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前編

記憶喪失前に、伝えたかったこと?

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 ズキリ、と頭が鈍く痛む。

 そうだった。私は忘れてはいけなかったはずなんだ。
 でも、本当は全部全部忘れてしまって、なかった事にしたかった。ずっと目を背けていたいっていう根底の願望が、現実化しただけだった。

 私はアリサ・セシリア・キルシュライト。

 そして、前世が――達川有紗たつかわありさ新川にいかわ女子高校の二年生だった。

 頭を打った拍子に何故か前世の記憶が蘇って、今世の記憶がそっくり飛んでしまったような感じ。

 よくよく振り返ってみると、前世に何をしたかならばなんとなく思い出せるけど、友達や先生の名前は全く浮かんでこなかった。

 それに、私は前世と今世の日常生活の違いについて、違和感を感じる事もほとんどなかった。それも考えればおかしな話。
 現代日本と、地球の中世から近世ヨーロッパのような雰囲気を持つ魔法の世界なんて、最初は暮らしに適応するのに精一杯なはずなのに。

 文字習得が恐ろしい程に早かったのも、きっと理由はローマ字のような法則性を見つけたからだけじゃない。ずっと使い続けていた文字だったから、馴染みやすかったんだと思う。

 例えるなら、記憶の引き出しにしまってしまったものが中々見つからない、と言ったところだろう。

 頭の鈍痛が未だに治まらない。少し頭が熱っぽい。のぼせてしまったように。

 でも少しずつ、身体の感覚が戻ってきて、私は薄くまぶたを開けた。

「……っ、……アリサ?」

 傍にいる人が、心配そうな声で私の名前を呼ぶ。
 見上げた先は天蓋。いつの間にか私は、王太子妃専用の寝室で横になっていた。ゆっくりと呼ばれた方を向くと、が青白い顔をして私を伺うように見ていた。

「アリサ?大丈夫か?今医者を……っ?」

 立ち上がろうとした彼の腕の部分を掴む。穏やかな海の色をした瞳が、驚いたように見開かれる。

 言うつもりだった。ずっと言いたくて、首を長くして待っていた。

 でも支離滅裂だ。彼はもう知っているのに。
 無意識に、自分が記憶を失う前に取りたかった行動をしていた。

 彼の服を握り締めて、真っ直ぐに視線を合わせる。
 本当は侍女のゼルマでもなく、誰よりも先に伝えたかった人だった。

「ローデリヒ。……二人目、妊娠したようです。貴方に早く伝えたくて」

 彼は私の言葉に虚をつかれたかのように固まった。口元が自然と綻ぶ。答えの分かりきっている問いを彼に投げ掛けた。

「喜んでくれますか?アーベルの時のように」

 くしゃりと、行き場をなくした迷子の子供のように彼は顔を歪める。服を掴んだままの私の手を、彼は空いている手でそっと包み込む。壊れ物を扱う様な慎重な手つきで。

「貴女は……、記憶を失う前、それを私に伝えたかったんだな……」

 独白のような彼の掠れた小さな声が、空気に溶けて消えた。

 彼の骨張った手のひらからのひんやりとした体温が、仕草が、能力を使わなくても、彼が私を心配してくれているのを感じる。

「ああ、勿論だ。私の子供だ。可愛くない訳が無い」

 彼が微笑む。その笑みは慈愛に満ちていて、まだまだ若いはずなのに、一人の、父親だった。

 ギュッと私も手を握り返して、ニヤリとちょっと意地悪く笑う。

「でも、子供が出来るような心当たりは一度しかない、なーんて事、言ってましたよね?」
「う……、それは……」

 呻く彼に、私はカラリと笑ってみせた。記憶が飛んでいなければ、ショックだったかもしれないけれど、その時の私は完全に自分の事を他人の事のように感じていたから。

 でも、今までで一番スムーズに夫と話せた期間だったようにも思う。

「いいですよ。ちゃんと謝ってくれましたし、私もこんなに二回ともすぐに出来るとは思わなかったのは確かなので。本当、百発百中ですよね……」
「その呼び方はやめてくれ……」

 げんなりした表情をした夫だったけれど、ふと不思議そうに触れている手を見つめて瞬きをする。急に顔色を変えた彼は、恐る恐る私に手を伸ばしてきた。

「触るぞ……?」
「えっ?ちょ、……えっ?い、いいですけど……」

 一体いきなり何を言い出すのか。
 片手で手を繋いだまま、手を伸ばした彼は――、

 私のおでこに触れた。

「あ……」
「あ……?なんですか?」
「熱くないか?!いつからだ?!」
「ああ……、なんかちょっと……、のぼせた感じがするんですよね……」

 ジギスムントを呼ぶから待っていろ、と再び立ち上がろうとするローデリヒ様の腰を両手でガッチリ捕まえる。

「な、……?!」
「居てください。傍に……」

 だってローデリヒ様の体温がひんやりとしてて、気持ちいいし。

 彼が何やら近くに居たらしいローちゃんに指示している声を聞きながら、「あれ?なんかあんまりひんやりとしてこなくなったな?」なんて呑気な事を思って――、

 寝た。



 ーーーーーーーーーーーーー
 ーーーーーーーー



「うーむ。どうやら知恵熱のようですな。記憶を取り戻した時に一時的にストレスが掛かったのでしょう。お腹の御子も無事で元気そうですぞ」
「そうか……よかった……」

 ある程度寝た後、起きたらもう熱は引いていた。カーテンから差し込む光から、多分早朝辺りだろう。

 ジギスムントさんの診断結果に、ローデリヒ様は安堵したように息をついた。寝ていないのか目の下に隈が出来ている。

 私はというと、幾つか引っかかっていた事がある程度分かってスッキリしていた。けれどまだまだ状況理解が追い付かない部分もある。

「あの、パーティーはどうなったんですか?」

 襲撃されたのはパーティーが行われていた時だった。あの後仕切り直しでパーティー、なんて事は出来なかったはずだ。
 ローデリヒ様も重々しく頷く。

「ああ。流石にパーティーは中止。アルヴォネンの王太子夫妻には部屋に帰ってもらった。二人共納得していないようだったが」
「なるほど……。怪我した人とかは……?」
「皆、治癒魔法で治療済みだ。幸いにも死者はいない。貴女が一番重症だ」
「え……、マジか……」

 頭を抱えた。パーティー襲撃とは直接的に関係のない原因で一番重症……。なんだか申し訳なくなってくる。

 内心罪悪感を感じていると、ローデリヒ様がジギスムントさんに目配せして、部屋から出ていってもらっていた。ローちゃんはソファーでのんびりと寝ているけど、ローデリヒ様と二人きり。

「……それで、どうだったんだ?ルーカス・コスティ・アルヴォネンとティーナ・サネルマ・アルヴォネンは。思い出したんだろう?」
「ああ……、二人に関してはちゃんと思い出しました。幼馴染みですし……」
「貴女はきっと会いたくもなかっただろうが……」

 苦虫を噛み潰したようなローデリヒ様の反応に、私は目を瞬かせた。そういえば、ローデリヒ様が個人的にルーカスの事を好きじゃないって言ってたけど、なんで私もルーカスとティーナの事が嫌いって事になっているのだろうか?

「いや、別にルーカスとティーナに会いたくないって訳じゃないんですが……。仲良しの友達ですし」
「は?」
「え?」

 きょとんと見つめ合う。疑問符がお互いの間を行き来したが、ローデリヒ様が眉を寄せながら状況を整理しだした。

「根も葉もない噂を流された上に、決まっていた婚約を破棄され、女友達がその後釜に座り、貴女は修道院に行く羽目になったんだぞ?散々ではないのか?それなのに仲良し……?どういう事だ?」
「た、確かに……、実際に起こった事を並べると、完全に私を失脚させた極悪人みたいな感じになりますね……。ルーカスと婚約は元々嫌だったので、ラッキー位にしか思ってませんでした……」

 私の能力については説明していたけれど、婚約破棄や修道院のことについては話していなかった。婚約破棄も修道院も一応公表されていない話だし、特に何も聞かれなかったし。

「嫌だった?何故だ?」
「何と言うか……、悪友と言いますか、そんな感じなので結婚相手に見えないと言いますか……」

 上手く説明が出来ないな。ローデリヒ様も首を捻る。うーん、男女の友情って恋愛に変わる事もあるし……、ちゃんとした理由とは言えない。

「……大勢の盗賊に武器を持たずに単体で突っ込んで全滅させたり、素手でクレーター作ったり、刃物で切り付けられても無傷だったり、猛毒飲んでも平気な顔してるルーカス馬鹿は、正直タイプじゃないんです」
「………………それ、人間か?」

 数十秒黙り込んだローデリヒ様が必死に私の言葉を噛み砕いて、唖然とした。

「一応人間です……。魔法の属性が肉体強化に特化して、常時発動してるだけで……。私の精神属性と同じような感じで発動しているんです」
「そう……なのか……」

 明らかにローデリヒ様はドン引きしていた。気持ちは分かる。あんなに話し方も雰囲気も優しそうなルーカスが、実は馬鹿だとは思うまい。上手い具合に猫を被っている……、と見られがちだけれど、素だったりする。

 つまり、頭の良さそうな馬鹿なんだ。

「アルヴォネンで流れた噂に関しては、ルーカスとティーナは関係ありません。実は出処が分かっていないんです。婚約破棄と修道院に関しては、私とルーカスでその噂に乗っかった感じです。だから、ルーカスとティーナは決して悪感情を持ってそうした訳ではなく、私の希望を聞いてくれたような形なんです。

 私、本当に社交界から離れて、修道院に行きたかったんですよ」
「そう……か」

 ローデリヒ様は想像もしていなかったみたいだ。しばらく黙り込んだ後、悔いるように唇を噛む。

「それならば……、私は余計な事をしてしまったんだな」
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