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3、砕け散った日常

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 すぐに意識が戻った為、清晴が倒れたのは貧血のせいと簡単に誤魔化せた。店長によってタクシーに乗せられ、あっという間に帰宅した清晴は、一人アパートで立ち尽くした。
 初めて、人を食べたいと思った自分の衝動が信じられない。あのまま意識を失わなければ自分はどうなっていたのか。考えても仕方ないのに止められなかった。
 いつまでも早いままの鼓動がうるさい。
 動画配信サイトでフィヨルドを検索すれば、すぐに公式チャンネルがヒットした。
 スカイブルーの髪、人を寄せ付けない冷たい表情、ミステリアスな歌声。
 繊細な響きに電子音を組み合わせたリミックスは、最近大ヒット中のアニメ主題歌だ。異能ヒーロー同士の葛藤を描いた作品にちなんだミュージックビデオはCGがふんだんに使われている。フィヨルドが手を振るだけで天気が変わった。スカイブルーの髪が風に舞い散れば白すぎるうなじが顔を出し、精霊のようだった。
 さっき店内で見た大口を開けて店長と笑うフィヨルドの姿とはかけ離れているから、平静を取り戻す助けになる。
──きっと抑制剤を飲み忘れただけ。
 ありもしない可能性で自分を納得させ、清晴は現実から目を逸らす。
 明日は出勤。
 いつも通りの日常を取り戻したいのに、マウンテンバイクを置いてきてしまったことに気がついた。その理由を思い出しそうになり、頭を大きく振る。
 埃だらけのキッチンの片隅に転がっていたウイスキーを開けるとそのまま口をつけた。
 粘膜を刺す刺激に顔を顰めたが、より一層早くなる鼓動にホッとした。
 これですぐに眠れるはずだから。
 
  ◆◇◆

 マウンテンバイクがないせいで、いつもより早起きをしなければいけない。
 時間通りに来ないバスに乗り、大回りして駅へ行き、店まで歩いてやっと辿り着く。二日酔いのせいもあり、清晴の足取りは重い。

「おはようございます」
「おはよう。キヨ、大丈夫?」
「大丈夫です」

 いつも通りの生活にはちっともならない。気遣う店長の一言が、昨日を思い出させた。
 逃げるようにロッカー室へ行けば、矢野がいた。

「ね、どうだった?」
「何がですか?」

 清晴は知らないフリをするが、失敗している。

「あー口止めされてるよね。わかってる。いいなぁ。私も生フィー様、見たい」

 矢野のぼやきは大きめの独り言とみなして清晴は背を向けた。
 店長も、矢野も、清晴の邪魔をする。
 何もない平坦な日常を早く取り戻したくて、仕事に打ち込んだ。電話を取り、床を掃除し、客に新しい雑誌を届ける。
 今までだって、街でケーキらしき人間を見かけたことはあった。甘い匂いを感じても、それだけ。自分には食衝動なんて起きっこない。そう信じたくて清晴は必死だった。
 客の髪を洗っても、いつも通りできる。大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら、無事に一日を終えられた。

「お先に失礼します。お疲れ様でした」
「お疲れ。気をつけてな」

 まだこちらの様子を窺う店長の視線から逃げるように清晴は店を出た。
 マウンテンバイクに乗って風を切る。
 途中の土手で川を眺めながら、タバコに火をつけた。電子タバコもいいが、マッチの原始的な見た目と裏腹に、火を消した後に漂う人工物らしい匂いが好きだから、紙巻きのタバコを吸う。
 煙の行方を追って風の流れを見て、少しずつ迫ってくるタバコの火の熱に時の経つのを感じる。携帯灰皿に押し付けて火を消す時の小さな小さな音を聞いたら、おしまい。
 仕事を終え、一人の世界に帰るためのルーティンのようなものだ。胸を騒がすことは全てここに置いていく。
 リセットが完了し、日常に帰ってきたと実感した。
 それなのに。

「ウソだろ」

 玄関のドアを開けた瞬間、清晴はかすかにあの甘い香りを感じた。
 フィヨルドから感じたあれ。
 あっという間に口内は唾液で満たされた。
 香りの出どころを求めて、狭い部屋の中をぐるぐると歩き回るのをやめられない。

「あぁ、これだ」

 昨日、帰ってきて脱ぎ捨てた服の中に埋もれていたのは一本の櫛だった。
 細かい歯の間に数本絡みついたスカイブルーの髪の毛は、紛れもなくフィヨルドのものだろう。たった数本のそれが部屋に甘い香りを漂わせていた。
 二本の指で、摘みあげる。
 目の前で揺らせば甘い風を感じた。
 舌を伸ばし舐めようとしたら、口の端から唾液がこぼれ落ちた。
 パタパタ、と床を叩くその音は、かつて実家で飼っていたダックスフントが唾液を垂らしたのと同じ音だった。

「違う。俺は違う」

 何が違うのかわからないまま、うわ言のように言い続けた。
 たった数本の髪の毛が恐ろしい。

「違う、違うんだ。何でもない。違う」

 こんな香りは嗅いではいけない。
 キッチンの棚を開け、何かないかとあてもなく探す。
 何かと便利だから、と母が持たせてくれた密封容器が埃をかぶっていた。ご飯一膳分が入る丸いプラスチックの器に髪を入れたら、蓋をする。

「はっ、はっ、はっ……」

 いつの間にか心拍数は上がり、呼吸が浅くなっていた。手首にはめたスマートウォッチが振動する。
『安静時に異常な心拍数を感知しました。適切な行動を取ってください』
 清晴の平坦な日常は砕け散ってしまった。
 
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