王は手放すのが惜しくなったのではないか。
ランヴェルは小走りになって屋敷までの道のりを歩いていた時だった。

すれ違った男。ふとランヴェルは足を止めた。
ゆっくりと振り返り、まさかな?と思いつつもその男の後をつけた。


貴族街を通りすぎ、王宮の裏門にきた男は堀添いの道をゆっくりと時折立ち止まって王宮を見上げつつもまた足を進めていく。何処に行くのかと思えばピタリと男の足が止まった。
尾行しているのがバレたのでは?とランヴェルは草むらに入り木に隠れた。

――何を見てるんだ?――

男の視線は王宮の敷地内にある建物に向かっているが、堀の向こうに見えるのは【王妃の宮】だった。今までで一番長く立ち止まり、ただ王妃の宮を仰ぎ眺める1人の男。
横顔にランヴェルは確信した。

――トラント公爵家のクロヴィスじゃないか!――


これで今夜はセレスタンに怒鳴られずに済む。ランヴェルの心は踊った。
毎晩、見つけらなかったという報告をするたびに床に座らされ侮辱されてきた。
自分の年齢の半分にも満たないセレスタンが王太子と言う立場ならまだしも公爵家に移籍され、当主である自分を敬い、崇めるべきなのに使用人もセレスタンに付き、悔しい思いをしてきた。

だが、ランヴィルはその場で呼び止めるのをめた。

明らかに不自然な状況にクロヴィスがまた行方をくらましてしまえば元も子もない。不自然な状況とは公爵家当主が供も護衛も連れずに、しかも歩きでワインの入った籠を抱えている事だ。

ランヴェルは身を顰め、また歩き出したクロヴィスの後を追った。
行きついた先は平民でも貧困層が住まいとしている「スラム街」の一画。
そこにある壊れそうなバラックにクロヴィスは入っていった。

夕暮れになり、1刻ほどしたが出てくる様子はない。
そこがクロヴィスの寝床だと確信したランヴェルは屋敷に戻ろうと振り向いた。

「おっちゃん、エエもん、持ってるなぁ」

知らぬ間に破落戸に囲まれていたランヴェルは、籠ごとワインを手渡した。
だが、この場に於いてそれで済むはずがない。

身ぐるみ剝がされたランヴェルは深夜になるのを待って、落ちていた蚤だらけの茣蓙を体に巻いて公爵家まで這う這うの体で戻ったのだった。
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