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第三章
3
しおりを挟む「―――?」
言っていることが判らなかった。人間の母、とは、どういうことか。
警戒するレーナに、ロジェ神はかぶせるように言う。
「ヨアンの子を、宿しているな」
(!?)
レーナは思わず腹部に手をやった。
(ヨアンの、子供……!?)
手のひらの下のこの体内に、ヨアンの命を受け継ぐ生命が宿っている―――?
(あのときの)
最後にオペラを観た夜に宿ったのだ。直感がそう告げる。
「ヨアンが……」
ヨアンが、ここにいる。
レーナの中で、愛しいヨアンの姿がよみがえる。朗らかに笑うヨアン。恥ずかしそうに照れているヨアン。怒っているヨアン。愛情深くレーナを見つめるヨアン。
(ヨアンの子供が……)
お腹の中に。
「お前はこれから地に降り、そこで生きてゆくのだ。楽園を追放された者という烙印を背負って」
「ヨアンは?」
この子の父親として、ヨアンもともに地に降りてくれるのだろうか。
ロジェ神は首を振る。
「地へ行くのはお前だけだ。そこで子を産み、育てるのだ」
「そんな……」
ロジェ神の言う〝地〟とは、ロマン・トゥルダのことではない。聖書に記されてあった、魔物の棲む荒涼とした大地のことだろう。神の光がかろうじて届くという場所。夜になれば魔物が跳梁跋扈するという。
そこに、たったひとりで。
神に護られたロマン・トゥルダで生きていた者が住める場所ではなかった。
唯一の望みは、聖書の記述が必ずしも正しいとは言えないと判ったことだった。それでも、見知らぬ土地であることに変わりはない。
「冗談でしょう?」
こぼれた呟きに返ってきたのは、冷酷な眼差しだけだった。
ロジェ神は右手を正面に差し出した。すると、レーナのいる床が急にぐにゃりと溶けだした。
「これは決定だ。ヨアンはロマン・トゥルダで、お前は地でまたわたしを楽しませるのだ」
「や……、いやだ……ッ! やめて」
ぬるりと落ちこむ床にレーナは必死で爪を立てる。しかし流れる床面は、彼女の身体を見る間に呑み込んでゆく。
「いや、ロジェ……!」
レーナを見下ろすロジェ神の眼は、残酷な光に揺らめいていた。―――楽しんでいる。
こいつは、最後まで。
「許さない……! 絶対にあなたを許さない! いつか、いつか必ず復讐してやるッ!」
「なんとでも言うがいい。どうせお前の記憶はすべて消え去る。ロマン・トゥルダのことも、ヨアンのことも、自分自身のこともなにもかも忘れ去るのだ」
「悪魔だわ。あなたは自分が神だと思い込んでる悪魔よッ! いつか―――」
レーナの言葉は、最後まで伝わらなかった。彼女はロジェ神の前で床に呑み込まれ、―――未開の地へと堕とされていった。
レーナの姿が完全に見えなくなったあとも、ロジェ神の眼には、酷薄な笑みが浮かび続けていた。
*
古代神話にはこうある。
―――遥かなる太古、天上に神の楽園があった。人々はそこで争いもなく平和で、常に幸福に満ち足りていた。しかしあるとき、ひとりの娘が現れ、知識を生み出した。楽園は知識のために崩壊し、娘は追放された。偉大なる神は娘を哀れに思い、彼女にひとつの生命を与えた。
荒涼たる大地に落とされた彼女の身体には、神との子が宿っていた。太陽と月が七回天をめぐったとき、彼女は神の子を産んだ。
それが我々人間の祖、ヨアン・ファーレンそのひとである、と。
また、偉大なる神と敵対するサタンの名もヨアン・ファーレンと呼ばれているのはどのような不思議なのかは、謎のままである。
了
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