上 下
63 / 85
第6章 煙の如き狂猿

62: 無惨絵のカカシ

しおりを挟む
 俺が、この数日ずっと潜んでいた小倉庫の壁面は、コンクリート製で凹凸がほとんどない。
 だが不思議な事に、こちらから見ている限りでは、煙猿が屋上に上がる為に、梯子を掛けた様子がなかった。

 俺は、自分の指先だけで山肌のわずかな凹凸を見つけて登っていく特殊なフリークライマーか、かぎ爪の付いたロープを天井に投げ込んで、それをスルスルと上がっていく煙猿の姿を想像してみた。
 やがてその姿に、オカマバーに貼り付けてあったポスターに写っていた田崎修の甘い顔が乗っかる。
 いや、今の煙猿の額には、天使の輪っかのような膨らみがある。
 この夕日の照り返しの中で、煙猿の額の輪っかはどう見えるんだろうと、俺は途方もない事を考え始めていた。

『・・・頭の上に輪を乗っけているのは孫悟空と天使だ。鉄の輪に光の輪、煙猿は肉の輪。輪の位置で比較すると、天使は空中に、悟空は頭の鉢に、そして煙猿はその額に、これはそれぞれの徳の高さを表しているのか?だとすると両耳の上を結ぶ横線が、天国と地獄の境目になるのか?』

 俺の緊張感が知らぬ内に、途切れ初めていた。
 我ながら無理もないと思った。
 あんな殺戮ショーを見せ付けられ、今も自分の命が危険に晒され続けているのだ。
 正常でいられるワケがない。
 俺が小倉庫を飛び出し監視に回ってから、2時間以上は経っている。
 もうすぐ日が暮れる時刻だった。

 とうとう日が落ちた。
 周囲は薄闇に覆われている。
 肉眼で小倉庫を監視し続けるのが、難しくなっていた。

 俺はここまでの持久戦を想定してはいなかった。
 だが、もうそろそろ蛇食がやってくるだろう。
 ここには都心から2時間半ほどで来れる筈だ。
 そうなれば、又、展開も変わってくる。

 突如、ギィという耳障りな音を立てて、小倉庫のドアが開いた。
 中から人影が躍り出る。
 俺は拳銃を構え直したが、その人影の奇妙な動きを見て、引き金にかかりそうになる力を意識的に抜いた。

 カカシだ!
 カカシが、揺れながら歩いて来る。
 あるいは自分の体を、そう見えるようにした人間が、こちらに向かって歩いてくる。

 カカシの両腕が水平に上がったまま降りない。
 そして一直線に、こちらに向かって脚を曳きずりながら、それなりの速度で近づいてくる。
 すくなくとも、煙猿ではないのは確かだ。
 顔が見える距離まで近づいた時、そのカカシの正体が、ケンタである事がわかった。
 生きていたのか!?
 しかし俺の安堵は、すぐに疑問に変わった。

 ケンタのリーゼントは、崩れて前髪となって垂れており、ただでさえ女性的な顔が、乱れた髪に覆われ、男に責め抜かれた女のように見えた。
 さらにその口は、大きく開けられ、布のようなものがぎっしりと詰め込まれていて、唇の血の気は失せて泡の混じった唾液にまみれていた。
 恐らくその詰め物が、彼の声を封じ込めているのだろう。
 きっと苦しいのに違いない、眉根が寄せられ、血の気が引いた顔は汗で覆われている。

 そしてその首には、金属製らしい首輪が填められていた。
 さらに首輪の後部で一体になっているのであろう一本の鉄棒は、ケンタの肩に担がれた形になり、鉄棒の両端には手枷があって、それが彼の両手首を捕まえていた。
 それが、カカシに見える理由なのだ。

 しかし酒に酔ったようなあの足取り、苦痛を感じているのか快楽を感じているのか判然としないその表情、、、カカシがはめるような軍手を取り付けて、指先がひらひら揺れるその様子。
 なにもかもが、不自然だった。
 これは浮世絵の責め絵の3Dか、、。

 俺は、いったん降ろしかけた銃口を再び持ち上げた。
 警戒の為もあったが、思いもよらず勃起した己の欲望に規制をかける意味もあった。
 だがそこまでするのが、精一杯だった。

 ケンタに声をかけようと思ったが、その声はでなかった。
 口の中がカラカラに乾いている。
 目の前にあるのは、幕末、維新の動乱を駆け抜けた絵師・月岡芳年の無惨絵だ!
 俺は生きた無惨絵の女主人公となったケンタの姿に魂ごと魅入られていたのだ。

 ケンタがどんどん近づいて来る。
 俺は何も出来ない。
 昼間、煙猿に仕掛けられた恐怖は不安を増幅したが、この恐怖は俺の欲望を逆撫でする事により、俺を呪縛しているのだ。

 だが、呆然と銃を構えているだけの俺に、ケンタが倒れ込んで来た時、俺はそれを抱き留めようとはせずによけた。
 自らの命を守ろうとする本能がそうさせたのだ。
 最後の瞬間、ケンタの目の色が、獲物にたどりついた時の獣のように光ったからだ。

 何か変だ!?。
 俺はかろうじて我に返っていた。
 地面にうつぶせの形に倒れたケンタの背中が見えた。

 その背中は、背骨に沿って大きく断ち割られていた。
 ケンタは、煙猿のあのまさかりの一撃を受けていたのだ。
 ケンタの両手の指先は、拷問を受けたのか、すべて潰されており、それが歩く時にヒラヒラと揺れて見えていたのだ。
 ケンタがまだ、こうして生きているのが不思議だった。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

処理中です...