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【第一章】
一
しおりを挟む広大な大陸の東にその強大な国は位置していた。国の名は乾。王朝は何度か変われど、二千年以上の歴史を持つ大帝国である。
乾を流れる大河のひとつ、夕水の川沿いに、大帝国の中心、首都龍黎はあった。
龍黎は碁盤の目のように南北、東西を走る道によって〝坊〟に区切られている。その東南にある香江坊。翠蘭はその一画にある舎館併設の飯館、彩秋飯館で働いていた。
祖母が異国人であるため肌の彫りはやや深く、色素も全体的に薄い。しかし、龍黎は国際都市でもある。彼女よりも肌の色が薄い者もいれば、逆に濃い者もいる。褐色の髪と瞳は目立たないと言えば嘘になるが、誰の目も引く、とまでは残念ながらいかない十人並みの顔立ちだった。
「今日はあんまり寒くない~ でもちょっとかな 寒いかも~
なんて言ってる場合じゃない だってほらほら お客さん」
卓子を布巾で拭きながら適当な自作の歌を口ずさんでいた翠蘭の目が、入口へと流れた。
「いらっしゃいませ! 今日は寒いですね、ささ、どうぞ中に!」
入口に現われた男士が、なかば翠蘭の勢いに負ける形で店内へと足を踏み入れる。
狭くもなく広くもない店内には、客の姿が数組ばかり。先客たちの視線の邪魔にならない席―――けれど外からの窓越しに繁盛していると思わせる席へと、翠蘭は客を案内する。
明らかな旅装ではないが、砂に汚れた足元に置いた行李や隠しきれない疲労の色から、龍黎にやってきたばかりなのだと翠蘭は予想する。朱雀大路を二本東にそれた香江坊にやってきたということは、繊維関連の行商かもしれない。香江坊は、繊維業を営む店が多い。
「彩秋飯館へようこそ。今日の宿はお決まりですか? よろしければ、向かいの彩秋舎館にどうぞ。明日の朝食、一品おまけになりますよ」
「そりゃあいい。仕事前にゃたらふく食いてェからな」
翠蘭の父親よりは十ほど若い男がにやりと笑む。翠蘭も言質を取るようににっこり笑んだ。
「お待ちしております」
「なにか、温まるものないかな。さらさらっと軽いやつ。十銭ちょいくらいで」
昼食と夕食のちょうど間となるこの時間は、時間つぶしにお茶を適当に飲んでいく客がほとんどである。だがこの客の仕草は、箸で食べ物を口にかき込むものだった。
「お晩飯としてですか?」
「いや。これから寄るところが幾つかあるんだ」
「鴨湯飯(鴨肉のお茶漬け)はどうです? お晩飯のあとに召し上がる方がほとんどですけど、すぐに出せますし、さっぱりしてますよ。量も少なめですからお腹が張ることもないかと」
「うまいか?」
「わたしは好きですね」
「じゃ、頼む」
「かしこまりました」
それと、と、厨房に注文を伝えようと背を向けた翠蘭に声が続いた。
「小姐さん、名前、なんてェの? 今夜ヒマ?」
「小姐さん、もてるねぇ」
そう声をかけてきたのは、例の鴨湯飯の客が店を出、他の客たちもいなくなったあと、ただひとり残っていた男士だった。五十代半ばあたりだろうか、端正な顔立ちの彼は、ここしばらくふらりとひとりでやって来て、なにをするでもなくただお茶を飲んで―――そして帰っていくという不思議な客だった。
翠蘭は、彼は豪商の大旦那なのだと踏んでいる。少々若いかもしれないが、隠居したばかりで時間を持て余しているのではないか。見た目の年齢に反して、あまりにも悠然としていて、落ち着き過ぎている。
声をかけられたのは、これが初めてだった。
「そんなんじゃないですよ」
苦笑う翠蘭。
「みんな社交辞令で言ってくださってるだけで、いちいち本気にしていたら気が持ちません」
「小姐さんに限っては、社交辞令なんかじゃないと思うけど」
「わたしを持ち上げても、なにも出ませんよ」
いやいや、と、男は仄かに首を振る。口に持っていった茶杯を卓子に戻して、眼差しを深くさせた。
「本気でそう思ってるよ。少なくともわたしは本気だ。―――後宮にな、上がってもらいたい」
え? と目をぱちくりさせる翠蘭。
いま、この客は〝後宮〟と、言った……?
あまりにも唐突で縁のない単語に思考も身体も固まる翠蘭に、男は再度重ねた。
「後宮に上がってもらいたいんだ」
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