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【第四章】
五
しおりを挟む長い廊下を、静かな足音が響く。真っ白な光に満たされた城内には警備兵以外のひと影はなく、夜を徹して行われた舞踏会のざわめきも、朝の光に沈黙へと姿を変えていた。
「こんな時間からご苦労だな、エノーヴェ」
廊下の端に控えるひとりの警備兵が、親しみのこもる眼差しでエノーヴェを見つめている。
「あら、ねぎらってくれるの?」
「ここんとこずっとじゃないか。八刻前に姫さまのもとに行くのは」
「アリシアさまは早起きだもの。侍女たるわたしもこうせざるをえないでしょう?」
「おかげで夜がものすごーく寂しくなってるんだけどねェ」
王侯貴族の夜が遅ければ、それに付き従う者たちの夜もまた遅い。エノーヴェは皮肉っぽい光を眼差しにのせた。
「あら初耳。ギディークが言うには、この前なんとかっていう娼館で乱痴気騒ぎをしたらしいんだけど?」
「げ」
「ずいぶんと寂しい夜だったのねえ、オーク?」
「いッ、いや、そそりゃあ、そうよ。あんたがつれないからじゃないか」
白い目を返すエノーヴェ。
「ああ、もう。なあエノーヴェよう」
情けない声のオークに、エノーヴェはさっさと背を向ける。
「悪いけど、もう行かなきゃならないから。せいぜいターニュとかいう美人のこと思い出してなさいな」
「エ、エノーヴェ……!」
オークは絶句する。同僚のギディークは、なにもかも洗いざらいエノーヴェにばらしてしまったのかもしれない。
慌てて彼女の後を追おうとすると、先を読まれていたらしく、はねつけるように言われた。
「持ち場を離れたりしない! なんのための警備兵なのかしら?」
「エノーヴェ……」
肩を落とすオークは、去ってゆく小さなエノーヴェの背中を歯痒く見つめる。
遥かな姫がおかしくなってから、エノーヴェもまた変わってしまった。特にあのずばりと切り込んでくる言葉遣い。もう少し相手のことを慮って言ってくれればいいものを。
遥かな姫の影響であることは、オークでなくとも判っている。遥かな姫こそが、がさつで荒々しい武骨な言葉遣いをしているのだから。
これ以上楚々としていたエノーヴェが乱暴者にならないよう、祈るしかないオークだった。
部屋の扉を開けると、眩しい光の中、既にアリシアは支度を終えていた。
みすぼらしいと言えるほどの簡素なドレスに、褐色の髪を長く腰まで垂らしている。透きとおる白い肌に、薄く塗った紅が目を引いた。窓辺に腰をおろし、物憂げに窓外に視線を流すその姿は、同性のエノーヴェであってもはっと息を呑むほどに美しかった。清涼な陽光がアリシアの輪郭を白く縁取り、まるで遠い神話世界から抜け出た女神のような錯覚を起こさせた。
「このお城って、ほんと、ずっと向こうまで続いてるのね」
窓の外を見たままのアリシアの言葉に、見惚れていたエノーヴェははっと我に返った。
「あの、おはようございます」
「おはよう。ねえ。そう思わない?」
「……王宮ですから、広くても別によろしいのでは?」
「みんなの声が聞こえないわ。町のひとたちの声が、国民の声、こんなんじゃ、聞こえない……」
アリシアはそっとガラスに指を這わせた。
エノーヴェはどう答えていいか判らず、言葉を詰まらせた。
昨日、アリシアは国を知りたいと町に降りて行った。そこで見た活気のある様子と重い税に苦しみ喘ぐ、貧困の底に落とされた人々の姿に激しい衝撃を受けたのだ。部屋に戻ってからはひと言も口をきかず、眉根に深いしわを刻んでずっと考え込んでいた。
確かに、華麗な王宮と雑踏に揉まれる町とは雲泥の差がある。その差を前にしてなにかを感じるのは普通だと思う。けれど、市民の立場に立った感想を漏らされたのは、初めてだった。いや―――
王太子も似たような考えを持ってはいまいか。
偏屈者の王太子と似ていると言われ、いったいどこに喜ぶ者がいよう。エノーヴェは内心溜息をついた。
「そんなお気に悩まなくとも、ちゃんと彼らの声を聞く者はおりますわ」
「だったらどうしてあんなにも苦しい生活をしてるの」
アリシアは顔を歪めて思い出す。暗い路地裏の隅で、まるで捨て犬のようにうずくまり、生気のない目を向けてきた年老いた女性。汚物にまみれ、腐臭をまといアリシアに群がろうとした男たち。痩せこけた頬と針のような身体に、その日暮らしの生活が見て取れる。
「わたくしに訊かれても、それは判りませんわ」
「『判らない』で済む問題じゃないと思う」
アリシアはエノーヴェに向き直る。まっすぐなその眼差しに、エノーヴェは困惑する。王族たるアリシアが目を潤ませてまで考えることではないと思うのだ。
「このまま放っておいていいはずない」
「アリシアさまが悩まれることではありませんわ。彼らとアリシアさまは違うのですから」
アリシアの眼差しが揺れる。
「王族は王族らしくしていればいいではありませんか。きっと彼らはこう思っているはずです。王家の姫君がこんなところに遊びに来るなどいい御身分だ、と」
「!」
エノーヴェは迷いながらも続ける。オークから言われたせいではないが、確かに友人たちとの付き合いが途切れ、生活に張りがなくなってはいた。
「正直、わたくしもそう思います。王宮の朝は遅うございます。こんな時間起きている者は、王太子殿下を除けば誰もおりません。まだ起きる時間ではないのです。それなのにアリシアさまはもう起きていらっしゃる。それに合わせて多くの者も睡眠時間を削っている状態です。それに昨日の町でのことも、ズィーフが言っておりました。好き勝手に町中を歩かれるせいで、危うくならず者に襲われるところだったと。王族ならば、もっと自重してくださいませ。王族は気軽に町中を歩くものではございません。アリシアさまの何気ない行動が、どれだけ多くの者の迷惑となっているか、もう少し考えてくださいませ」
「―――ごめんなさい……」
長い沈黙のあとの消え入りそうな声のアリシアに、エノーヴェもはっとする。言い過ぎたかもしれない。日頃思っていることをはっきり言って欲しいと言われていたせいで、勢いにまかせて口にしてしまった。
「ああ、アリシアさま、わたくし過ぎたことを……」
いまさらながら、己の過ぎた口を思い知る。主人に言っていいことと悪いことがある。いまの発言は、これまでのエノーヴェでは考えられないことだった。
アリシアは視線をそらし、膝の上で拳をきつく握り締めていた。身体は小刻みに震えている。顔色をなくしたそのさまに、エノーヴェは己の大失態を激しく悔やんだ。
この失態は、エノーヴェの身のみを滅ぼすものではないと気付いたからだ。一介の侍女でありながら、主人の気分を害する言動をとるなど。よくて追放だ。
はじけるように床に手をつけ、こすれるほどに頭を下げた。
「申し訳ございません、過ぎた口をお許しくださいッ! ですから、あの、お願いにございます、わたくしはどうなってもかまいません、弟には、弟にはなにもなさらないでくださいませ!」
「……弟?」
ぼんやりした声が返ってきた。少なくともその声音に怒りは感じられない。エノーヴェは続ける。
「近衛騎兵隊に先ごろ昇格できたばかりなんです。あのこの未来だけは、潰したくないんです、ですから……!」
「エノーヴェ」
優しい声が間近で聞こえた。
「エノーヴェ顔をあげて。別に怒ってなんかいないのよ」
促されるまま恐るおそる顔を上げると、そこには頬を緩ませる主人の顔があった。ややひきつっているようにも見えるのは、やはりエノーヴェの言葉に幾らか思うところがあったせいか。エノーヴェは畏れ入る。
「確かに、言われて衝撃を受けてる。でも、言ってくれなければ判らないこともあるから」
エノーヴェは力なく首を振る。
「あなたを怒ったりはしない。むしろ、感謝しなくちゃ。はっきり言いたいことを言ってって頼んだのはわたしのほうなんだから。だから誰も罰したりなんてしない。でも」
そこで言葉を切るアリシアに、エノーヴェの身体がこわばった。
「ごめんなさい。いまは、ひとりにさせてほしい」
「あ……」
「ひとりになりたいの、お願い」
「あの、アリシアさま」
アリシアはなにも言わず再び窓辺へと戻ってゆく。去り際に左手を緩く動かした。出て行って欲しいと。
エノーヴェは力なく立ち上がり、深く頭を下げると静かに部屋を後にした。
弟になんの影響もないことにほっとしたものの、胸の奥深くに割り切れないものが生まれていた。
言いたいことだけを言って、一方的に傷付けてしまったせいだ。
言葉の持つ恐ろしさを垣間見た気がした。
これまでなんの考えもなく使っていた言葉。相手に遠慮して、修飾語で飾り立て、遠まわしに遠まわしにそれとなく伝えていた言葉。
遥かな姫はそんな言葉遣いを嫌っていた。言いたいことははっきり本人に言えと言っていた。それが、こんなにも胸に迫るものだとは思わなかった。
けれど。
遥かな姫は微笑んでくれた。感謝さえしていると言ってもくれた。
嘘偽りを言わないアリシアの言葉は、なんの覚悟もなくするりと胸に沁みこむ。アリシアの言葉は疑う必要がない。本当に、感謝をしてくれている。そう、信じられる。
エノーヴェは気がついた。
直接的な言葉はつらい思いと背中合わせだ。けれど、常に付きまとっていた気にも留めていなかった小さな不安からは解放させてくれる。真実だけを相手に伝えられる。もしかしたら、こちらのほうがずっと、相手を思いやっているのかもしれない。
戦国生まれの遥かな姫。
彼女は、誰よりも他人を思いやっているのかもしれない。
固く閉じた扉を振り返り、エノーヴェは唇を噛み締めた。
「あなたをずっと、誤解していました……」
それは心の底から浮かび上がった、エノーヴェの真実の思いだった。
これまでどう接すればいいのか判らなかった。どこかで、戦国生まれだからと侮ってもいた。
そんな自分が恥ずかしい。
懸命に微笑んでくれた遥かな姫。
器が違う。
それはきっと、アリシアが戦国生まれだからだとか240年の眠りに就いていたからではない。
生まれもった資質が既に違うのだ。
そんなアリシアと出逢い、こうして仕えることができるのは幸福だと、真実そう思った。
なにがあろうと、アリシアの味方であろう、と。
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