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引っ越し準備

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 女性はボストンバッグに衣服や化粧品などの必要最低限の物を詰め込み、パンパンに膨らんだそれを軽自動車のトランクに入れ、バタンとトランクを閉める。
 女性は16年近く住んでいた築50年の木造アパートを引っ越さねばいけなくなった。
 理由はこことは違う土地にある会社に中途採用をされたから。
 ここからそこまで車で3時間はかかり、ガソリン代を考えると車通勤は難しく、引っ越しを余儀なくされる。

 女性は引っ越しの挨拶として、16年お世話になった老媼の大家に頭を下げる。

「ではおばあちゃん。大変お世話になりました。私がいなくなっても元気でいてね」

「そう畏まらなくてもいいのよ凛ちゃん。引っ越しって言っても実質単身赴任みたいなものだし。仕事の方頑張って来なさい。なにか辛い事があったら帰って来てね」

 日向の様に柔らかく温かい微笑みをする大家。
 女性、田邊凛はこの木造アパートの大家に16年もお世話になっていた。
 学生で妊娠をして親と絶縁をして行く当てが無かった凛に手を差し伸べてくれたのが大家だった。
 
 大家は凛が妊娠している事を分かると、無償で空いている部屋を貸し、娘を出産してからは仕事に出た凛の代わりに娘を見ていてくれた、凛にとって第二の母親的存在だ。
 
「おばあちゃんにはお世話になりっぱなしで、何も恩返しは出来なくてごめんね……」

「何を言っているの凛ちゃん。こんなボロイアパートで寂しい婆の相手をしてくれていただけで十分嬉しかったわ。私にとって凛ちゃんは娘、鈴音ちゃんは孫みたいなものなんだよ」

「…………ありがとうございます。おばあちゃん」

 もし凛はこの大家に出会わなかったら今頃どうなっていたのか想像もしたくない。
 少なくとも、娘を真っ当に育てるのは不可能だっただろう。

「でもいいのかい凛ちゃん。鈴音ちゃんは…………」

 凛の娘の名は鈴音。現在は16歳の女子高生。
 だが、その鈴音は今、ここにはいない。1週間前に凛と喧嘩して家出してしまったのだ。
 
「凛ちゃん……鈴音ちゃんが出て行った日から毎日夜遅くまで探して……貴方の目に隈が出来てるよ……」

 大家に言われて凛は自身の目下を擦る。
 鏡で気づき多少化粧で隠しているが、気づく人には気付かれる。
 
「…………あの子が行きそうな場所は全部探したけど、手がかりも見つからなかった……。もしかしたら、あの子はもう、ここにいないのかもしれない」

 凛は中途採用するからと先週に前の職場を退職していた。 
 だから時間には余裕があったが、その限られた時間で鈴音を見つける事は出来なかった。
 あまり大きくない街で見つけられなかったって事は、もうこの土地にいない事が予想できる。

「もしかしたら何か事件に巻き込まれたとか……」

「不安な事言わないでよおばあちゃん。大丈夫。あの子は少し意地っ張りな所はあるけど、しっかりしている子だから。…………大丈夫だよね」

 凛は自分に言い聞かせるように口にする。
 凛は自覚している。確かに娘の鈴音を深く傷つけた最低な母親だけど……凛は鈴音の母親だ。心配しない訳がない。本当なら悠長に引っ越し作業とかではなく、1分1秒でも娘を捜索したい。
 凛の中で中途採用は二の次でしか考えていない。
 だが、鈴音を裕福にする為に資格を多く取得して、最近急成長する優良な企業に就職出来たのに、家庭の事情で棒に振るリスクは犯したくないのも事実。もし仮に娘を見つけても生活が困難であれば娘に苦労をかけてしまうから。
 凛はただ、娘の安否を祈るしか出来ない。

「警察の方には届けたのかい?」

「…………本当はあまり捜索願は出したくないんだ。戸籍とかから情報の手がかりとかで……実の両親の方に捜査が行かないか心配で……」

 凛は昔に凛に血を分けた実の両親と絶縁している。
 戸籍は昔に両親から抜いてあるから大丈夫だと思うが。
 凛の過去の経歴から、凛の実父や実母を特定するのは容易い。
 故に捜査で警察が向かえば何が起きるやら想像も出来ない。

「けど、そんな事は言ってられないよね。お父さん達にこっちの情報が流れるかもしれないけど、それよりも、あの子が無事だってのを知りたいから。この後警察署に行くつもり」

「…………そうかい。早く見つかるといいね」

「うん。けどおばあちゃん。もしあの子が帰って来ても怒らないであげてね。あの子、おばあちゃんの事大好きだから、怒られたりすれば相当落ち込むかもしれない」

「……善処するわ。けど、母親を心配させるなってつい言っちゃうかもしれないね」

「それ、私の耳も痛いよ」

 凛も両親と絶縁している手前にその言葉は身に染みる。
 出来る範囲で捜索もしたし、鈴音の小中高の知り合いに問い合わせても手掛かりも見つからなかったから、最低限に自分で出来る事はしたつもりだ。
 後は警察の捜索を願うしかない。
 
「家出は言葉で言う程簡単じゃない。全てを投げ捨てて出て行くのだから、天涯孤独になる可能性も大きい。私には恩人であるおばあちゃんに出会ったから、何とか生きてこれたけど……。学生のままではお金がないから住む家も借りれない。あの子はその事を実感してないから……って私も人の事は言えないけど」

 お金の信頼が無ければ不動産から家を借りる事も出来ない。
 親子であれば激情で喧嘩はするだろう。だが、その激情に駆られて家を飛び出せば、後から来るのは壮絶な苦労だけだ。

「あの子には、いつでも独り立ちできるように料理や家事は徹底的に教えた。だから、普通に暮らす分には大丈夫だと思う。けど、普通であればなんだよね……」

 凛や娘には付き合いのある親戚はいない。
 故に身寄りがないから頼れる人もいない。
 なら、家出先の宿泊は野宿か……見知らぬ誰かの家に泊めて貰うだけ。
 だが……困っているからと言って無償で泊まらせる程、世間は良心で溢れ返っていない。
 何かしらの代償を払わないといけない。お金ならまだ良い方だ……最悪、身を売る事も懸念される。
 
「お願い鈴音。私が悪かったって謝るから……馬鹿な真似だけはしないでね。出来れば、善良な人と出会ってくれればいいけど……」

 不安で心が押し潰されそうになりながらも、凛は捜索願を出す為に車で警察署へと向かうのだった。 
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