死に行く前に

yasi84

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第3章 祖母

依存

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 緑川は病室を出ると、下を向きため息を吐き、目が熱くなるのが習慣になっていた。
 おばあちゃんと話をしている時は努めて明るく話をし、話題も仕事のことや日常生活で起こった失敗と成功のことで私は大丈夫、しっかりやれてるよ、というのを言外に含ませながら話してはいるが、どれほど伝わっているのだろうか。所詮はただの強がりだから、もしかすると余計に心配を掛けてしまっているのかもしれない。
 おばあちゃんは日に日にベットから動かなくなり、起き上がることもなくなった。医者からはそろそろ、と言われている。そろそろ、の先が何なのかは、言われなくてもわかった。
 おばあちゃんという支柱を失った私はどうなってしまうのだろうか。周期的に浮かんでくる心の底の不安が緑川を押しつぶそうとしてくる。
 実際、私には優子もいるし慎也さんもいる。だけど、と緑川は病室では堪えていた心細さを1人で吐き出した。
「緑川さんの、お孫…さん?」
 急に声をかけられ肩がビクッと揺れた。声の方を向くと30代後半ほどの看護師が立っていた。
「あ、緑川さんの病室から出てきたものだからもしかしたらなぁって思って、違った?」
 緑川が首肯すると看護師は、やっぱり、であるとか、可愛いわね、であるとか、手が似てるわねと、手を掴んでしみじみと言った。
 看護師の胸に波多野と書かれたネームプレートがあった。下の名前は舞と名乗った。
 波多野は外科病棟を担当しているらしい。緩和病棟に入院しているおばあちゃんと、業務上の繋がりはないらしいが、おばあちゃんがまだ歩けていた頃、病院の中庭で何度か顔をあわせる内に仲良くなったのだと言う。
 そう説明を聞きながら、その中庭に緑川たちは向かった。
 暖かい春の陽気に包まれ、芽吹いてきた花々が咲く花壇を横目にベンチに座った。いくつか名前の分からない花があったが、どれも綺麗だった。飾らない美しさや自然な活力を携えた花々が、今の緑川の気分を優しく落ち着かせた。花に人を落ち着かせようとする意思はないだろうが、その意思のなさが落ち着くのかもしれない。
 優子のようだ、と思った。
 飾り気のない、自然な美しさ。その姿と優しさに、何度も救われた。そして頼ってきた。仕事でなにかあれば話を聞いてもらい、慎也さんとのデートでも前日はどうすればいいのかを連絡し、時折来るおばあちゃんとの別れの恐怖を電話で何度となく打ち明けた。
 依存している。自分でもそう思った。なにかあれば、優子に頼る。嫌な態度1つせず接してくれる優子に甘えている。そんな自分が緑川は嫌だった。
「よくね、緑川さんからお話は聞いてたのよ」あなたのこと、と波多野は見慣れているはずの中庭に咲く花々を新鮮そうに眺めて言った。
「おばあちゃんはなんて?」
「あの子は引っ込み思案で大人しくて、積極的に人と話しをするのが苦手な癖に1人だと寂しがったりするのよって」ふふ、と波多野さんは笑った。
「それで、すごく優しい子だって言ってたわ」
 弱い風が吹き花壇の花々が視界の端でなびいていた。今年は、花粉が少ないとどこかで聞いたが、確かにこの時期特有のムズムズとした鼻の緩みや目のコロコロとした違和感がない。今年の春は、とても過ごしやすい。
「おばあちゃん、自分が癌だって分かっても、真っ先にしたのは私の心配だったんですよ」
「緑川さんらしいわね」
「冷静になりなさい。どんなことでも冷静になればそれなりになんとかなるの。冷静でいられない時こそ、冷静に」
「誰の言葉?」
「おばあちゃんです。さっき、言われました。きっと私がいなくなっても冷静に対処しなさいってことなんだと思うんですけど、簡単に言ってくれますよね」
 クスッと口に手を当てて笑う波多野はとても上品だった。
 スマートフォンが鳴ったのはその時だった。
「あ、すみません」と言い緑川はベンチから少し離れスマートフォンを取り出し、慣れない手つきで操作をする。電話は会社の先輩からだった。休日出勤をしていた先輩が必要な書類の場所を聞きに電話をしてきたらしい。何度か思い当たる場所を伝え、無事書類は見つかった。
「すみません、仕事の電話でした」
「書類の場所、いちいち覚えるの大変そうね」
「慣れれば案外覚えれますよ…え? なんで書類のこと」
「スピーカーになってたわよ」また、クスッと波多野は笑う。
「えっ、あっ」と間の抜けた声を出してしまいさらに恥ずかしくなる。
「すみません…最近スマートフォンにしたばっかりで慣れなくて。そもそもケータイを持つようになったのもこれが初めてで」
「難しいわよねぇスマホ。娘に勧められてスマホに変えたんだけど、未だに使いこなせてないもの」娘にスマートフォンを勧められるということは娘は中高生くらいだろうか。波多野さんは私の予想より大分歳が上なのかもしれない、と緑川は思った。
「でも仕事とかの連絡には便利よね」
「私も、会社の人とか友人に薦められて買ったんですよ」
「友人って、優子さんって人?」
「優子のこともおばあちゃんから聞いたんですか?」
「えぇ、高校時代からのお友達で可愛い子だって言ってたわよ」
「親友なんです。頭が良くて、優しくて、綺麗で、私の憧れです」
「迷いもなく誰かのことを親友って呼べる人がいるってきっと幸せなことね」
「そうだ、優子と撮った写真あるんですよ。高校の卒業式の日におばあちゃんに撮ってもらったんです」緑川は慣れない手つきでアルバムを開きその写真を探した。スマートフォンを買った日に、優子にその写真を送ってもらったから、写真はアルバムの1番上にあった。
 高校生最後の日。優子は少し名残惜しそうな、切なさと清々しさの混じった笑みを浮かべて、写っている。その隣の緑川も、笑顔で写っている。だが、その笑顔にあるのは、安堵だ。地獄のような高校生活を乗り切ったという、安堵だ。
「まぁ、本当、綺麗な子。いい写真ね」
 優子と緑川の笑顔の違いに気づくはずもなく、波多野は言った。
「優子は凄くモテてたし、生徒のみんなから愛されてたんですよ。それなのにこんな私と友達になってくれて、頼れるお姉ちゃんみたいな存在で」
「でも私は明美ちゃんの方が好きよ」
「え?」
「明美ちゃんの方が可愛いわよ。モテるでしょ?」
「そ、そんなことないですよ。モテるとか、全然なくて。彼氏も、最近初めて出来て」
「彼氏!」と言葉の響きを楽しむかのように波多野は繰り返した。
「いいじゃない彼氏なんて。私も彼氏欲しいわ」
「波多野さんは旦那さんがいるじゃないですか」
「旦那と彼氏は全然違うわよ。もうね、ドキドキとかもないもの。出会った頃のトキメキはどこへやら」と言った波多野の言葉には悲観的なものは含まれていなかったが、本心のようにも感じ、結婚とはそうゆうものか、と緑川は心の中で頷いた。
「付き合い始めなんて1番楽しい時期ね。ねぇ、どうやって知り合ったの?」ぐいぐいと聞いてくるが、不快感がないのはきっと波多野さんの人柄のせいだろう。
 緑川は慎也との出会いを話し、それを聞いた波多野は多少大袈裟な反応をしながら、ドラマみたいじゃない、と相槌をいれ興味津々に話を聞いていた。
「運命ってやつかもね」
「優子にも言われました」
「いいわねぇ」と言いながら波多野はチラッと中庭にある時計を見た。
「あ、すみません。こんな長々と話をしちゃって」
「あら、いいのよ。話を誘ったの、私だから。まぁそろそろ戻らないと婦長に嫌味言われちゃうから戻るわ。またお話しようね」
「はい」自然と笑みがこぼれた。
「やっぱり明美ちゃんのが可愛いわよ」ふふ、と笑いながら波多野は病棟に戻っていく。だが、少ししてから私の方を振り返り言った。
「その彼氏さんも、連れてきたら? 緑川さんのところに。そうすれば緑川さん少しは安心するんじゃないかしら」
 それじゃあ、と今度こそ波多野は建物の中に消えていった。
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