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右隣の男 after story

花と烏 2

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『春になると、優しい龍神様が山の恵みを与えてくださるんだよ』

それは…父さんの口癖だった。

春だけじゃない。
夏も、秋も、冬も、四季を通して『龍神様のおかげ』だと感謝していた。





ぽかぽかと暖かい日。

僕は竹籠たけかごを背に、山菜を採るため山へ入った。


『あと少しで帰ろう』

そう思っていたのに。


僕は雪解け水に濡れた斜面を、滑り落ちてしまった。



骨は折れていない。

たぶん足首を捻っただけだ。



痛みに立ち上がることが出来ないまま、ついに日が暮れてきてしまった。

幸い、崖からは水が出ていたので、喉を潤すことは出来るが…。


薄暗くなると熊が出るのだ。


布を水で冷やし、巻いているのだが、足首はさらに腫れて、ズキズキと脈を打つように痛む。

昼間の陽気が嘘のように風が冷えてきた。

強い風に揺れる木々から、ざわざわと葉擦れの音がする。


もうすぐ18になるというのに、心細くて泣いてしまいそうだった。




その時だった。

「誰かいるのか?」

低くてよく響く声が聞こえた。

(人間だ!)

ほっとして思わず返事をした。

「助けてください。怪我をして動けません」


はっとする。

(いけない…)


『お前は母さんに似て美人なのだから、知らない男について行ってはいけないよ』

父さんが、いつもそう言っていたのに。

僕は男だ。

『美人』なんて言われても困る。


でも…怖い。




声の主が姿を見せた。

闇が迫るなか、僅かな光でもわかる。
大柄で、長い髪を一つに束ねた、精悍な顔の男だ。

思わず見惚れてしまった。

男も僕を見て固まっている。


はっとしたように男が問うた。

「名は?」

「僕はノンノと言います。あなたは?」

「……オレは……カララクだ」


男はじっと僕を見ている。

「花…。お前によく似合う、いい名だ」

カァッと熱くなる。
村ではよく『女っぽい名前だ』と言われ、馬鹿にされてきたからだ。

ムッとした僕に気づいたのだろう。


「綺麗だ」

あくまでも真摯な表情。
男が口にした言葉には、『揶揄からかう意図などない』とわかった。


「…夜が来る。泊まっていくといい」


「弟が家で待っているんです。村へ連れて行ってはもらえませんか?」

僕の頼みに男は首を振った。

「オレは村に近づくことを許されていない。無理だ」

(追放された罪人か何かだろうか?)

それにしては清い気配の男だ。



僕はその大きな背に負われ、彼の家に連れて行ってもらうことになった。

体温が高いのか、彼の背中はとても温かくて、凍えていた僕の身体がほどけていく。ギュッとしがみつくと、とてもいい匂いがした。


『母さんね、お父さんの匂いが大好き』

忘れてしまっていた、

母さんの笑顔を…思い出した。


もう会えない・・・・・・両親のことを思い出し、胸がギュッとなって、涙が零れた。






部屋の中は薄暗くて、

……男の瞳が闇に光って見えた。


『金色』としか言えない綺麗な色。

丸いはずの瞳孔は、縦に長い。


「…オレが恐ろしいか」

睨みつけてくるその顔は、確かに怖いはずなのに。


「…綺麗だ」

先ほど男がくれた言葉と同じものを、僕は思わず返していた。


意表をつかれたように見開かれる目は、キラキラと輝いている。



「…オレと共にいるのは不快だろう。だがしばらくはここを動くな。足を酷くする」

男は自分に自信がないのか、こんなことを言う。

「不快なんてことはありません!」

僕は力いっぱい否定した。本当に綺麗な男だと思ったからだ。

「…大声を出してすみません。ありがとうございます。お世話になります」


家に1人きり・・・・残してきた、まだ僕より小さな弟。

帰らない僕を山へ探しにくるのではないかと心配だったが、僕は頷くしかなかった。

隣のおばさんは好意的で世話焼きだし、出かける時にお願いしてきたから、おそらく大丈夫だと思う。


『足首が痛くて動けない』

それが、ここにいる理由。

……その筈なのに。



何故か男は寂しそうに見えて、

『ここで一緒にいてあげたい』

そう思ってしまうのだ。





外に一度出て、闇の中に走り去った男は、すぐ戻ってくると、口の中で噛んでいた物を僕の足首に貼り付けてきた。

おそらくヨモギだろう。
消炎効果があるからだ。

いい香り。

その匂いに、ぐーっと僕のお腹が鳴ると、吊るしてあった干し肉を細かく千切って食べさせてくれた。



翌朝、男は小屋を出ると、
大きな獣を背負って帰ってきた。

片手に僕の身長ほどもある大太刀を持っており、もう一方の手は獲物を肩にかけるように担いでいる。すごい力だ。

本当に大きな…猪。
その大太刀で首を断ち、血抜きしてきたようだ。

不思議と男の身体には傷も返り血などの汚れも付いていない。

それに、大太刀の刀身は…まるで冬の池に張る氷のように透明だった。



昼間、空気がぬるんできた頃、
僕は近くの泉に連れて行ってもらった。

昨日崖から滑り落ちたせいで汚れてしまった着物。
それを脱がせてもらい、同じく裸になった男の腕に抱えられ、水の中に入れてもらったのだ。

泉の水は冷たかったが、熱を持った足首には気持ちよかった。水の中で浮けるから動けるのもいい。

男は僕の方を見ないよう、背を向けている。

(同じ男なのだから、構わないのに)

ふと、男の肩甲骨の辺りに『不思議な黒いアザ』を見つけた。

まるで翼をもぎ取られた鳥の背中みたいな形。
大人たちの刺青みたいで格好いい。

(だから『烏』なのだろうか)

僕は思わず男に近づくと、その背に手を這わせていた。

ビクリと肩を震わせた男が、勢いよくこちらを向く。


「…急に触れてごめんなさい」

「気持ち悪く…ないのか?」

男は心底不思議そうにこちらを見ていた。

「格好いいです………っくしゅん」

くしゃみをした僕は、慌てた彼に抱かれて家に連れ帰られた。



大きな布で、濡れた裸の身体を包まれる。

村長の家でしか見たことがない、模様が織り込まれた立派な布だ。

窓辺の明るい場所に座らされると、徐々に暖かくなってきた。


壁には『乾燥した花束』や『花輪』がいくつも吊るしてある。男の印象とあまり合わない可愛らしさに、思わず笑みがこぼれた。



再び外に出ていた男は、服を洗って干してくれたようだ。
窓の外、風になびく2人分の着物が見えた。

「ありがとうございます」

こんな一言で、男は驚いた顔をする。


『愛おしい』

まだその言葉には気づいていなかったが、僕が男に抱いていた気持ちは、そのようなものだった。



僕が男の背に触れてから、男も僕に触れるようになった。

座っていると『冷えるから』と背中から抱かれる。

一緒に干し肉や山菜の茹でたものを食べていると、頬に触れられる。

夜眠る時、必ず男の腕に包まれる。

すうっと息を吸い込めば、僕の好きな匂い。

不思議なほど、安心感に満ちていた。

このまま『この男と暮らしていけたら』とさえ思った。



一週間と少し経った日。
僕の足は棒を支えに使えば歩けるようになった。

弟が心配しているだろう。

男は僕を村に繋がる山道まで送ってくれた。

干し肉と山菜を籠いっぱいに詰めて。



「本当にお世話になり、ありがとうございました」

別れるとき、僕は何故か、寂しい目をした彼の頬に口付けていた。

「!」

男は僕の唇を奪い、僕もそれに応えた。

初めての口付け。

彼の長い舌が僕の口内に侵入してくる。

気持ちいい。


(あぁ…別れたくないなぁ)

心からそう思った。


名残惜しかったが、どちらともなく唇を離せば、透明な糸は彼と僕を繋ぎ…、やがて切れてしまった。


「また会いに来ます。烏…」

「……待っている。花」


僕の姿が見えなくなるまで、
何度振り返っても、
彼はずっと見送ってくれていた。
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