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2、不穏の始まり

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 毎週火曜日は、ヘアサロン、カーサ・ロッソの定休日だ。

「急なんだけど、出勤してくれない? 他の日に公休を取れるようにするから」

 店長に頼まれて清晴は出勤したが、もちろん予定などない。困ることは何もなかった。
 お人よしな店長は客からの要望で、時間外営業をすることがあった。定休日に店を通りがかれば、店長が誰かをカットしていたなんてザラ。今回も特別なことは何もない、はずだった。

「おはようございます」

 裏口から店内に入れば、ブラインドは全て閉まり、外から見えない席の真上だけに灯りがついていた。

「お、キヨ。急に悪いな」
「大丈夫です」

 いつもと店内の様子が違う理由はすぐにわかった。

「律希、お待たせ」

 トイレから出てきた人影は店長の名前を親しげに呼ぶ。聞き覚えのある声の主は、鮮やかなスカイブルーの髪を揺らした。
 芸能に疎い清晴でもわかる。
 今人気のシンガー、フィヨルドだった。

「う、そ」
「あはは、流石にキヨでも驚くか」
「本物だよーん」

 店長とフィヨルドはハイタッチを決め、ドッキリ大成功と喜んだ。

「コイツ、俺の従兄弟なの。今まで俺一人でやってたんだけど、さすがに髪が伸びてきたからね。アシなしでリタッチするのだるいからキヨ呼んじゃった」

 フィヨルドの肩を越した髪を店長が摘み上げた。

「本当は俺だって切りたいんだけどね。ミステリアス系はロングでしょってマネージャーがこだわるから」
「不祥事起こして謝罪坊主にしろよ」
「ナーイスアイデア! シンガーとしてお先真っ暗じゃん‼︎」

 店長と戯れる姿は、露出度が低く〝神秘的〟ともてはやされるフィヨルドとは似ても似つかない。
 呆気に取られる清晴に店長は顔の前で指を一本立てて、他言無用と伝えてきた。

「特に矢野はファンだからさ」
「……なるほど」
「キヨは口硬いから安心しろ」
「よろしくな、キヨ」

 口をニイッと横に広げ、子どもみたいな笑顔のフィヨルドが右手を差し出した。清晴も同じように右手を差し出せば力強く握られる。
 中性的な外見とは不似合いな硬い手をしていた。すぐに離れていったはずなのに、いつまでも手のひらが熱い。遠い世界のフィヨルドが、急に身近な存在になる。
 清晴の平坦な日常にヒビが入った瞬間だった。

「じゃ、早速始めるか」

 店長の声に準備をしようと腕を捲れば、嗅ぎ慣れない香りが鼻をくすぐる。
 フィヨルドと握手を交わした右手だった。
 芸能人はきっと高い香水を使っているんだろうと気にせず、フィヨルドをシャンプー台に案内した。

「熱かったらおっしゃってください」

 シャワーのお湯を出した途端、清晴の意識は奪われた。
 ぼんやりと漂っていた香りが、急に濃厚になる。

──甘い、甘い、甘い…‥……。

 目が開いているのに、何も見えないまま立ち尽くす。
 飲み込みきれなかった唾液が口から溢れた。

「なぁ、洗わないの?」

 シャワーを当てるばかりでシャンプーが始まらない事を訝しんだフィヨルドが声を上げた。

「あ、す、すいません。洗います」
「あんまりシャワーの音聞き続けるとやばいって。漏らしたら責任とれよ?」

 そう返す声は笑いを含んでいて、清晴はホッとする。
 シャンプーを泡立てれば甘い香りは存在を薄くしたが、清晴は唾液を飲み込むのに忙しい。
 その後は店長のアシスタントに徹した。カラー剤を用意したおかげで、清晴を惑わした香りはかき消されたが、一度芽生えた欲求は収まらない。

──甘い。

「キヨ、ラップ巻いて」

──甘くて、美味しそう。

「床掃除と後片付けお願い」

──甘い。美味しそう。美味しそう。

 店長とフィヨルドが話している間も清晴はずっと溢れ続ける唾液を飲むのに忙しい。
 店内にカラー材の匂いが充満していのはずなのに、清晴の鼻は甘い香りを思い出し、反芻し続けていた。

「じゃ、次も二週間後で良いんだろ? これからはアシスタントでキヨをつけるから」

 顔をあげれば、店長とフィヨルドが清晴を見ていた。
 いつの間にかカットも終わり、帰り支度まで済んでいる。
 慌てて喉を鳴らして口の中を空にした。

「今日は、ありがとうございました」
「ん。またよろしく。じゃな」

 再び差し出されたフィヨルドの手を握ると、ぐいっと引きよせられた。グッと肩を掴まれる軽いハグの感触と強い香り。背筋を駆け上がる寒気にも似た感覚に、清晴の身体は支配される。

──甘い。

 重くなった頭がゆっくりと倒れていく。
 最後に清晴が見たのはフィヨルドの目を見開いた顔だった。

──甘い甘い甘い。美味しそう‥‥……食べたい。

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