天の絆

トグサマリ

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【三章】

   二

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 辺境伯でもあるロフォーオゥは、シェルヴァーブルグに滞在するときは近隣の村を視察するのが毎年の常だった。どういうものかよく判らないのだけれど、巡回裁判官というものも兼ねているので忙しい。
 この日もロフォーオゥは朝から視察に出ていた。彼が不在でも、館で独りの時間を過ごすことに怯えることはほとんどなくなっていた。
 昼食のあと、リュデュとともに森を散策をする。
 先日アルジェーブを採りに行った際、森のあまりの清々しさに心を奪われた。あんなにも怖かったのに、散策はいまでは欠かせない綾の日課になった。
 ふかふかの苔の絨毯とその隙間に生えるさまざまなベリーのような植物や下草。木々の枝では鳥が歌を歌い、少し離れたところでリスのような小動物が木の実をかじっている。木々の葉を透かして降り注ぐ陽光、そしてなによりもしっとりと潤った瑞々しい空気。森を少し散策するだけで、気持ちは解き放たれる。
 散策ついでにベリー類――アルジェーブもきっとベリー類だろう――を採れるのも、楽しみのひとつだった。今日採ったメリヴィリーは、紫色の小さな粒をつける実だ。そのまま食べても甘酸っぱく美味しいのだが、ジャムにしてなんとかという動物の乳を発酵したものと食べるとより美味しいらしい。
(ブルーベリージャムをヨーグルトに入れて食べるみたいなものなのかな)
 そう思いながら綾は散策から戻った。すると、どこからかピアノの音が聞こえてきた―――気がした。
(ピアノ?)
 懐かしく、けれどありえない音色に、耳を疑う。
 この世界にも、ピアノがあるのだろうか。
 ざわつく気持ちを胸にリュデュに訊いてみたが、「ピアノはないですよ」という答えだった。
 違うなにかの楽器だろうか。
 その楽器を奏でているのは誰なのだろう。
 このまま自室に戻るのはなんとなく後ろ髪を引かれる気がして、メリヴィリーをリュデュに預けて館を探してみた。
 思い返してみると、これまでもときどきピアノらしき音がしていた気がする。
 こちらのほうから聞こえてきたという勘を頼りに、一階の、初めて足を踏み入れる廊下を歩く。ちょうど、綾の部屋と対角線上に位置するだろうか。
 館内は自由に行き来して構わないとロフォーオゥから言われてはいたが、初めての場所は緊張する。
 しんとした廊下を耳を澄ませながら歩いていると、薄く扉の開いた部屋があった。ためらいつつ中を覗いてみると、部屋の中央に1台のピアノがあった。
(グランドピアノ!)
 思わず部屋に入ってピアノに駆け寄った。
 見慣れた黒い艶のものではなく、茶色い塗装がされていて木目が薄く透けている。大きさもひとまわりほど小さい。どこがどう違うとは判らなかったが、学校の音楽室にあるピアノとは、少し違っている気がする。
 それでも、白鍵と黒鍵があり、片側に開いた屋根があってペダルがあるそれは、まさしくグランドピアノだった。
「どうして、こんなところに」
 グランドピアノも綾のように空から降ってくるのだろうかと、つい窓の向こうを見遣ってしまう。
(……まさか、ね)
 自分の想像を苦笑いし、鍵盤にそっと触れてみた。
 指を沈めると、柔らかな重さが返ってくる。
 ぽぉん、という音は、綾の知るピアノの音よりもどこか硬い。それでもやはり、紛れもなくピアノの音である。
 小学校の頃、一時期ピアノを習っていたので下手なりにもまったく弾けないわけではない。しかし鍵盤を前にして弾く曲といえば、やはりあの曲である。
 軽快な曲が、部屋に流れだす。
『ネコふんじゃった』をこちらの世界で弾ける日がくるとは、リァーカムのもとにいた頃には想像だにしなかった。
 嬉しさと懐かしさが胸の奥底から込み上がる。
 日本と繋がっている気がした。
 童謡なども適当に自分流にアレンジしながらああだこうだと弾いていると、背中に、視線を感じた。
 さっと血の気が引いた。
 現実に立ち返った綾が恐るおそる振り返ると、別室へと続く扉にロフォーオゥがいた。じっと、こちらを見据えている。
「かッ、勝手に、すみません……!」
 彼の部屋だったのか。無断で入室しただけでなく、ピアノも弾いてしまうだなんて。
 世話になっておきながら失礼なことをしてしまった。罵られるだろうか、殴られるだろうか。
「本当にあのッ、ごめんなさいッ」
「―――いや謝らなくても」
 返ってきたのは、覚悟していたのとは正反対の、柔らかな声音だった。
 穏やかな声。
 ―――そうだ。彼は、リァーカムではない。
「アルードを弾けるとは思わなかったから、驚いただけだ」
「?」
 ロフォーオゥはピアノのところにやって来、綾の隣に立って鍵盤に指を置いた。
 片手で奏でられる、綺麗なメロディー。
 驚くのは、今度は綾の番だった。
「ピアノ弾けるんですか!?」
「ピアノ?」
 言葉の―――単語のすれ違いに、綾は気付く。
「あの、この楽器のことです。わたしの世界ではこれ、ピアノって言うんです」
「ああそうか。こっちではアルードと言うから」
 リュデュが「ピアノはない」と言ったのは、『ピアノ』と『アルード』が繋がっていなかったせいだったのか。綾がイメージしたピアノはアップライトだったから、言葉が混線したのかもしれない。
 ロフォーオゥの長くてしなやかな指が鍵盤の上を軽やかに滑る。奏でられる繊細な曲に耳は心地よく、指の動きを追う綾の目は釘付けとなる。
「上手、なんですね……」
「アルード奏者になりたかったからね」
「そうだったんですか?」
「12年前までガリバルドに―――ガリバルドという国に音楽留学していたから」
「……。えええッ!」
 のけぞるほどに驚いた。
「そこまで驚く?」
「あの、いえ、だって。ロフォーオゥさん、えと、現役で辺境伯、なんですよね? なのに外国に留学とかできちゃうんですか?」
 鍵盤の指が止まり、ロフォーオゥの眼差しが一瞬陰った。
「当時は、違っててね。エゼィルクの名は、本来は兄が継ぐはずだったんだ。辺境伯の爵位を継ぐのもね。おれはアルード奏者となって王宮のお抱えになるってのが、夢だったんだ」
「お兄さんが、いるんですか?」
 リュデュの話では、この館にはロフォーオゥしかいないと聞いていた。ここには来ず、領都の館にいるのだろうか。
 兄を差し置いて、弟が爵位を継いでいる?
 いわゆるお家騒動があったのだろうか。ドラマや小説で見かける、妾腹の長男と正妻が産んだ次男との争いとかが。
「過去形だな。兄は死んだから。流行り病でね。両親もそれで命を落とした」
「流行り病」
 頷くロフォーオゥ。
「そのときおれは、ガリバルドに留学していたから、なにもできなかった」
 辛そうに言って、ロフォーオゥは時折沈黙をはさみながら、過去を語りだした。


 ロフォーオゥは4歳の頃、たまたまアルードに触れたことをきっかけに、天性の音楽の才を目覚めさせた。兄がエゼィルクの家を継ぐことが決まっていたため、彼は日がな一日思う存分音楽に打ち込んでいた。
 17歳になると、ガリバルドの首都クバールへ留学する。クバールは音楽の都と言われているだけあり、幾つもある音楽大学がしのぎを削っていた。
 留学して3年経った頃だった。
 デュンヴァルトの領都、デューリング近辺でたちの悪い流行り病が蔓延し、当時の辺境伯夫妻である両親と兄、弟と3人の妹の―――ロフォーオゥを除いた家族全員の命を奪ってしまった。
 その報を受けても、故郷にはいまだ病が蔓延っていたため、帰国は許されなかった。クバールで、悶々と過ごすことしかできない日々。
 そうして、数ヵ月が経ってようやく帰国が叶ったとき、家族の遺体はどこにもなかった。
 流行り病による死だったため、荼毘に付されていたのである。遺体のない葬儀。棺の中には遺骨すらない。空の棺で執り行われる葬儀があんなにも切なくて苦しく、虚しいものだとは思いもしなかった。
 ロフォーオゥは、音楽の道を諦めるしかなかった。唯一生き残ったエゼィルク家の人間となったロフォーオゥ。彼は国の承認を受け、デュンヴァルト辺境伯となった。
 苦難からの始まりだった。
 流行り病は過ぎ去ったとはいえ、10年以上経っても領内が負った傷は深い。人口は激減し、子供もいなければ働き手もいない。
 シェルヴァーブルグのあるレハール地方は、幸いにも大規模な病の流行はなかったが、出稼ぎ先のデューリングで命を落とした者が多く、人口を減らした村は多い。そのため老人や女子供にかかる負担が一気に増え、結果、争い事が増えた。
「おれはシェルヴァーブルグで生まれたから、思い入れというのかな、ここへの愛着が他よりもあるんだ。だから、少しでも彼らの力になりたい。そう考えてるんだが、な。ちょっと、重荷に感じるときもないでもなくて」
 そんなときは、アルードを弾いて心を落ち着かせるのだ。
 ロフォーオゥは鍵盤に指を踊らせる。物悲しいフレーズが、短く流れる。
 綾は、身近なひとを亡くした経験がない。祖父母も、父方も母方もそれぞれ健在だ。もちろん、両親や兄も鬱陶しいくらいに元気である。
 だから、ロフォーオゥの抱える哀しみにかける言葉を見つけることができなかった。『辛い経験だったんですね』と言おうと思えば言えたが、なんだかひどく安っぽくて薄っぺらい気がした。
 俯いて黙っているしかできない綾の横で、ロフォーオゥはふと笑みをこぼした。
「こんな話、誰にもしたことなかったな」
「わたしが聞いちゃって、よかったんでしょうか」
「ああ。聞いてもらいたかったからいいんだ。気にするな」
「はい……」
 きっと、ロフォーオゥなりの気遣いなのかもしれない。相手を思いやれるロフォーオゥは、やはり大人だ。
 ―――と考えたところで、ふとおかしな点に行き当たる。
「あの。訊いてもいいですか」
「ん?」
「ロフォーオゥさんって、あの、年齢のことなんですかど、……30歳くらい、なんですか?」
「うわ。やっぱ、そうくるか……」
 大仰に驚いて見せてから、がっくりとうなだれるロフォーオゥ。思いきり肩を落として脱力している。
「残念ながら〝まだ〟32歳。参考までに訊くけど、幾つくらいだと思ってたの?」
 逆に問われ、固まる綾。
「……、40、41……とか、もうちょっと、もっと上とかかな? なんて……」
 額に手をやり、ロフォーオゥは盛大な溜息をついた。
「それは……最高記録だな。30代後半はよく言われたけど、40過ぎを持ってこられのは初めてだ」
「ご、ごめんなさい」
 だが正直、こちらの人間は顔の彫りも深く、年齢の判別が難しいのも事実だった。30代だと思っていたリュデュも、実際は50近い年齢だった。
 乾いた笑いが返ってきた。
「いや、いいんだけど。ガリバルドに行ったときも、初対面でほとんどおっさん扱いだったもんな。17歳のガキをおっさんって、ちょっと待ってよってね」
 ずんと、胸が重たく痛んだ。
 17は、自分の年齢だ。
(32歳からすれば17はガキかもしれないけど。でも、こっちで5~6年くらいかそれ以上は経ってるから)
 23歳にはなっている……とは思う。
 王宮の地下室に閉じ込められていたときは壁に過ぎた日数を記していたが、周辺国歴訪に連れだされてからはうやむやになってしまい、もうどれだけの時間が過ぎたのか判らない。
 王宮での日々を思い浮かべたことで、ずっと胸に抱いていた疑問が気になってきた。
「あの。訊きたいことがあるんですけど、いいですか? その、年齢のことじゃなくて」
「ん。なに?」
「どうしてリァーカムさん……、あんなにも酷く当たるんでしょうか」
 はっとなるロフォーオゥ。
 いまでこそ表情をくるくる変えるまでになった綾だったが、シェルヴァーブルグにやってきた当初は、笑顔を浮かべてもどこか怯えが見え隠れしていた。
 いまでも、ロフォーオゥに対して怯えを見せ、警戒心を抱く様子を見せる。
 それはすべて、リァーカムに虐げられたせいだ。
 理由もなにも知らない―――推測することすらできないまま、彼女は虐待されていたのだ。
「そうだな。王宮では〝噂〟という形をとってはいるんだが―――」
 新王選定の際、王宮に滞在したときに聞いた話を、ロフォーオゥは語りだした。


 ヴェーレェンの王位は、血筋では決まらない。だが、偶然にもリァーカムは前国王の実子だった。母親は5番目の王妃。王妃は100年の命を持たないため、老いる。老いた王妃は捨てられ、若く新しい王妃を迎え入れることを王は繰り返していた。
 だがそういった王妃たちより、王にとっては時を止めて老いることなく何十年もそばにいる辺縁の姫君との絆のほうが愛おしい。
 リァーカムの母親も、王妃となって10年も経たないうちに見捨てられてしまった。彼女は夫の寵愛を一身に受ける辺縁の姫君を妬み、恨み、そうして老いて逝った。リァーカムはその怨嗟を聞きながら育ったという。
「だから陛下は、辺縁の姫君が自分にとって必要な存在だと判ってはいても、恨めしくて憎くて仕方がない。―――そう噂されている。たぶん、事実と大きくかけ離れてまではないと思う」
「そう、だったんですか……」
 自分へと向けられる侮蔑の眼差しには、そんな背景があったのか。
 そして、綾はふと気付く。
「時を止めて、って、……あの、わたしも、なんですか?」
 王が不老不死なのは聞いていた。王に血を提供し続けなければならない辺縁の姫君は、死なないにしてもどんどん老いてゆくのだと思っていたのだけれど。
「ああ。アヤも、最初に陛下に血を吸われたときの年齢のまま、100年生き続ける」
「―――」
 100という数字が、突然突きつけられた。
 〝辺縁の姫君〟という当事者でありながらも、どこか他人事の数字でしかなかった。
「そう、―――だったんですか」
 そうだったのか。
 髪や爪が伸び続けているから、普通に年を取っているのだとばかり思っていた。
 たしかに保護されて初めて鏡を見たとき――リァーカムに囚われていた頃は見ることがなかった――、自分の姿に違和感がなかった。17歳のままの姿だったから違和感がなかったのだ。
 考えてみると、自分が23歳くらいなのだとすると、確かに顔つきは幼い気がした。
「あの。わたし、ここに来てどれだけ経ったんですか?」
 訊くと、ロフォーオゥは虚を突かれた顔になった。
「そう、か。そこからなのか」
「え?」
「あまりにも当たり前すぎて、アヤは知ってるのだとばかり」
 言って、ロフォーオゥは一瞬だけ唇を引き結ぶ。
「11年だ。アヤはこちらの世界にやってきて、もう11年が経った。ごめんな。てっきり知っているとばかり思っていて、なにも説明しなくて」
「……」
 瞬きもできないまま、ただ呆然とすることしかできない。
 11年。
 にわかには信じられない。
 そんなにも。
 綾にとっては、11年という時間は、途方もない長さでもある。
 高校を卒業して、大学に行ったとしても、それよりも長い年月。
 もしかすると、友人のうちの誰かは結婚して子どももいるかもしれない。
 そのくらいの年月。
 想像もできないその空白。
(わたしは……)
 自分は、28歳になっているのか。
「大丈夫か?」
 固まってしまった綾に、気遣う声がかけられる。
 ゆるりと、綾は首肯をする。
「……11年は、すごく、長いと」
「そうだな」
「もうそんなにも、ここにいるのか、と」
「ずっと過酷な中、堪えていたんだもんな。すごいことだよ」
 リァーカムから非道な扱いの日々だった。ロフォーオゥの飾ることのない言葉に、綾はあの日々が遠く引き延ばされてゆく気がした。
 一方で、思ったよりもロフォーオゥとの年齢差が少なかったことにほっとする自分も感じていた。
 始まりのあの夜から11年も経ってしまったのか。
 空を落ちる光景が脳裏によみがえり、咬みつかれた記憶をとともに、首筋に痛みを覚えた。
(もしも……)
 ふと綾は思った。
 もしもこちらに落とされたのがたとえば小学生のような子どもだったりしたら、それでもリァーカムは容赦なく血を吸うのだろうか。もしくは高齢者だったら。想像できない光景だけれど、それでも自分がされたような酷い扱いをするのだろうか。
 ―――しそうな気がした。
 泣きわめく子ども。助けてくれと懇願する老女。それでもなお、冷酷な鬼の形相で辺縁の姫君の首筋に牙をたてるリァーカムの姿は、容易に想像できた。
 辺縁の姫君に恨みを抱いているというのに、何故リァーカムは王になろうと思ったのだろう。
 憎いのなら、必要とする立場に立たなければいいのに。
「王さまの候補になるのって、立候補なんですか?」
 辺縁の姫君に恨みを晴らすために、リァーカムは立候補したのだろうか。
「いや。ある意味、主が推薦するんだろうな」
「主、って、神さまがですか?」
「もちろん推薦状が届くとかじゃないよ。王の交代の1年ほど前になると、次期国王の候補者に牙が生えるんだ。にょきっとね。不思議なもので、レイ・スヴェンリンナ―――ヴェーレェンの国教の総本山のことなんだけど、そこに報告をしなくても、使者が牙の真贋を確かめにやって来る。で、本物だと確認が取れたら、次期国王の候補者だと認定される」
 綾は、ロフォーオゥの言葉をひとつひとつ頭の中で噛み砕く。
 噛み砕いても、理解は追いつかない。
 牙。
 それで決まると。
 文字どおり、別世界の話だ。
 王としての才能や政治手腕、血統が問題なのではなく、牙の有無なのだ。候補者の選定が牙の真贋にかかっているのは、それがこの国の大前提だからだろう。血を吸うことで、王の命が繋がれるのだから。
 根本から違うと綾は思った。習った王権神授説とも違う。
 この国の仕組みは、あまりにも綾の知る世界とはかけ離れている。
 素直に息子なり孫なりに玉座を譲れば済むのに。
「候補者は、何人くらいなんですか?」
「ふたりだけだ」
「たった、ふたり?」
 牙の生えた者順のようではないか。
「このふたりが、シムル月の二度目の満月の夜、辺縁から落ちてくる姫君を装甲機竜で奪い合って、最初にダーシュさまの血を吸った者が、新王となる。負けた者の牙は自然に抜けてレイ・スヴェンリンナに奉納されるんだけど、命がある間に国王に万一のことがあった場合、残りの在位を引き継がなければならない」
 だからロフォーオゥは、自分は玉座を継ぐ立場にあると言ったのか。恐るおそる綾は訊く。
「引き継ぐって、やっぱり、血を、吸うんですか?」
「そういうことになるな。王はダーシュさまの血を吸うのが大前提だから」
 では、いずれはロフォーオゥに血を吸われることになるのだ。この国にいる限り、血を吸われる宿命からは、逃げられないのか。
「あ。いまは吸いたい気持ちなんて全然ないから。牙だってないし」
 暗い顔になった綾を気遣って、安心させるようにロフォーオゥ。
「でも、まあ、嫌だよな。血を吸われるなんてさ。おれだって、こんなおっさん顔のヤツに血はやりたくないし」
 おどけるような物言いに、綾の気持ちがほぐれる。
 小さく首を振って、重ねて訊いた。
「王さまを継いだロフォーオゥさんに万一のことがあったらどうなるんですか?」
「王位継承者が在位を継いだ時点で、その次の在位を引き継ぐ者に牙が生えるらしい。牙といっても、血を吸えるようなものではないらしいが、おれにもよく判らん」
 ひとを超えた存在によって動かされている世界。いままで過ごしてきたこの世界は、とんでもない世界だったのだ。いまさらながらに受けた衝撃で、綾の頭は整理しきれない。
「王宮では、なにも教えてもらえなかったんだな」
「基本的なことを、教えてもらっただけで」
「王の即位に関わることは、辺縁の姫君にとって基本的なことだよ」
 どこか憐れむように、ロフォーオゥはこぼす。
 綾がなにも知らされなかったのは、リァーカムの命だったのだろうか。教える価値はないから、と。
 自分に向けられる、憎々しげな眼差しがよみがえる。
 王選定の際、リァーカムがロフォーオゥから綾を奪ったのは、きっと母親の恨みをぶつけるためだ。あまりにも危険な強奪だった。危険を冒してでも玉座が欲しかったというより、己の抱える恨みを晴らしたかったのかもしれない。彼の王としての力量は知らないけれど、少なくとも王宮での噂や綾への態度がそれを物語っている。
(マザコンだったんだ……)
 と思うものの、自分の母親が父親に見てもらえない姿をずっと間近にしていたのなら、悔しくて悲しくて、怒りを覚えるのも当然だ。
 綾に辛く当たりながらも、王妃であるクラーラへは深い愛情を注いでいるリァーカム。あの裏表な態度も、父親のようにはならないという決意の表れなのかもしれない。
 そう思うと、彼を憐れとすら感じる。リァーカムも、もがいていたのか。
 彼もひとりの人間だったのか。
 リァーカムを許せない気持ちに変わりはないのに、彼への一方的な恨めしさが、後ろめたくなってしまう。
 こんなことなら、真実など知らないほうがよかった。
「陛下は男前でいらっしゃるからな。冷たい態度を取られるのは、辛いよな」
「え?」
 黙り込む綾に、ロフォーオゥは誤解したらしい。
「アヤが憎いわけじゃなくて、辺縁の姫君に対して思うところがあるだけなんだよ、きっと」
「そ、そんなんじゃないです、確かにカッコイイですけど、でも、あんなんじゃ幻滅です。あの、だから幻滅とかそういう気持ちじゃなくて。―――クラーラさんにはすごく優しくて、……むかつきましたけど」
「そうか」
「あのだから、だから全然違うんです、ロフォーオゥさん誤解してます!」
 全身で否定する綾に、ロフォーオゥは圧倒されながらも苦笑する。その笑みのまま、優しく綾を見つめ返す。
「ずっとひとりでいたんだな、アヤは。すごいよ」
 力付けるように、ロフォーオゥは微笑む。その甘やかさに、綾はどきりとする。
「さっき、弾いてた曲、なんて曲だったの?」
 ロフォーオゥは話題を変えた。
「最初弾いてた曲。楽しい曲調だったけど」
 記憶を辿るように口ずさむロフォーオゥ。
「『ネコふんじゃった』ですか?」
 弾いてみる綾。外国に留学したひとの前で弾くのは緊張する。
 ロフォーオゥは綾の隣で、見よう見まねで一オクターブ上で一緒に弾きだした。すぐに彼は自分なりのアレンジを加えてゆく。主旋律をなぞるだけの綾とは違い、どんどん音が装飾されて、違う曲へと昇華される。水が流れて弾けるような輝きが、ロフォーオゥの奏でる『ネコふんじゃった』にはあった。
 指が、肩が、腕が触れる。心の動きが、音に映ってしまいそうだった。
 ロフォーオゥの『ネコふんじゃった』に鍵盤を譲るふりをして、綾は椅子から立ち上がった。
「あ。邪魔、しちゃったよな」
「いえ。なにか、曲を聴かせてください。こっちにはどんな曲があるのか知らないので」
「よっしゃ。じゃあ」
 ロフォーオゥは空いた椅子に座り直して、軽く袖をまくる。少し悩んだあと、そっと鍵盤に指を置いた。
 流れだしたのは、上品で洗練された曲だった。雄大な曲に、心の奥底があたたかなぬくもりで満たされてゆく。
 職人のような滑らかな指の動き。曲の流れに身を任せたくなる。あふれ出る涼やかな音の連なりに惹き込まれてゆくのを、綾は止めることができなかった。
 朗々と曲の世界を奏であげるロフォーオゥ。彼自身の内面が、曲という形になって広がっていた。
 綾がこの世界に落とされて11年経ったと言っていた。ロフォーオゥが爵位を継いだのもきっとそのあたりだ。病の蔓延からの復興からだけでなく、爵位を継いだばかりで混乱を極めていただろうに、それでも牙が生えたがために王都での新王選定の儀式に臨まねばならなかったのか。
 誰も、反対しなかったのだろうか。
 行かないでと、そばにいてと懇願するひとはきっといたはずだ。
(ロフォーオゥさん、彼女、いるのかな)
 清冽な音の流れを聴きながら、なんとなくぼんやりそう思う。
「―――辺縁では、みんな音楽をたしなむものなのか?」
 いきなりロフォーオゥが訊いてきた。ピアノ―――アルードを弾く手は止めないまま、隣の綾に問う。
「え?」
「アルードの原型は、大昔にラーゲルという国の辺縁の姫君が、辺縁の楽器を伝えたのが最初なんだ。前の辺縁の御方はどうかは知らないけど、アヤもアルードを弾くだろう? あちらでは、女性も楽器をするのかなって」
「全員がというわけじゃないですけど、……」
 綾の言葉が途切れる。
 いま、なんと言った?
「他の国にも、辺縁の姫君がいるんですか!?」
「すべての国ではないけど、ヴェーレェン以外にも辺縁の姫君と縁の深い国はちらほらあるようだよ」
「いまも、いまもいるんですか? そのひとたちに、会うことはできるんでしょうか」
「どうなんだろう。判らないな」
 身を乗り出して問う綾に対し、ロフォーオゥはただ小首をかしげるだけだった。
「判らない、ですか……」
 物足りない答えに、綾の声は尻すぼみになる。
 この国以外にも、辺縁の姫君がいる―――のかもしれない。いま、この瞬間も。同じ空気を吸っている同郷のひとがいる。
 そのひとたちも、空を落とされたのか?
「他のみんなも、空を落ちて血を吸われるんですか?」
「いや。王の選定に辺縁の姫君の血を必要としているのは、ヴェーレェンだけらしい」
「え?」
 ヴェーレェンだけ。
 綾だけだ、と。
 同じ〝辺縁の姫君〟なのに?
「ただ、血は吸われないにしても、どの姫君もその国の運命を握る重要な存在だ。この世界は、辺縁の姫君が降嫁されることで成り立ってるとも言える」
「どうして、どうしてヴェーレェンだけが、わたしだけが血を吸われるんですか?」
「そういうことになってるから、としか」
「どうして、ヴェーレェンにわたしは落とされたんですか。どうしてわたしなんですか」
「……おれには、判らない」
 言って、ロフォーオゥはアルードを弾く手を止め、綾を見上げた。
「おそらくは誰にも判らない。すまない」
「……」
 ロフォーオゥの眼差しはあまりにもまっすぐで、綾にはそれ以上言葉を重ねることができなかった。
 綾が選ばれたこと、血を吸われること。その理由は誰にも判らないけれど、それが是であるとしてこの国は動いているのだ。きっと、辺縁の姫君と縁があるという他の国々も。
 不可思議なのはこの国ではなく、この世界なのだ。
 ただ、同じ状況の仲間がいるのなら是非とも会ってみたい。
「前の辺縁の御方おかたならば、陛下が大聖堂でアヤの血を吸ったあの場にいらっしゃったよ」
「わたしの前に血を吸われていたひとですか?」
「ああ。前の王陛下と一緒に、おれの抜けた牙を確認なさってた。覚えてる?」
「はっきりとは……」
 目覚めたあとの礼拝堂に、確かに20代くらいの女性がいた気はするけれど。
 あのひとも自分と同じようにいきなりこちらに落とされて、100年もここに……?
「その辺縁の御方さんには、会えるんでしょうか」
「『さん』はつけなくていいよ。―――辺縁の御方とダーシュさまは、あの儀式で顔を合わす以外には会ってはならないんだ。ヴェーレェンが遥かな昔に凄惨な戦国時代に突入したのは、おふたりが面会したからだと言われている。ふたりの接触は、絶対の禁忌だ」
「そんな」
 会って、いろいろ話を聞きたいのに。
「手紙はどうなんです? 壁ごしとか、ひとづてとかで話をするのは?」
「許されていない。絶対の禁忌だ。国が滅びる。ダーシュさまと接触させないよう、辺縁の御方の居場所は誰にも明かされない。接触の動きがあった場合、辺縁の御方は殺される運命にあるそうだ。会いたいだろうが、堪えるしかない」
「じゃあたとえば、辺縁の御方が住んでた場所とかに行って、なにかメッセージみたいなのを探すのは? 本人が知らずになにかを残してて、それを見るのは? えっと、それこそアルードとか、楽譜とか、絵とか。曲だったり」
「細かな例までは、おれには判らない」
 感情を感じさせない静かな口調だった。そっと浮いた手のひらが、再び鍵盤を奏で始める。どこか悲しげなねこふんじゃったが流れだす。
 ロフォーオゥと自分とでは、立場も考え方も全然違っている。こちらが物足りないと感じても、ロフォーオゥにとってはそれで充分な知識なのだろう。
〝辺縁〟という見えない決まりが、がんじがらめに自分を縛りつけている、そんな気がした。
「―――わたし。帰れるんでしょうか」
 胸の底に抱えてきた不安が、口をついて出てきた。
 答えを聞くのが怖くて、誰にも訊けなかった思いだった。
「辺縁の姫君は、100年、時を止めて王に仕えると聞く。少なくともその間は、帰れないんじゃないかな」
 アルードを弾くロフォーオゥの表情は、ちょうど影になって綾からは見えない。
「100年経ったら、帰れるんでしょうか。辺縁の御方に会えないってことは、本当は元の世界に帰ったからなんじゃ?」
 動きを止め、綾を仰ぎ見るロフォーオゥ。申し訳なさそうな顔をしている。
「帰りたいよな。でも100年経ったあとの辺縁の御方については、接触が禁じられているということ以外、なに知らないんだ。すまない」
「……」
 答えがなかったことに、落胆している自分と、ほっとしている自分がいた。
 ロフォーオゥが謝ることではないのだけれど。
 綾はそれ以上、彼に問う言葉を探せなかった。

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