月満ちる国と朔の姫君

トグサマリ

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序章

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 雲ひとつない深い紺色の空。肌に沁み込み喉を通る、きんと冷えた空気。踏みしめている硬い砂。
 まるで天の底が眠っているかのような、紺一色の風景。
 ディーナは砂漠の真ん中に、ひとり立っていた。首をめぐらせても、まわりには誰もいない。空にあるはずの星は、何故かひとつもなく、ただただ痛いほどの静寂の中、彼女はぽつねんと佇んでいる。
 遠く地平線の一部が、ほんのりと明るい。夜明けが近い時間なのだろうか。
〈アルー……〉
 静けさに紛れるような声が、頭に響いた。男の声。はっと振り返る。
 しかし紺の空と黒い砂漠が広がるばかりで、誰も、いない。
〈ラシャ……ラール、……トゥ。アルー・カ……、……ザ・ハ……ラ。ア……トゥ。ディーナ・アルカヴァーレ。……ベイ……。ダンティ・ベイ……、ディーナ〉
 続く声は、呪文のようだった。自分の名前しか聞き取れないそれは、エル・ザンディの言葉ではない。
〈ディーナ。……ナ。ディーナ〉
 単語ひとつひとつが響きあい、干渉しあって、はっきりと聞きとることができない。
 あたりを見渡しても砂漠にいるのは、自分ひとりきりだ。たった独りだった。
 声は、頭の中に直接語りかけられているのか、耳の奥というよりも喉の奥がくすぐられているような感触があった。
 繰り返される声とともに、静かに、夜が明けていく。うっすらと明るくなってきている東の空。どうしてだか、その向こうから呼ばれている気がした。
 砂漠の東。
(バハーバドル……語?)
 バハーバドルは母の祖国だ。
〈―――ディーナ〉
 ひときわ強く響いたまっすぐなその声に、はっと目が覚めた。
 深い紺色の世界が、広がっていた。夜明けを迎えようとしている自室の寝台に、ディーナはいた。
〈アルー……〉
 あの声が、頭の中に鮮烈に刻み込まれている。
 ―――それが、すべての始まりだった。


 砂漠で呼ばれる夢、ただそれだけのはずだった。
 だから、数日後、中庭の木陰で涼んでいるときにふいに頭の中で同じ声が聞こえてきたときは、驚きよりも底知れない恐ろしさを感じた。
 木陰で休んでいるときだけではなかった。その後も、声は聞こえてくる。
 絵物語を読んでいるとき、友人とお喋りに興じているとき。時や場所など関係なく、思い出したかのようにそれは語りかけてくる。屋敷から離れ、父にバザールに連れていってもらっても、喧噪の中、はっきりとその声はディーナに語りかけてくるのだった。
 頭の中に響いてくるということと関係があるのかもしれないが、どういうわけか、声が聞こえるのはディーナだけだった。
 何度も何度も語りかけられるごと、ぼんやりしていたその呪文は、はっきりと聞き取れるようになっていく。
〈ラシャブ・ヒルラール、ロストゥス。アルー・カウン、ダザ・ハディーラ。アレァートゥ。ディーナ・アルカヴァーレ。ダンティ・ベイ・キュッラ。ダンティ・ベイ・キュッラ、ディーナ〉
 思ったとおり、バハーバドルの言葉だった。
 感情の起伏もなく呪文めいていたそれは次第に、どこか差し迫った声音になっていく。聞かされるこちらが不安になるほどに。

「―――あ」
 砂漠からの乾いた空気がゆるりと町を覆いだす昼下がり。母とテラスで昼食後のお茶を飲んでいるときだった。例の声がまた、頭の中に語りかけてきた。
「ディーナ? どうかしたの?」
 カップを口の前で止めて突然固まったディーナに、母親のライラが問う。
「あ……うん」
 なんでもない。忘れていたことを思いだしただけ。そう適当に誤魔化そうとも思ったけれど、じっとこちらを見つめてくる母親の眼差しに、母になら縋ってもいいだろうかという思いが胸をよぎった。
 こちらの事情などお構いなしで語りかけてくる幻聴に、頭がおかしくなってしまったのかと不安が大きくなっていたこともあって、ディーナはバハーバドル出身の母に思いきって訊いてみた。
「あの、ね。『ラシャブ・ヒルラール』って、八月の新月って意味だよね?」
「? そうだけど」
「じゃあ、『アルー・カウン』って、大空って意味で合ってる?」
 途端、ライラの顔色が、さっと変わった。
「どこで聞いたの、その言葉」
「え、……っと」
 思いもかけない母の真剣な声。その真面目な顔つきに、ぞくりと胸が騒いだ。
 言ってはいけないことだったのだろうか。けれど、〝言ってはいけない〟とはどういうことか。この単語は、頭の中で語られる言葉の一部だ。母が知るはずはないというのに。
 母は食い入るようにディーナの答えを待っている。どうしようとためらったが、訊いた以上、最後まで言うべきだろう。
「あの、ね。おかしくなったって、思わないで欲しいんだけど。―――声が、聞こえるの。ずっと。頭の中で。最初は夢だったんだけど、幻聴みたいな感じでいまも聞こえてきて……」
「声……。どんな声? いつから? なんて言ってるの」
 眉根を強く寄せ、青ざめて問う母。いつだって奔放な母だったのに、別人にすら思える。こんな母は、初めてだった。
「お、男のひとの声で、〈ラシャブ・ヒルラール、ロストゥス。アルー・カウン、ダザ・ハディーラ。アレァートゥ。ディーナ・アルカヴァーレ。ダンティ・ベイ・キュッラ。ダンティ・ベイ・キュッラ、ディーナ〉って。バハーバドル語だよね。八月の新月に大空を飛ぶ。ディーナ・アルカヴァーレ、急げ。急げ、ディーナ、……で、いいの? 繰り返し聞こえるんだけど、わけが判らなくて。あたし、病気なの? どうしよう……」
 何度も頭の中で繰り返される文言だったから、謎の言葉は空で言えてしまう。それを黙って聞いている母親の顔はどんどん険しくなっていって、ディーナは悪いことをしてしまった気がした。
 がしゃんと、ライラの手から、カップが落ちる。落としたことに気付かないのか、顔面蒼白で、呆然と立ち上がる。
「おか、お母さん……?」
 わななきながら、ただただライラはディーナを見つめている。その視線の強さに、ディーナの胸にますます恐怖が生まれる。
「あなた……」
 ややして、ライラは掠れた声を発した。
「あなた! ダンテ! 大変! たいへん! どうしようううううッ!」
 この場にいない夫の名をわめきながら、ライラは慌てふためいて部屋から出ていってしまった。
「―――え? と。お……お母……さん……?」
 わけが判らないままのディーナをひとり、部屋に残して。



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