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なんじゃこれは
しおりを挟む教えてもらった家の住所をナビに案内してもらいながら、あたしはなんとか課長の家に辿り着いた。
賃貸マンションっぽいんだけど、南側の道路から見た限り、課長の部屋があるという三階のベランダ、ファミリー向けには狭い気がする……ちらっと見ただけだから気のせいなのかもしれない。
来客用の駐車スペースにクルマを止め、三〇五号室へと急ぐ。両側に並んでいる扉の間隔が、狭い気がする。
うーむ。
違和感を拭いきれないながらも、一応、呼吸を落ち着かせてからインターホンを押してみる。
ピンポーンというどこにでもありがちな音が、扉の向こうから聞こえてくる。
待つ。
奥さんか子供さんが帰って来てるかもしれないし。
待つ。
もう一回、押してみる。
待つ。
……。全然、ひとの気配がない。
「あの。おはようございます、課長にはいつもお世話になっています、加持と申します。あの……、しわすちゃんの具合が悪いと緊急の連絡がありまして……」
自分で言ってて、なにを言ってるんだと突っ込みたくなる。
もう一回、インターホンをダメ押しした。
うぅぅ、誰もいないの? そんな、ヤだなぁ。部屋に入った時点で奥さんが帰ってきて「きゃーッ! あなた誰よッ!」って不法侵入で訴えられたらどうしよう。課長はひとりだからって言ってたけど、そんなのどうだかあてにならないし。
玄関前で迷いに迷って。でも、猫の命がかかってるんだ。
ええい、ままよ! と、時代劇みたいな決意をして、あたしは教えてもらっていた鍵の隠し場所に手を突っ込んでそれを拾い上げた。
玄関の扉を開けると、感じていた違和感は強くなる。狭くて暗い玄関だ。下駄箱の上に衣服用のコロコロと、足元にはそれを捨てる小さなゴミ箱があった。
「あの。加持です。しわすちゃんの様子を見させていただきたいと思いまして。その、……勝手にお邪魔します、申し訳ありません」
でもな。まさかね、という思いがまだあったから、くどいくらいに断ってから、あたしは部屋に上がり込んだ。
部屋の奥で、がさがさ! ってなにかが動いた音がした。
きっと、しわすちゃんが人見知りしてどっかに逃げ込んだんだろう。
玄関から延びる、短い廊下とも言えないような廊下。その先にある擦りガラスの嵌まった扉を開ける。
「ぅおう」
おっさんみたいな声が出てしまった。思わず固まってしまう。
目の前に広がっていたのは、奥さんが綺麗に整えた麗しいリビングの光景ではなく、
「な……なにこれ」
惨状、もしくは混沌と言うべきか。
ソファに脱ぎ捨てられたパジャマ、しわすちゃんのおもちゃであろう白い綿が飛び出ているぬいぐるみ、壁際どころか部屋のど真ん中にも転がっている埃と毛玉、カーテンレールにかけられたままの洗濯物、テーブルに積み上がった何日ぶんもある新聞とチラシ、その間に埋もれているノートPC、開封したものの読んで放っておかれているのだろう郵便物、床に出されたままのアイロン台とアイロン。
壁に立てかけてある段ボール製の爪とぎと、周辺に散らばっているそれらの屑。近くに落ちていた、紐が結ばれた洗濯バサミ……は、しわすちゃんのおもちゃなんだろう、齧られた痕がすごい。
空気はもわりと籠っている。
なんじゃこれは。
どこの独身男の部屋ですか。
食べ物の残骸とかは、さすがに猫がいるだけあって見当たらないけど、なんなんですか、この惨状は。
奥さん! 奥さん早く帰ってきてあげて! 課長がむさくなってますー!
と呆然としていたけど、はっとしわすちゃんのことを思い出した。
「しわすちゃん? しーちゃん?」
文字どおり猫なで声で、どこかに隠れてるだろう猫を呼ぶ。
トイレに苦しんでるって言ってたから、トイレをまず探そうか。
「おじゃましまぁ……す」
ぱっと見、この部屋は1LDKっぽい。課長には似合わないけどキッチンもカウンターになってる。あたしの部屋とあんまり変わらない広さな気がするな。ここに家族で住んでる……の?
頭の中にクエスチョンマークを増殖させながら、キッチンスペースや洗面所などを探していく。
しわすちゃん、どこにもいない。
唯一探していないのが、キッチンの奥にある半開きの扉の向こうだった。
寝室……だよねぇ、あそこって。
ドアストッパーを噛ませてある扉の向こうは、カーテン越しだろう深い青色の光に照らされている。
さすがに寝室に入るのは、抵抗が……。
と尻込みしていたら、寝室のほうからがさっがさっていう猫砂を掘ってるっぽい音が聞こえてきた。
……。
寝室に猫トイレ置いてるんだ……。おっきいほうされたとき、臭いじゃない……。
「しわすちゃん……?」
もう知らないからねと腹をくくってそっとドアの隙間から顔を覗かせてみると、部屋のど真ん中にベッドがどんと置いてあった。
リビングの混沌っぷりから導き出されるように、もちろん整えてあるわけがない。起き上がったときのまんま布団はめくれあがっている。シーツもぐちゃぐちゃ。枕は端から落ちそうになってる。どんだけ寝相が悪いのよ、課長は。
でも……、シングル、だよね、このベッド。枕もひとつっぽいし。床に布団が敷いてあるわけでも……ないし。
うーむ。
きゅぅぅと、猫の声が耳に入ってくる。
「しわすちゃん? しーちゃん? 大丈夫?」
下手に刺激しないよう、声を極力落として問う。ゆっくりとゆっくりと雑然たる部屋へと歩を進め、しわすちゃんの様子を探る。
しわすちゃんは、キジトラの猫だった。まだ数ヵ月っぽい仔猫ちゃんだ。小さな身体で、部屋の隅に置いてある猫トイレで、真剣にじっと踏ん張っている。
耳を澄ませてみるも、おしっこの音は聞こえない。
「しーちゃん、病院、行こう? ね?」
しわすちゃんはあたしと目が合うと、はっとなってトイレから飛び降りた。あ、捕まえないと逃げられちゃう! って慌てたら、なんとうまい具合にそばに置いてあったキャリーケースにすぽんと逃げ込んでくれた。
なんていい子なんだ、しわす。ちょろい。
しめしめとキャリーケースの蓋を閉めて、持ち上げる。
―――と、思いがけないものが目に飛び込んできた。
がつんと頭を殴られた気がした。
仏壇、だった。
書類ケースとあんまり変わらないくらいの大きさの小さな仏壇が、数段しかない箪笥の上に置いてあった。
観音開きの扉は、開いていた。
「……」
いけないとは思いながらも、足は吸い寄せられてしまう。
リビングや寝室は泥棒に入られたんじゃないかってくらい混沌としているのに、仏壇だけは、すごく綺麗に整えられていた。
位牌がふたつと、ふたりの人間が笑顔で写っている一枚の写真。小さな花と大袋から取り分けられたお菓子が供えられていた。
若い。
あたしよりも若い女性が、赤ちゃんと一緒にこっちに向かって微笑んでる。
若くて、綺麗。ものすごく美人っていう感じじゃないんだけど、幸せオーラが全開で、だから表情が輝いてて惹きつけられてしまう。
えと……、これって、まさか課長の……奥さん、と、子供……?
どういうこと? だって、だって、こんなところに普通の家族写真は、飾ったりしないよね?
胸がどきどきと嫌な鼓動を始める。
も、……そうよ、もしかしたら、お母さんかもしれない、よね。若いときに亡くなったとかでだからこういう若い写真しかなくて、一緒に写ってるのは課長の兄弟とか、もしくは本人かもしれないけど。
そうかそうか。課長はマザコンなのだなそうなのか。
ごそり、と持っていたキャリーケースの中でしわすちゃんが身じろぎしたことで、はっと自分の役目を思い出す。
いけない。しわすちゃんの病院なんだった。
玄関入ってすぐの下駄箱に、新たに通うようになった動物病院の診察券が置いてある。そこに記されていた電話番号をナビに入力して、なんかもう、とにかく振り切るようにして、あたしは動物病院に向かった。
獣医さんに診察してもらった結果、尿に結晶ができてしまい、尿管を詰まらせてしまったとのこと。仔猫なのにちょっと珍しいですと言われた。
処置室でカテーテルをあそこに突っ込まれて、鎮静剤でぼんやりしているしわすちゃんの姿は、飼い主じゃなくても痛々しくて見ていられない。
結晶を抜き取り、十日分の薬と専用のエサを出された。結晶を溶かすためのエサが処方されたので、むちゃくちゃ会計で持ってかれた。
もしやと思って多めにお財布にお金入れておいてよかった。
しわすちゃんの処置に思った以上に時間がかかって、動物病院を出たときはもうお昼の時間だった。
鎮静剤をかけたから数時間は様子を見ておいてくださいと言われたから、気が重いながらも課長の部屋に向かう。あたしの部屋にしようか迷ったけど、ほっけがどう反応するか判んないし、どのみちいずれ課長の部屋に返しに行くのなら同じことだ。
課長のマンションの近くのコンビニに寄って、お昼ご飯や雑誌だったりを急いで買って、しわすちゃんと一緒に課長の部屋に戻った。
なんかこう……、鍵の隠し場所をあさって部屋に入るってのは、背徳感があって少し、なんていうのかな、どきどきする。
しばらくはキャリーケースから出さないように、と仰せつかったので、リビングにキャリーケースを置いて、お昼を食べることにした。
ほっけは、あたしがご飯を食べてると異常に興奮して人間の食べ物に反応するんだけど、しわすちゃんはおとなしい。鎮静剤のせいなのかな? 実家の猫はひとの食べ物を欲しがることはなかったから、やっぱりほっけががっつきすぎなのかも。これって、しつけが悪かったんだろうか。
しわすちゃんの様子を窺いつつ、時間を潰す。
コンビニで買ってきた雑誌をめくりながら、キャリーケースの中で眠るしわすちゃんを時々確認をする。
生きてる。寝息も、大丈夫っぽい。
混沌の海の中で、あたしは雑誌をめくり、うとうとしながら課長が帰ってくるのを待っていた。
キャリーケースの中で動きまわる様子に、ふと目が覚めた。時計を確認すると、二時間経ってた。
「んー? 動ける? 大丈夫? 出てみる?」
にゃぅんと返事があった。
ちゃんと返事をしてくれるなんてかわいいじゃないの。ほっけだってできるけど。
注意しながらそっとキャリーケースの蓋を開けてみる。あたしを気にしながらも、しわすちゃんは恐るおそる一歩ずつ出てきてくれた。くんくんとフローリングの床についていたあたしの指先に鼻を近付けてくれたけど、すぐにびっくりするように身を震わせて寝室へと逃げて行った。足取りは少しだけ覚束ないけど、倒れたりとか飲んだ水を吐いて息を詰まらせるとかいった心配は大丈夫っぽいかな。
とはいえ、預かっている以上心配なわけで、一応しわすちゃんの後を追う。
しわすちゃんは、何度かジャンプを試みてベッドに上がった。うろうろと落ち着けるポジションを探して、すぐにぽてんと布団に寄り添うようにして身体を丸くさせた。
あんまり、近付かないほうがいいよね。
あたしはしわすちゃんが眠りにつくのを確認するまで扉の隙間からこっそり眺めていた。
お疲れさま。病院、怖かったね、頑張ったね。
でも、気になるのはしわすちゃんよりもその向こうに見える仏壇だったり。
やっぱりさ……、どう考えてもお母さんってわけ、ないよね。写真も位牌も、古っぽくなかったし。
だって……、そんな、仏壇だなんて誰が想像する? 位牌と写真があって、部屋はこんなにぐちゃんこなのに仏壇だけ綺麗にしてるだなんて、そんなのって、……ないよ。なんか、ずるいよ。
課長、結婚指輪してたから。課長のこと誰もなにも知らないけど、普通に奥さんがいて子供がいてって考えるじゃない。
なんで?
なんでなの?
このマンションを見たときから感じてた違和感が、どんどん大きくなってきて、はっきりした形をとりだしてくる。
課長、家族、いないって……死、んでしまった……の? ホントに……?
独りで暮らしてるのは、単身赴任とかじゃなく?
なんで? どうして?
―――でも。
課長がプライベートのことを話したがらないわけが、判った気がする。
暴いてはならないひとの過去を、無理やり見てしまった気すらした。
あたし……、どうしよう。
やばいよね。
ほっけ、あたし、どうすればいい?
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