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黙っててくれて、ありがとう

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 日曜の夕方に電話をもらった翌週。
 そんな出来事存在しておりませんって感じで、課長は相変わらず人生つまんなそうな様子で淡々と仕事をしてる。
 あたしのほうも、課長とは挨拶と業務上の言葉のやり取りしかしない。課のみんなは、課長が飼っているらしい猫の話題も飽きたのか、もうそろそろ黒いGの季節でイヤだねぇと、どうでもよくないけどどうでもいい話をするようになっていた。
 あたしと課長だけが知っている秘密。
 あたしと課長だけで交わしている約束。
 そのふたりともが、なにもありませんよという顔をして、同じ課内で仕事している。
 ヘンな意味はないのに、その特別感が知らず、胸の内を湧き立たせていた。


 残業をこなしながらも長い一週間が終わって、とうとうやって来た土曜日。
 梅雨前の暑い一日だ。
 あたしはシフォンブラウスとパンツを合わせて、カジュアルなジャケットを羽織る。友人とランチするわけじゃないから、ちょっとだけビジネスっぽいものを漂わせておく。
 待ち合わせ場所は、ウチと課長のトコの中間あたりにある駅前広場。降りたことのない駅だけど、駅前広場……というよりもクルマの送迎スペースのような寂れた場所だった。
 土曜日の昼なのに、だからこそなのかもしれないけど、それなりに閑散としている。ここで待ち合わせして、どうするってんだろ。近くに美味しいお店があるようには見えないけど。
 改札から出て駅前広場らしき場所に出ると、右手の日陰になったところから課長が歩いてくるのに気がついた。
「呼び出す形になってしまって、悪かったな」
「いえ。どうせ家でほっけとごろごろしてるだけですし」
 課長は当たり前だけど、スーツ姿じゃなかった。Tシャツにシャツを羽織っただけだ。たったそれだけなのに、会社でのイメージと違ってくる。枯れたおっさんっていう印象が、ちょっとくたびれたハーフのおっさんになってる。褒めてます。気持ち、良さげになってる感じ。去年動物病院で遭遇したときはコートを着てたから、きっとここまで感じなかったんだろうな。
「お勧めのお店はこのあたりなんですか?」
「うーん、お勧めというか、美味しそうな店かな。フリーマガジンに載ってて。いい年したオヤジがひとりで入るにはちょっと勇気がいったんで」
「最近はどのお店も女子会を意識してか、あたしでも入りづらいお店がありますもんね」
「そうなの? あ、こっちね」
 微妙な距離を開けて、課長はあたしの前を行く。シャッター率の高い駅前の商店街を抜け、道を一本入る。
 へぇ、道を一本入ったこっちのほうが、発展してて洒落てるんだ。
 課長はその街路樹が並ぶ歩道を歩き、真ん中あたりにあるお店の前で足を止めた。
「そうだ。いまさらだけど、食べられないものとかってある?」
「ないですよ。アレルギーもありがたいことになにもないです」
「よかった」
 ほっと課長は微笑む。
 課長のこういう笑顔って、すごく無防備だ。仕事しててもいつも思う。課長の人生楽しいのかってぼやいてたよこちゃんでさえ、「ときどき思うんですけど、褒めるときの課長の顔ってずるいですよね」って怒ってるんだか喜んでるんだか判んない反応するし。でも、すぐに悪いことしたみたいに表情を消しちゃうんだよな、もったいない。
 課長が選んだお店は、イタリアンと洋食を足して二で割ったようなカフェだった。
 うん。確かにこれは魅力的な雰囲気だけど、女子オーラが全開だ。テーブルの八割くらいがきらきらな女子づくし。いくら美味しくたって、おっさんが抵抗なく入れるようなお店ではない。カフェって謳ってるけど、あたしだって、ひとりじゃ絶対入れないよ。
 本日のランチメニューは、ふわとろドリアとサラダパスタの二種類だった。あたしたちはそれをひとつずつ頼むことにした。
「改めて、しわすが世話になった。ありがとう」
 注文を頼み終えると、居ずまいを正して課長は頭を下げた。
「いいんですってば。かえってこっちが申し訳ないくらいです、そんなつもりじゃなかったから」
「それでもあのとき加持さんが来てくれたから、しわすが助かったわけだし。本当にありがとう。迷惑をかけた」
「気にしないでください。もしものときは助け合いです。ほっけにモンプチをごちそうしてもらいましたし」
「いや……」
 しーちゃんのあの騒動を思い出しているのか、課長は思いを馳せるように相槌を打った。
 ふわとろドリアを選んだ課長にサラダ、サラダパスタのあたしのとこに魚介類のマリネが運ばれる。
 あのときのこと、ずっと気にしてたんだろうな。
 しーちゃん騒動のお礼を言った課長は、プレッシャーから解放されたのか、猫の生態についていろいろ質問をしてきた。
 爪とぎにはどう対処していけばいいのか。カーテンレールに駆けのぼるはいいものの降りれなくなるのには困る。首輪はつけるべきか。去勢の時期はいつ頃がいいのか。ゴミ箱をあさることを覚えたんだが。トイレの猫砂はどういうものがいいのか。
 メインが運ばれてきても、課長の質問は止まらない。
 ふわとろドリア、美味しそうだな。暑かったからサラダパスタにしてみたけど、冷房が効いてる中にいると、さっぱりしたものよりも温かいものが恋しくなったりもする。今度このお店に来る機会があったら、ふわとろドリアを頼んでみよう。
「猫砂といえばですけど」
 質問に答えている間にメインもドルチェも食べ終わり、テーブルの上にあるのは食後のコーヒーになっていた。
 ストローでからんとコーヒーに入れたシロップを混ぜながら、課長の部屋でのことを思いだす。
「寝室に猫トイレって、キツくありません? しーちゃん、シたあと砂かけないっぽいですし」
 暗に、おっきいのをされるとにおい直撃だよね? と含める。
「んん。食事をする近くには置かないほうがいいのかなと思ったら、あそこしかなくて」
 確かに、猫トイレを廊下に置くと、ものすごく窮屈になってしまいそうだ。
「ソファの向こう側に置いておくとか。ちょっと狭くなっちゃうかもですけど」
「それも悩んだんだよね。でも食事中にされて臭ってくることを思うと、究極の選択で」
「なるほど……」
「玄関から出ないようにリビングのドアは留守のとき閉めておきたいし」
「ああ、そうですよね」
 あたしもほっけが玄関から飛び出ないようにいつも神経尖らせてるもん。
「―――寝室のこと、だけど」
「え。あ、はい……」
 本題、だ。
 アイスコーヒーのうっすらと汗をかいたグラスに手を添えて、課長は言葉を探している。添えられた手の薬指にはまる結婚指輪。
 きっと、そのことだ。
 和やかだった空気が、ぴりりと引き締まる。
「黙っててくれて、ありがとう」
「いえ。当たり前のことですし。……猫砂は、ウチはおからのを使ってますよ。いろいろ試したんですけど、おからのが一番しっかり固まってくれて取りやすくて」
「妻と、娘なんだ」
 あたしの言葉を遮るように、課長は言葉をほとばしらせた。
「……」
「あれを見て、なにも思わないわけないだろうから。加持さんには言っておこうと」
「あの……。その、勝手に見てしまって、申し訳ありません……」
 弱々しく課長は首を振る。疲れきったような、諦めたような、見ているこっちが苦しくなる。
「気にならないと言えば嘘になりますけど、無理して訊きたいとか、そういうことはないですから」
「加持さんは、優しいね」
 今度はあたしが首を振った。ヤだな。気まずいよ、この雰囲気。
 課長は儚げな笑みを浮かべて、ひと口、コーヒーを飲む。
「加持さん、クルマの運転するだろ?」
「? はい」
「加持さんにはきっと、関係のないことだろうけど、年寄りの戯言を、聞いてもらってもいいかな」
 そう言って、課長はまっすぐあたしを見たのだった。


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