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第1話 プロポーズの前に

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『ねえ、ちょっと心拍数が高くなってるわよ。緊張してるの?』

 リョウが意を決して、同じ研究室内で作業中だったカレンに向かって歩き出した時、頭の中でBICの声が響いた。

 BICとは、Brain–integrated computer assistantの略で、平たく言えば、自分の脳に埋め込まれた超小型コンピューターアシスタントである。
 データベースやセンサー、並びに人工知能を備えており、脳と連動して作動する。
 リョウは、自分のBICをリズと名付けていた。

『緊張なんてしてねえ……ってお前にはバレてるよな』

 頭の中で念じるように返事をする。
 慣れるまではこれが結構難しくて、実際に声に出していたのだが、今では普通に意思疎通ができる。

『あたりまえよ、あんたの生命活動は全部承知してるんだから。アドレナリンの分泌を減らしてあげようか?』
『ぶっ。いや、いい。これぐらい自分で何とかするさ。それよりも、呼ばれるまでしばらく黙っておいてくれ』
『了解。うまくいくといいわね』
『おう、ありがとよ』

  BICは、また、視覚や聴覚とも連動しているため、使用者の行動を把握している。リズはこの数日間、彼が何をしたのか、そしてこれから何をする気なのかも知っているのだ。

『……そうだ。今夜22時からあたしのメンテナンスが予定されてるの覚えてる?』
『ああ。明日の朝までだったな』
『ええ。コールドスリープカプセルの点検も忘れないで。じゃあ、あたし消えるから。用があったらまた呼んでね』
『ああ』

 脳内からリズの気配が消えた。
 ちょうどその時、カレンのそばまで来た。
 彼女はこちらに背を向け、見上げるほど大掛かりな装置の前に立ち、そこに取り付けられたコンソールを流れるような手つきで操作していた。
 リョウは、咳払いを一つして、自分と同じ白衣姿の彼女に声をかけた。

「ちょっと、いいか」
「あ、待って。今、手が離せないの。これだけ終わらせてね」

 彼女は肩越しに答えた。その合間も、指がせわしなく動いている。

「ああ」

 彼は、邪魔にならないように、黙って様子を見守った。
 ここは研究室と言っても差し渡し20メートル四方、高さが5メートルはある大きなものだ。
 そして、この実験段階にある装置は直径2メートル、高さ4メートルの円柱形で、各所のパネルが開かれ、そこからさまざまなコードが繋がれていた。
 ここでリョウは、カレンと他の数名の同僚たちと、物体転送装置、いわゆるテレポーターの開発に取り組んでいたのだ。

「はい、終了っと。ごめんさいね、何だったかしら?」

 朗らかな笑みを浮かべて、カレンが振り返る。なめらかな長い金色の髪が優雅に揺れた。
 それをリョウは眩しげに見た。
 真っ直ぐにこちらを見つめる切れ長の大きな瞳は、感情豊かに煌めいて、知性と、そしてリョウに対する愛情に溢れていた。整った顔立ちは気後れするほど美しいものの、優しく穏やかに浮かぶ微笑が、やわらかな印象を与えていた。

 付き合い始めて一年半が経っても、いまだに彼女の微笑みは鼓動を速くさせる。
 亜空間物理学者としていくつもの賞をもらったリョウではあったが、人生最大の功績は、カレンを恋人にできたことだと密かに思っていた。

 そして、いま、さらなる大事業に立ち向かおうとしている。

「……」
「どうしたの、黙っちゃって」
「あ、すまん、お前に見惚れてた」
「やだ、何言ってるのよ、もう。で、なに?」
「あ、ああ、いや、明日オフだろ。何か用事あるのか」
「えーと、うん、ないわよ。もしかしてどこかに誘ってくれるの?」
「そ、その、もしよかったらだけど、飯でも食いに行かないか。Burlington Houseでディナーを予約したんだ」

 カレンは少し意外そうな顔で小首をかしげた。

「急にどうしたの? いつもファストフードに行きたがるあなたが珍しいわね、そんなお高いところ」
「そ、その、ちょっと話したいことがあるんだ。い、いいじゃないか、お前も行きたがってただろ。もちろん俺のおごりだ」
「連れていってくれるなら、喜んで行くけど、私、明日誕生日じゃないわよ」

 嬉しそうな笑顔を浮かべながらも、茶目っ気たっぷりの目で言い返す。
 カレンも背が低いわけではないが、リョウは細身でスラリと背が高い、頭半分ほど下から見上げる格好になる。

「それに、そんなに改まって、何か大切なお話なの?」
「あ、ああ。まあ、少なくとも俺にとってはな」

 無意識のうちに右手を白衣のポケットに突っ込んだ。
 そこには、彼女に渡すべく用意した指輪が入っていた。
 それを指先で確かめる。先日購入して以来、お守りであるかのように肌身離さず持ち歩いている。
 これまで、彼女に指輪は贈ったことがなく、サイズは知らなかったが、密かにリズに測定させた。ナノメートル単位でぴったり合うはずだ。

「ふうん。そうなの。何の話か今聞いちゃいけないのかしら?」

 カレンは、ちらりとリョウのポケットに目をやり、すこし面映ゆい様子で口元を緩めた。

「それはもっとちゃんとした……じゃない、いや、その、また明日会った時に言うよ」
「そう。分かったわ」
「じゃ、お、俺は、この後BICのメンテナンスがあるから、先に上がるよ」
「ええ、お疲れ様。終わるのは明日の朝?」
「ああ」
「わかった。じゃあ、また明日ね」

 そういうと、カレンがいきなりつま先立ちで顔を寄せて来て、リョウの頬にキスした。

「ありがと。楽しみにしてるわね」

 そう耳元でささやくと、体を引き、照れたような笑みを浮かべた。微かに頬が染まっている。
 その姿が、リョウの心拍数をさらに50は跳ね上げた。

「お、おう、じゃな」

 職場では、あまりベタベタしてこない彼女にしては珍しい行為に動揺しつつ、何とか体裁を取り繕ってその場を離れたのだった。


■■■■


「はひー」

 妙な安堵のため息をつきながら、リョウは研究室を出た。
 どうやら冷や汗をかいたらしい、背中に汗が流れるのを感じる。
 とにかく、 舞台は整えた。後は、結婚を申し込むだけだ。
 とはいえ、それが最大の難関である。
 世間では、その時の言葉もいろいろあるらしい。
 やはり、女は言い方にもこだわるのだろうか。

(単に「結婚してくれ」じゃいかんのだろうか……)
(それとも、「お前に朝の味噌汁を作ってほしい」か。いや、だいたい、カレンは味噌汁なんてろくに食ったこともないだろうしな)

 リョウは、この国の人間ではなく、母国から人材交換プログラムでこの研究所に出向しているだけである。学生時代からずっと住んでいるため不便は感じないが、もしかして、国によってプロポーズの言葉も違うのかもしれない。
 ブツブツとつぶやきながら廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。

「どうだった?」

 振り返ると、キースだった。彼は、リョウよりほんの1つしか年上ではないが、優秀な研究者であり、若くしてこの研究室で扱っているプロジェクトのリーダーである。そして、彼は、カレンの兄でもあった。

「ま、何とか誘い出すだけは誘い出したよ」

 二人はカレッジ時代からの親友だった。留学していたリョウを何くれと世話してくれたのは彼である。そして、その縁で、妹のカレンと知り合ったのだ。
 このことから、彼とは普段からざっくばらんな口調で話している。

「達成感出して何言ってるんだ。恋人なんだから、夕食誘って断られるわけないだろう」

 クスクスと笑いをこぼす。その笑顔はあどけなく実年齢よりも若く見える。そして、カレンによく似ていた。

「そう言うなって。心臓がバクバクだったんだ」
「カレンは何か言ってたかい?」
「Burlington Houseでディナーだって言ったら、誕生日じゃないって言われた」
「あはは」
「笑い事じゃないって。なあ、ホントにその辺の定食屋じゃダメだったのか。良い服も着なきゃなんないし、いろいろ疲れるだけじゃねえか」

 キースは、呆れたような顔になった。

「何言ってるんだ。こういうことはムードが大切なんだ。妹はあまり気にしないと思うけど、兄としては思い出に残る夜にしてあげたい。サムライというのは、女性を大切に扱うものではないのかい?」

 学生時代、リョウの出身国、ならびに彼が実家の道場で剣術を学んでいるという事実を知ったキースは、それ以来、面白がって彼をサムライ扱いしていた。
 リョウは肩をすくめる。

「武士道はよく分からんが、弱きを助けよぐらいのことは言われても、定食屋でプロポーズするな、はなかった気がするな」
「そうかい。それは残念だよ」

 くくくと笑いをこらえながら、キースが続ける。

「それでは、この国の騎士ナイトとは違うのかもしれないね。ただ、ああ見えてあれはロマンチストだからね。いくら君が淑女の扱いが下手でも、がっかりさせないでやってほしいな」
「ロマンて、あれか、高級レストランで食事して、夜景のきれいな港で、花束と指輪差し出しつつ片膝ついてプロポーズってやつか。……俺に似合うとは到底思えんぞ」

 自分では、そこまでがさつでも粗野でもないと思っているが、かと言ってそんなドラマが似合うとも思えなかった。

「そこまでは求めてないよ。私としては、妹を幸せにしてくれればそれで良いんだし。リョウなら安心して任せておけるしね」
「おいおい、まだ、イエスの返事をもらった訳じゃないんだ。あんたは前から大丈夫だって言ってくれるけどな」
「ま、私が正しかったって、明日になれば分かるさ。じゃあ、私は行くよ。頑張れよ、義弟くん」
「なっ」

 リョウの肩をポンと叩いて、ことさら『義弟くん』にアクセントをおいて、キースが去っていった。

「ううう」

 リョウは、くせっ毛の髪をクシャクシャとかき回して、自室に向かった。


■■■■

 午後9時55分。
 リョウは居住棟にある自室で、コールドスリープカプセルの点検作業を行っていた。
 この装置は、実際の棺よりも少し大きく、そしてやや丸みを帯びている。この中では、完全な仮死状態となり、すべての生命活動が停止される。そのうえで、脳内に埋め込まれたBICのメンテナンス作業が行われるのだ。それだけではない。ミクロン単位の作業が行えるよう完全な静止状態を作り出すために、さまざまな緩衝装置、はてはシールドまで付いている。そのせいで、ハイテク棺桶と揶揄されていた。

 点検作業が終わり、カプセルに入ろうとした時、ドアブザーが鳴った。
 
「開いてるよ」

 リョウは声を張り上げた。
 自動ドアが開く音がして、入ってきたのはカレンだった。

「よう、どうした、こんな時間に」
「用はないんだけど、あなたがカプセルに入るまで一緒にいようと思って」

 カレンも、階は違うがこの施設内に部屋を持っている。気軽に訪れられる距離だ。
 すでに彼女も白衣姿から、普段着に着替えている。
 だが、リョウは、彼女が肩からハンドバックを掛けているのに気がついた。

「ん、どこかに出かけるのか?」
「兄さんが少し体調が悪いって言うから、病院に連れて行くところよ。今用意しているから、その間にここに来たの」

 キースの居室もこの棟にある。シャトルリフトを使えば、すぐのはずだ。

「急だな。夕方会った時は、元気そうに見えたが」
「BICの調子が良くないみたい。それで精密検査をしにレディングの病院に行くから、一応言っておこうと思って」
「そうか、大したことがなければいいな」
「ええ」

『そろそろ時間よ』

 リズの声が頭に響いてきた。

「悪い、もう時間だ。カプセルに入らないと」
「そう。じゃあ、あなたを寝かしつけてから、私も行くわ」
「おいおい、子供じゃないって」

 文句を言いながら、床に置かれたカプセルの中に入る。カレンがそばにしゃがんで覗き込んで来るのを、中から見上げた。

「あら、あなたの寝顔は子供みたいに無邪気なのよ。知ってた?」

 口調はからかい半分だったが、しかし、愛しげにリョウの頬に手のひらを当てる。

「なんだと、じゃあ、この顔はどうだ」

 リョウは思いっきり眉をひそめた。
 カレンが吹き出す。

「やだ、そんなしかめつらで寝ないでよ。本当にそんな風になっちゃうわよ」
「へへっ」
「コールドスリープは10時に終わるのよね。その頃になったらまたくるわ。寝顔を見にね」
「変な顔で寝てたらすまんな」
「もう、冗談ばっかり。じゃあ、おやすみなさい。明日、楽しみにしてる」

 つと顔を寄せ、リョウの唇に自分の唇を軽く押し当てた。
 同時に、カプセルの蓋が両側からせり上がってくる。

「愛してるわ、リョウ」

 カレンは少し頬を染めながら微笑んで、体を離した。
 リョウは、鼓動が速くなり顔が火照るのを感じた。

「ああ。俺もだ。おやすみ」

 完全に蓋が閉まって、内部のライトがほのかに点灯する。もう見えるのは蓋の内側だけだ。

『コールドスリープサイクル開始します』

 カプセルのコンピューターの声を聞き流しながら、リョウは物思いに沈んだ。

(バレてる……わけないよな?)
 
 ディナーに誘ってから、どうも、カレンがいつもと違う気がするのだ。

(いつもより甘えてくるし、積極的だし)
 
 そもそも、カプセルに入るところを見送りに来たなんて初めてである。
 職場で、頬とはいえ、キスしてくるのも記憶にない。
 もしかして、この計画を察したのかとも思ったが、彼女は、リョウが指輪を買いに行ったのを知らないはずだ。キースも漏らしたりするはずがない。というより、サプライズにしたほうがいいという入れ知恵をしたのは彼だ。
 気づかれる要素なんてひとつもないのだ。

(単にディナーが楽しみなだけだろう)

 バレていないと結論づけて、リョウは、本番のことを考えた。

(それより、プロポーズしたら、どんな顔をするのだろう)

 喜んでくれるのだろうか。
 キースには自信なさげなことを言ったが、もちろん勝算はある。
 今はただ、その瞬間どんな表情を見せてくれるのかだけが、楽しみだった。

 機械の作動音が微かに聞こえ始めた。同時に意識が薄れてくる。
 リョウは、幸せな気持ちで目を閉じた。

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