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第7章 壊されたショーウィンドウ

63: 幽体離脱 愚者の楽園

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「やはり、こちらの脱走者と君とが引き合う時に、私の出現チャンスがあるようだ。」
 守門の側に、潜水服を着たサタンジが出現していたが、もちろん通常の次元に生きている鉄山には、その姿は見えないし、彼と対話している林の中の守門の姿も見えてはいない。
 彼らは、今、鉄山とはまったく違う時空、あるいは「一つの可能性」の中にいるのだ。

「能書きはいい。この忙しい時に、何のようだ。」
 今の守門の世界は、鉄山と共に行動していた時空と切り離されていて、守門のそばには、サタンジ以外、誰もいない。
 ただ、二人の守門の同一性は、サタンジの力によって保たれていて、ここに至る守門の記憶も二つの世界をまたいで繋がっている。
 『現世とあの世』といった解釈をすれば、守門の身体は鉄山に抱かれたままで、霊魂だけがサタンジと共に霊魂としてあるという事になるが、実際には違う。
 これはあくまで複雑に入り組んだ時空上の存在位置の話なのだ。

「君の世界に対する理解を、少しばかり深めてやろうと思ってね。私にしても、今回の出来事は、とても興味深いものなんだ。たとえば例のあのプールには、君の相棒だったホワイト君の意識は、何一つとして残されていないんだよ。これは、どういうことだろうね?」

 サタンジが言う、あのプールとは、守門が「メタ意識プール」、あるいは「静的涅槃」と捉えている世界だ。
 小夏が不調な今は、その世界への接続も断たれているが、もし接続できていれば、鉄山が行った捜査活動など、その世界を利用する事によって一瞬にして終了していただろう。
 そこには、過去現在の全ての人間の記憶と、感情と想念が静的な状態で保管されている。
 お目当ての情報のタグさえ発見できれば、万能に近い利用方法があるのだ。
 地球世界のバックアップコピー、あるいはライブラリィと理解しても良い。

「知るかよ、人工知能には、あの世もこの世もないからだろう。虚無があって、有があるという法則の埒外の存在だからじゃないのか。あんたと僕みたいに、いがみ合ったりして、お互いの存在を証明し合う必要がないんだろうさ!!」
 羊飼に迫る事を中断された守門は苛立っていた。
 ここでの時間流と、人間の世界の時間流はまったく別だが、人の気持ちの流れは変わらない。

「埒外の存在。そう、そこが問題なんだ。君には、それを調べてもらう。いや別に君は意識しなくていい。いつものように君はそれを自覚しなくても、君の運命の中で、自ずとそれを成し遂げてくれるからね。」

   ・・・・・・・・・

 二人は再び転移した。
 ただし、それは小夏が行う通常の空間移動が伴う転移とは質の異なるものだ。
 彼らが向かったのは、サタンジが用意した、人間の記憶で形作られた「演劇場」だった。
 守門もここには、小夏が正常に機能していた頃、別の形で何度か訪れている。

「なんだ、この格好は!?」
 守門はウェディングドレスを着ていた。

「忘れたのかね。通常の存在レベルではここには来れまい?君の小夏は今、眠っているから、私が代わりのものを用意したんだよ。我が地獄の花嫁よ。さすがによく似合っている、普通の人間の男なら珍妙極まる姿の筈だが、君はやはり最高だな。」
 そう言ったサタンジはもう潜水服姿でない。
 それは守門が地獄で出逢ったサタンジの姿、つまり顎髭と口髭を蓄えたファウストの姿をしていた。

「そんな事を言ってるんじゃない、なぜウェディングドレスなんだ。」
 守門の顔は何故か赤らんでいた。
 この存在は人間の性の在り方さえ本質的には理解していないのに、男に対しても女に対しても強い性的魅力を放つのだ。
 以前にサタンジと共に、小夏の姿で地獄巡りをした守門もそれに苦労した。

「ああ、それは私のグレートヒェンが着ていたものだ、何か問題があるのかね?」
 グレートヒェンはファウストが悪魔メフィストと出会った後でめとった女性だ。
 ただしそれは現実の事ではない。
 しかしそれを言ったところで何の意味もないことを守門は知っていた。

「しかし人間達の意識プールはいいな。仮想ではあるが、まるで本当のタイムトラベルの様なことができる。これから見るのは、羊飼保の少年時代の世界だ。」

 虚無のステージに突如として西洋風の部屋が出現した。
 豪華な部屋だが生活の匂いは殆どない。
 使用人達が、こまめにメンテナンスをしている上に、主人達自体が殆ど外に出払っているからだ。
 しかしまだ幼い保少年は、そんな生活空間の中でも、寂しさを感じる事はなかったようだ。
 乳母的な存在である女性が片時も離れず彼の側にいたからだ。
 
 勿論、それは保少年から見た世界であって、乳母と言われる女性、つまりレディナは、よほどの事がない限り、定時には自分の家族の元に帰り、その一員としての役割を懸命に果たしていた。
 特に収入面では、羊飼家から出る手当ては、レディナ家族の家計の相当な部分を支えていた。
 男たちの働き口が、なかったせいである。
 しかしレディナは保少年の前では、そんな素振りは見せず、いつも愛情深い乳母代わりだった。

「今見てるのは、事件が起こった直前だよ。この日は、珍しく両親ともに屋敷にいた。そんな時くらい自分の息子と一緒の部屋にいれば良かったのにな。そうしていれば、彼だけが一人生き残るという事はなかっただろう。」
 守門は死を肯定しているような、サタンジのものの言いように苛立ちを覚えたが黙っていた。
 生き残った羊飼保が、その後、どのような気持で生きていたのか、わからなかったからだ。
 人間の中には常に「死んだ方がましだ」と考えて生き続ける者もいる。

 今までの鉄山の話や、サタンジの話しぶりでは、保少年は、余り両親との折り合いが上手く行っていないような感触があった。
 少年とレディナがいる部屋のドアが突然外から開けられ、目出し帽を被った男が頭を突っ込んで何事かを鋭く言った。
 レディナは、少年を自分の後ろに庇いながら、その男に言いごたえのような言葉を返した。
 それに反応したかのように、男が部屋の中に入り込んで来た。
 開いたドアから数人の他の男たちが、この部屋の前を走り横切って行くのが見えた。

 部屋に侵入して来た男の手には、大振りのナイフがにぎられている。
 再び、男とレディナの間で激しい遣り取りがはじまったが、やがて局面が変わった。
 レディナが意を決したように、飾り棚にあった大きな花瓶に手をかけたのである。
 その後、保少年には信じがたい事が起こった。

「これが始まりだったんだよ。彼女が、子どもが大嫌いな人間だったら、その後の展開も随分違っていただろうね。そして私の見るところによると、羊飼保は自分の母親より、彼女のことを深く愛していたようだ。」
 昏倒から目覚めた少年は、頭から血を流しながら自分を救ってくれる筈の大人達を探した。
 そして彼は金庫がある部屋で、自分の父と母が殺されているのを発見した。
 母親の衣服が無残に引きちぎられているのも見た。

「この少し前の状況を、他の人間の記憶を使って、君に見せる事もできるが、察しのいい君の事だ。それは必要ないだろう。強盗たちは、妻を辱めてやると男に脅しをかけて、金庫を開けさせた。そういう事だね。」

 その後、場面は病院や警察の事情聴取に移っていく。
 病室の窓辺に置かれた鉢植えの植物を、ベッドからただ黙って見ている保。
 事情聴取にあたった女性刑事に無言を貫く保。
 小学校の後半あたりから、保少年の成績が顕著に上がっていった。
 元来が頭脳明晰で優秀な子供であったのだろうが、ある時までは、その才能を使う必要がまったくなかったのだろう。
 サタンジは、そんな保少年の成長物語には、さも興味がなさげに説明を続けた。

「少年は考え続けた。人は何故、悪に染まる?人はやさしいままでは生きられないのか?とな。彼自身が元来、優しい性格だったんだろう。」

「ある日、少年は植木鉢を見ながら、こういう事を思いついた。彼と同じように植物の植えられた植木鉢を思い浮かべて見てくれ。普通、植物は自然の営みの中で、大地に種がおとされ、その土地に根ざし成長する。つまりその成長は、自然環境に大きく影響されるということだ。それが普通の人間のモデルだ。しかし植木鉢なら、環境を人為的に変えられる。少年は考えた、人間も同じではないのかと、ただその方法がわからなかった。少年も現実の社会が、如何に難しいものであるのかが、少しは判る年頃になっていたからね。」
 数年後、羊飼保は人口知能の分野では五秒と並び立つ科学者になっていた。

「羊飼は、ずっと幼い頃からの思いをその胸に秘めていた。ロボット、そしてコンピュータという植木鉢の中に、土を入れ、種を落として見ればどうなる?土はデータだ。そして種とは、何に相当するか、この男は自分自身の中に芽生えた野望と共に、その本質の半分までを理解していた。半分だ、だがそれが、我々の知る真理の全体像から見て、いかなる半分なのかは、男には判らない。まあ人間なんだから、当然だな。」
 サタンジの言う我々とは、彼や『柱』、ヘパイストスそして守門も含まれている。

「話を戻そう。種は土によって成長の度合いを変える。プラス、水も光も必要だな。それらが種の生長における変数だ。自然の中の植物の成長を人為的にコントロールするのは難しいが、植木鉢のそれは簡単だ。土も光も水も全て思ったものを与えられる。ましてやこのケースの場合は、種自体がまがい物だしな。それが羊飼の野望さ。」

「だが種とはなんだね?物質的なものか?始まりはそうであったかも知れないが、出来上がったものは違う。認識という刃で、無と有を切り分けるものが誕生する。それが種だ。そう、それが肝心なんだよ。我々にとってはね。」

「我々?それはまさかお前と僕の事か?」
「そうだ。それぞれにとっての意味は、ちがうけれどね。」

「まあここは、ひとつ君の為にヒントをやろう。普通、人工知能と言えば果てしなく、その能力が伸びて、やがて神に近づくものと言った印象があるだろう?だが、羊飼のものは違うんだ。人間に限界があるように、彼の人工知能には、意識的にその伸びの限界を設けてある。ある時点まで行くと、進化の分岐が止まる?いやそんな単純なものではない。有限と無限の組み合わせを上手くやって、総体としては、成長し続ける袋小路を作ったんだよ。天才だな。つまり彼は、神のうなものではなく、人間そのものの意識構造を作り出したかったんだよ。それが、彼の野望の仕掛けだ。」
 ようやく守門は、サタンジが何を言おうとしているのかが、わかり始めて来た。

「無限の可能性を秘めた人間の知能、、って良く言うだろう?羊飼は皮肉屋でもあったんだろうな。人間は有限だからこそ、人間であると規定したんだ。そして、もう一つ考えた。人口知能のプログラムの進化方向上にある悪の概念の全てを排除したらどうなるか?素晴らしい愚か者の誕生だよ。」
「例えば、絶対、悪に染まらない善良な人間。そしてそんな彼らが作るユートピア。愚者の楽園の誕生だよ。」

「人間の代わりに、ロボットを揃えてか?馬鹿らしい。」
「最初に、種と土だと言ったろう。人間はいくつから悪に目覚める?悪に目覚める前に、その命を鉢に植え替えればいい。植物は金属の鉢の中で、汚れを知らぬまま育ち、その寿命を全うする。ロボットには当然ながら飢えはない、貧富を誘発する諸々もない。愛する子どもを自分と自分の血族の為に犠牲にするような存在は生まれようがない。慈善活動が必要な社会も出現しない。その為に、まだ汚れを知らぬうちに、人間の心をロボットに植え替えるんだ。」

「植え替えると言っても、脳髄の移植をするワケじゃないだろ。元の肉体はどうするんだ。」
「種になる意識を人間から抜き取ってから肉体を消滅させる。完全なコピーがあるなら元は必要ないだろう?ましてや元の人間は、放っておくと、悪に染まる危険性が高い。第一、金持ちの中には、バイオテクノロジーを使って身体を半分以上新しいモノに入れ替えて寿命を延ばす人間が沢山いる。その取り替えが、脳にまで及んだらどうなる?それとこれとは本質的に、どう違うんだ?羊飼の考えたのはそのロボット版だ。人類移植計画っと言って良いのかな?」

「・・・馬鹿な気違いじみてる。第一、そこに使われてる悪の概念ってなんだ。羊飼個人の価値判断の延長に過ぎない。」
「そうだよ。それが羊飼の狂気なんだ。正邪の概念なんて、クルクルと変わるものだ。なのに羊飼は自分が幼い頃に受けた傷を理由に、その回転を止めてしまった。同情の余地はないとは言わないがね。それが彼の起点、いや狂気の芽吹きとなった。そこから始めて、彼は楽園を追われた人間たちを、再び楽園に帰そうとしたんだ。」

 五秒ラボ所内の一角で、羊飼が能都と何か激しいやりとりをしている。
 最後には能都が不承不承、それに納得したように頷きながら立ち去るのが見えた。
 その内容が明示されないのは、これが羊飼の記憶から再生されたものだからだ。
 つまりこの時点の羊飼にとって、能都はさほど重要ではない、ただの苛立たしい存在に過ぎなかったという事だった。
 レッドが『柱』に取り憑かれる直前、羊飼は自分の意識コピーをレッドに移植しようとしていた。
 勿論、ラボの職員達に気づかれないように、ホワイトとのシンクロは切ったようだ。

「普通のやり方なら、シンクロが切断される異常に職員は直ぐに気づく筈だ。だがそれをやったのはレッドの頭脳自体の基本設計をやった人間だ。その辺りを、誤魔化すのは朝飯前の事だったろうね。現に、今もってラボの連中は、そういった操作があった事すら気づいていない。『柱』が取り憑いたのは、羊飼の意識の全体像が、レッドの頭脳に吸い上げられ、レッド自身のものとして立ち上がる直前だったようだ。レッドが羊飼に似た疑似人格を形成する直前、と言っていい。だからこの『柱』は、君が見てきた、今までの悪魔憑きのような明確な心の形を形成できず、曖昧模糊の状態で、姿を現すこととなった。『柱』が深い眠りを繰り返すのはその為だ。」

 そうサタンジは説明した。
 嘘か本当かは、判らない。
 時にサタンジは、自分の事をファウストの様なものだと言ったりはするが、守門にはサタンジがメフィストに思えることの方が多い。
 サタンジの真意など、人間の誰にもわからない。

 そして、おそらく自分という存在は、サタンジにとって、この世界の未来を変化させていく為の分岐要素にしか過ぎない。
 サタンジはもう、「あの世界」の唯一の友人である「墜ちた神」ヘパイストスの為に、関わらざるを得なかった守門の地獄における後見人ではないのだ。
 最近の守門は、そう考えていた。

 だがレッドの行動が、その目覚めを含めて、間欠的で分裂症的な理由は、サタンジの説明で間違っていないような気がした。
 レッドの中を覗き込んだホワイトが、二匹の虚無の蛇がお互いを飲み込み合っていると言ったのが、まさにレッドの睡眠状態なのだろう。

 そしてホワイトが言ったように、何かが喉につっかえると、レッドは半分覚醒する。
 おそらく、それがサタンジの知りたがっている「種」なのだ。
 もしかするとサタンジも、彼なりの思惑で、来たるべきシンギュラリティをノックしょうと思っているのかも知れなかった。

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