死に行く前に

yasi84

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第3章 祖母

大きな後悔の本当の意味

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 秋山さんの発したその言葉は、まるで刃物のような鋭さを持ち私の耳から中に入り体中を駆け巡った。頭と心臓の真ん中らへんをその鋭い言葉が通り過ぎ、なにかがプツンと切れ、なにかがストンと落ちていった。
「しんだ?」頭の中で上手く整理ができないでいた。死、という漢字に変換できない。
 ふと、伊藤渚の方を見ると俯き下唇を噛み、必死に涙をこらえる子供のような顔をしている。
「半年前、連休の前日の買い物帰りに飲酒運転の車に親子で撥ねられたらしい」
 連休の前日、と頭の中で繰り返す。意識せずとも、手紙の文章が頭の中で再生される。
「そんなこと」あるわけがない、と根拠もないのに心の中で叫ぶ。
「もう、秋山さんは、全部知ってるんですね」伊藤渚の悲痛な声が風に乗って何処かへ消えていった。
「じ、じゃあ、伊藤さんも知ってたんですか」
「はい」
 また、子供達の笑い声が聞こえる。
「山上さんが言っていた通り、源さんには充分な貯えがありました」
 伊藤渚は、子供達の笑い声に耳を澄ませているように見えた。
「だから、最初はちゃんとした人探し専門のところに頼んだんです。お金は掛かりましたけど、私も仕事がありましたしその方が確実ですから」結果は直ぐに分かりました、と伊藤渚は言った。「秋山さんが言ったように、恵さんと洋介君は、事故で亡くなっていました」
 冷たい風がくしゃっと髪を乱す。今にも雨が降ってきそうな灰色の雲は、重力に負けて落ちてきそうだ。
「私のせいなんです。私が、お見舞いに来てもらうように手紙を出せなんて言わなければ、こんなことにはなってなかったんです」伊藤渚の表情には深い後悔があった。あの時、初めて源文枝の病室に行った後に手紙を書くよう促したのは自分だと言っていた時の、あの表情だった。
「こんなこと、源さんに言えるはずありません」
「だから、伊藤さんは小田原のどこかに源恵さん達がいると嘘をついて、私達に探させた。それは、源文枝さんを騙すために」
「勘の鋭い源さんですから、探してもいないのに探しているなんて言ってもきっとバレてしまうと思ったんです。だから、小田原にいるかもしれないということにして山上さん達と実際に探すことにしました」
 雨だったとしても、晴れていると教えてくれと言っていた伊藤渚を思い出す。彼女はずっと、嘘をつき続けていた。土砂降りの雨を晴れていると、そう自分自身に言い聞かせて傘も差さずに雨に打たれ続けてきた。止まない雨の音が聞こえる。悲しく打ち付ける雨の中に、雨なのか涙なのか分からない雫が、彼女の瞳から流れている。
 どんな気持ちで、彼女は源恵と洋介君を探していたのだろう。見つかるはずもない人を、見つからないと分かっていながら人に尋ねるのは、どれ程彼女の心を締め付けていたのだろう。
「私は、最後まで嘘をつき続けます。冷たい真実に気づかせないように、冷たい嘘を、ずっと」出会った時と変わらない意志の強さを表すような眉毛の下の、優しい瞳に私と秋山さんが映っている。
「秋山さん、山上さん、どうか、このことは源さんには言わないでいてください」お願いします、と言って伊藤渚は頭を下げた。
 彼女が今まで嘘をつき続けてきた辛さや心情を考えると、本当のことを言えるはずもなかった。
 嘘をつかないのは良いことだが、嘘をつけないのは悪いことだと源文枝が言っていたという話を思い出す。まさに、これがそうなのかもしれない。誰も幸せにならない真実を語るのなら、嘘をつき続けていた方がよほど良いのだ。嘘とは、本来そのように使われるものなのかもしれない。人を騙し自分の利益を得るという使い方ではなく、真実から遠ざけて、嘘で塗り固めた別の真実でその人を守るのが嘘というものなんじゃないだろうか。
 私は伊藤渚の目をしっかりと見て、頷いた。
「これが、正しいことなのかどうか分からないですけど」と自嘲気味に伊藤渚は笑う。
 正しいことだ、と、私は思った。伊藤さんの思いは痛いほど伝わってきて、その思いに間違いがないことくらいは私にも分かった。だから、「正しいことだ」と秋山さんが静かに言った時は、私の思いが秋山さんに乗り移ったのかと、少しだけ思った。
「難しく考える必要はないんだ。複雑になればなるほど、正しさは霞んでいく。もっと単純に、伊藤が源文枝を心から想う気持ちを考えれば、嘘をつくのは正しい」秋山さんの言葉は優しく、陽だまりに手を置いたような暖かさがある。
「単純に、ですか」
「あぁ」
 秋山さんの言葉には不思議な力がある。表情や仕草で何かを表すのではなく、言葉そのもので秋山さんは優しさであったり悲しみを表す。優しい顔をして何かを言うわけでもないのに、むしろ無表情で何を考えているのか分からないのにも関わらず、秋山さんの発する言葉にはしっかりと想いがこもっている。
 伊藤さん! と声がしたのは、秋山さんの暖かい言葉がまだ周囲に余韻を残していた時のことだ。私たち3人は声の方を振り向く。自分の名前を呼ばれた伊藤渚がいち早くそちらの方を向いていた。白い白衣に身を包んだ看護師が肩で息をしてこちらに掛けてきた。「源さんが!」
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