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第2章 「左巻き虫」の街

21: 丹治という男

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 その男は、271会議室の応接用ソファに座っていた。
 微動だにしないが、どう猛な動物が鎖で繋がれたような気を漲らせている。
 護が近づくと、男はゆっくりと椅子から立ち上がった。

 上背とボリュームのある身体をしており、その身体を包むなめし革のコートの内側からは、野獣のような精気が放たれている。
 肌の色が褐色に近いので、大きな目の白目の部分がギラリと光るように目立つ。
 そして灰色の短い柔らかそうな髪が、弾丸型の頭頂部を覆っている。
 黒人の血が多少混じっているようだが、母体となる民族が確定できない不思議な混血ぶりだった。
 贅肉のないそぎ落とされたような顔が、尚更、男を野獣のように見せていた。

「こちらは碇署の丹治警部だ。、、碇は我が特異点にとっては最も文明的な隣町ですな。そしてこちらが、我が機構のエース、藍沢護です。」
 ゲッコが精一杯のにこやかさで、護をその男に紹介した。

 男は、そう紹介したばかりのゲッコに向かって、「すいませんが、貴方、もう席を外して貰えませんか。」と言った。
 ゲッコの顔が一瞬歪んだ。
 丹治は、その鉄錆のような声で、途轍もなく傲慢で身の程知らずなリクエストを口にしたのだ。

 機構職員の身分は、警察職員のそれとは違うものの、有事に置いては、お互いの組織が補完し合う緊急条項があり、その場合では、明らかにゲッコがこの男より、数段上位の階級にあたるのである。
 それどころか、その条項に照らし合わせると、ゲッコの指揮下にある護自身も、「警部」という階級より上位に位置していた。

 男の口振りに憤りを見せたのはゲッコより、まだ年若い護の方だった。
 勿論、護にも、政府が急ごしらえで取り決めた、この緊急時の階級互換が現実的なものではないことは判っていた。
 それでもこの男が、ゲッコに見せた不遜な態度が気に入らなかったのだ。
 一歩前に踏み出した護の肩を押さえながら、ゲッコはこの男の指図に従って退室した。
 後で護がこの時の事を聞くと、ゲッコは丹治の言いぐさに多少の怒りを覚えたものの、丹治とそれ以上同席していたくなかったので、実は丹治の発言は、渡りに船だったと言った。

 ゲッコが部屋を出たのを見届けてから、丹治は「まあとりあえず座りましょうや。」と言って、先にソファに腰を下ろした。
 一瞬、怒りをはぐらかされたような形になった護は、そのまま立っているわけにも行かず、渋々、丹治の前のソファに腰を下ろした。

「あんた、警部なら、こっちにやって来て自分がどういう立場になるかぐらい理解してるんだろうな。さっきの人間は、あんたより数段階級が上なんだぞ。俺だってそうだ。ひけらかすつもりはないが、俺は警視処遇なんだよ。」

「・・・警視処遇ねぇ、、それは緊急事態が発令されたらの話だ。ちがうかね。今の所、私とあなた方とは階級を気にし合うような関係ではない筈だ。」

「、、警察の人間と、機構の人間が同席する時は、たいがい緊急時だと聞いているがな。」
 警察の要請によって機構の人間が高位のアドバイザーとして派遣されたケースが、過去数件あった事を護は知っていた。
 しかし今回のように、警察の人間が自ら機構にやって来たという話は聞いた事がなかった。
 機構自体が、社会に対して隠蔽された組織であるので、外部からの人間が機構本部に訪れる事はほとんどないのだ。

「この会見と依頼は、私自身が段取りを付けた。君にどうしても協力して欲しくてね。研修なんてのは、表向きの話だ。こういう形にしなければ、天下の特異点機構を動かせる筈がないからな。」

 丹治のこの言葉を聞いて、護は自分の目の前に座っている男がただ者ではないことに気づくべきだったのだ。
 機構は本来、一介の警部がどう動こうが、それに反応を示すような権力位置にはない。
 圧倒的な上位にある組織だった。
 だが丹治とて、彼自身がいくら裏のコネクションを駆使しようと、その力だけではこうして機構には到達できなかったのだ。
 護と丹治の会見が成立したのは、そこに計り知れないグレーテルの意志が働いたからだった。

「協力?警察に対して、俺が何を協力できるというんだ。」

「君が逃がしてしまった犯罪者を、、、私が逮捕する為に協力してもらう。」

「逃がしてしまった、とはどういう意味だ?」

「文字通りだろう。君は君の仕事をどじったんだ。」

「・・・教えて置いてやろう。リペイヤーの仕事は、特異点の崩壊・変質を防ぎ現状を維持する事なんだ。その上で修理という極めて困難な作業をやる。特異点に紛れ込む人間を逮捕する事自体が、仕事じゃない。確かに俺達は夾雑物を排除するが、それはそれによって引き起こされる特異点の変質を避ける為で、その排除自体が目的なんじゃないんだよ。現に、特異点に一端はいりこんで、再び人間界に戻った人間については、警察組織で責任を持つという取り決めが数年前からある。それに言っちゃ何だが、リペイヤーは、年に何人かは、特異点に入り込んだ人間を取り逃がしている。それは俺達が無能だからじゃない。特異点の中で、何時までも深追いをし続けると、こっちまで特異点に取り込まれちまうからだ。修理する側が、特異点にダメージを与える訳には行かない。そんな状況の中で、これだけの成果を上げて、無傷でいるのは俺だけなんだよ。何も知らないあんたに、無能呼ばわりされるのは心外だな。」
 正式には無傷ではないが、と護は心の中で訂正した。
 もしかしたら自分の左手も、特異点内部で起こる「変質」の一つではないかと、護は考え初めていた。

「ああ、その話は知っている。君がリペイヤーとして優秀だって事はね。だが君は、実際がた、カルロスに逃げられている。違うかね?」

「そして俺達が取り逃がした犯罪者達を押しつけられたからといって、怒鳴り込んできた警官も、実際がた、いなかった、ちがうかね?俺に、責任を取らせようなんて、お門違いも良いところだ。」
 二人はしばらくの間、にらみ合っていたが、丹治が先に口を開いた。
 護の方に胆力があったという訳ではない。
 ただ単に、用向きがある人間と、それを聞くだけで済む人間の立場の違いの差だ。

「カルロスは、特異点でどうやら、空間を自由に瞬間移動する力を身につけたようだ。明らかに空間を操作している。君には、この意味が判るな。それは特異点そのものの力だ。これを特異点以外の存在である人間が駆使できるという事は、君の言う特異点自体の綻びではないのかね。つまりリペイヤーの仕事だって訳だ。」

「さっきも言ったろう。元の世界に戻った夾雑物の処理はそっちがやるんだって。それに特異点で人が力を得るということの中身は、大なり小なり、あんたが言ったような種類のことなんだよ。そいつらが、手に負えなくなるのは俺達も一緒だし、こちら側に与えるダメージも一緒だ。機構でも、一般社会でもね。簡単に色の違いだけで分類し、仕事分担して片付けられる話じゃない。その境目は、夾雑物が今、どちら側にいるかって事だけだ。」

 そうは言ったものの護は、あのカルロスに力を与えてしまった事に責任を感じていたし、この男に協力すればカルロスとの決着を付けられる可能性が急速に大きくなることも理解していた。
 こういう対立構図になってしまったのは、行きがかり上の勢いと、丹治という刑事が放つ強圧的なオーラそのものにあった。

「紛争やテロが絶えないこの世界で、特異点にだけは、人間はその叡智を示す事が出来たんだ。現に国家間では特異点を巡って、何の問題も起こっていないだろう?その意味を考えて見るべきだな。そうすれば、あんたが言ってる事が、いかにちっぽけな言い草かが、判る筈だ。」
 護は自分でも上擦っていると感じながら、そう畳みかけるように言った。

 丹治は奇妙な形で唇の端を歪めた。
 それは隠された嘲笑と言うより、怒りのようなものに近かったかも知れない。
 丹治は、暫く沈黙すると、自分のコートのポケットに手を突っ込んで、二つの小さな金属の固まりを取り出し、それを二人の間にある応接セットのテーブルにころがした。

「これが何か、わかるかね?」
 丹治が、護を見つめた。
 その視線に護は、物理的な圧力を感じた。

「警官として、私より階級が上だというなら、君にはその分、警官としての強い魂を持ってもらう必要がある。」
「、、、。」
 護は二つの金属、つまり二発のへしゃげた弾丸を見て、総てを理解し、その顔を青ざめさせた。
 それは、あの日以来、護が微かに抱いていた恐れと予感への一つの回答でもあった。

「俺の盗まれた銃から発射されたものか、、。」
「さすがに勘がいいな。残念ながらその通りだ。」

「死んだのか、、。」
「・・ああ、最悪の事態だな。自分の盗まれた拳銃が人殺しの道具になる、、、我々、警官にも時々起こりうるケースだ、その点については同情するよ。これで、殺されたのは二人だ。カルロスがこっちに戻ってきた直後の出来事だ。被害者は、頭部を打ち抜かれて即死。犯罪者でもなんでもない、只の一般人だったよ、、。」

「俺の銃で、、。、、、ひょっとしたら、こんな日が来るんじゃないかと思ってはいたが、、。」

「普通なら、人殺しをしたのはカルロスで、君と君の銃には罪はないと、そう慰める所だが、、被害者の頭をぶち抜いたのは、紛れもなく君が責任を持って管理していなければならない筈の銃だ。」

「、、、判っている。言い訳をするつもりはない。」

「私が持ってきた書類にサインをしてくれるな。」

「、、ああ、、そうするよ。それでカルロスとのけりが付けられるんなら。」
 護は折れざるを得なかった。

「勿論だ。何が何でもカルロスを捕まえる。、、この私がな。君は私を手伝ってくれればいい。君は銃を取り戻せ。そして奴の顔につばを吐きかけてやれ。」
 丹治は静かにそう言った。


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