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熱くなった体が冷えたら、わかることがある
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さっきは心細く感じた寒風が気にならない。小屋の前にある木のベンチに降ろされると、足元にある雪に爪先を埋めた。日が落ち始めているがまだ明るい。水を取りに行ったロルガを見送り、西陽に照らされた雪原を瞳に映していた。
見ているのでも、眺めているのでもない。ただ、目の前の光景をそのまま認識しているだけだった。いつも窓から外を見るときのようにきれいだなぁ、と心が動くことがない。意識のピントが合わないとでもいいのだろうか。
体は熱く、空気は冷たい。
光が目の奥を指し、自然とまぶたが下がる。
自分から煙の匂いがすることに気がつき、遠くで木から雪が落ちるのを聞いた。
驚くほど感覚は研ぎ澄まされているのに、思考は鈍く、感情も動きを見せない。
目の前に広がる雪景色は、今の自分によく似ていた。真っ白で、平坦で、変化しない。いつもの自分とはかけ離れている。
「なんだ、難しい顔をして」
食糧庫の戸が開き、木の椀とピッチャーを持ったロルガが立っていた。小屋の中での不思議な感覚を思い出し、落ち着かない気持ちになる。感情が急速に揺さぶられ、それに引きずられるように思考も動き出した。
白一色だった世界が色付いていく。
その瞬間、何が起きたのか理解した。
感覚、感情、思考。
サウナに入る前の自分はそれらがぐちゃぐちゃに乱れていた。異世界に来て、環境が変わり、生活が変わり、ロルガと過ごして俺自身まで変わりつつある。混乱するのは当たり前だろう。それがサウナで強制的にリセットされ、いまは再起動の最中か。
世の中にサウナブームがやってきて、『整う』という言葉が盛んにもてはやされた理由はこれだったのかもしれない。異世界にやってきて、それを実感する自分がおかしかった。
ふ、と息がもれる。いつの間にか強張っていた体がゆるみ、視線はロルガへと吸い寄せられた。
「水を飲め」
差し出されるままに椀を受け取り口をつける。いつもはない清涼感を感じる香りに一瞬ためらうが、体が水を欲していた。途中で止まれるはずもなく、喉を鳴らして一息に飲んでしまう。冷えた水ではないが、体が熱を持っているせいで喉を通過し体に流れ込んでいくのがよくわかった。
「いつもと違うけど、おいしい」
「この木の枝を沈めておいた。香りが鼻に通ると気持ちが良いだろう」
ロルガがピッチャーの中身を見せた後で、家の周りにある風よけの針葉樹を指差した。さっき用意していたのはこれだったのか。
一杯飲み終わるとお代わりを注いでくれた。ロルガはもう飲んできたというのでありがたく飲む。サウナ前にあんなに水を飲んだのに、喉が渇いて仕方なかった。三杯目のおかわりを求めると、ロルガはよしよし、と頷きながら水を注いだ。人の世話を焼いているのに俺様なロルガに思わず笑いがもれ、いつもの自分に戻ったとわかった。
「これが、いナントカ? サウナのこと?」
俺の隣に腰を下ろしたロルガにずっと気になっていたことを尋ねると、首を横に振った。
「イフュムスはサウナのことではない。サウナに入り、己を見つめ、思いを語り、耳を傾け、最後に食事をする。この全てを指してイフュムスという」
己を見つめる。知らずのうちに、自分がイフュムスのひとつをしていたから、不思議な気分だった。神に導かれたのかもしれない、なんて普段なら絶対に思い付かないことが頭に浮かぶ。もしもそうなら、姿も知らぬアパクランの神、テルニヴォーリが気まぐれを起こしたのかもしれない。
「……いふみゅす」
「違う。イフュムスだ」
「わかってる! わかってるけど言えないんだってば!」
ロルガの呆れ顔には、お前はこんな簡単なことも間違えずに言えないのか、と書いてあった。俺は俺で、なんでスルーしてくれないかな? とロルガのデリカシーのなさに呆れていた。
「よし、俺に続いて言ってみろ」
「わかった」
「イ」
「い」
「フュ」
「ふゅ」
「ムス」
「むす」
これはいける、と二人で顔を見合わせる。
わかっているな? とロルガの瞳が問いかけ、俺はまかせておけと力強くうなずいた。
「イフュムス」
「いふみゅす」
「……お前、真剣にやれ」
「真剣だってば!」
せっかくの厳かな雰囲気はどこかに行ってしまったが、俺たちらしいやりとりだった。ひとしきり顔を見合わせ笑う。いつもと違うことをしても、結局はいつも通りになることが嬉しい。ロルガはどう思っただろうか。尋ねることはしなかったが、俺を映す緑の瞳は柔らかな光をたたえていた。
すっかり汗がひき、俺が寒風に身震いするとロルガ立ち上がった。
「それだけ元気があればもう一度中に戻れそうだな。どうする?」
イフュムスにおいて、サウナで己を見つめた後は、思いを語り、耳を傾ける。俺はロルガに話を聞いて欲しかった。明るいここでは難しいことも、薄暗い小屋の中でなら打ち明けられそうだった。
「行く」
今度は自分の足で小屋の中へと一歩を踏み出した。
見ているのでも、眺めているのでもない。ただ、目の前の光景をそのまま認識しているだけだった。いつも窓から外を見るときのようにきれいだなぁ、と心が動くことがない。意識のピントが合わないとでもいいのだろうか。
体は熱く、空気は冷たい。
光が目の奥を指し、自然とまぶたが下がる。
自分から煙の匂いがすることに気がつき、遠くで木から雪が落ちるのを聞いた。
驚くほど感覚は研ぎ澄まされているのに、思考は鈍く、感情も動きを見せない。
目の前に広がる雪景色は、今の自分によく似ていた。真っ白で、平坦で、変化しない。いつもの自分とはかけ離れている。
「なんだ、難しい顔をして」
食糧庫の戸が開き、木の椀とピッチャーを持ったロルガが立っていた。小屋の中での不思議な感覚を思い出し、落ち着かない気持ちになる。感情が急速に揺さぶられ、それに引きずられるように思考も動き出した。
白一色だった世界が色付いていく。
その瞬間、何が起きたのか理解した。
感覚、感情、思考。
サウナに入る前の自分はそれらがぐちゃぐちゃに乱れていた。異世界に来て、環境が変わり、生活が変わり、ロルガと過ごして俺自身まで変わりつつある。混乱するのは当たり前だろう。それがサウナで強制的にリセットされ、いまは再起動の最中か。
世の中にサウナブームがやってきて、『整う』という言葉が盛んにもてはやされた理由はこれだったのかもしれない。異世界にやってきて、それを実感する自分がおかしかった。
ふ、と息がもれる。いつの間にか強張っていた体がゆるみ、視線はロルガへと吸い寄せられた。
「水を飲め」
差し出されるままに椀を受け取り口をつける。いつもはない清涼感を感じる香りに一瞬ためらうが、体が水を欲していた。途中で止まれるはずもなく、喉を鳴らして一息に飲んでしまう。冷えた水ではないが、体が熱を持っているせいで喉を通過し体に流れ込んでいくのがよくわかった。
「いつもと違うけど、おいしい」
「この木の枝を沈めておいた。香りが鼻に通ると気持ちが良いだろう」
ロルガがピッチャーの中身を見せた後で、家の周りにある風よけの針葉樹を指差した。さっき用意していたのはこれだったのか。
一杯飲み終わるとお代わりを注いでくれた。ロルガはもう飲んできたというのでありがたく飲む。サウナ前にあんなに水を飲んだのに、喉が渇いて仕方なかった。三杯目のおかわりを求めると、ロルガはよしよし、と頷きながら水を注いだ。人の世話を焼いているのに俺様なロルガに思わず笑いがもれ、いつもの自分に戻ったとわかった。
「これが、いナントカ? サウナのこと?」
俺の隣に腰を下ろしたロルガにずっと気になっていたことを尋ねると、首を横に振った。
「イフュムスはサウナのことではない。サウナに入り、己を見つめ、思いを語り、耳を傾け、最後に食事をする。この全てを指してイフュムスという」
己を見つめる。知らずのうちに、自分がイフュムスのひとつをしていたから、不思議な気分だった。神に導かれたのかもしれない、なんて普段なら絶対に思い付かないことが頭に浮かぶ。もしもそうなら、姿も知らぬアパクランの神、テルニヴォーリが気まぐれを起こしたのかもしれない。
「……いふみゅす」
「違う。イフュムスだ」
「わかってる! わかってるけど言えないんだってば!」
ロルガの呆れ顔には、お前はこんな簡単なことも間違えずに言えないのか、と書いてあった。俺は俺で、なんでスルーしてくれないかな? とロルガのデリカシーのなさに呆れていた。
「よし、俺に続いて言ってみろ」
「わかった」
「イ」
「い」
「フュ」
「ふゅ」
「ムス」
「むす」
これはいける、と二人で顔を見合わせる。
わかっているな? とロルガの瞳が問いかけ、俺はまかせておけと力強くうなずいた。
「イフュムス」
「いふみゅす」
「……お前、真剣にやれ」
「真剣だってば!」
せっかくの厳かな雰囲気はどこかに行ってしまったが、俺たちらしいやりとりだった。ひとしきり顔を見合わせ笑う。いつもと違うことをしても、結局はいつも通りになることが嬉しい。ロルガはどう思っただろうか。尋ねることはしなかったが、俺を映す緑の瞳は柔らかな光をたたえていた。
すっかり汗がひき、俺が寒風に身震いするとロルガ立ち上がった。
「それだけ元気があればもう一度中に戻れそうだな。どうする?」
イフュムスにおいて、サウナで己を見つめた後は、思いを語り、耳を傾ける。俺はロルガに話を聞いて欲しかった。明るいここでは難しいことも、薄暗い小屋の中でなら打ち明けられそうだった。
「行く」
今度は自分の足で小屋の中へと一歩を踏み出した。
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