乾宮――昔がたり

トグサマリ

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【第三章】

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 かく風騎ふうきは、按察使あんさつし(司法や治安などを担う地方に派遣された官)の幕友ばくゆう(個人秘書)、郭遠かくえんを父に、へき国と胡慶こけい国の血を引く梁黎リャムレンを母に、北方の晋塀しんへい自治区首府しゅふリュバーニャで生まれ育った。
 家は裕福だったが、異なる価値観の存在を認めよという父の言に従い商家に弟子入りをした彼に、十七の頃、転機があった。思いを寄せていた娘が地元の豪商の第三夫人として買われたのだ。しかしその美しさを妬んだ第二夫人によって彼女は、あっけなく殺されてしまう。まだ十六という若さだった。その事件は、夫である豪商の賄賂を受け取った官吏によってもみ消されてしまう。
「ひどい……。そんな勝手な」
悋気りんきへの憤りより、金銭の持つ禍々しさに嫌気がさした」
「お好きでいらっしゃった……んですよね……」
「ああ。天真爛漫な娘で、いい意味でよく振りまわされていた。気持ちを伝える勇気が出せなくて、淡い片想いだった。―――本当に、無念で無力でならなかった」
 思い出しているのだろう、彼の表情は痛みを堪えるように苦しげだった。
 どれだけ訴えても官吏は動かなかった。真実よりも己の享楽。なんと不甲斐ない官吏かと、地が割れるほどに彼は嘆いた。
 その無念を晴らすため、風騎は官吏を目指した。あんな堕落した者でも官吏になれるのなら、自分にもできるはずだ、と。もちろん地方官ではなく、目指すは中央の官僚だ。
 両親は進んで協力をしてくれたわけではなかったが、実家の財力がなければ、家庭教師や参考書、それこそ書を記す紙すらにも不自由しただろう。
 四年後、晴れて進士しんし(科挙に通った者)となった風騎だったが、御史台ぎょしだいに配属が決まってしばらくした頃、突然とんでもない決定を伝えられた。
 話は少しさかのぼる。
 風騎が受験生であったとき、第六代皇帝柏宗はくそうが崩御した。柏宗には嫡子も庶子もなかったため、朝廷は嵐に呑まれた小舟のように大混乱に陥った。病弱ゆえか陰謀によるものか、柏宗の子は誰も――公主ですら――十歳より長く生きることができなかったのだ。水面下で起きていた後継者争いは、小さな反乱という形で何度か表面化したこともあったが、肝心の第七代皇帝が決まることはなかった。
 前代未聞の空位時代。あるとき、ひとりの青年が突如浮かび上がる。青年の父親は第四代皇帝彪宗ひょうそうの二十七番目の皇子、えん。母親が異国人という彼は、晋塀しんへい自治区という辺境で生まれ育っており、政治上の煩わしい地縁血縁などもなかった。科挙にも通り、誰もが彼こそが第七代皇帝にふさわしいと押し戴いた。
 青年の名は、かくふんあざな風騎ふうきといった。
 このとき既に、風騎の父親は落馬がもとで亡くなっていた。
 科挙の受験といういきさつで、風騎は自分の父親が第四代皇帝の庶子らしいとは気付いていたが、まさか玉座が転がり込んでくるとは思いもしなかったし、望みもしなかった。
 風騎が望むもの、それは、片想いの相手の死をうやむやにしたあのような官吏たちを粛正すること、それだけだった。
 けれどことは国の存亡が絡んでいる。風騎の意思など確認する者はだれひとりとしていない。
 風騎はその瞬間から『郭風騎』ではなく、けん国の主、『きょう志勾しこう』となった。
「それから八年が経った。いろいろあった。国主という場所にはいるが、なにができたわけでもない。国を動かすのは官だし、意見を言っても、三槐六卿だいじんたちはまともに耳を貸さない。彼らにしたら、血統のある旗頭はたがしらが必要なだけであって、ものを言う口は必要ないんだ。王なぞつまらぬものだ。賄賂を要求する官吏のほうが、よっぽど仕事をしている」
 さらりと彼は言ったが、その言葉には斟酌しんしゃくすることもできない深い懊悩が見え隠れしている。
「そんなときに出逢ったのが、そなただった」
 突然自分の存在が風騎の口から出、彼にもたれかかっていた翠蘭はどきりとする。
「まさか壺世宮こせいきゅうに、あのような不可思議な歌を歌う者がいるとは思わなくて」
 不可思議と言ってくれたが、正直な話、奇妙な歌と思われているのは間違いない。恥ずかしさに翠蘭の身が縮こまる。
「空の歌を歌っていただろ? 昔を思い出したんだ。リュバーニャでの日々を。どこまでも続いていた青くて透明な空を」
 遠い昔を懐かしむ声音に、風騎を見上げる翠蘭。
「リュバーニャは、晋塀しんへい自治区はどのようなところなんですか?」
 尋ねると、風騎は懐かしげな顔をいっそう深くさせた。
「晋塀自治区は、天楊てんやん山脈を越えたけんの北限にあって、へき胡慶こけいと国境を接している。『自治区』とあるだけあってね、もとはツィベイという名の国だった」
 科挙を通っただけあり、さすがに国の歴史に詳しい。聞いたことのある国の名に、翠蘭の目がぱっと輝く。
「胡慶は、祖母の生まれた国です」
「そう言っていたな」
 翠蘭に笑み返した風騎は、請われた話を続けていく。
「リュバーニャはツィベイ時代の首都だったんだ。龍黎りゅうれいほどではないがそこそこに発展はしてた。ひとは素朴でおおらかで、時間の流れもゆったりしていたな。冬の寒さはとにかく厳しかった。寒いというより痛いといったほうがいいくらいで。まつ毛の先が凍りつくこともある。こっちの冬の暖かさに驚いたよ」
「まつ毛が凍るのですか」
 龍黎を出たことのない翠蘭には、想像もつかない。だが、
「一度でいいから、行ってみたいな……」
 風騎が生まれたところ。ゆったりとした時間の中育った風騎。その光景。考えるだけで、愛おしかった。自分のついこぼした言葉が叶うはずもないことは判っていたから、風騎に返事を求めることはしない。
「いつか、そなたを連れて行こう」
 だから、風騎の返答に思わず身を起こした。風騎はからかうふうでもなく、まっすぐに翠蘭を見つめている。
壺世宮こせいきゅうは巷で言われているほどに閉鎖はされておらぬ。なんやかんやと理由をつければ、妃嬪ひひんも外に出られる」
「そうなんですか?」
 後宮に入る際の説明では、そう言われなかった。風騎の顔にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「わたしがそうしろと言えば、そうなる」
「それはいけません風騎さま。わたくしたちが外に出られないのは規則で決まっているんです。万歳爺わんすいいぇから規則を破っては、規則の意味がなくなります」
「―――そなたは、まこと、得難い妃だ」
 くつくつと笑う風騎。
「あ……すみません……」
「いや。謝ることじゃない。普通は妃嬪が皇帝に規則違反をそそのかすものだというのに、そなたはまっすぐで、本当に得難い」
 風騎の眼差しはまっすぐに翠蘭を見つめている。胸の底をあまさず見つめられている気がして、恥ずかしくなった。
 もちろん、風騎とともに行きたくないわけではない。彼の生まれ育ったリュバーニャを訪れてみたい。彼に案内されてみたい。けれど、風騎のほうが翠蘭以上に故郷に帰りたいはず。彼が龍黎りゅうれいから離れられないのは、けんの皇帝だからだ。ふと生まれただけの翠蘭の望みを押しつけるわけにはいかない。いつか、遠いいつか、自然な形で訪問できればそれでいい。
「リュバーニャでは、風騎さまはどのようなお方だったのですか?」
 気持ちを誤魔化すように、翠蘭は訊く。
「やんちゃだったな。問題児。爸爸おやじをよく困らせてた」
「え。そうなんですか?」
 若くして科挙に通ったことや、いまこうして端然としんだいに腰かける風騎の様子からは、やんちゃだの問題児だのという単語とは縁がないように思える。
 頷く風騎。
「ああ。爸爸おやじの怒鳴り声を聞かない日はなかったな」
「全然、想像もできません」
 過去に思いを馳せていた風騎の眼差しが、ふと一瞬陰る。沈黙のあと、言葉を落とす。
……、ナラーツェグを亡くしてからだろうか、変わったのは」
「―――想いを寄せていた、リュバーニャの方、ですか?」
「そなたには酷な言い方かもしれないが、そなたとは、どこか似ている」
「似て……おりますか」
「あの者もよく、自分の気持ちを歌にして歌っていた」
 遠い眼差しと彼の言葉が、言葉以上に複雑なものをはらんでいたことに、翠蘭はこのとき気付かなかった。
「わたくしほどは、おかしな内容ではないのでしょう?」
「はは。まあね」
「そこは、否定してくださってもいいのに」
 やや拗ねて見せる翠蘭。
 風騎はなだめるように笑み、そうしてどこを見るともなく視線を漂わせた。幾らかの沈黙が続き、再び彼は語り始める。
「そなたとの牆壁かべ越しの語らいは、最初はただ純粋に懐かしかった。あの日がよみがえるようで、胸も熱くなった。だがそなたは……、あの者とは違う。彼女を懐かしんでいたつもりが、次第に―――そなた自身に、逢いたくなった」
 甘やかで濃厚な眼差しに晒され、たまらず目をそらす翠蘭。
かく風騎ふうきという名の者は抹消された。だが、わたし自身は、きょう志勾しこうではなく、郭風騎でありたい。そう思う。そなたの前では、最初に出逢ったときのようなひとりの男でありたいのだ。―――天子ではないわたしは、嫌か?」
「まさか、とんでもないです! あ、や、とんでもございません。その、風騎……さま?」
 そう呼べばいいのかと尋ねた翠蘭に、しかし彼は困ったように笑む。
「残念なことにそなたは皇帝の妻だ。他の男の名を呼ぶのは、少々まずい。わたしはよくても、そこらの壁にある耳には由々しき問題として、そなたに厳罰が下るやもしれん」
 宦官の控える隣室との壁を、ちらりと見遣る風騎。
志勾しこう……さま……」
 こわごわと名を口にすると、風騎―――志勾の眼差しが緩んだ。
「そなたに呼ばれると、忌々しいこの名も玉の転がる音のようだ。と、自分で言ってはおしまいか」
「素敵な、お名前だと思います」
 媚もへつらいもない翠蘭の純粋な様子に、志勾しこうの胸に熱いものが込み上げてくる。翠蘭の頬を、そっと撫でる志勾。
「そなたを、翠蘭と呼んでも、構わないのか?」
 ひくりと、彼女の顔に緊張が走る。
 牆壁越しの会話で、自分の本当の素性を話してしまっている。いまさらどう転んでも貴族の姫とはいえない翠蘭。
「わたくしは、罰せられるのでしょうか」
「何故?」
「『昭儀しょうぎ』という身分は、わたくしにはあまりにも分不相応です」
 数瞬、ふたりの視線が絡み合う。
 それだけで、志勾には伝わるものがあったのだろう。優しく、翠蘭の頭に手を乗せた。
「李家がそなたを選んだのだ。卑屈に思うことはない。たとえそなたが李昭儀殿の侍女としてここに上がったのだとしても、わたしが求めたのは李昭儀殿ではない。そなた自身だ」
 李家が、市井の娘を養女にしたと思ったのかもしれない。容姿に優れた市井の娘が貴族の養女となって後宮に上がることは昔からあることだと、李昭儀養成講座で喬玉こうぎょくが言っていた。翠蘭もその口だと思ったのだろう。
 身代わりであると、偽の昭儀だとちゃんと言うべきだろうか。本来こうして召されるべき姫は、別にいるのだ、と。
 けれど、志勾にこうして出逢ってしまったあとでは、彼との繋がりを、えにしを、なによりもまっすぐに愛しく見つめてくるこの眼差しを手放したくなかった。
 翠蘭は、小さな罪悪感を振り払う。鈴葉だって愛する者と一緒になる道を選んだのだ、自分がこの転がり込んできた出逢いを選ぶことに、なんの問題があろうか。
 志勾は翠蘭を見つめ、自分は、そんな彼をこうして間近に感じることができる。
 後ろめたさを感じることなんて、ない
「わたしたちは、出逢うべくして出逢ったんだ。―――翠蘭」
「はい」
「『翠蘭』が、そなたの名なのだな?」
「はい」
 うっとりとしたものが、志勾の目に浮かぶ。
「思っていたとおりのひとだ。可憐でまっすぐで。こうするだけで、壊れてしまいそうだ」
 言って、志勾しこうはそっと翠蘭を抱き締める。彼の胸に頭を預け、翠蘭はその心の臓の音を聞いた。軽く走るような速い鼓動だった。甘い香りがする。風騎の―――志勾の鼓動を感じることのできる日がくるなど、思いもしなかった。太監たいかんから今夜のことを知らされたあのときは、ただただ絶望しかなかったというのに。
「志勾さまは、思っていた以上の方でした。御身分も、お顔立ちや優しさも全部が」
 たとえ身分もない男だったとしても、ここまでの美丈夫でなかったとしても、溢れる愛しさは止められないだろう。
 抱き締める志勾の腕に力がこもる。
 どうかこれが夢ではありませんように。
 そう胸の奥で願い、夢であっても志勾と触れ合えたことに翠蘭は感謝した。
 ふたりの身体が傾いたそのとき、房室へやの向こうで咳ばらいが聞こえた。思わず顔を見合わせる翠蘭と志勾。
「お時間にございまする」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、隣室に控えているはずの宦官の声だった。それほど長い時間話し込んでいたとは思わなかったが、純粋に世継ぎをもうける務めのための夜伽の時間は、もともと数刻もない。
「あの者たちも意地の悪いことをする」
 苦笑しながら志勾。
 部屋の奥まった牀榻ねどこにいるとはいえ、本来の夜伽が為されていないことは、気配で判るだろうに。
 名残惜しげに、志勾は翠蘭を見つめる。
「今宵も、また逢おう」
「―――はい」
 顔を赤らめ答えた翠蘭を抱く志勾の腕に、力がこもった。その力強さを全身で感じていると、するりと唇に触れるものがあった。
 間近の、志勾の顔。
 名残惜しげに、もう一度、今度は深く重ねられた唇。
 志勾は立ち上がると、うわぎを直しながら臥室しんしつからひとり出ていった。
 走廊ろうかの宦官と言葉を交わしているようだった。
 ほう、と知らず吐息がこぼれた。ややして、壮年の宦官が迎えに来た。ここに来たときと同様、翠蘭は椅子轎いすかごに乗せられ、用は済んだとばかりに、与えられている燕景殿えんけいでんへと帰されたのだった。


 この夜、再び翠蘭は皇帝―――志勾の夜伽を命ぜられた。
 そうしてこの日から、これまでとはうって変わって、皇帝は李昭儀を毎夜のごとく召すようになった。


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