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【第四章】
一
しおりを挟む夏の暑い陽光の輝き。秋の日一日と長くなる夜。吐く息の白さと指先が赤く色付く冬。そうして、雪解けを迎え空気に温もりが戻る春。
後宮で開かれる宴の席には、翠蘭の姿は必ず皇帝の隣にあった。
清明節ではともに鞦韆をこぎ、中秋節には湖に浮かべた船に寄り添って乗り、空に浮かぶ満月を愛でた。春節は一年の幕開けにふさわしい豪勢な料理を食べながら、とりとめのない話題で語り合う。焚かれたその香の香りを、忘れることはないだろう。
満たされたこの思いの名は幸福というのだろうと、翠蘭は志勾からの愛情に身をうち震わせた。
―――ただひとつの、気がかりを残して。
壺世宮は燕景殿で暮らすようになって、翠蘭は、三度目の春を迎えようとしていた―――。
ゆるやかな雨が降る夜だった。
軒から滴り落ちる雨音が、風鈴の音のように優しく書房に沁み渡っていた。窓辺の書卓には燭が置かれ、頬杖をつく翠蘭の物憂げな顔を夜闇に浮かび上がらせている。
「どうかしたのか?」
窺う声があった。振り返った戸口には、卓上の仄かな明かりを受けた志勾の姿があった。
最初の頃こそ翠蘭は朱明殿に召されていたのだが、次第に志勾自身が燕景殿を訪うようになった。子をなすためだけの行為を逐一記録する宦官の存在が煩わしく、ひとりの男として、純粋に愛するひととの時間に浸りたかったためだ。
本来、妃嬪への訪問には皇后の許可を得なければならないのだが、いまだ冊立されていないため壺世宮に皇后はいない。おかげで志勾は面倒くさい手順を踏むことなく、翠蘭に逢うことができた。
翠蘭は、僅かに首を横に振る。
「いえ。―――ただ……ここに来るべきは、本当は舎妹であったほうがよかったのではないかと」
「? なにか、あったのか?」
柔らかに降る雨のように、志勾は穏やかな声で問い返す。
「ここでなら、栄養もあって美味しいものをたくさん食べられる。具合が悪ければ太医がすぐに診てくれる。小芳のためにわたくしがここに上がるのではなく、小芳こそが来るべきだったんじゃないかと。そうすれば家族も安心できるし、『もしかすると万歳爺のご寵愛を受けているのでは』って、笑いあっていたかもしれない」
後宮に上がって、二年が過ぎた。
身代わりは極秘事項のため――当の皇帝本人には翠蘭は李家の者ではないとばれているが――、家族に便りを出すことはいまも禁じられている。
家族は、翠蘭が鈴葉の身代わりになったことを知らない。侍女をしていると信じているはず。皇帝に名を呼ばれない限り―――つまり御手付きにならない限り、妃嬪付きの侍女は暇乞いができるため、二年という期限が訪れれば帰ってくると信じている。現実は、こんなことになってしまったので当初の二年という期限はなくなってしまったのだけれど。
彼らに翠蘭の様子がどう伝わっているのかは判らないが、李家からの便りでは、家族は特に変わりはないとあった。だが最初は細かに書かれていた彼らの様子は次第に素っ気ないものになり、届く回数も減っていった。こちらから詳細を請う手紙をしたためても、返事は返ってこない。
小芳の病気は治っただろうか。以前の手紙では祖母が足を悪くしたようだとあったが、その後どうなったのだろう。
家族のことなのに、取り残されたように隔てられてしまっている。同じ時を過ごしているはずなのに、まったく別々の世界に引き離されていた。
「壺世宮での暮らしが恵まれているのは、確かだろうな」
「街にいるよりずっといい生活が送れます。病が自分に牙を剥いても、恐れずに済みます。―――わたくしこそが小芳の幸せを奪ったのではないのかと、思えてならなくて……」
とくにこんな静かな雨が降る夜などは、自分の暗い思考に埋没してしまい、余計に罪悪感に苛まれる。
二年を壺世宮で過ごしたことで、翠蘭の言葉遣いや物腰は、幾らか雅やかになっていた。それを少し残念だと、志勾はひそかに感じている。
「では小芳殿には礼を言わねばならないな。小芳殿の代わりにそなたがここに上がってきてくれたからこそ、わたしはそなたと出逢うことができたのだから」
「そう……ですね……」
心ここにあらずな言葉を落とす翠蘭を、じっと志勾は見つめる。
「具合が、あまり良くないのだろう?」
「え?」
「ここのところずっと、元気がないようだ。踊りだすことも、少なくなっているし」
志勾は、鋭い。その眼差しは、翠蘭に吸いつくように離れない。透明で静かな声。さらさらと降り続ける雨の音。翠蘭は、仄かに微笑む。
「家族を思えば、いつも元気はつらつというわけにもまいりません」
「それだけではないだろう?」
そっと促すように志勾。彼女は無理を隠そうとしている。重たいなにかが身体に絡みついていて、もがいているようにも見えた。
皇帝の寵姫、李昭儀という立場に、重圧を感じだしているのかもしれない。
市井から上がった翠蘭は、急激にその環境を変えた。慣れない間は必死に時を重ね、変化した環境に適応しようとがむしゃらになるものだが、慣れた頃にその反動はくる。自分の置かれた立場を冷静な目であらためて見直すようになり、疑問を抱くこともあろう。後悔すらしているかもしれない。
あまりに強い懊悩は、身体だけでなく心にも影響を与えてしまう。翠蘭は深く思いつめていくような性格ではないから、自ら儚くなる道を選ぶことはないだろうが―――それでも、朗らかに笑んでいた次の日に、二度と目覚めなくなる道を選んだ娘を志勾は知っている。
翠蘭は、重ねられた問いかけに軽く目を伏せた。
「二年経ったのだもの、多少は落ち着いたのでしょう。それに年を取ったせいか身体が重くなったようで、祖母がいつも『どっこいしょ』って言ってたのが、よく判ります」
「疾医には診せたのか」
「年齢のせいですから、診ていただいても、どうにもなりません」
「そうとは限らない」
なおも続けようとする志勾に、翠蘭は首を振った。
「ちゃんと毎日お薬を飲んでいるから大丈夫です。少し前に濃くなったそうで、そのせいかもしれません。もうしばらく飲み続ければ、身体も慣れて、気にならなくなると思います」
「……」
そうだろうか。逆にそのせいではないのか。
志勾は翠蘭に眼差しを遣りながら思う。
あの薬湯が身体にいいとはどうしても思えない。
ときおり辛そうに身体を動かすことがある。ぼんやりとして、霞を間にしているのではないかとすら思えるほど反応が鈍いときもある。薬の副作用ではないのか。
「そのようなお顔、なさらないでください」
実を言えば、この気鬱は家族への思いのせいではないと、翠蘭には判っていた。
先日、同じ壺世宮の住人、劉賢妃が公主を産んだことが原因だった。
もちろん、父親は目の前にいる志勾だ。
志勾は皇帝である。皇帝の最大の責務は世継ぎをもうけること。そのために壺世宮が―――後宮というものが存在している。
劉賢妃は、大司馬、劉游の娘であるという。政治のことはよく判らないが、乾の中枢に君臨する一族の娘なのだろう。割り切らなくてはならないこともあると、志勾が苦い顔をしていたことを覚えている。
先の皇帝に世継ぎが見つからなかったこともあり、皇子の誕生は一刻も早くと待ち望まれている。
判ってはいる。
そのために、翠蘭もここに上がったのだから。
好きや嫌いの問題ではなく、玉座に座る者の責任。
判っている。
けれど、毎夜のように志勾に逢っている翠蘭ではなく、何故嬰児が宿ったのが劉賢妃だったのだろう。
もう二年にもなるのに。
いいかげん、授かってもいいのにその気配すらないなど。
政治的な野心などないから、なんとしても男嬰をという気概はない。志勾がいてくれるのなら嬰児などいなくてもいいとすら思っていたが、いざ授からないと後ろめたさを感じ、溜息すら知らず漏れ出てしまう。夜伽に召されればいずれ授かるものだと漠然と思っていたのだけれど、その僥倖は翠蘭を通り過ぎていく。
身代わりを黙って出仕したことへの、これは罰なのだろうか?
「無理を、させてしまっているのか?」
「そんなことは」
首を振る翠蘭。志勾は静かにやって来て、椅子に座る翠蘭をそっと抱き寄せる。
「無理というのは、自分が思っている以上に、身体や気持ちを蝕んでいるものだ。どうすればそなたの気鬱が晴れるのだろう」
まさか、志勾に向かって「何故子が授からないのか」と問えるはずもない。
「志勾さまのお気を煩わせてしまうなど。大丈夫です、本当に。すぐによくなります」
めまいや倦怠感はあるが、それはきっと以前のようにくるくる動きまわる生活ではなく座るばかりになったためで、たんに疲れやすい身体になっただけだ。
「志勾さまこそ、いつもお忙しくしていらっしゃるのですから、お休みになりませんと」
「目が覚めたとき、そなたがいなかったからな。心配になったんだ。―――さ、そなたも休もう」
そっと腕を叩かれ、臥室へと促される翠蘭。重い身体を持ち上げるようにして、翠蘭は腰を上げた。
志勾が気にするように、最近の倦怠感は、「疲れやすい」で片付けるには強すぎるときがある。ひどい口内炎ができる頻度も増えていたし、腰痛も現れていた。
おかしいと感じることはある。だが、それを口にすることはできなかった。
志勾を心配させたくなかった。甘える気持ちもあって、翠蘭は少し志勾にもたれる恰好で書房を出た。
雨音は、さきほどよりも大きな音で房室に響いていた。
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