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【第六章】
四
しおりを挟む「あなたは自分自身を選んだ。クラウスとの幸福よりも、意地汚い生を選んだ」
アリシアの身体が大きく震えた。
「いけなかったの? クラウスを選ばなければならなかったの!?」
落とし穴にはまったのか。咄嗟にそう思った。
だが意外にも、ロチェスター公爵はあたたかな眼差しでアリシアを見つめていた。
「アリシア。どちらを選んでもきっとあなたは不安を覚えるでしょう。だが、どちらの選択にも間違いなどない。ただ、どちらがあなたの正直な気持ちに近いか、だ。あなたはそれを、見誤らなかった」
アリシアは茫然と公爵を見つめ返していた。
「人間は、愚かでいいんです。愚かな存在だから、上へと這い上がろうともがき苦しむ。この国も、捨てたものじゃない」
ロチェスター公爵の視線が、アリシアの背後に流れた。それを追ったアリシアは、目を瞠った。
目に飛び込んできたのは、ここにいるはずのない男の姿だった。
「戻っておいで、アリシア」
アリシアは息を呑んだ。
「戻っておいで」
裏庭の外で、ヴォルは花開くように腕を広げていた。
なにもかもすべて受け入れると、柔らかな眼差しが語っている。
「ヴォル……」
「戦っていこう、一緒に」
「わたしを、怒ってるでしょ?」
危険を冒してまで町に降りたこと。誘拐されてしまったこと。言葉では言い尽くせないほどの心配をかけたはずだ。
「ああ、ものすごく怒ってる。ぶちのめしたいくらい、怒ってる」
けれど、優しい顔はそのままだ。
「それでも、いいの? 許してくれるの?」
「許すもなにも」
ヴォルは屈託なく言う。
「そのままのあなたでいいんだ。そんなあなただから必要なんだ。クラウス殿を愛しているアリシアが。民の生活を知りたいと思ったアリシアが。自分の生き方を貫き、悩んでいるアリシアが必要なんだ」
「この、わたしを?」
「あなたならおれの弱さを判ってくれる。一緒にいたいと思ったのは、あなたがアリシアだからだ。だからお願いだ。おれのもとに戻ってきて欲しい」
「……オーヴルは?」
オーヴルは、目覚めて最初の壁となるはず。狂ったオーヴルが、アリシアを手放すはずがない。
「なにも心配いらない。あいつのことは、もう大丈夫だ」
「あれはもう、いままでのような暮らしはできまい。忘れ去られた僧院かどこかで幽閉されて終わるだろう」
アリシアは、突き放すように言ったロチェスター公爵を振り仰ぐ。
「正気を失ってなかったら、王子といえども極刑だ。たとえあなたやヴォルが許しても、わたしは許さない」
力強いその眼差しに、アリシアはめまいのようなものを感じた。ひとを惹きつける眼差しを持ったこの青年は、そういえば240年前、アリシアに求婚をした貴族だった。
「公爵……」
「さあ、行きなさいアリシア。あなたの選んだ道を。あなたのこれからの生きざまを見せてくださいよ」
「こっちに来るんだ、アリシア」
その声にアリシアは我に返った。
ヴォルはアリシアに手を伸ばしている。どうやら、隣に神、ロチェスター公爵がいることが判らないらしい。
ヴォルは必死にアリシアに叫んでいる。戻っておいでと。帰っておいでと。
「アリシア」
ヴォルの姿は、アリシアの不安をすべて霧散させていた。
彼の存在が、重たくのしかかっていた未来への恐怖を和らげ、立ち向かってゆく勇気を起こさせてくれる。
そのことに気付いたとき、アリシアの目から涙がこぼれた。
すべてが、なにもかもすべてがヴォルに向かってほとばしってゆく。
ヴォルがいるから戦いを選ぶことができた。ヴォルがいるから負けずに済んだ。
自分の選択を後悔したくなかった、絶対に。
突き動かされるように、アリシアは足を踏み出した。
ひとりじゃない。
それは、自信をもって言える確かな思いだった。
目を覚ましたときも、生きてゆくことも、これからはもう独りではない。
そのままの自分を求められている。
ヴォルの懸命さは、アリシアの胸を熱くした。
彼を独りにしたくない、だけではなく、彼を置いて独りにはなりたくなかった。
ともに生きていきたかった。
ともに、エルフルトを愛していきたい。
戦っていきたい。
ヴォルに一歩近付くごと、視界は眩しく輝きはじめてゆく。
ヴォルとなら戦ってゆける。
その思いは、アリシアの足を速めた。
視界が真っ白な光に満たされ、柔らかなあたたかさに包まれた。
意識も想いも清浄な光にとけ、すべてが混じりあう。
手を伸ばせばそこに―――、ヴォルが、いる。
アリシアは、薄闇と同志に見守られる中、静かに緩やかに、その白いまぶたを開いていった―――。
了
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