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12、完璧なフィヨルド
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取材一組目の到着を告げるインターフォンに峰が席を外した瞬間、強く腕をひかれた。上半身が傾いだところでフィヨルドが胸に飛び込んでくる。不意に香るフィヨルドの体臭で肺が満たされ、あまりの甘さに口内に唾液が溢れた。フィヨルドはそのまま清晴の首筋に顔を擦り付けた後、首筋をぺろりと舐めた。
「そのまま。拭っちゃダメだよ。ダミーなんだから」
そう言って舌を出して笑う顔はいつもの悪戯っ子みたいな笑顔だった。
取材が始まれば、フィヨルドの振る舞いは完璧だった。
海外メディアからの取材にも臆することなく、いつもの調子でインタビューに答えた。
座っているだけなのでほとんどヘアセットもメイクも手直しは必要なかったが、店長と清晴は同室内で待機していた。初めて芸能人として活動するフィヨルドにいつの間にか、釘付けになっていた。
視線の動き一つも意味深で、インタビュアーもカメラマンも入室と同時にフィヨルドの世界に飲み込まれていく。さっきまで怖いと落ち着きをなくしたフィヨルドは奥深くに隠されて、誰も気が付かない。
清晴、ただ一人を除いて。
新しい取材チームが入って来る度に、一瞬だけ清晴に視線をやる。
その度に清晴は周囲に気づかれないように小さく首を振った。
自分の動きを見て、ホッとするフィヨルドを見れば清晴の胸は痛んだ。
フィヨルドを衝動的に襲い、傷つけたわけじゃない。
しかし、自分は間違いなくフィヨルドの日常を壊した。
後のことなんか何も考えずに自分はフォークで、お前はケーキだろうと聞いたことで台無しにしたのだ。あの時笑ったフィヨルドにも驚いたが、今日の怯えるフィヨルドにも呆然とした。
自分の一言でこんなにも誰かを変えてしまうなんて。
フィヨルドに物理的に殴りかかったわけじゃない。
でもダメージを与えた事に間違いはない。
清晴は自分の軽率さを悔やみ続けた。
その間も慌ただしく人が出入りを繰り返し、あっという間に時間が過ぎる。フィヨルドが心配していたような事は何一つ起きずに、無事一日が終わった。
◆◇◆
レセプション当日はフィヨルドも落ち着いたのか、穏やかだった。
前日より豪華な装いに合わせて、メイクも色鮮やかに。きりりと引かれた真っ赤なアイライナーがまるで神獣のようで力強い。
店長の指示を受けながら、清晴が補助し、フィヨルドが作り上げられていく。
高く結い上げたスカイブルーの髪はまるで大輪の花が咲いたようで、花の精のようにも見える。
フィヨルドには、一片の不安もなさそうに見えたが、清晴と二人きりになると、小さく息を吐いて呟いた。
「もうこれでおしまい。でも良いか、なんてな」
昨日はこれを皮切りに世界ツアーを開催してはとインタビュアーに散々誉めそやされていたが、喜んではいなかったのか。
余計な言葉だとは知りつつも、清晴は黙っている事はできなかった。
「それもありじゃないですか? 別にテレビに出たり、マイクを持って歌うだけが全てじゃないし。俺、好きですよ、あなたの歌。たまに機嫌良い時に歌ってる自然なやつ。春雨みたい。しっとりと柔らかい。聞いてると温まる感じがして」
言ってるうちに気恥ずかしさから顔が熱くなってくる。自然に隠す術などなくて、手で顔を隠すしかなかった。
静寂の後、盛大に吹き出す音と共にケラケラと聞き慣れた明るい笑い声が響く。
「春雨ってちゅるちゅる啜る方かと思った! あはは! やっぱ美味しいんだな、って」
「そんなんじゃ、ないです」
思わず不機嫌さを隠しきれずに清晴から低い声が出た。
「ごめん、茶化して。嬉しかった。そうするかな」
力の抜けた笑顔と共に返ってきた言葉はなんの緊張感もなく、その場限りの思いつきにふさわしかった。
少しだけ気が軽くなれば大丈夫だろう。フィヨルドはプロだから。
そうして、フィヨルドがレセプション会場へ向かうのを見送り、店長と清晴の東京出張は終わった。
◆◇◆
出張が終わり、いつもであればフィヨルドが来店する定休日に世間を揺るがす発表があった。
フィヨルドの引退だ。
それは体調不良を理由にした急なもので、全ての予定がキャンセルされ、フィヨルドは忽然と表舞台から姿を消した。
もちろんそれによって二週間おきに来ていたカラーのリタッチもキャンセルになった。
世間が騒いだのはたった一週間だけ。すぐに政治家の不祥事や俳優のスキャンダルにかき消されてしまった。一ヶ月も経てば、遠い昔の出来事のように話題にも上がらなくなった。
矢野が目を腫らしたのは一日だけ。あとはいつも通りの矢野だった。
清晴だけがいつまでも頭を切り替えることができなかった。
何度も店長に尋ねてみようと思ってはとどまった。
聞いて何になる?
ヘアサロンの客と店のアシスタント。
それ以上の関係はない。
わかっているはずなのに、ひどい喪失感に見舞われた。
「キヨ、大丈夫?」
矢野に聞かれて、やっと自分がどれだけ酷い状態かわかった。
それでもどうすることもできない。
「大丈夫。何でもないです」
たまたますれ違ったフォークとケーキ。
それだけ。
「そのまま。拭っちゃダメだよ。ダミーなんだから」
そう言って舌を出して笑う顔はいつもの悪戯っ子みたいな笑顔だった。
取材が始まれば、フィヨルドの振る舞いは完璧だった。
海外メディアからの取材にも臆することなく、いつもの調子でインタビューに答えた。
座っているだけなのでほとんどヘアセットもメイクも手直しは必要なかったが、店長と清晴は同室内で待機していた。初めて芸能人として活動するフィヨルドにいつの間にか、釘付けになっていた。
視線の動き一つも意味深で、インタビュアーもカメラマンも入室と同時にフィヨルドの世界に飲み込まれていく。さっきまで怖いと落ち着きをなくしたフィヨルドは奥深くに隠されて、誰も気が付かない。
清晴、ただ一人を除いて。
新しい取材チームが入って来る度に、一瞬だけ清晴に視線をやる。
その度に清晴は周囲に気づかれないように小さく首を振った。
自分の動きを見て、ホッとするフィヨルドを見れば清晴の胸は痛んだ。
フィヨルドを衝動的に襲い、傷つけたわけじゃない。
しかし、自分は間違いなくフィヨルドの日常を壊した。
後のことなんか何も考えずに自分はフォークで、お前はケーキだろうと聞いたことで台無しにしたのだ。あの時笑ったフィヨルドにも驚いたが、今日の怯えるフィヨルドにも呆然とした。
自分の一言でこんなにも誰かを変えてしまうなんて。
フィヨルドに物理的に殴りかかったわけじゃない。
でもダメージを与えた事に間違いはない。
清晴は自分の軽率さを悔やみ続けた。
その間も慌ただしく人が出入りを繰り返し、あっという間に時間が過ぎる。フィヨルドが心配していたような事は何一つ起きずに、無事一日が終わった。
◆◇◆
レセプション当日はフィヨルドも落ち着いたのか、穏やかだった。
前日より豪華な装いに合わせて、メイクも色鮮やかに。きりりと引かれた真っ赤なアイライナーがまるで神獣のようで力強い。
店長の指示を受けながら、清晴が補助し、フィヨルドが作り上げられていく。
高く結い上げたスカイブルーの髪はまるで大輪の花が咲いたようで、花の精のようにも見える。
フィヨルドには、一片の不安もなさそうに見えたが、清晴と二人きりになると、小さく息を吐いて呟いた。
「もうこれでおしまい。でも良いか、なんてな」
昨日はこれを皮切りに世界ツアーを開催してはとインタビュアーに散々誉めそやされていたが、喜んではいなかったのか。
余計な言葉だとは知りつつも、清晴は黙っている事はできなかった。
「それもありじゃないですか? 別にテレビに出たり、マイクを持って歌うだけが全てじゃないし。俺、好きですよ、あなたの歌。たまに機嫌良い時に歌ってる自然なやつ。春雨みたい。しっとりと柔らかい。聞いてると温まる感じがして」
言ってるうちに気恥ずかしさから顔が熱くなってくる。自然に隠す術などなくて、手で顔を隠すしかなかった。
静寂の後、盛大に吹き出す音と共にケラケラと聞き慣れた明るい笑い声が響く。
「春雨ってちゅるちゅる啜る方かと思った! あはは! やっぱ美味しいんだな、って」
「そんなんじゃ、ないです」
思わず不機嫌さを隠しきれずに清晴から低い声が出た。
「ごめん、茶化して。嬉しかった。そうするかな」
力の抜けた笑顔と共に返ってきた言葉はなんの緊張感もなく、その場限りの思いつきにふさわしかった。
少しだけ気が軽くなれば大丈夫だろう。フィヨルドはプロだから。
そうして、フィヨルドがレセプション会場へ向かうのを見送り、店長と清晴の東京出張は終わった。
◆◇◆
出張が終わり、いつもであればフィヨルドが来店する定休日に世間を揺るがす発表があった。
フィヨルドの引退だ。
それは体調不良を理由にした急なもので、全ての予定がキャンセルされ、フィヨルドは忽然と表舞台から姿を消した。
もちろんそれによって二週間おきに来ていたカラーのリタッチもキャンセルになった。
世間が騒いだのはたった一週間だけ。すぐに政治家の不祥事や俳優のスキャンダルにかき消されてしまった。一ヶ月も経てば、遠い昔の出来事のように話題にも上がらなくなった。
矢野が目を腫らしたのは一日だけ。あとはいつも通りの矢野だった。
清晴だけがいつまでも頭を切り替えることができなかった。
何度も店長に尋ねてみようと思ってはとどまった。
聞いて何になる?
ヘアサロンの客と店のアシスタント。
それ以上の関係はない。
わかっているはずなのに、ひどい喪失感に見舞われた。
「キヨ、大丈夫?」
矢野に聞かれて、やっと自分がどれだけ酷い状態かわかった。
それでもどうすることもできない。
「大丈夫。何でもないです」
たまたますれ違ったフォークとケーキ。
それだけ。
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